二十三人目を無力化した時点で、いなきは仕掛け時を探り始めている。
(位置取りは良いんだ……道を開けてやってるだろうが。来い)
鉄拐の打ち下ろしを鎬(しのぎ)で滑らせて躱し、泳いだ下半身を後押しする形で蹴り付ける。マオカラースーツの男が階段に肩から落ちて、苦痛にのたうち回る。脱臼したのだろう。
「ぇきぃいいいいぁぁぃっ!!」
熱狂に当てられた奇声を上げつつ、ツナギ姿の男がこちらに駆けてくる。爪先の向きと腰の動きでその軌道を察し――
(来た!)
喝采を上げつつ男の懐に潜る。鉄棍を振り下ろす、下向きの力に合わせてツナギの襟を引き、足を払う。鞠のように男の身体が弾け飛んだ。
その先には、赤いドレスの女とその愛人である少女がいる――
宙に飛ばされた男を傘にして、階段を駆け上がる。男が墜落した時には既に、彼女らとの距離はあと八段の位置にいる。己の脚力なら一息に到達出来る。〝陰振雨笠〟の狙撃は間に合わない。
「――お姉様!」
愛人を庇って、少女が飛び出した。広い階段を塞ぐには小柄過ぎる。容易に通り抜けられる――
いなきは、少女の襟首を掴んで即座に飛び退いた。
その瞬間には、眼前に刃が迫っている。
既に抜刀している。飛来する投擲武器――鏢の内三本は陰刀が切り払い、残り五本を陽刀が落とす。
残りの一本は歯で囓りついて受けた。
敵勢の待つ後方でなく中央階段の横の床に着地し、抱えたアントニアを即座に外壁に向けて立たせる。憤怒の形相でこちらを見下ろす女は、それだけで表情を凍らせた。ドレスが裂けて、膝に取り付けた鏢の射出機が露出している。
前歯で挟んだ鏢を吐き捨てて、いなきは言った。
「あんたのからくりは見えてるぜ、猿丸」
〝陰振雨笠〟の本体をどこに隠したかは、既に見抜いている。ホールの光源である、壁面の格間に填め込まれたクリスタル――その発光に隠れるようにして、銀色の円盤が数基浮かぶのが微かに見える。
「他媽的(くそやろう)! お嬢様を放せ!」
一転して野卑に染まった口調の罵倒を聞き流して、いなきは皮肉げな調子でアントニアに言った。
「地金を晒すのが早すぎるな。あんたと違って、あいつは芝居がそれ程上手くないようだ。演技指導は徹底しておけよ」
「演技……何ですの?」
往生際悪く芝居を続けようとする彼女に、いなきは告げる。
「我々は夢と同じもので出来ている――あれは、『テンペスト』の台詞だ」
「……ひっ」
我慢しきれず、といった風に、彼女の口の端から息が漏れる。
「ひひっ、ひひひひひ、きひひひひひひっ――そうかそうか! 仮痴不癲(馬鹿のふり)か! 一本取られたわ! アンタ、洒落を分かっとるなァ!」
部下と同じく口調を一変させて、愛人の少女は呵々大笑する。
「猿! おとなしゅうせえ! この遊び、ウチらの負けや!」
「で、でも……」
「聞き分け悪いと〝ごほーび〟やらんで」
「……っ」
嬲るような響きの言葉に、女は身体を強く震わせてから、一歩下がり戦意を消した。
退場した部下には興味が失せたらしく、アントニアはこちらに顔を向ける。飴玉を口の中で転がすような、人品の卑しさを示す笑顔だ。
「ウチが仮痴不癲である事に気付いた理由は分かった――けど、奴が三十六歌仙・猿丸である事に気付いた理由はなんや? 普通に考えたらあからさまに罠。確かに、罠と見せかけて本命って考え方もアリっちゃアリや。しかし、アンタは命を張った戦術に踏み切る程確信しとった。しかも、どうもコトのアタマからハラぁ決めとったフシがある」
「剣術家が、商売道具に目が利くのは当然だろう?」
種を明かす手品師のように、いなきは告げた。
例えば、と最初に惨殺した大男の残骸の中に落ちている脇差を指差す。
「柄巻の作る菱の数が十二半。本当の歌仙拵は十三半だ」
他にも数人、間違いを指摘してからいなきは言った。
「歌仙拵……現実史の武将細川三斎佩用の脇差を原型とする、肥後拵の流れを汲む儀仗刀。鐔は丸形、鉄磨地、丸耳、左右影蝶大透。鐺(こじり)は鉄地舟底形。一番の特徴である鞘の黒研出鮫皮、腰元印籠刻……正しい拵は、あの猿女の下げてる奴だけだ」
「おまえに猿って言われる筋合いは無い!」
「キーキー喚くなよ。後でバナナをくれてやる」
顔を赤らめて(本当に猿のように)激高する猿丸を思う存分挑発して――負かした相手だ。遠慮する必要も無い――、いなきはアントニアとの会話に戻る。
「本当は、その間違い探しまでがあんたのゲームだったんだろうがな」
「主導権を握られるのは好きやない、やったか」
負けん気故か、こちらも手品師の種明かしのように、異人の少女は言った。
――観劇の際、いなき達の周囲にいた観客は全て仮痴不癲側のスタッフだった。あの時から三人は〝査定〟されていたのだ。
自ら品定めに踏み切る主に、彼らは盗み聞きした情報を差し出した。「体力自慢のあなたが」などと彼女自身ボロを出したりもして、盗聴については早期に確信する事が出来た。
客席の間諜らの不審な動作に気付いてからは、いなきは演劇、特にシェイクスピアについて無知である事をアピールし続けた。言ってみれば単なる保険だったが――仮痴不癲の過剰な遊び心故に、千金に値する情報を得る事が出来た。
「俺にだけ耳打ちしたつもりの会話を、〝き〟が聞き取った時は焦っただろう。あれからお前はずっと奴に貼り付いていた……あやめにだけは、お前の名乗った名前は知られる訳にいかなかったからな。……まぁ、それも偽名なんだろうが」
「うん? ちゃんとした本名の一つやで? 先代仮痴不癲……前のウチの持ち主が気取って付けた名前や」
皮肉げに言ってから、彼女は腕組みして悔しそうにうめき声を上げた。
「んー、じゃあウチにもミスはあったなァ。不自然に隠そうとせんかったら、誤魔化せたかも知れん」
「かもな。俺だって、名前程度でお前みたいな子供が八百八町有数の大商人の正体と判断するのは勇気が要った……」
「なァ兄ちゃん、そろそろアンタのオンナ二人も混ぜたりィや。一人遊びが過ぎるで――痛っ」
金髪の頭を引っぱたいて黙らせる(階段上の猿丸が喰い殺さんばかりの表情を浮かべ睨んできた)。少女は下卑た笑い声を上げ、
「ちぇっ。アンタみたいなウブなネンネにヤり込められるとは、ウチも焼きが回ったなァ」
「……あの妖怪婆と気が合う訳だ」
うんざりと表情を歪めて、いなきは近場の柱の陰で観客に徹していたあやめと〝き〟に声をかける。
「〝き〟、あやめにこいつの名前を教えてやれ」
妹が言う通りに、あやめに異人の少女の名を告げる。彼女はそれだけで、得心がいったと嘆息する。
「〝アントニア〟……ヴェニスの商人(アントニオ)の女性形だ」
解答を告げると、仮痴不癲は破顔し、
「『拍手を! 芝居は終わりだ』」
その命令に呼応して、彼女の部下たちは手を打ち鳴らす――
/
「血生臭い……」
ダークカラーの燕尾服に着替えた猿丸が、白い手袋を填めた指で鼻を摘み険悪な声を上げる。
「汗臭い、獣臭い、何よりオス臭い。なんでおまえみたいな汚い男を、あたしとお嬢様の愛の巣に入れなきゃなんないんだ……」
「サカった事ばかり言うなよ。猿みたいだぞ」
「きぃいいいいいいいいっ!」
袖の内に仕込んだバネ仕掛けのレールから鏢を取り出して、猿丸が奇声を上げる。さすがに投げつける程自制心を欠いてはいなかった。――忍が仕込みを見せびらかすのは、間違い無く致命的な自制心の欠如ではあるが。
「ごめんなさいね。一度人を序列の下に置くととことんまで見下げ尽くさねば収まらない、犬のような性格の子なの」
「かかっ。お互いペットの習い性には難儀するなァ。ウチの猿もすぐ人様に牙ァ剥いて困るわ」
部屋の中央のソファに、二人だけゆったりと腰を掛けたあやめと仮痴不癲が、自分勝手な話題で歓談している。
あの後通されたこの部屋は、どうやら仮痴不癲の私室らしい。キャッチボール程度は難儀しない広さ。組部屋(スイート)で、寝室に続くドアらしいものも向こうに見える。クリーム色の壁紙を貼った外周にぬいぐるみを並べた、菓子箱めいた内装。絢爛豪華な大ホールも馴染まなかったが、同じ程度に頭の痛む風景である。
「けど、猿の言う事も分かるなァ。シャワー試さしたろか言うたやん。希少な未来的で実は過去道具……言っててややこしいわぁ、この呼び方……を体験する機会を棒に振るとは、モノの価値を知らん男やで」
「敵地で気を抜く程間抜けじゃないんでね」
線引きするようないなきの物言いに、仮痴不癲は面白がるように目を細めて、
「敵地、ね。――ま、弁えとるな。見下してかかってきたり、馴れ合うつもりやったらつけ込んどったわ」
「……そこの女は随分と違う見解のようだがな」
ちゃっかりと黒いイブニングドレスに着替えたあやめに、満腔の皮肉を込めて言う。
「何よ。こんな西洋情緒溢れる場所でいつまでも和服っていうのもおかしいでしょう?わたしはドレスコードを踏まえてるの」
「同じように空気の方も踏まえてくれると助かるんだがな」
「嫌よ」
あやめはあっさりと拒否した。
「空気のような存在、それがわたしなのだから……」
「どうも文脈を考えると、存在感が薄いという一般的な用法ではなく、自分が場のルールそのものであるみたいな意味のようだが……」
「人々はわたしを読んで生きればいいと思う」
「……ドレスを着てみたかっただけか?」
「そう、そんな感じで」
「そうか。正気なんだな……」
正気に狂っている女に戦慄を覚えていると、〝き〟が袖を引いてくる。
「わ、わたしはいなき様の味方ですよっ」
確かに彼女は再三要請されてもドレスに着替えなかった。だからどうしたという程度の話だが。
「そうそう。それそれ」
思わぬ方向から食いつきがあった。仮痴不癲は繊細な細工のティースプーンを〝き〟の面に向けて、
「口惜しいわァ。未那元宗家の血筋に備わる神域の美貌……是非とも拝んでみたかったわ」
蛇めいた舌使いで唇を舐める。
「いや――張り合(お)うてみたかったわ。見目で人誑かす、業深い女同士」
次の瞬間、いなきは男装の忍を床に組み敷いていた。
彼の殺意に反応した猿丸が、今度は鏢の投擲を躊躇わなかったからだ。
指先に奪った鏢を挟んだ手で、弓のように細いがしなやかな腕を捻り上げながら、いなきは歪んだ微笑みを浮かべたままの仮痴不癲へ告げる。
「言ったろう。敵地で気は抜かない――手緩くもしない」
「かっかっ。ひりつくわァ。命を握られとる感覚……股ァ濡らしてまうで」
女は怯えてなどいない。むしろ目の前に差し出された死を、愉悦を込めて鑑賞している。
「冗談、冗談やて……草創期の六孫王一族が、自分らの美貌使うて朝廷で生き残った歴史を踏まえたアカデミックなジョーク。アンタとそこの姫様の間に何があろうと関係無い諧謔や」
「……平和が無いわね」
体感的には氷点下まで冷え込んだ空気を踏まえずに、あやめはぼやいた。
「それとも、とりあえず尖ってみないと対話が出来ないってお約束が成立してる点では、物凄く仲が良いと言えるのかしら」
ねぇ? と後方の〝き〟へ声をかける。彼女だけはその場から動かず、立ち尽くしていた。
「――はなせよっ! このくそ狗! 腕が痛いだろ!」
「……ちっ」
わめく猿丸を解放する。そして起き上がろうとした彼女の鼻先に奪った鏢を投げ刺して、その場に釘付けにした。
「本当にこれが要人警護の頂点三十六歌仙の一人かよ。お粗末にも程がある」
侮蔑を込めて言葉を投げつけると、猿丸は固まっていた顔を崩して泣き始めた。
さすがにばつの悪い気分を覚えた所に、主がフォローを入れた。
「ま、当代三十六歌仙・猿丸もウチと同じなりたての新人やしなァ。豪商三十六人衆と護衛三十六歌仙は一蓮托生。主が死ねば後を追うのが掟やし、そもそも主より先に死なんかった例なんてほとんど無い。要するに、まだソイツは拝領機関も満足に使えん、ちょっと刃物の扱いが上手いだけの街のゴロツキや――愚連隊、って言うたやろ?」
あまりフォローになってないかも知れない。実際、女忍者は泣き止まなかった。
「脆弱な渡来人の寄合所帯が、分不相応な地位についとる。それが、仮痴不癲の現状や」
「あんたの呪いによってか? 青いダイヤ」
「……ちぇっ。ほんに兄ちゃん、チンピラ臭いナリに似合わず学持っとるやん」
苦い薬を飲み込んだように唇を歪めて、仮痴不癲は言う。
「持ち主を尽く殺してきた、呪いの青きホープダイヤ……つまり、そういう事やな。ウチの最後の持ち主、先代仮痴不癲も……大商人の業かて、運の尽きはどうとも出来んかったっちうワケや」
「見え透いた事を抜かすなよ、この毒ダヌキ」
「かっかっ。ええやん、こういうのは言わぬが華や……ま、呪い過ぎたせいで、先代からの優秀なスタッフもほとんど排除してもうたから、昔馴染みで周りを固めるしか無いんやけど」
そう言って仮痴不癲は、ティーススプーンでカップを弾いた。
ちぃん、と硬く冷えた音が響く。
「その昔馴染みを、よう殺(バラ)してくれたわ」
無機質な声音だった。先程までの何事も愉しむかのようではなく、かと言って恨みが籠ってるでもなかったが、そうしたものよりも雄弁にその危険性を示す平坦さ。
「ウチの部下は殺さん、て言葉。あれは嘘か?」
「……こちらは殺そうとしたくせに、温情を求めるつもりですか?」
溜まりかねた〝き〟が口を挟んでくる。
それを目線一つで封殺するだけの力が、大商人の瞳には宿っていた。
「契約の問題や。言葉を容易く翻す奴は、それだけで価値を落とす事を知っとけ。……さぁ殺し屋、納得の行く弁明、してもらおか」
逃げ道を塞ぐような響きで、彼女は問い糾す。
それを受けて、
「……歌仙拵」
猿丸が腰に下げる佩刀を見つめつつ、いなきは応じた。
「その原型は、細川三斎の所有する和泉守兼定(いずみのかみかねさだ)。彼が生涯その脇差で手打ちにした配下の人数三十六人に因み、後に名を〝歌仙〟と変え、同型の刀剣外装を歌仙拵と呼んだ。――部下を処断する剣を渡す。象徴的だな。あんたはどうも、俺には分からない価値を、この猿女に見出してるらしい」
次いで、仮痴不癲に目線をやって、
「仮痴不癲は救いようの無い程の実利の徒、と言ったな。過程はどうあれ、その座に付けている以上、あんたは数奇者では決してない。全ての行為に意味と実利を求める……俺が殺したあの男と、他を含めて十六人。奴らに偽の儀仗を渡した意図はなんだ?今日俺たちを騙す為にわざわざ用意した訳が無い。そもそも、何故あんたの私兵全員に渡されていなかったんだ?」
無言のまま、彼女は回答を待っている。
「兵法三十六計〝仮痴不癲〟は、現実史における大陸の名君、楚国・荘王の若年期の故事に由来する。彼は暗愚を装う事で奸臣をあぶり出して処断した……同じ事を、あんたはしたんじゃないか?」
空想を口の中で転がして、形になった所で言葉にする。
「あんたは、あの十六人に偽の信頼を手渡したんだ。粛正する頃合いまで、油断させる為に」
「――ひっ」
漏れ出るような笑い声と共に、少女は獣(けだもの)のような顔つきをした。
「どォも――ホンマの正しい資質(ライトスタツフ)を持っとるらしいな、兄ちゃん。蘇従の役を務めてみんか? ギャラははずむで? どうもアンタもウチらと同じ外れモンのようやし、よろしくやろうや」
「……遠慮しておく。伍挙に後ろから刺されそうなんでね」
そんな顔つきのまま手渡される賞賛は、まともに受け取るには余りに毒々しかった。冗談めかして辞退する。
「さよか。ま、外れモンってだけで人は繋がらんわなァ。無条件で信頼出来る相手なんて、生涯一人でもおればそりゃあ奇跡やで」
さして残念そうでも無い風に言った後、仮痴不癲は紅茶で口を湿らせてから解答を明かす。
「兄ちゃんの言う通り、あの十六人は裏切りモンや。九重府、六孫王府、他の三十六人衆、それ以下の商家……外部の勢力と通じとった。つまり、アンタはウチの部下は一人も殺しとらん。鮮やかな答え、魅せてもろたわ」
「光栄だな」
言葉と裏腹に、どぶ川を覗く顔つきでいなきは応じた。この可憐な少女にしか見えない怪物が、どういう顔をしてその十六人に儀仗を渡したか想像してしまったからだ。
仮痴不癲は、一つ手を打ち鳴らして、
「ええわ。アンタらを一世一代の博打を打つのにこれ以上ないコマやと認めたる。仮痴不癲はアンタらの六孫王暗殺を最大限支援する」
「商談成立、と言えばいいのか?」
「いいや。商談っちうんは詰めが大事やで。――条件を一つ、こちらは提示する」
指を一本立てて、彼女は言った。
「とゆーより、オプションやな。こちらのスタッフを一人付けたる。永代島での潜伏の援助やら、現地の協力者との折衝の繋ぎが要るしな」
「待て。密航船の手配だけで十分だ。それ以上は、」
「あかん。ウチらとしてもアンタらの仕事には絶対成功してもらわなならん。金と人は出し惜しみせんよ」
商人らしい圧迫感のある語気に、いなきは一瞬瞑目して、
「……分かった。なら、付き人はこちらで選ばせろ」
答えた途端に、責めるような気配を今まで発言の無かった〝き〟の方から感じる。彼女にとっては過剰な干渉は耐え難いだろう。
それに、付き人と言ってもつまり体の良い監視員だ。旗色次第で裏切りかねない。一つも油断できない敵地で、敵になり得る人間を連れ歩くなど危ういにも程がある。
しかし、協力の条件として提示された以上、この場では受けない訳には行かなかった。かくなる上は、いつでも捨て駒に出来るようなやりやすい相手を選んで、永代島に着けば頃合いを見計らって切り捨てる手だ。いなきは仮痴不癲が返し手を打ってくる前に、斬り合った五十人程から、条件に見合った人間を連想して――
「あ、じゃあわたし、あの役者さんがいいわ」
必死で即興した計画を、あやめの一言でぶち壊された。
「ちゃんばら担当はうちの子二人で足りてるもの。幇間(太鼓持ち)がいればいいなー、って思ってた所だったのよ」
「お前、何勝手な事言って――」
「だって、捨て駒にならなそうなのって、彼だけだったし」
見透かした発言で、いなきは反論を封じられた。
確かに、あの男は戦闘中ずっと悲鳴を上げて逃げ回っていた。あそこまで露骨な無能では、捨て駒にも使えない。
あやめは仮痴不癲をぼんやりと見つめながら、
「看板役者さんって話だけれど、お高いのかしら?」
「え、そりゃあ、まぁ」
「やったわねいなき君。お高い役者さんをタダで雇えたみたいよ」
しれっと仮痴不癲を――この世界で最も交渉が上手い人間の一人をやり込めて、平然とした顔をこちらに向けるあやめ。
仮痴不癲は、毒気を抜かれた風に肩をすくめた。
「ちぇっ。しゃあない、持ってけどろぼう。――これで本当に交渉成立。猿、手配したりや」
主の命に、猿丸は目元を真っ赤に腫らしつつ、ものすごくがんばって立ち上がった。涙声でづいでごいと言って、いなき達を先導する。哀れな姿である。
こちらとしても、この部屋の甘ったるい空気には辟易していた所だった。即座に立ち去ろうとした所に、不意打つような声がかかる。
「サミュエル」
その名前を述べた仮痴不癲は、目を伏せるようにテーブルへ落としている。カップの内の揺らめく液体を眺めながら、ぽつぽつと語り始めた。
「アンタが殺した男の名や。ええヤツやったで。嫌な仕事を率先してやる男でな、昔馴染みはみんなヤツを慕っとった。ヨメさんとガキを人質にされなけりゃ、裏切る事も無かったろーな。……ほんまに、ええヤツやった」
「ああ。分かっている」
嫌な仕事を率先してやる男だから、あの時、誰よりも先にいなきの側に立った。
誰もが慕っていたからこそ、残された連中を狂騒に駆り立てる事が出来た。
いなきは観察の上でその事実を知り――
彼を、家族が見れば狂う程の死体に変えたのだ。
/
「……よかったの?」
行為の後に、可愛い可愛い女が自分の胸に抱かれてそう言った。
「何が?」
黒髪を指で梳きながら、仮痴不癲は問いかける。指先に絡み付くような面白い癖のある髪の毛は猿丸の性格を現わしているようで、触れていて楽しいものだ。
ちょうど運行の予定があった密輸船にあの三人と役者一人を詰め込んで送り出した頃には、明け方近くになっていた。どうせ眠れる訳もなく、彼女は余った時間を寝室の中での愉しみに当てた。肉を存分に感じる時を過ごした後も、ベッドの上で語らう暇が残ってしまった。
「セッコクの事? まぁ、アレはアレで具合の良い愛人やったけど……オマエは煙たがっとったやろ。手放すにはええ機会と違う?」
「ち、ちがうよ……あいつらの事」
猿丸は、予言のように言った。
「あいつら、絶対死んじゃうよ?」
「せやな」
仮痴不癲は、手慣れた相場師のようにそれを肯定する。予言に興味は無いが、予測の方は馴染みの深い飼い猫のようなものだ。手懐ける事は造作も無い。
「あの兄ちゃん、確かに武芸者として一流や。洗練された技術、修羅場で活路を見出す知見、何より職業殺人者に不可欠な、己を殺す覚悟……」
賞賛を一通り並べる。積み木を組み立てるような感触。崩す時に快感を得る前触れ。
「そして、それだけや。世界を動かす器や無いなァ。ただの殺し屋風情が大業を為すのを、運命は決して許さんよ」
「あたしには、そういう人を見る目は無いけど……あいつは〝御門八葉(ごもんはちよう)〟みたいに怖くないから。目を合わせただけで自分の命を諦めてしまう……あんな、人の形をした災害みたいな連中に勝てるわけ無い」
当代六孫王がまだ公務に耐え得る身体であった時、二人は彼とその周囲に侍る怪物どもを見た事がある。触れる肌の熱が、鮮明な恐怖に冷めるのを感じる。慰めるように仮痴不癲は声を掛けた。
「ま、ええやん? ヤツらが失敗しても保険はかけとるし。十重二十重(とえはたえ)の策の内の一つでしか無い」
「でも、――は、あいつを手元に置きたかったよね?」
原初の、掃きだめで暮らしていた頃の名前で追求されては嘘は付けない。「まぁな」と仮痴不癲は応じて、
「ウチはな、人を値踏みする才に関しては天下一を自負しとる。これで、身売りする相手を見定めて生き残って来たワケやしな。ヤツそのものは〝平凡な一級品〟、そこそこの値打ちしかあらへん……」
あの男――いや、未だ少年でしかない者の目の奥に潜む空虚と絶望の根拠を思う。
「けど、ヤツの負債は、人間の身一つでは到底背負い切れん程に高値やった。それを知りながらヤツは、破産する事を決して自分に許さない……なんて救われない、哀れな魂」
うっとりと、飴玉を口の中で転がすように仮痴不癲は囁いた。
「是非、弄んでみたかったわ」
最後のやり取りで味を見た時も、好い反応を示してくれたものだ。反吐を催す程の罪の意識を感じつつ、それを表に出す事を恥じて必死で凍結させた、ひどく雄弁な鉄面皮。
サミュエルはとうに行き詰まった男でしか無かった。彼の家族は既に始末されている。調べるまでもない。彼の踏み込んだ――彼女の踏み込ませた世界はそういうものだ。
それも彼は察していただろう。その上で、あれだけ馬鹿丁寧に彼の命を扱うとは――なんと良質の道化である事か。
あの男は、手元に置いて愛でるに値する玩具だった。
「……そうしたって良かったのに」
微かな嫉妬を含ませながらも、猿丸はそう言った。
確かに、仮痴不癲は自分の楽しみを理由も無く我慢はしない。その為の手練手管を惜しみもしない。
「……あの女のせい?」
彼女の理解者は、明敏に理由を察してみせた。
触れる肌が、また一つ冷める。
「もしかしたらあいつも、怖いのかも知れない」
猿丸が胸の中で漏らした言葉を、仮痴不癲は咀嚼する。
彼女がどちらの事を言っているのかを考え、それが自分の中の解答と違っている事を察する。
予測とは、仮痴不癲にとって馴染みの深い飼い猫のようなものだ。手懐けるのは容易で――時に裏切られる。
「ヤツらが生き残るってコトも、あるやも知れんなァ」
不意に股座から立ち上る熱を覚えて、彼女は夜明けまでの時間をもう一度愉しむ事にした。猿丸を下に敷いて、自分の顔を見せないようにする。
「ちぇっ。……値が定まらんかったなんて、生まれて初めてや」
悔しげに顔を歪め――最高の屈辱をどうにかそのレベルに落とし込んで、彼女は呟く。
確かに、あの男を手放すにはいい機会だったのだろう。
それでも――手持ちの男では最も高かったのに。