「左右田石斛斎(そうだせっこくさい)。もちろん芸名。本名を教える気は無いかな」
揺れる船縁にもたれかかって、男はそう名乗った。
「別に花好きだから付けた名じゃ無いんだけどね。まぁ、嫌いでもないよ。年は最近数えて無いなぁ。好きな食べ物は色々あるよ。嫌いな食べ物も色々だけど。趣味も多い方かな。特技については、そういうのって自己申告するもんじゃないって僕は思うよ」
「なぁ……今の自己紹介、意味あったのか? 何一つ分からなかったんだが」
「あはは」
軽薄な笑い声一つ上げて――どうもそれ以上何も語る気が無いらしい。石斛斎とやらは金箔を貼った扇子を、右手だけで器用に広げて顔を扇ぐ。
「それにしても、さすが三十六人衆だねぇ。犯罪の規模が違うよ」
彼は周囲の、単横陣を組んで航行する艦隊を眺めやって感嘆した風に言った。
艦隊の構成はほぼ中型艦(関船)で、いなきらが乗艦している旗艦だけが大型艦(安宅船)だった。既に蒸気機関は解放されているので、櫂の代わりに外輪(パドル)が回り、船尾には煙突が突き立っている。ファンネルマークは笹竜胆――六孫王軍所属の艦船である事を表わしている。
偽装船ではなく、れっきとした六孫王府に登録されている軍艦である。不審な回船や商船は臨検・逮捕の対象ではあるが、それが軍船なら問答無用で撃沈されるし政治問題にも発展する。そんなリスクは冒していないだろう。艦船、政府に提出される演習計画、全て本物を用いているはずだ。
ただ、品川港付近の海域で商船と接触して密輸品を積み込み、哨戒線を抜けた所で別の商船にそれを受け渡すという過程が記録されないだけだ。
「まぁ、この抜け荷のシステムのせいで、六孫王軍自らテロリストの駕籠かきをやる羽目になったわけだけど。まったく、因果応報というか、人を呪わば穴二つというか」
皮肉めかして、石斛斎はいなき達を眺めやり、
「テロリストは大げさかな。かわいい女の子が二人とちょっと背伸びした男の子が一人。ねぇ、提案だけど、旅の目的を観光に変えるってのはどう? 八幡宮、永代寺、欣厭大路(ごえんおおじ)、龍頭焼き……深川は良い所だよ」
「余計な世話だ。そもそも誰がちょっと背伸びしてるってんだよコラ。少しデカいからって見下ろしてんじゃねえぞオッサン」
懐に近寄って睨め上げるように脅しつける。
「ねぇ、いなき君のちんぴら度が突然急上昇。あれはなぜかしら」
「今はそうでもないですけど……昔は身長にコンプレックスを持ってらしたので、その名残ではないかと」
「おい、後ろの二人、聞こえてるぞ」
ひそひそ話をするあやめと〝き〟の方に首を向けて、
「俺はな、この手のユルくてカルいオッサンが大嫌いなんだよ。適当にだらだら世渡りしてるって全身で主張してるじゃねえか。そういう姑息な生き様は、人生における大罪だぞ大罪。少しはそのゆるゆる垂れた目つきを引き上げて過ごしてみろってんだ」
「――ん?」
不意に〝き〟が、どこか遠くを眺めるように面を海岸線に向けだした。
「どうしたんだ?」問いかけると彼女は首を傾げて、
「あ、いえ。今、かなり遠くの方で妙な音が聞こえたような」
「鯨の身じろぎか何かか?」
「そういうのとは違って……なにか、重要な事柄を棚上げしたみたいな……」
「? なんだそれ」
「すいません。たぶん気のせいです」
「そうか? ならいいんだが」
不思議にひっかかる彼女の物言いに、自分自身でも首を傾げつつ、いなきは石斛斎の方に向き直る。あれだけこき下ろされておきながら、へらへらとした表情には何ら変化が無い。癇に障る態度だ。
「とにかく、あんたは成り行きでついてきただけの男だ。出過ぎた真似は止めてもらおう」
「そうは言うけどね」
どうもまだ何かを言い足りないらしい男。いなきの目つきが険悪さを増していくのを見て、
「ねぇ、僕はこうして剣をぶら下げてるけど、刃を潰した踊りの小道具だよ。非武装で、喧嘩一つ出来ない踊り屋に本職の殺し屋が暴力で脅しをかけるって、随分と格好悪いんじゃないかな」
詭弁めいた言葉で石斛斎は牽制した。そして、いなきの一瞬の躊躇いの間を盗むように、彼は語りを続ける。
「……そりゃあね、一言言いたくもなるよ。この旅の無意味さにはね。――当代六孫王は何もせずともこのまま自分で命を絶つ。政治的な意味も価値も存在しない暗殺に、たった三人で赴くなんて、大人には理解しがたい事だよ。蛮勇? 功を焦ってる?」
「おい、いい加減に――」
「それとも、復讐かな。斎姫」
いつの間にか閉じた扇子を〝き〟に向けて、石斛斎は告げた。
「……仮痴不癲に聞いたか?」
「いいや? 彼女は言葉をけちる方だからね……きみの声が、僕を忘れがたい郷愁に誘ったんだよ」
彼の物言いは、わざとらしいほど芝居めかした調子だった。間を取るように緩く嘆息して、
「僕はね、きみの母親に会った事がある。後に〝今静〟と謳われる六孫王大樹の御愛妾〝ふう〟と言えば、僕の世代じゃ知られた深川芸妓(辰巳芸者)だった。彼女の歌舞は荒武者のように人を斬り、天女のように極楽に導く……本物の魅力を持った芸人だったよ。当時の王太子に見初められ、歳城(としじょう)入りした時は深川の誰もが惜しんだものさ。――きみの声は、あの人にそっくりだった。二つと無いはずのものだ。答えは一つしか思い浮かばなかったよ」
目を閉じ、そこに過去の風景が見えるように語った後、彼は言った。
「芸人のはしくれとして、彼女の子であるきみが踊れない身体である事は至宝を失った心地さ。でも、それがこの無謀な復讐を認める理由にはならない。未那元宗家における第一王女斎姫の〝役割〟は聞き及んでいるし、それを哀れだとも思うけど、せっかく拾った命を擲とうだなんて馬鹿げているよ。若者は未来を考えるべきだ。娘が幸せな青春を謳歌する事を彼女も望んで――」
金色の扇の上半分が、真っ黒な海に落ちてその輝きを消した。
「首を落としても良かった」
見せつけるようにゆっくりと、抜いた太刀を納刀しつつ、いなきは言った。
「失せろ」
「剣呑よねぇ」
石斛斎がすごすごと船内へ引っ込んでいった後に、あやめが呆れたようにコメントする。
「その手の恫喝外交は、もっと使用頻度が低くて然るべきだと思うわよわたし」
「うっせぇな。この業界じゃ一般的な交渉術なんだよ」
「そう? いつきちゃんも船室に戻っちゃったけど。引いてるのではないかしら」
「……」
確かに、〝き〟もあのまま何も言わずに船室へ戻っていった。客観的に見ればそう取れないでもない。
はぐらかす訳では無かったが、いなきは話題を変えて口にする。
「あのな、あいつをその名で呼ぶなって前々から言ってるだろう。あれは覚悟して名前を捨て、獲得したんだ」
「わたし、その事に思う所が無いわけじゃないのよね。だから、ささやかな反抗みたいなものよ」
「……ちっ」
舌打ちして、黒々とした海面の方へ顔を逸らす。いなきには、この女の主張を曲げられたためしが無い。
この旅の同行も結局制止できなかった。
「そもそも、なんでついて来たんだよお前。目的があるなんて言ってたけど、貴族の箱入り娘がわざわざ城の外に出る理由、俺には思いつかないぞ」
「あら、まだそんな事を気にしていたの? ……ふむ、そうね」
ぼんやりと呟きながら、あやめは船縁に手をかけ海岸線を見つめる。危ないとは思ったが、落ちる前に手なり足なり首根っこなりを掴める位置ではある。彼女の語る言葉には興味があったので、黙っている事にした。
潮風にはためく髪を細い指で押え込みつつ、彼女は静かに――どんな仕草にも音の薄さを感じさせるのだ、この女は――口を開き、話し始めた。
「もうれんやっさ、もうれんやっさ、いなが貸せ……次郎吉(じろきち)どんは水面から伸びる、無数の枯木の如き手を怖ろしげに見やり、底の空いた柄杓を投げ渡すのじゃった……」
「なんで船幽霊の話をするんだ?」
「海の怪談がそれくらいしか思い浮かばなくて」
「海の怪談をする流れだったか? 今」
「誰も質問に答えるとは言ってないでしょう?」
「いや、それはそうだが……」
「それに、少しは涼しくなったんじゃないかしら」
「冷めはしたが」
「ところで、重大な事に気付いてしまったわ、いなき君。もしかしたら……この船は底の空いた柄杓を用意していないのではないかしら。大変危険よ」
「……安心しろ。船幽霊とかいないから」
「なんですって? 妖怪を信じていないの?」
「信じていないというか……」
「無明時代(ジャーヒリーヤ)の申し子というやつね……嘆かわしいわ。各地の仲間(ムジャーヒディーン)を募って聖戦(ジハード)に踏み切る必要があるようね。ユニフォームは、虎縞のちゃんちゃんこに飛行する下駄、あるいは着流しに指貫(ゆびぬき)グローブで」
「おい、色んな方面に危ない発言をするな……っていうか、仲間とかいるのお前」
「ねぇいなき君、軍艦に勝負を挑む船幽霊って、ものすごく強そうだけれど、逆に怖くは無くなってしまったというか、ジャンルが違う気がしない?」
「ああ、いないんだな……」
要するに、質問に答える気はさらさら無いらしい。
げんなりと嘆息していると、あやめは気の抜けたいなきの隙を突くようにして呟いた。
「海って、こういう匂いと見た目と肌触りと音と味なのね」
味――どうも潮風を口に含んだらしい。それが海の味なのかと言えば疑問ではあるが。
「欲に限りはないものね。それだけ知れば良いと思っていたのに、もう別の事が気にかかっているわ。……ねぇいなき君、この海の向こうはどうなっていると思う?」
「さぁな。地上への色々な影響を考えると、地球の環境が完全再現されているかも知れないが、逆に省略されていても不思議じゃない。いわゆるTO図のような世界であっても、おかしいとは思わないよ」
「あら、確かめた人はいないの?」
「魍胡は外洋からやってくる……あんなバケモノを相手にしながら冒険するのはぞっとしないな。同じ事を政府の連中も思ってるんだろうさ。九重府、六孫王府で遠征計画が立った事は無いし、外洋渡航の可能な民間船の建造は禁止されている」
「わたしは、違う理由があると思うのだけれど」
などと、彼女は反論してみせた。
「あの仮痴不癲を見て、お城の貴族たちと似ていると思ったわ。多分、六孫王府の人たちを見ても同じ感想を持つのでしょうね。前向きな思いつきが出来ない心境……どこか投げやりというか、物事を軽く見ているというか……命も、含めてね」
「俺たちへの批判か?」
「ええ、そうね、多分」
言葉通りに怒りらしきものが、この女の顔に表れるでも無かったが。あやめは何を考えているかどうしても分からないその顔を、海岸線の遥か遠くへ向けている。
こうした視界の広い――情報量の多い場所では、目を凝らすと世界を描画(レンダリング)する基礎単位の格子(グリッド)が露出する事がある。一般には一色虹、翡翠弓、虹の網などという名で知られる現象だ。
その正体を知る人間は、彼女の言う通り総じて物事を軽んじる。生命を含めて。
心中に生まれる虚無感を根拠に――
「わたしは、それだけは許したくないと思っているのよ」
海岸線が払暁の色合いに染まり始めた頃に、鉄の義足と杖が甲板を叩く音がした。振り仰ぐと、〝き〟が船室の入り口から出て来る所だった。
「仮眠、取っておけよ。次にいつ寝れるか分からないぞ」
「無理ですよ。わたしたちにあてがわれた部屋、ものすごく狭いんです。わたしがいると、あやめ様が眠る余地がありません」
恨めしげな声を上げて、彼女は海に――確か品川の方角だ――狐の面を向ける。
心の中で誰を殴り飛ばしているか察したが、それは無視していなきは問いかける。
「じゃあ、今はあやめと石斛斎が二人きりで船室にいるって事か?」
「いいえ。あそこは一人横になったら満杯です」
つじつまが合わない〝き〟の受け答えに不審がっていると、彼女は何故か物凄く誇らしげに、不可解な発言をしてくる。
「心配はいらないのです、いなき様。あのちゃら男は廊下でのびているので、ふらちな真似は不可能ですよ」
そのまま続けて報告する。やはり誇らしげに。
「あの後、ちゃんとしめときましたからっ」
「……えっ?」
「顔は殴りませんでしたよ?」
それが非常に重要な事のように語る。しかも、「役者の顔だから」ではなく「ばれないように」というニュアンスに感じられる。気のせいだと祈りたいが。
ふと胸に生まれた感情を喜怒哀楽に当てはめる事は難しいが、無理に言葉を選ぶなら――いなきは引いた。
「そもそも、いなき様が不寝番をなさっているのにわたしだけ寝ているわけにはいきません」
健気っぽい物言いを聞きつつ、気に食わない発言をした男をわざわざリンチにしに行くわけにはいくのだろうか、といなきは胸の内でつっこんだ。耳に心地良い返答をもらえる気が何故か全くしなかったので、口には出さなかったが。
気分を切り替えるまじないに、鼻の頭をかきながら言う。
「不寝番、なんてかしこまったものじゃない」
甲板上で作業する監視員などがこちらに目を留める事は無い。むしろ、あえて無視するかのような態度だった。人は表面的な理屈がついていればそれ以上の追求をしない。内側は自分の空想で埋めてしまう。いつもの密輸品と一緒に分かりやすく同業者――しかも自分たちより更に薄ら暗く、血生臭い世界にいそうな――がいても、雇いの殺し屋と察するのがせいぜいだろう。職業軍人が関わる必要は無いと、若干の怯えと共に思い込もうとする。
危険は無い――という確率が極めて高い。
極小のケース。例えば、これまでの過程のどこかで自分たちの行動が諜報の網に引っかかり、現在捕縛の命を受けた憲兵を乗せた軍船がこちらに近付いている……密偵は専門では無いが、彼らの耳は各所にあるものだとは理解している。例えば武ヶ具三十六形を遺した絵師は、描画を遠くの紙に映す蠱業で情報を伝達したと言うが、そんな常識外の能力で行われたスパイ活動も察知されてしまうのだ。
万難を排してなお、その裏をかかれる可能性が存在する。この世界はそういうものだ。
幸い、いなきは若年の兵士が抱きがちな愚かしい全能感を信じずにいられた。彼にとっての全能者が、自身の全能を信じてなどいなかったからだ。
こうして形にもならない「不測の事態」に備えて待機しているのは、その不信の表れに過ぎない。
「ただ単に、気を抜きたくないんだ」
「それならわたしだって同じですよ」
〝き〟の語調には珍しく、責めるような気配があった。
「わたしももう、あなたと同じ忌役の武官です。いなき様が警戒しているならわたしだって警戒しているんです。わたしは、あなたと同じ目線に立っているんです。だから、保護の対象みたいに扱うのは止めて下さい」
「……悪かった」
傷付けた誇りの償いにはならなかっただろうが、謝罪する。
それを胸の内でどう受け取ったかはともかく、彼女は、いいんです、と微笑んだような色を面の内からも分かるように浮かべた。
「そもそも、船員を全て叩きのめして船を奪取、哨戒線付近で自爆させて巡視船の注目を集めている隙に小舟で上陸する、なんて手間のかかる作戦の準備は、いなき様一人じゃ手に余るでしょう?」
「……いや、そんなえげつないシージャック計画を立てた覚えは無いんだが」
「あ、あのちゃら男は途中で海に捨てていきましょうね」
「同じ、目線……?」
理解出来ない言葉を――かつ早急に理解しないと危険な言葉を――聞いたように、いなきは戦慄を込めたうめき声を上げ、妹を見つめる。
「というか、そんなにあいつが不愉快だったのか?」
「ちゃらいですから」
ばっさりだった。
「茶坊主にも使えない、臈次(らっし)も無い、いらっとする、略してちゃらい」
「形容詞一つじゃ足りなかったのか……」
「しかも、なんか過ぎ去った青春をわたしに投影してる感じでしたよあの人。セクハラおやじですよ、きもちわるい……やっぱり鎖骨を折っておけば良かったかも……」
口惜しげな物言いの、怖ろしい後半部分を無視するのにいなきが全力を注いでいると、〝き〟は気持ちを切り替えるように嘆息して、
「まぁ、母さまの事を知っている人に会えたのは好かったですけど」
「……なんだ、本命はそっちか」
石斛斎に会いに行った本当の目的は、母親について聞く事だったのだろう。子供というのは両親の過去を意外に知らないもので、知りたがるものだ。相手がとうに死んでいるとなれば尚更のはずだ。
「話、聞けたか?」
「ええ。たっぷり吐かせました」
「吐かせ」
不審な物言いに引っかかりを覚えている間に、〝き〟は言葉を続ける。
声は、心地よさに浸る響きを持っていた。
「わたしを通して母さまを見ようとする、っていうのは辟易ですけど。それだけ母さまが愛されていたって事ですものね。その点は、悪い気はしませんでしたよ」
「……そうか」
――声色に違和感が現れない事を祈りながら、どうにか呟く。
羨望の感情を、表情のみに留めていた。
彼女に視力が無い事を感謝する、というのはいかにも下劣ではあったが、この気持ちを知られるよりはいくらか上等だろう。
彼女の母親を知る者がいる。思い出を共有出来る。
それは不死ではないにせよ、不滅に近い世界の営みだった。
過去すら失せて、世界から外された故郷。
死よりも空虚でおぞましい消滅を、本当の意味で知る人間は、もう自分しかいない。
己の抱える孤独感を悟られてはならない。その時、この少女もまた孤独に落ちるからだ――
「あと、この面についても聞きました」
そう言って〝き〟は、懐から龍面を取り出した。鎚蜘蛛姫から餞別に貰ったものだ。
「蘭陵王だろ?」
いなきは先回りして答える。いなきは左右田という芸名について、左楽、右楽、田楽から取ったものと予測していたので、ならばこれも石斛斎にとっては専門の範囲内だろうと思っていた。
「雅楽〝蘭陵王〟の面……蘭陵王っていうのは北斉の武将高長恭の異称だ。美貌が過ぎた為に、兵卒の戦意が落ちるのを恐れて龍を模した鉄仮面を付けていた……なんて、これは後世の誇張表現だけどな。それが何故皮肉なのかは分からんが」
「九代目六孫王の弟と関係しているそうですよ」
聞いたばかりの知識である事が分かる、あやふやとした口調で〝き〟は答えた。
「彼の若い頃に名乗った名前が蘭陵王なのだそうです。原典の方に倣って、戦時には龍の面を被っていたのだとか」
「九郎判官義経(くろうはんがんよしつね)が? 初めて聞いたな」
〝軍神〟未那元義経。
九代目六孫王頼朝の異母弟で、六孫王一族の中興に最も貢献した軍事的指導者だ。あまりにその軍才が神懸かり的であった為、天狗に兵法の手解きを受けたなどと伝説的な逸話も多い(この仮想世界には憑人という妖怪じみた人間が実在するので、単に伝説とは言い切れないが)。
彼の少年期について、いなきは知らなかった。現実史の源義経は平治の乱の後寺院に預けられていて、稚児時代には遮那王と名乗ったらしいが、仮想世界史での未那元義経については九重府の記録に残っていない。現寇以前の史料については損失が少なくないのだ。
もっとも、九重府と三十六人衆、六孫王府の保有するデータベースはそれぞれ異なっているので、いなきが知り得ない史実など山ほど存在するのだが。
仮痴不癲の側近であった石斛斎が、その穴を埋める情報を持っていてもおかしくは無い。
「なるほどな。それで皮肉という訳だ」
未那元義経の末路は、現実史とほぼ同一である。彼はその軍事的才能、カリスマ性を忌避されて兄である六孫王頼朝に排除された。
その最期は自害によるもの――蘭陵王・高長恭とも一致する死に様だ。
非業の死を遂げた弟が、自らを裏切り、破滅に追いやった兄の一族を呪う。龍面の示す意志とはそういうものだろう。
「悪趣味な諧謔だと思うが……どうするんだ?」
「付けておきましょうか。今回、敵勢はほとんど未那元の旧家に属する貴族ですから、こういう脅しはありかと思います。上手くいけばパニックに陥ってくれるかも知れません」
この手の場面ではどこまでも実利主義の〝き〟は、単純な戦術的観点からその悪趣味を受け入れた。「ちょっと持ってて下さい」と龍面をこちらに渡し、狐面の結び目に手を掛け――
面を外した。
「素顔になるの、久々ですね」
などと言って、朝焼けの海を背景に、はにかむようにしてみせる。
それがなんでも無い事と思っているのは、本人だけだろう。
――未那元宗家に備わる神域の美貌。
それが誇張でも冗談でも無い事は、昔から知っている。仮痴不癲は確かに希少な――魔性めいた空気を纏う美少女であったが、あくまで人を誘い、狂わせる傾城の相に過ぎない。人の美しさについて解答を知っているいなきには、そう映ってしまった。
極めた美貌は人を従えるのだ。その持ち主の支配を望むのではなく、かしづき、涙を流しながら側にある事の許しを求め、その代償に何を捧げても構わないと思わせる――神を信じ、支配されるとはそういう事なのだろう。
この相を一族全員で持ち合わせているのなら、王座につくのは必然だったのだろう。
「潮風って、割と傷に染みますね」
宝玉めいた美貌には瑕疵があった。右目の目尻に古い裂傷。上手く抉られた左目とは違って、こちらは痕になってしまっている。
「あの、義眼の配置おかしくありません? 寄り目とかにはならないって言われてるんですけど、いまいち信じられなくて……」
近寄って、見上げるようにしながら〝き〟は問いかける。両目に填め込まれた義眼は、鎚蜘蛛姫が仕立てたものだ。武器以外に何も興味のないあの妖姫が、一月かけ、百近い失敗作を出した後に、妥協してしまったとぼやきつつ渡してきた模造眼球。どういう仕掛けか、義眼であるのに見られているという印象がある。
女神が、自分を視て――
「どうせこれ被るんだ、どうでもいーだろ」
手にした龍面を〝き〟の顔面に押しつける。「ちょ、やめてくださいよぅ」と抗議しながら彼女は結び目を掴んで、髪を巻き込みながらきつく結ぶ。こうすると激しい運動でも外れないのだそうだ。
いい機会か、と思いつつ。龍面に手を当てたままいなきは言った。波音に消えないように強く。
「……あのな、俺はお前に誑かされた訳じゃない」
仮痴不癲との対話の時、彼女の口数は少なかった。先程噛みついてきたのも、同じ根から来ているものなのだろう。
否定しなければならない事だ。彼女と家族である為には。
「さっきのは俺の落ち度だ。重ねて詫びる。……俺は、お前を信頼しているよ。命を預けるに足る相棒だ。俺は、お前の保護者じゃない。従者じゃない。駒でもない」
「……っ」
動揺を面に触れた手から悟る。
「どうせ、そんな事を考えてやがると思ってたよ」
面を叩くように突き放して、いなきは告げた。
「勘違いをするな。俺が矢面に立つのは、それが一番成算の高い戦略だからだ。きっと、万全のお前でないと、六孫王とは勝負にならないだろう。――厳命する。奴の前に立つまで絶対にその太刀を抜くな。代わりに俺が、それ以外を殺してやる」
「……はい」
誓いを受けるように、〝き〟は応じた。
本当に誓いじみている。無数の人命を生贄とする、女神への誓い。――後半については、いなきは断じて受け入れる訳にはいかない。
前半については、心に刻まねばならない。
〝き〟が海岸線の一点に面を向ける。見やれば、商船らしき影がやって来る所だった。
穴の無い仮面でそれに向かいながら、彼女は言った。これもまた、誓いのように。
「殺しましょう。屍(かばね)が水漬(みずつ)く程に――それが叶わぬ時に、死にましょう」
「ああ」
――それだけは許したくないと思っているのよ
答えた己を、浄(きよ)い言葉が責め苛む。
夏季の熱に腐れて崩れた屍を築く道、それを自分と妹は征く。
草生(くさむ)す屍の一つに自分の首の紛れる様を想像して、空虚を胸に落とす。
莫逆の友のように、それは親しみ深い感覚だった。