方丈梢継(ほうじょうすえつぐ)は、庭園の苔むした岩を眺めながら、部下の語る言葉を半分以上聞き流していた。彼は聞き取るべき言葉は決して聞き逃さない。つまり、半分以上中身の無い追従と無駄言であったという事だ。
「いやはや、弾正忠様、まこと絶景にございますな」
政治の表舞台に立った頃から自称している官職名を呼ばわりながら、部下の――なんという名だったか。少し考えれば思い出せるのだが――裃(かみしも)を着込んだ男はそう言った。梢継と同じように露地の飛石に立ち、同じように庭園を望み、そして全く違った感想を抱いている。
「城中から深山幽谷を眺める贅沢は、この歳城でしか味わえませぬ。それがし公用で紫垣城に参った事がござるが、あのような大陸の様式には華はあっても、こうしたわびがございませぬ……」
「左様。武人の心の荒みを解くという元羅(もとあみ)公の御配慮により、この庭は設えられた。我らは今、その心尽くしを踏み締めている事、忘れてはならぬ」
自分もまた無駄言を返しながら、飛び石を一つ踏み越える。今の発言はあまり良い表現とは言えないだろうか? この男には、主家の遺物を足蹴にしているように聞こえたか? そう解釈した男が梢継の不敬を周囲に漏らすだろうか? 馬鹿馬鹿しいが、その程度の失言をきっかけに失脚した家臣を梢継は何人も知っている――己で手を降したのだから当然だが。
たかだか一つの家の威光を縁(よすが)に存在しているのが、この歳城であり、深川六孫王府だ。
「まさに、まさに」
無邪気に同意の頷きを返してくる部下に、無駄な心配をしたと梢継は胸をむかつかせる。もちろん表情には出さなかったが。
梢継の直垂(ひたたれ)に、葉の影に切り取られた陽光が注ぐ。二の丸内に設けられたこの庭園は、渡六分景四分の素朴な造りであったが、四季ごとに庭師が工夫を凝らす。夏場は吹き抜けの天井に蔓が張り巡らされる。立ち止って見上げれば、熊柳、凌霄花(のうぜんかずら)の花が所々に覗けた。
地上の人間を嗤っているように見える。
「――俊秋(としとき)、襟を正せ」
襟ぐりで胸元を扇ぎだした部下を見もせずに嗜め、梢継は歩みを再開する。
「は、これは……失礼をば」
身を縮こまらせて恐縮する部下(そうだ、夜摩名(やまな)俊秋という名だった)は、上役の機嫌を取る為に知恵を絞り、ようやく思いついた言葉を述べた。
「しかし、かの雌狐もとうとう往生際を悟ったようでございますな。不還庵(ふげんあん)にて茶を進ぜたい、などと。よほど我らが怖いと見えます」
いよいよもって決定的に悪化した内心をどうにか自制し、梢継は言った。
「戯(たわ)け」
「……は?」
「奉公衆の憑人(つきびと)でも指折りの遣い手である貴様を供にしたのだ。覚悟しておけ。事の雲行き次第では、局を殺す」
「は……で、ですが、ここは、刃傷法度の不還庵」
「貴様と俺が腹を切れば済む。貴様の細君に類が及ばぬよう計らってもやろう。――万一の話だ。あの局が、そのような緩い手を打ってくれるのであれば、余程安心なのだがな……」
この男だけが格別浮ついているのではない。誰の目から見ても、梢継は歳城での権勢を極めつつある。玉を――次代六孫王の後見役を押さえた以上、彼の勝利は揺るぎない。己の敵味方を表情の浮き沈みだけで色分けできる程だった。
不安を拭えないのは梢継だけだ。
庭園の大岩をもう一度見つめる。岩にこびりついた苔、あれを取ってしまいたいと思う。岩肌を綺麗にするには、それが必要なのだ。
しかし、あそこにはまだ手が届かない。
茶入の銘は灘鶚(なだみさご)、そこから抹茶をすくい上げた茶杓は山之口(やまのくち)、抹茶を放り込まれた茶碗は垂乳根(たらちね)、風炉にかけられた茶釜は八意思兼(はちいおもいかね)……
全て武州名物帳――今は消滅した国のさる武将が見聞した茶道具の目録。その内で最高位である宝物に分類されるものだ。
無論、市場価値の観点で言えば、千両箱を山と積んでも欲しいという者がそれこそ山のようにいるだろうが、六孫王府の人間にとってはこれらの名物は別の意味を持つ。
それらを入手した人物が、歴代の六孫王であるという事だ。
言わば主家の遺産、即ち権威の象徴であり、これらを血で汚す事は、六孫王府の武士にはどのような理由であっても許されない。そういった器物が、ただこの庵でのみ実用を許可される。
刃傷法度の不還庵――現在も神君と謳われる未那元元羅が、政治的談合の場として建てさせた庵である。
そして今、余人が手にする事も恐れる器を、白く細い指が軽々と操っている。飽きの来る程扱い慣れたかのような手つきで茶筅を使い、抹茶を練る。さらさらと、三畳の小間を占める、きめの細かい砂が落ちるような音。
――実際に、扱い慣れているのだろう。この女は、ここに何度となく訪れ、飽きる程茶を点てているはずだ。
白い女だった。着物の色も、肌の色も、髪色すらも。夫が死んだ五十年前から、この女は喪に服し続けている。
そして、変わらず美しかった――髪色の白は老化の証ではなく、初雪の如く色艶を保っている。
芙蓉局(ふようのつぼね)。
九重府五摂家の一流たる二条家の出自である彼女は、かつて先々代六孫王・覚樹(さとしげ)公の正室として輿入れした。彼の死後も紫垣城に帰参はせず、むしろ彼らに敵対した。落飾しないまま名乗り続けているこの名は、ある時期に九重府より送りつけられた芙蓉の花に由来する。
芙蓉の如く容易く色を変える、変節の女――
「どうぞ」
涼やかな声と共に差し出された椀を受け取り、茶を服す。添えられた葛焼も躊躇わず口にした。毒殺を警戒する必要は無い。ここでの殺人は、お互いが実際の生命より重視している政治的命脈の断絶を意味するのだから。
しかしながら、心境は安堵とは正反対だった。
――俺は、こうした味を好いていたのか。
その自覚は、戦慄と共にあった。芙蓉局が供した茶と菓子は、普段茶坊主に仕立てさせる好みの味では無かった。そして、その味より好ましかった。
自分自身が知らぬ性向をこの女は探り当てたのだ。
不倶戴天の敵として六孫王府に迎えられ、今は紛う事なき女帝として君臨する女の、魔性めいた人心掌握術の一端。今梢継は、それに触れたのだ。
「……茶花は、西王母にでもすれば良かったのではないか?」
怖気を振り払うように、梢継は作法を無視して皮肉を刺した。花入には岡虎尾が生けられていた。先端がやや重いのか、頭を垂れている。
「あなたの為の席にございますれば」
にこり、と慈母のように微笑みながら、芙蓉局は言った。
「ただひとえにあなたの事を思って仕立てるのが、当然でございましょう?」
「実ればこそ頭を垂れろ……三つ子の魂百までとは良く言ったものよ。その婉曲な嫌味だけは宮廷に捨ててこなかったと見える」
自身が虎に例えられている事は聞き知っている。下らぬ虚仮威しだが、使い所を間違えなければ有用でもあるので、放置していたのだ。
「ふふ、いけずな事を仰いますな……」
決して口の中を見せずに笑うこの女も、そうであったに違いない。西王母――虎の牙を持つ仙女の名を、彼女に苦杯を嘗めさせられた深川の武士は密かに使う。
「和敬清寂。禅の道、茶の湯の道、人を治むる道は全て同じものだと、あなたにも知って貰いたいだけ……」
「禅に目覚めたなら、疾く尼にでもなるがいい。――韜晦(はぐらかし)も大概にしろ、局。今日俺は、貴様の首を獲りに来たのだ」
「――こわいな」
女は、口調を一変させて呟いた。
「まぁ、茶席での茶番など、駄洒落としても粗末だがな。そもそも、私は茶など好まん。濁酒の方がまし、という奴だ」
密偵に探らせた芙蓉局の情報の内、名酒の収集癖があるという噂を梢継は思い出した。その無駄な知識を頭の片隅に追いやりながら告げる。
「俺は下戸だ。本性を現わしたとしても、気が合う訳でも無いらしいな」
「馬鹿者。女の本性を知りたければ閨で身体に問え。……私は、構わんぞ?」
芙蓉局が述べる不倫を材料に、糾弾する事は不可能だった――彼女は幾度となく交渉材料に、宝物めいた己の身体を使ったが、絶対に証拠を残さなかった。
口にするのも無意味な言葉の代わりに、梢継は言った。
「断る。俺が内実を知るべき女は、一人だけで良い」
「はん。端女上がりの妾に、随分と入れあげるものだな。――良いのか? 私の前で、そのような弱みを晒して」
「――見くびるな、雌狐」
氷塊を胃の腑に落としたような声音で、梢継は告げた。
「あれは、俺の為にいつでも死ねる女だ」
「そうか」
脈が無いと見ると、芙蓉局はあっさりと恫喝を引っ込めた。庵の壁に遮られ、しわしわと小さく蝉の鳴き声が聞こえる。それを梢継が意識する頃合いに、彼女は口を開いた。虎の牙が、見えた訳でも無かったが。
「さて、首を獲るなどと抜かす割りに、見た所、懐剣一つも呑んでいないようだが?」
戯れ言を無視して、梢継は要求を口にする。
「――執権の座を寄越せ、局」
現時点で、六孫王府の宰相位である執権の座は、方丈本家・方丈幹時が付いている。梢継は警察組織にあたる侍所の長官である別当で、地位としては下になる。ただし、常備軍の奉公衆の支持を背景に、実質執権以上の発言権を持ってはいる。執権に次ぐ位である連署の地位に就いている者も、梢継の息がかかっていた。
内政に限っては、その理屈が通用する。
「幹時は、良い子だ」
はぐらかすように言った芙蓉局の口を封じるように、梢継は告げた。
「貴様は余程紫垣城の貴族の不信を買っている。その傀儡が頭では、九重府との交渉もできん」
「……その台詞、外にいる貴様の部下に聞かせてやりたいな」
「この場を活用するのは貴様だけの特権ではあるまい」
連子窓の向こうを眺める芙蓉局に、皮肉めかした言葉で梢継は応じる。実際、梢継派とも言うべき集団に致命的な亀裂を与える情報を彼は漏らしたのだ。表向き彼は、九重府との紛争に強硬派としての姿勢を見せる事で支持を得ている。
「戦費、兵站の問題もあるが――何より、勝てる訳が無い。大粛正の権限は奴らが保持しているのだ。いつでも盤面を引っ繰り返す事ができる」
「……恭順するつもりか? 六孫王府五千騎は、一人として納得すまい」
「俺を馬鹿だと言いたいのか? ――まずは浮島を増設する」
「二十年も昔に凍結された計画だぞ?」
「九重府の動揺を恐れて。なにより資材不足ゆえにな。今は、あの時に切れなかった札がある。――武州乱で入り込んだ厄介者の捌け口を用意してやると言えば、奴らも聞かざるを得ん。資材も、奴らの不可知領域から供出させる。九年前の失態をここで挽回するのだ」
「武州乱、ね」
「便法だ。俺とて本庄左近の叛心など信じておらぬ」
武州の最西端、本庄領の領主に反意ありとして九重府が挙兵したのは九年前。武神・蠱部尚武の指揮した官軍は、たった一週間で武州各地の抵抗を鎮圧し、領主・本庄左近を討ち果たした。
その後本庄領はパージされ、武州の他の領地は民衆の認識から排除された。この不可知領域では、三十六人衆の手で工業生産体制が構築されており、八百八町に物資を供給している。
至極、唐突に始まり、速やかに集結した事件だった。六孫王府は介入する暇も無く、武州での利権を失い、生産力において九重府と大きな格差を付けられた形になる。
「……だが、経済上の理由とも考えられん。たとえ武州を丸ごと手に入れたとしても、余りに割に合わん。この千年の衰退は、つまりはあのいかにも扱い易そうに見える機械仕掛けの神(デウス・エクス・マキナ)の為ではないか。それを奴らも悟っていたはずだ」
梢継の言葉は、八洲国以来の仮想世界史を知る立場の人間であればごく常識的な意見だった。
戦乱の混迷が猖獗(しょうけつ)を極めると、九重府は大粛正を決意する。その際必然的に亡命、難民が多発する。
特に問題となるのが前者にあたる、貴族や武士などの特権階級であった。彼らの大部分は、当然の如く己が国を売る前に持ち得ていた栄華の保全を要求する。
九重府、六孫王府双方共に、幾ばくかの妥協を求めても最終的には彼らを受け入れざるを得ない。彼らが第三勢力として糾合、蜂起すれば、更に混乱は加速する為だ。
そして、その譲歩があっても何もかもが上手く行くわけでもない。増えすぎた特権階級を養う為に国庫は悲鳴を上げ、既存の勢力と亡命者らの間に軋轢が生まれる。粛正(本来の、政治的修辞である所の)の嵐を前に、足場の弱いものから弾き出されていく。浪人となって巷に溢れた下級武士が治安を悪化させ、暴力の価値は絶え間なく高騰を続けている。いずれ、この狭すぎる箱庭ですら割った因業な二つの体制も含めて、何もかもを焼き尽くすまでそれは続いていくだろう。
切り札を独占している立場の九重府の中で、武闘派の連中ですらその手札を切る事を主張するのがまれである理由だ。
「何にせよ、これ以上あのようなものに頼れば、舞台そのものが御破算になる。――既に、歯止めを掛ける頃合いなのだ」
断ち割るように、梢継は告げた。
「大地を継ぎ足す。それ以外に衰退を止める方法は無い。海上に浮島を造り、その上に産業を構築する。武士は、妖魅に対する洋上の防衛力として機能させる。より大きな外敵(エサ)を与えている以上、下の兵共は内に目が向かぬようになる。上の、よからぬ事を企むような暇を持て余した連中には、浮島の利権を分配してやれば良い。九重府の貴族どもも含めてな。いずれ、この経済圏なる構造から誰もが抜け出せなくなるまで」
一言一句を切り取り、相手に押しつけるかのように構想を明かす。
返ってきたのは、
――くすり。
嘲笑であった。
「かくして王子様とお姫様は幸せに暮らしました、ぱちぱちぱち……と。うぶな田舎娘しか口説けぬ絵空事よな」
梢継があからさまな侮蔑に鼻白んでいる間にも、芙蓉局は続ける。
「松平の小倅や取り巻きの老中共辺りなら、耳を傾けもするだろうがな。星の位(高級貴族)ども、とりわけ摂家の中枢を占めている連中は、己が失ったと信じているものを全て取り返すまで戦うつもりでいるよ」
身体が白色で構成された女は、目の色だけが違っていた。暗く濁った池を見続け、その色を写し撮ったような色彩。
「下賤の内に産まれた憑物こそ、全ての負債の〝みなもと〟なのだと。神に見離されたのもその為だと。世界を平(たいら)かにすれば、主は再び来ませり、と」
――六孫王府でキリスト教禁止令が発布されたのは、十二次大粛正の直後。主君の上位に神を置く武士が増える事を恐れた為だが、紫垣城の貴族の間ではそのまま受け入れられ、少なくない信徒を得たと聞く。
「……精神まで現実の近代以前に戻したとでも言うのか。まじないや祈祷を現実の国家運営に持ち込むなど、狂気としか言えん」
くすり、くすり、と二つ。芙蓉局はややもすれば少女とも見紛う無邪気で、残忍な微笑を浮かべた。
「ここも、似たり寄ったりではないか。悪果の全てを敵に押しつけ、ぼろを出し始めた屋台骨をまじないと祈祷で粉飾する……極めつけは、あの醜悪な〝斎(とき)の儀〟よ」
「……だが、あれは事実効果があったではないか。俺とてはじめは信じてなどいなかったが、娘を喰らい損ねた大樹公が、あそこまで、」
「効用が実証されたとしても、その本質には全く影響が無い。それがオカルティズムというものだ。人はそれの産む幻想にのみ価値を見出す」
「それは、人の悪性だ」
「青二才が。貴様が先程ほざいた絵図面も、未来という幻想だ。何ら区別が存在せぬ。誰の心根も、大半を占めるものはそれだ。心の本質がそれだからだ。この一時、この肉体の外側を自我によって定める能、これが強大であったが故に脆弱な人間が万物の霊長たり得たのだ。人は幻想を根拠に現(うつつ)の行動を規定する。人の集まりである所の国家もまた、幻想によって運用される」
そして、芙蓉局はちくりと、陰茎を畳針で軽く突くような声音で言った。
「現に貴様は、幻想を大いに活用しているではないか」
「……未那元元羅か」
敬意のひとかけらすら排除した声音で、梢継はうめいた。忌むべき名だった。
芙蓉局の言う所の幻想を剥いでみれば――百年余の昔に王座に就いた未那元元羅は、暴君としか言いようのない存在だった。この男は、自身の持ちうる権威・権力の全てを、人に倍する虚無感、あるいは暴力の嗜好を満たす事に傾けた。
この不還庵は、その象徴とも言える。
――本来は、殿中全てに刃傷沙汰を禁ずる法度が出されるはずだったのだ。
それが、未那元元羅の先回りにより、このあまりに狭い庵に限定された。家中の紛糾を装った謀殺が横行する事になり、重臣が武闘派で占められるようになると、元羅は九重府との紛争に乗り出した。
その後も、あえて戦乱を長引かせる意図があったとしか思えない行動を取っている。――当時の王弟の指揮により彼を弑逆(しいぎゃく)せねば、十三次大粛正は本庄領でなく深川で起こっていたはずだ。
何も知らぬ幸せなものたちは、それまで腰の引けていた六孫王府に再び武威を取り戻した神君として、この男を讃えている。
「だからこそ、だ。あの暗君の為にもつれた混沌を解かねばならん。その為ならば奴の権威だろうが、使えるものは使わせて貰う」
「幻想を支配できると抜かすか? 梢継」
「必要とあらば、その通りだ。紫垣城の貴族もそうだ。邪魔ならば排除する」
「御自慢の乱破(しのび)を使うか?」
「まさか。――松平宗翅らにクーデターを起こさせる。元より、貴族の肥え太った身体を支える事に不満を覚えている連中だ。談合は可能だろう」
「貴様の言っている事は、かつてのどこかの誰ぞが企んで失敗した事ばかりだが?」
人の悪そうに囁いてくる女に、突き放すように梢継は告げた。
「要は、力だろうが。俺に不足があったならば、どこぞで屍を晒すのみだ。――どこかの誰ぞのように、世を恨みつつ永らえるような醜態を晒すつもりは無い」
「貴様に従うものどもは、その自儘に付き合わされるわけか」
「知った事ではない。俺に張り駒した以上は、負け分もその連中の責任だ」
これで腹案は全て明かしたと、梢継は茶碗を芙蓉局の元に突き返した。彼女はしばし考え込む素振りを見せて、
「……まぁ、及第点ではある。全て舞台裏で始末がつく以上、何もかもが裏目に出ても大損するのは貴様の側だけだ」
彼女なりの表現で、梢継の構想を認め、執権位を譲渡する事を承諾した。
そして直後、しかし――と差し出された茶碗を指先で撫でる。梢継の唇が触れた箇所をなぞり、
「私の首を獲る、と言った以上、宰相の椅子を貴様に移した程度でその腹は膨れまい」
「その通り」
「御寝所番か」
「そうだ」
内心の緊張を隠すように凝然と女を睨み据えて、梢継は言った。
御寝所番。
元は大奥、つまり後宮に近侍する奥女中を監査する組織であった。内外より流入する女たちの経歴を洗い、君主に害を及ぼさぬよう計らう。
芙蓉局が手を加えてより、それは全く別種の存在となった。
王の寵愛から漏れた女たちは、いずれは後宮から離れ、別個の嫁ぎ先を用意される。彼女らは豪商、武家などの社会的地位の高い男どもにとって望ましい存在だった。家柄が保証されており、あらゆる礼式作法に通じている為公事の補佐も十二分にこなす。――もちろん、下世話な意味での作法までも熟知している事も彼らの要求に適っていた。
女たちは御寝所番により密偵として教育されており、男から得た情報は芙蓉局の手に渡っていく。芙蓉局は夫の存命中既にこの組織を自家薬籠中のものとしており、得た情報を元に六孫王府を己の思い通りに動かしてきた。敵対者の醜聞を流し失脚させ、味方を引き立てる事で更に自分に依存させる。梢継が元服した頃には、方丈本家は彼女によって骨抜きにされていた。
要は、この政治的怪物の抱える私的な間諜が御寝所番であり、彼女の命脈そのものである。
喉元に刃を――本物の白刃よりも危うい言葉を突きつけられ、しかし芙蓉はそれを愉(たの)しむように目を細めた。
「梅軒(ばいけん)は、貴様には馴れんよ」
「そこまでは期待しておらん。……奴の場合は本物の首を貰うぞ、局。男を捨ててまで貴様への忠義を示した者だ。野に下れば俺の首を狙いかねん。他の連中は見逃してやる」
「そして、醜聞書きは己の懐に収める、か?」
「悪銭も銭には違いない」
冗談めかしながらも、それに楽しみを欠片も覚えず梢継は言った。
「だが、後宮政治めいた真似ももう終わりだ。いい加減尼にでもなって、覚樹公の菩提を弔って暮らせ」
「今更……仏とて私にそっぽを向いておるだろうよ」
あくまでものらりくらりとした口調で、芙蓉局は要求を断った。当然、聞き入れられるなどと思ってはいなかったが。
とは言え、押し通さねばならない事だった。むしろ執権位などどうでも良く、この女の手足をもぐ事が会談の目的なのだから。
「この場で事を収めねば、俺は貴様の命を獲るしか無い。既に大勢は決していると分からぬ訳でもあるまい。貧弱な方丈本家と、寝床で股を開くのが得意の忍に何ができる?」
「さてな……ただ、何もかもを当然の如き顔をして持っていくような男に、好きにさせたくもないものだ」
「戯(ざ)れるな……!」
茶室の静寂を破るように、梢継は恫喝する。
「……貴様は、老いたのだ。たとえ、見目がどうあっても。ここ数年の失態、かつての西王母・芙蓉局であれば考えられぬ事だった」
どうした訳か、その事実を突きつける事なく済ませておきたい、という気分が梢継にはあった。威を誇った虎が、病んだ雌狐として扱われるのは、耐え難いものがあった。
(いっそ、殺してしまえば良いのではないか? この女も、それを望むのかも知れない)
――何やら頑是無い感傷を弄んでいる事に気付いた梢継は、軽く手を振り気を反らしてから、別の言葉を吐いた。
「旧弊は、取り払われねばならん。今は、進歩する時機なのだ」
芙蓉局は、再び連子窓の向こうに顔を逸らした。網目に切り取られた陽光は白く、その中に人工の庭園、その緑が埋まっている。
「梢継よ、進歩とはなんだ?」
「?」
「我らはデータベースより、過去の体制の変化を知っている。獣と変わらぬ群れであったヒトはやがて邑を作り、膨脹した邑は国となった。国家というシステムを運用する根拠はまず、神に求められた。神権政治だ。やがてそれは王という個人に移譲され、封建制となり、生産力の高まりと共に民が力をつけると、次は彼らに権力が渡っていく……当然の流れではある。技術と、それのもたらす利益は、増大していけばやがて寡頭制の限界を超える。人が増える、ものが増える、人とものの間を取り持つ為に効率的な装置、つまり貨幣が生まれる。増大に合わせて世界が変化していく……」
この女にしては珍しく、寝言のようにとりとめなく言葉を浮かべる。梢継には、彼女が何を言っているのか計りかねた。
「だが、増大とは進歩か?」
「……当然、そうだ」
「本当に? 私には、人は常に増大と等量の歪みも生んできたように見える。全てに帳尻を合わせるかのように。その象徴が、この醜悪な箱庭だろうが? 思考する機械をかりそめの国に押し込めて遊ばせるなど、ある時点の人では考えもしなかった事だ。どこの誰が何の為にこのような無体を考えついたのかは知らんが、私は憎悪せずにはいられんよ。いや、憐憫かも知れないが。
どうして、貴様らは、そんなにも歪んでしまったのか……」
芙蓉局の美しい横顔には、何ら変化が無い。ただ、きし、と静寂の中に奥歯を噛みしめる音が聞こえた。
「……下らん。あまりに下らん」
梢継は、吐き捨てるように面罵した。
「立ち止り、世を嘆いていれば何かが手に入るのか? 俺は力を掴み取った。そして、更に手に入れてみせる。思うままに生きる事が俺の全てだ。そのような世迷言、考慮に値せん」
傲然と立ち、そしてか弱くなってしまった女に背を向ける。
「大殯が終れば、貴様の首を獲りに行く。その白首、存分に清めておくがいい」
その言葉が比喩でない事は、言うまでも無い事だった。付け足す言葉も無く茶室の躙り口まで歩み行く。
背中に、涼やかな声がかかった。
「貴様は、好(い)い男になったよ」
梢継は振り向きもしなかったが、彼女は構わず続ける。
「覚えているか? 方丈の……あの頃は、幹崇(みきたか)の上屋敷だった」
「止せ……昔話など」
元服する以前、十にもならぬ頃に梢継は本庄本家の奉公に出ていた。その時に芙蓉局と一度遭っている。
他愛もない末流の分家筋の跡継ぎに過ぎなかった彼は、そこで恨みと敵愾心について存分に薫陶を受けた。何事にも扱い所を見出す彼は、決して受けた教育を無駄にせず、返礼も怠らなかったが。――当時の本家嫡男とその取り巻きは、墓穴で恨みを骨身に浸みさせている。
(……腹が、空いていた)
雑務に駆け回り、日は中天にあった。朝食も取らせて貰えてはいなかった。
方丈本家の庭先で、太陽が真上に昇った空を見上げれば、熟れた夏柑が成っていた。もちろん梢継はそちらに注目した。
地上には、気が向かなかった。
――取って欲しいか?
女の美貌はその頃と変わらなかった。変化があったのは梢継の目利きだ。年若い彼は、女の顔が輝いているようにすら見えて直視も出来なかった。慌てて平伏して、薄汚れた着物を更に汚しただけだった。
――ご、御無礼を致しました。
――よい。それで? あれを取って欲しいか?
このような、内に持つ傲慢さをさらすが如き言葉を、芙蓉局は滅多に使わない。おそらくは方丈本家の当主を籠絡する為におとなった彼女は、それらしい甘い仮面を被っていたはずだ。子供と侮っていたのか。
あるいは、何かに嫌気が差していたのか。
梢継はそれに、こう応じた。
――いいえ。取って欲しくはありません。
当時受けていた教育の程度から考えても、無礼で、率直な言葉だったように思う。しかしなぜか、正直に答える事を彼女が求めていたように感じていたのだ。
――なぜだ?
当然の疑問であった。最も近い位置に実る果実であっても、梢継の手には届かない。何か知恵を絞る必要があった。おそらくは客人である彼女が取るなら、人の失態には猛禽のように目敏い本家の連中をごまかす必要も無い。
彼女に頼れば簡単だったはずだ。餓えた子供だ、そうしていて別段間違いなどない。
しかし、梢継は答えた。
――今この時に知恵を使えば、あなた様がおらぬ時でも夏柑が取れます。
――それに、
――己が腕で取るのだから、旨いのであると思います。
そうか、とだけ呟き、それきり芙蓉局は立ち去ってしまったので、平伏したままの梢継には彼女がどういった顔をしていたか分からない。去り際に何かを言っていたようにも思うが、遠すぎて聞き取れなかった。
他愛のない、昔話だ。
「……貴様は、」
芙蓉局は、海中から水面に泡を浮かべるような自然さで言った。
「取ったものに、実感を覚えているか? 虚無に囚われていないか?」
――思わず立ち止り、振り返ってしまいそうになった。
「……御免」
躙り口の戸を開き、梢継は庭先に出て行く。薄暗い茶室の外に出てみれば、ひどく晴れ晴れしい、胸の内の暗さを浮き彫りにするような木漏れ日が降り注いでくる。
勝者は己のはずだ。十分ではないが奪い取ったものがあり、そして失ったものは一つも無い。
(それがなぜ……敗北したような気分ではないか? これは)
梢継が権力を志向したのは、それが自分の手の内には無かったからだ。味わった事の無い夏柑をもぎ取るように、餓えと好奇心を根拠にあれから三十年近くを走り続けていた。
夢見るほど求めた権力の中枢に辿り着いたその時に、世界の真実を知った。
それからは何を食らっても、砂を噛むような無味乾燥としたものばかりが、胸の内に落ちてくる。
あの時、芙蓉局に聞いてしまいそうになった。あまりにも軟弱な、唾棄(だき)すべき問いかけを。
――貴様は、どうしてそれに、今まで耐えてこれられたのだ。
連子窓から降り注ぐ光の中で、芙蓉局は方丈梢継が立ち去った影を見つめている。
「……さて、この盤、いかがするものか」
侍従が来るまでに、どうにか動く頭のみを働かせていた。萎えた足では、梢継がしたように立つ事は出来ない。
――貴様は、老いたのだ。
言われるまでもない。引け時である事も、あの男以上に悟っている。
とはいえ、だがしかし。
「この老醜に満ちた媼(おうな)が、舞台に未練を持たぬわけがあるまいよ、若造」