壁内中が大混乱であった。
人間のような手足が生えた巨人面魚が、次々と壁を乗り越えて壁内に侵入してくる。その様子はまさにあの日、シガンシナ区で超大型巨人が壁から顔を覗かせた瞬間にも匹敵する恐怖だが、その時とは少し具合が違う。
シガンシナ区で起こったあの事件と決定的に違う事はただ一つ。巨人面魚どもはトロスト区はおろか、ウォールローゼの壁まで乗り越えて侵入してきているということだ。
「護衛班急げ!! 逃げ遅れた民間人がまだ多数居るんだ!!」
「絶対にウォールシーナには近づかせるな!! 何としてでもローゼの壁付近で足止めしろ!!」
「ダメです数が多すぎてとても間に合いません!!」
「調査兵団の応援はまだか!?」
「現在早馬で要請を行っております!!」
混乱を極めるトロスト区の駐屯兵団基地で、真っ青な顔をしたキッツ・ヴェールマン隊長は片手で額を抑えた。
「くそっ。何故こんな時に限って巨人面魚どもが押し寄せて来る!? これまでは陸上活動すら出来なかっただろうが!? まさか、あのワケの解らん人魚どもの差し金なのか!?」
彼にとっては怯えと苛立ち紛れに放っただけの言葉だったのかもしれない。が、傍で聞いていた制服姿のリコ・プレツェンスカ、イアン・ディートリッヒの両名は、その暴言に自分たちよりも身分が上であろうキッツを強く睨みつけて反論した。
「恐れながら隊長。そのような事は二度と仰らないようお願いします。人魚たちは人類の良き隣人です。敵ならば何故我々に食糧を分け与え、孤独だった人類に手を差し伸べてくれたのでしょうか? 解っておられましょうが、彼女たちが居なければ私たちは今も海の只中で途方に暮れるしか無かったのですよ? そのことに関してはご理解頂けておりますか?」
「隊長。俺とミタビ班長は先ほど壁の上から帰還する際、一人の人魚に救われました。そして我々を救ってくれた人魚は今も何とか巨人面魚を食い止めようと海で戦ってくれているんですよ!? 自分たちは全然関係ないのにも関わらずです。そんな彼女たちが、何故敵だと言えるのですか!?」
一人には冷静に、一人には熱く諭されたキッツはぐっ、と言葉を詰まらせるが、すぐに青い顔を赤く変化させて怒鳴りつけるように命令する。
「そ、それぐらい私にも解っておるわ!! 貴様らこんなところで何をボサボサしている!! さっさと巨人面魚を食い止めに行くぞ!!」
『了解!!』
☆ ☆ ☆
巨人面魚が海から這い上がって来た時間。
キース・シャーディスはハーピーとイエティを連れてトロスト区でのんびりと爺と孫ごっこを楽しんでいた。
魚市場の屋台を巡り、子供釣り堀で小魚を釣り、笹かまを食べながらゆったりと観光をしていた時、突如として人々の悲鳴が響き渡り継いで海側の壁から人波が押し寄せてきた。
何事かと思って様子を窺っていると逃げ惑う人々の背後からのっそりと現れたのは、気色悪い巨大人面魚の姿だった。おそらく七メートルはあるであろう巨体を揺らし、全体的に魚なのに何故かそこだけが人間の四肢を持っている。時々、大きな尾びれを振って魚市場のテントをなぎ倒す様は正しく化け物と呼ぶにふさわしい。
「何故ここに巨人面魚が……!?」
身を戦慄かせるキースだが、隣に居たイエティは無表情に見上げるに留まりハーピーはノーテンキに囀った。
「でっけーお魚さん!! マズそー! マズそー!」
「ほんとだ。大きい。人魚さんとは違うんだね」
「ハーピー、イエティ。逃げるぞ!!」
暢気に巨人面魚を眺めている二人を両腕に抱えて駆けだしたキースは、もちろん立体起動や超硬質ブレードなんて物は装備していなかった。
幼子とは言え、二人を抱えて逃げるのは老体には少々厳しいものがある。息を切らせてウォールローゼの扉まで引き返そうとしたが、道の真ん中には既に巨人面魚がのっそりと現れ、体を揺らして道を塞ぐ。見れば、あちらこちらから巨人面魚が大挙して押し寄せて来ていてもう道を選んでいる余裕はなさそうだ。
「クソッ、こっちにもか」
とにかく巨人面魚と鉢合わせにならないように老体に鞭を打って走り回り、一か八かで小路に入り込んでみたが、それが運の尽きだった。
「三メートル級……!!」
袋小路に突き当たり、戻ろうとすると三メートル級の巨人面魚がワニのように道を塞いでいた。目線が低い分普通の巨人より威圧感は少ないが、それでも十分に恐ろしい。
(万事休すか……)
「ジジ! どした!?」
「おじいさん、どうしたの?」
冷や汗を垂らしたキースは、腕の中で心配そうに自分を見上げるハーピーとイエティを最後にぎゅっと抱きしめる。
「ハーピー、イエティを連れて空に逃げなさい。ヒマラヤに帰ってしばらくここに来たらいかんぞ」
「ジジは?」
「護身用のナイフは持っている。倒す事は出来んかもしれないが、私はここで何とか頑張ろう。だから、イエティを頼んだぞ?」
言い聞かせるように二人の頭を撫で、そしてハーピーを空に放つ。が、幼女の姿をした鳥は空中に留まったまま、一向にイエティを連れて行こうとしない。
「どうしたハーピー!?」
しばしキースと巨人面魚を見比べたハーピーは、しかし自信満々に囀った。
「ジジ、でっけーお魚ジャマ!! ハーピー、まずそーなお魚イヤ!! オッケオッケ!! ハーピーさんおまかせ!!」
「何がお任せなんだ!?」
そして一人でするーりと空へ飛び上がるハーピーはパッと両手と羽を大きく広げた。
「ハーピー! ジモッティ、呼ぶ! 兄弟イッパイ呼ぶ! イコール、グローバリゼーション!!」
「何が何だか解らんぞハーピー!!」
キースの呼びかけにも振り返らず、猛スピードで空へ飛んで行くハーピー。あっという間に豆粒のようになった鳥幼女を見送って、ふと「そういえば巨人面魚はどうなった!?」と振り返ると、三メートル級の巨人面魚はイエティが鋭い爪で跡形も無く挽肉にした後だった。
急所のうなじも粉微塵にされ、煙を上げて消滅する巨人面魚を尻目にイエティはあどけない表情をキースに向ける。
「おじいさん、どこかに刀とか無いかな? 大きいのを捌くのはちょっと疲れるから」
☆ ☆ ☆
「こらー!! きさんら魚類の癖に何陸に行こうとしとるんか!! 魚類なら魚類らしく海におれっちゅーに!! むむむ……スパイラルスピンカッター!!!」
次々と海から壁に向かって何千、何百と行列を作る巨人面魚を一匹一匹海に連れ戻すのがめんどくさくなったむろみさんは、巨人面魚のうなじを腕のヒレで次々とぶった切って行く。
「あっちぃあっちぃ!!」
しかし、巨人面魚が死ぬ際に上げる熱は、むろみさんたち魚類の肌には熱すぎた。
「やめときむろみ。こんだけおったらもうワイらだけの手に追えんわ」
「せやせや! わいら十分足止めしとるで!! もう無理や!」
「うぅー。クジラさんを乗り上げて行っちゃいかんとー!! ここの人間さん良い人たちやけん、巨人面魚さんも仲良くせんとー!!」
海の中では、むろみさんだけでは無く、むろみさんに呼ばれて駆けつけた淡路さん達ハンターやひいちゃん、ひいちゃんに呼ばれたシャチやクジラも何とか巨人面魚を壁に登らせまいと苦戦していたが、いかんせん巨人面魚の数が多すぎる。
「こうなったらもう、リヴァイアさんを呼ぶしか無いんやないか!?」
淡路さんが投げやりにむろみさんに提案するが、むろみさんはあまり良い顔はしない。
最終兵器リヴァイアさん。かつて神々と共にムー大陸を滅ぼした際に、切り込み隊長を務めた程の実力を持つ地球最強の伝説の海竜。
その実力たるや軽い気持ちで世界を灰に出来るほどなのだが、いかんせんうっかりした部分が多いのだ。例えば、花火で大興奮して地獄の業火(ヘルファイア)を空に打ち上げようとしたり、酔っぱらって『ウチは土竜になるっちゃー』と言いながらマントルまで穴を掘り進めようとする等々……。
もしこの近辺でやらかした場合、うっかり放った熱線ブレスで壁を壊す可能性は極大なのだが、それでもこの巨人面魚の量を捌けるのはきっともうリヴァイアさんしかいないだろう。
「むむむ……あんまおススメ出来んけど……もうしょんのなかね」
覚悟を決めたむろみさんはケータイを取り出すと、リヴァイアさんに電話をかけた。すぐに繋がった。
「あ、もしもし? リヴァイアさん? 今どこにおるん?」
『もっしーむろみ? 久しぶりっちゃねー♪ 今? 今はとある岩島におるっちゃ』
電話口からゆるーい小倉弁が聞こえてくるが、その声は間違いなくリヴァイアさんだ。
「悪いけど、ちょっとこっち来てもらえると? 今、大変な事になってるけん」
『んー。実を言うとこっちもちょーっと色々あるちゃ。悪いけどむろみ、先にこっち来てもらえん?』
「えー!? こっちも手が離せんっちゃけど!?」
『大丈夫大丈夫。壁の国から近いけん、ちょっと飛ばせばすぐ来れる場所っちゃ』
「え、リヴァイアさん壁のこと知っとるん!?」
『そげな大きか壁あったら誰でもすぐ解るっちゃー。ともかく重大なことっちゃけん。一端こっち来て欲しいちゃ。それじゃ、待ってるっちゃ♪』
「えっ!? ちょっとリヴァイアさん!?」
プツッ、と通信が切れた直後、むろみさんの頭の中に直接地図が送り込まれてくる。間違いなくリヴァイアさんの思念波だ。
「場所は……あー……確かにここから近いとね。仕方ない……。皆!! ここは任せた!! ちょっとリヴァイアさんに呼ばれたけん行ってくると!」
「え、おいマジかよむろみ!?」
言うが早いか、むろみさんは他の人魚にその場を任せると巨人面魚の間をかいくぐり猛スピードのバタフライで壁を後にするのだった。
☆ ☆ ☆
調査兵団本部
「急げー!! 今度の巨人は壁を登るぞ!! 絶対に深入りはさせるな!!」
「早く馬を連れてくるんだ!! 何!? 宣伝用の装飾? そんなもんさっさと外せ!!」
「時間が足りない!! 一秒でも早く壁に向かうんだ!!」
「急げ急げ!! 絶対シーナに近づけさせるなよ!!」
駐屯兵団基地と同じく、文字通り混迷を極める調査兵団本部は怒号と焦燥で溢れていた。その中で、廊下を急ぎ足に歩くリヴァイ兵士長の後にくっつく一人の少年の姿。
「リヴァイ兵長!! 俺も行きます。行かせてください!!」
「ダメだ」
「どうしてですか!?」
「どうしてもだ」
「納得がいきません!!」
そこで、リヴァイはため息をついて振り向いた。
「それは、テメェが死んだらそれだけで兵団の大損害だからだ。エレン・イェーガー」
リヴァイの後をくっついて歩いていた少年、それは調査兵団アイドル部隊シガン☆しなの大人気アイドル、エレン・イェーガー本人だ。
巨人面魚の侵攻を聞いた途端、エレンはすぐにリハーサルの舞台を駆け降りてウォールローゼ攻防戦の応援へ向かおうとする調査兵団に交じったのだ。
「確かにアイドルしてましたけど、それでも俺だって調査兵団の端くれです!!」
「それでもだ。大体、テメェは何のために行く? 知ってるぞ。母親が巨人に食われたんだってな。巨人をぶっ殺してぇ気持ちは解る。だが、巨人への憎しみを晴らすために行くってんなら、テメェはただのお荷物だ」
普通の兵士ならチビるような目でギロリと睨む兵士長。だが、意外にもエレンはリヴァイの目をまっすぐに、力強い目で見返していた。
「確かに、俺達は訓練兵団を出てからずっと調査兵団では歌ったり踊ったりばっかりでした。それが仕事でしかたら、今更戦闘なんてって思うかもしれません。もちろん巨人も憎いです。全て駆逐したい気持ちも変わりません。でもリヴァイ兵長、俺が行きたい理由はそれだけじゃないんです!!」
「……何だ? 言ってみろ」
必死なエレンの言葉に、さしものリヴァイも仕方なく息をついて頭を掻くと、エレンは大きく息を吸う。
「目の前で自分たちのファンが食われかけてるってのに、それを助けないで何が壁内一のアイドルですか!? 何が歌って踊れる『兵士』ですか!? だから俺も行きたいんです! お願いします!! 手伝わせてください!! 俺も行かせてください!!」
そうして頭を下げるエレン。リヴァイは自分へ本気で頭を下げる少年の後頭部を見ながら少し考え、「おい、頭を上げろ」と声をかける。
「はいっ!」
ぱ、と頭を上げたエレンに投げつけられたのは、緑色のキノコだった。エレンが見たことも無い、謎のキノコ。それはいつかの日にむろみさんが持ってきた、あの人が復活するキノコだ。
実は、森に何本か生えていた物を川端君が見つけてきたのだ。キノコを渡されたエルヴィンは『戦闘で死なれたらどうしても困る人物』にのみ極秘でそれを渡していたのだった。
人類最強のリヴァイ兵士長は、もちろん『絶対に死なれたら困る人物』だったが、リヴァイ本人としては巨人相手に死ぬ気も死ぬ予定も死ぬ自信も全く無かった。だから、それを今にも死にそうな部下に渡したところでどうということは無い。
「それを食え。今すぐにだ。それが俺達についてくる最低条件だ。それからテメェは前線に出るな。民間人の誘導を優先しろ。エルヴィンには俺から言っておく」
「はいっ!!」
しばし呆然とキノコを持っていたエレンは、返事と共に手の中のキノコにかぶりついた。
☆ ☆ ☆
「ミカサ、本当に行っちゃうの?」
「えぇ。エレンが行くというのなら、私も行かなくちゃ」
心配そうなアルミンに、ミカサは優しく微笑んだ。
「大丈夫。私は強い。訓練兵団も、首席で卒業した。巨人にも負けない。だから、心配しなくても大丈夫」
ぐっ、と親指を上げたミカサは人が行き交い怒号が飛ぶ混迷極める外へと飛び出した。
「ま、待ってよミカサ!!」
突如として発生した大事件にエルヴィン団長からアイドル部隊に対する指示は『とりあえず待機命令』だったはずなのだが、何故かエレンが出陣する話はすぐに二人にも聞こえてきた。
もちろん一も二も無くこうしてミカサはエレンを追いかけて飛び出して、アルミンだけがこうして部屋に残されたのだった。
「畜生……また、僕だけ残されるのか?」
二人の後を追いかけなくては……と立ち上がり、怒号の飛び交う外へとそろりそろりと近づくも、あの日のシガンシナの混乱と恐怖を思い出すとどうしても足が竦む。
「嫌だ……二人のお荷物だけは、絶対に……絶対に嫌なのに!!」
舞台で、大勢の人間の前に立つのは平気なのに、どうしてこんな時にばかり足が震えるんだ。一度、壁を殴る。が、誰もアルミンを見ているものは居ない。
「おいお前ら!! 今は緊急事態だぞ!? 何しに来た!!」
アルミンが思わず顔を上げると、そこには見たことのある三人の少女が、怒鳴られつつも人波を掻き分けて調査兵団の本部へ入ってきているところであった。
「済みません! 済みません通してください!!」
「悪いね! ちょっと用事があるんだ!! 通してくんな!」
「済みません済みません本当に重要なんです!!」
「サシャ、ユミル、それとクリスタ!? 何でここに居るの!? 兵団決めてない訓練兵は皆召集かかったはずだろ!?」
はぁはぁと息を切らせる三人娘はアルミンの顔を認めると掴みかからんばかりの勢いで迫る。
「そんなのどうでも良いの!! お願いアルミン。調査兵団の厨房を貸して!?」
「ちょ、クリスタ。何で厨房なの!?」
「そ、それが……ぜぇ。とにかく女神のお菓子が人類の存亡にかかわるんですよ!!」
「アタシには解んねぇけど、とにかくそういう訳なんだよ! 訓練兵団じゃ食材が足りねぇんだ!! ここなら砂糖ぐらいあるだろ!?」
肩で息をするユミルとサシャがよく解らない事を言っている。
「何!? 全然解んないよ! とにかく落ち着いてよ三人とも!! 何? クリスタは何がしたいの!?」
捲し立てる三人の少女にこれでもかと気圧されるアルミンが迫るクリスタの両肩を掴み、その青い瞳を見据えて尋ねると、クリスタは懇願するように絶叫した。
「人類を救うため、これから妖精さんを大爆増させます!!」
あとがき
キッツは普段、むろみさんあたりに色々おちょくられていたりいなかったり……。