百五十年前の話である。
永遠の雪に晒される常冬の地に〝アインツベルン〟という錬金の大家はあった。
世に潜む数多の魔術師が他の魔術師の家と交わりながら脈々続いている中、アインツベルンは千年間――――十世紀もの間、純血を保ち外との交流を阻んだ一族である。
その一族がただの一度、他の家と交わった。
彼等は自らの悲願を叶える方法を見出すことはできたのだが、それを実行する術がなかったのである。
自分たちに術がないのならば、千年の純血を破っても余所へ術を求めるしかない。
アインツベルンはまず〝遠坂〟に声を掛けた。
失った〝法〟を取り戻す大儀礼には適した土地が必要である。けれど地上のあらゆる土地は〝魔術協会〟と〝聖堂教会〟に暴かれており、彼等の目を掻い潜ることは不可能といって良かった。
故に〝魔術〟という神秘から遠く離れた極東の島国、その霊地の管理者たる遠坂に目をつけたのである。
次に〝マキリ〟に声を掛けた。
アインツベルンと遠坂にはない〝呪い〟や〝契約〟が大儀礼のシステムには不可欠だった。
「――――始めよう」
かくして宝石翁の立会いのもと大聖杯は起動する。
アインツベルンは失った魔法を取り戻すために。
遠坂は大師父の与えた命題へと辿りつくために。
マキリはこの世全ての悪の根絶のために。
三人の賢者が集い起動された大聖杯、七人の魔術師と七人の英雄が集いし大儀礼を――――聖杯戦争と呼んだ。
そして現代の話である。
日本という国を〝政府〟ではなく〝幕府〟が統治していた頃から聖杯戦争は繰り返されてきた。
だが六十年の周期で過去二度に渡って開かれた聖杯戦争は、全て明確な〝勝者〟を一人として出す事なく、誰一人として己の悲願を叶えることなく終わった。
一度目は戦いにすらならなかった。二度目は戦いの果てに全てが死んだ。
そして三度目の戦い、聖杯は奇しくも世界に二度目となる大戦が起こる前夜に幕を開けた。
常冬のアインツベルン城にてある儀式が行われようとしている。
六十年前に聖杯戦争における魔術師の剣たる〝英霊〟が降り立った儀式場では、六十年前と同じく荘厳にして神秘的な雰囲気が立ち込めていた。
アインツベルンに仕えしホムンクルスの侍従たちはみな畏まった表情で来たるべき刻を待っていた。
「いよいよだな。六十年前に果たせなかった悲願を、百二十年前に届かなかった悲願を――――成就させる時がきたのだ」
玉座にて白髪の大魔術師が謳いあげた。
アハト翁、アインツベルン八代目の頭首であり、第二次聖杯戦争を知る数少ない人物である。この儀式場に集った全てのホムンクルスの製作者であり父である彼は、アインツベルンという家における創造主、神と呼んですら差し支えないだろう。
絶大な自信と覇気に頬を緩ませながら、アハト翁は自身の『最高傑作』に視線を向けた。
「はい。私はその為に生まれたのですから。粉骨砕身の決意をもって、聖杯と失われた第三法をアインツベルンへと帰します」
アハト翁の側に控えた銀髪の女性は粛々と答えた。
背負った責任の重さからか若干その表情には影があるが、それでも貴族としての気品と水仙の如き純白の美しさは欠片も色褪せることがない。いやその影が彼女の神秘的な佇まいをより際立たせてすらいた。
アハト翁は銀髪の女性の返答に満足げ頷く。
「うむ。必ずやアインツベルンの失った第三魔法、天の杯を取り戻すが良い」
第三法とは即ち第三魔法、あらゆる魔道の叡智が集まった魔術協会においてすら禁忌とされる秘中の神秘である。
魔術と魔法は字面こそ似ているが、その実体はまるで異なるものだ。
神秘の探究者たる魔術師は魔術によって火を起こすことができる。だが火を灯すという結果を成立させるなら、素直にマッチを使えばいいだけのこと。わざわざ魔術を使う必要性などなく、そちらに頼ったほうが効率的にも良い。
時代は進んだ。嘗ては鳥のように自由に空を飛ぶという現象は、人間には手の届かぬ奇跡であったが、人間は既に進歩した科学力をもって鳥よりも遥かに高い空を飛ぶことができる。いずれ人類は大気圏の外、宇宙にまでその手を伸ばすことだろう。万人が等しく扱える科学が溢れた現代において、大抵の神秘は科学によって再現できるものだ。
しかし〝魔法〟はそうではない。例えどれだけ時間を重ねようと、手を尽くそうと科学では再現することの叶わない神秘。それを魔法と呼び、それを担う者を〝魔法使い〟と呼ぶのだ。
神代の昔は火を起こすこと一つすら〝魔法〟であったが、人類の進歩と共に次々に魔法は魔術へと失墜し、世に残った魔法は五つのみである。
うち五つの魔法の第三席にある〝魂の物質化〟はまさしく人の手には叶わぬ神の御業と呼んでよいだろう。
第三魔法はアインツベルンが嘗て保有していたが失われてしまった。
聖杯戦争とは、アインツベルンにとって喪ったものを取り戻す手段なのである。
「アルラスフィールよ。お前であればアレを世に留めておくことも叶おう。アレが招かれる以上、我々の勝利は確定しているも同然だ」
魔術師とは真理を求めるもの。戦う者ではない。
しかし聖杯戦争とはその名が示す通り戦いであり、アインツベルンの魔術は些か以上に戦闘には不向きだった。
実際六十年前の戦いでは、参加したアインツベルンの魔術師がまるで戦闘に耐えられなかったために無様な敗北を喫している。
だからこその三度目。
アハト翁は考えうる限り最強のジョーカーを招きよせる決断をした。
聖杯戦争において己以外の六人の参加者など邪魔者に過ぎない。その六人の魔術師を悉く殺す為に、人々の尊敬を一身に集めた英霊ではなく、人を呪うことに特化した最大級の呪いを顕現させる。
ゾロアスター教における最大の敵対者。悪性の化身、この世全ての悪。
それこそがアインツベルンが招きよせようとしている悪神だった。
「けれど大丈夫なのでしょうか。聖杯戦争は〝英霊の座〟より英霊を招くもの。この世全ての悪など――――」
「その為のお前だ」
呼び出すのが英霊ではなく、世界全ての悪を背負いしアンリ・マユとなればその維持は困難を極めるだろう。いっそ不可能とすら言って良いかもしれない。
故に必勝を誓って生み出されたホムンクルスこそがアルラスフィール・フォン・アインツベルン。
平均的な魔術師が百人集まっても届かぬ魔術回路と特別性の令呪を有するホムンクルスである彼女であれば、最悪の悪神すら制御することが可能だろう。
「――――始めよう」
百五十年前に大聖杯の起動を唱えた賢者のように、アハト翁は両腕を羽ばたかせるように広げ宣言する。
儀式場全体から、中心にある水銀で描かれた魔法陣へ魔力が集約していった。
アルラスフィールはある種の諦観と覚悟をもって、魔法陣の前へと進み出る。
城の外は既に日が落ち、闇が空を満たしていた。
吹きすさぶ白雪すら黒く染め上げ、見ることを叶わなくさせる闇夜。アンリ・マユを手繰り寄せるには最高の厄日であろう。
アルラスフィールが聖杯戦争を共に勝ち抜くための、そして今回に限っては敵の魔術師を一方的に屠るためのサーヴァントを招くための呪文を唱え始める。
魔法陣を中心にエーテルが乱舞していった。
そして―――――
〝この世全ての悪が現世に降臨した〟
極東の島国、日本の更に地方。冬木市という霊地に聖杯を巡る闘争がある。
アインツベルン、遠坂、間桐の始まりの御三家が手を組み作り上げ、遂には降臨させた〝聖杯〟はしかし、各地の伝承で語られる聖人の血を受けた杯ではない。いっそ贋作とすら呼んでいいだろう。
けれどそのようなことは些末なこと。
元より参加者にとって聖杯の真贋などは大した問題ではない。重要なのは聖杯のあらゆる願いを叶えるという『万能の願望器』としての機能であり、冬木の聖杯が実際に願いを叶える力をもっている以上、それが偽物であるということなどは問題になりはしない。
そして聖杯に選ばれた魔術師はマスターとして〝令呪〟と呼ばれる聖痕を刻まれ、聖杯を巡る戦いに挑む機会と義務が課せられるという。
以上のことをダーニック・プレストーン・ユグドミレニアは丁寧に説明し終えた。
「なるほど。君の話は中々に興味深い内容だった。……聖杯戦争か。各地の聖遺物を集める中で噂には聞いていたんだが、君の口振りだと真実のようだね」
話を聞き終わった後、ロディウス・ファーレンブルクは落ち着いた仕草で、テーブルに置かれた紅茶を口に運んだ。
「日本にて行われる聖杯を巡る戦い、か。そういえば私が時計塔にいた頃だかにそんな話を聞いたような覚えがあったかな。いけないね。私があそこに居られたのは十年も前のことだ。記憶がはっきりしない」
ダーニックが話をしているロディウスはダーニックと同じく『根源』と呼ばれる真理を探究する者、魔術師である。
だがロディウスは魔術師の中でも変わり種中の変わり種といえるだろう。
元々ロディウス・ファーレンブルクは時計塔で名を馳せた一流の魔術師だ。けれど十年前に魔術実験の失敗で何人かの一般人を犠牲にし、研究内容の一部が露見すると封印指定という、表社会でいう指名手配のようなものになり、時計塔から逃げ出した。
封印指定された魔術師は大抵が協会の追っ手から逃れるためどこかに隠れ潜むか、または領地へ引きこもり更なる高みを目指そうとするものなのだが、ロディウスのとった行動はそのどれとも違うものだった。
「…………」
ダーニックは視線をロディウスの腕へと向ける。そこには彼の所属を示す逆鉤十字(ハーケンクロイツ)の描かれた腕章があった。
ロディウスは祖国であるドイツへ戻ると、自らの魔術師としての技量をナチスへと売り込み、今ではこうして大佐という階級と世界中の聖遺物を収集・管理する責任者の地位を手に入れている。
ダーニックがロディウスと面会しているこの洒落な屋敷もロディウスの個人的なものだ。屋敷の規模を見ればロディウスがナチス内部においてどれほどの地位にいるか窺い知れるというものである。
国家に所属し、頭脳を費やす魔術師という意味においては、アーサー王伝説におけるマーリンなどといった宮廷魔術師などと共通するかもしれない。
「此度の聖杯戦争に参加すると目されている遠坂家の遠坂冥馬(とおさかくらま)、間桐家の間桐狩麻(まとうかるま)は共に時計塔でもそれなりの名声を得た魔術師です。恐らくはその縁で聞いたのでは?」
「ん、あぁ! 遠坂の方は知らないが間桐は知っているよ。あれだ、あのKIMONOとかいう服を着ているフロイラインだろう。うちのスパイの寄越した写真に写っていた扇情的な姿は良く覚えているとも。
私はあのキモノが気に入ってね。こうやって帯をくるくると回すやつがたまらなかった。よく死んでしまった妻に着物を着て貰うことをせがんだものだ。あはははははは、いや実に懐かしい」
「…………は、はぁ。私にはその趣味は分かりかねますが」
封印指定を受けるほどの魔術師とはつまり奇跡と称されるほどに魔術を高めた魔術師ということだ。
この中には純然たる能力以外にも『神秘は隠蔽するもの』という禁を破り、魔術を衆目に晒し過ぎた者もいるが、ロディウス・ファーレンブルクという魔術師は前者にあたる。
そして飛び抜けた魔術師というのはえてして非人間的な精神をもつものだが、ロディウスはやたらと俗っぽい。
ダーニックから見れば時計塔でロードと呼ばれた連中も外面だけ取り繕った俗物ばかりだが、このロディウスに至っては取り繕うことすらせずオープンに俗物だった。
「奥方を亡くされたのですか?」
何気なしにダーニックが尋ねると、ロディウスは茶目っ気のある顔を解き、どこか過去を馳せるように遠い目をした。
「十年前にね。建設中のビルの瓦礫が落ちてきた事故だった。妻もそれなりの魔術師だったのだが、いやはや。突然の災害には魔術師も呆気ないものだ」
ロディウスの悲嘆は本物だった。
ダーニックの目が曇っているか、それともロディウスが稀代の大嘘吐きでもなければ、愛してもいない相手を想ってこんな顔はできない。
魔術師というのは個人ではなく〝家〟という群体だからか、他人には冷酷な一方で懐に入れてしまった者――――身内には寛容なところがある。
自らの魔術実験で幾人かを殺めたロディウスも、身内である妻には愛情をもっていたのだろう。
「そういう君は妻はあるのかい、ダーニック」
「――――いえ」
妻というフレーズに胸に突き刺さるものがあったが、ダーニックは億尾にも出さなかった。
「生憎と縁に恵まれず、未だ独り身のままです」
「例の噂が尾を引いているのかな?」
「……どうやら、その口振りだと知っておられるようで」
「私のもとに魔術師が尋ねてきたと思ったら聖杯などと言い出したのだ。私とて君の身元調査くらいはさせるとも。私も他人に無能と後ろ指刺されたくはないからね。
不愉快だと君は感じるかもしれないが、私も時計塔を追い出された魔術師として同情しよう。あんな根も葉もない噂をロードまでが信じ込むとは、時計塔も思った以上に駄目駄目だ」
「それは同意します」
ダーニックにとっても忘れられるはずがない屈辱的な記憶。
忌々しい過去は、目を瞑れば今でも鮮明に思い返すことができた。
丁度ロディウスが時計塔から逃げ出したのと入れ違いあたりだろう。ダーニックは新進気鋭の天才として時計塔に華々しいデビューを飾った。
あの頃のダーニックは正に絶頂期であり、時計塔の多くの貴族たちに縁談を持ち込まれるほどだった。
しかし一人の魔術師の零したたった一つのデマが全てを狂わせた。
『ユグドミレニアの血は濁っている。五代先まで保つことがなく、後は零落するだけだ』
根拠などなにもないダーニックの才能を妬んだものが流した噂話。本来であれば飛び交う数多の噂話に埋もれるだけでしかない誹謗。
だがダーニックにとっては不幸なことに、その噂は時計塔中に広まってしまった。
時計塔の魔術師は名を重んじる存在である。そしてそれ以上に〝血〟を重んじる。
魔術という本来人間にない機能を極めるには、代を重ね魔術師としての血を濃くすることで、後継者をより魔術を使うに適した人間としなければならない。魔術師の貴族の縁談というのは自らの権威を高める以外に、純粋に魔道の探究という事柄においても有効なのだ。
だからこそこの噂の蔓延はダーニックにとって致命的だったといえる。
どれだけ事実無根だ、とダーニックが叫ぼうと意味などなかった。
周囲は掌を返し彼を冷遇するようになり、彼と彼に続くユグドミレニアの魔術師達の未来は閉ざされたも同然だった。
「ですがファーレンブルク大佐、私に付き纏う噂を知りながらもこうして我が話を聞いて下さったこと。感謝のしようもありません」
心底からの喜びを顔に現して、ダーニックは会釈する。
ロディウスは肩を竦めながら苦笑する。
「なに。同じ時計塔に嫌な思い出をもつ者同士、シンパシーが芽生えただけだ。大体どれだけ君に対して良くない噂が飛び交おうと君という魔術師が変わるわけではないだろう。
我々ナチスが求めているのは優れた才能で、私が求めているのは君という魔術師だ。噂など関係はない」
さて、とロディウスが話を切り替える。
「――――君から説明された儀礼、聖杯戦争が面白いのは勝利者を決める方法だ。英霊の座から選ばれた七人の英雄を招き、七つのクラスに振り分け下僕として使役するなど。降霊を嗜んだ一介の魔術師として言わせて貰うが正気の沙汰ではないね」
「狂気の沙汰を正気にするのが聖杯です。信じられないのも無理はないことですが、過去二度に渡る戦いで実際に七人の英霊は召喚されています」
人の身で人に余るほど偉業を成し遂げた人間。彼等は死後、常人とは違い〝英霊の座〟というこの世の摂理の外にある場所に招かれる。
聖杯戦争が最も目につくところがこれだ。
死後〝英霊〟となった彼等は本来、この世に現存する四人の魔法使いですら御することの叶わぬ神秘の塊である。
そんな高次の存在をサーヴァントとして召喚させ、現界させるという奇跡こそ『聖杯』の力が本物であるなににも勝る証明といえた。
「ほほう。で、君の手に刻まれているのがサーヴァントを御する令呪だと?」
ダーニックは鷹揚に首を縦に振るった。
「サーヴァントに通常の魔術師が使役する使い魔の常識は当て嵌まらない。英霊となるほどのサーヴァントは等しく我等魔術師より強大な存在です。
そんな彼等を使役するための楔こそがマスター全員に三画与えられた令呪。三度のみの絶対命令権。私が掴んだ情報によれば、最初の聖杯戦争は令呪のシステムがなかったために、サーヴァントを御することができず有耶無耶のうちに終わったとか」
「好き好んで自分より格下の生命にかしずく英雄はいないだろうからね。うん、聞けば聞くほどに良く考え抜かれたシステムだ」
「マキリはロシア方面で活躍した使い魔の使役・契約を得意とする古い名家。遠坂は彼の第二魔法の使い手を大師父に頂く名門。アインツベルンに至っては言うまでもない。十世紀の歴史をもつ錬金の大家です。
彼等が考案し構築した聖杯戦争――――いえ聖杯というシステムは神代の儀礼にすら匹敵する。聖杯を手に入れることができれば必ずやナチスと偉大なる総統閣下に千年の繁栄が約束されることでしょう」
「ダーニック、気になるじゃないか」
「なにがです?」
「聖杯戦争、サーヴァント、令呪。全て承知した。なるほど聖杯を手に入れれば大英帝国も、ソ連も、合衆国も敵じゃない。第三帝国の繁栄は約束されたも同然。君の言うことは至極正しい。
だがそれほどの代物をどうして君は自分で手に入れようとしないのかな? 我々に協力を持ち掛け我々に聖杯を捧げる必要などない。
令呪を宿ったのは我々ナチスではなく、ダーニック・プレストーン・ユグドミレニアだろう」
ロディウスの鋭い指摘を浴びてもダーニックは自然体を崩さなかった。
こういった腹の探り合いは権威主義の時計塔で慣れ親しんだものであるし、ロディウスがこのような質問をしてくるのも想定済みだ。
「仰ることは尤もです、大佐。ですが私は分の悪い賭けに自分の命というチップを上乗せするほど蛮勇の徒ではありません。万能の願望器、聖杯を手に入れることができたのならば貴方達ナチスの協力を仰ぐまでもなく、我がユグドミレニアの繁栄が約束されるでしょう。
だがそれは結局のところ手に入れることができたら、という過程のもとに成り立つ絵空事に過ぎない」
「つまり独力で聖杯を手に入れる自信はないというのかね? 君ほどの魔術師が」
「私とて自分が世界最高峰の魔術師と憚っているわけでも、世界最強の魔術使いであろうと自認しているわけでもありません。恥ずかしながら私以上の魔術師など探せばいるでしょう。現に私の目の前に私以上に降霊術や霊媒に秀でた魔術師が座っています」
「人をおだてるのが上手いじゃないか」
笑いながらロディウスが従者が新たに注いだ紅茶に手をつけた。軍服と同じように黒い髪の奥で黄色い瞳が淡く輝いている。
「おだて、などではありません。私とて魔術師、下らぬ噂で人を判断する愚昧には嫌悪を示しますが、優れた魔術師には敬意を表します」
これはダーニックの本心である。
最後にどうするか、はさておくにしてもロディウス・ファーレンブルクの魔術師としての実力はダーニックも尊敬していた。
だからといって情に囚われることがないのがダーニックがダーニックたる所以でもあるが。
「聖杯戦争は七人の魔術師による闘争。勝利の末に手に入るのが『万能の願望器』となれば参加する魔術師も本気で挑むでしょう。
召喚するサーヴァントにもよりますが、どれだけ高く見積もっても勝率は七分の一。命を懸けて挑むには勝算が低すぎるとは思いませんか? 聖杯が手に入れば良し、だが手に入らず死ぬことがあれば単なる無駄死に。逃げ延びても無駄骨です」
「戦争とはそういうものだろう?」
「ええ、その通りです。ですが事前に勝率を上げるよう努力するのが戦争でしょう? 勝率が低いならば上げる努力をすればいい。だからこそ私は貴方達に協力を求めた。私の勝率のために。
勿論私とて魔術師です。等価交換の原則通り、私も貴方達に等価を求めるからこそこうして話をしている」
「ほほう。では君が我々に臨む等価とは、報酬とはなにかな」
「私が望むのは一つのみ。ユグドミレニアの繁栄です」
ダーニックは下らぬ噂のせいで――――否、彼だけではない。彼と彼に続くユグドミレニアの魔術師達全員の未来は閉ざされた。
諦めざるを得なかった、放棄せざるをえない状況にまで追い込まれた『根源』への到達という悲願。
それを叶える為にダーニックは一族の繁栄こそを望む。
派閥抗争と権力闘争において才幹を発揮し、弁舌・演技力・政治手腕によって信じる者、信じない者問わず思うが儘に操ることから〝八枚舌〟という渾名を頂戴したダーニックだが、これは嘘偽りない純粋な本心だった。
「日本では既に帝国陸軍が聖杯を御三家より奪うべく動き始めた、と聞き及んでいます。どうかお早い決断を」
「うむ。では挑もうか聖杯戦争に」
「――――ほう」
急かしたのは自分だが、余りにもあっさりと自らの望んだ解答を得た事にダーニックも流石に驚いた。
だが悪い驚きではないため、ダーニックは微笑みを浮かべながら手を差し出した。ロディウスも立ち上がって差し出された手を握る。
「我々は全力で君を援助しよう。英霊を召喚するための聖遺物、材料、戦うための兵士、武器。出来る限りのあらゆるものを用意しようじゃないか」
「ありがとうございます。貴方達の協力があれば、必ずや聖杯を手にすることができるでしょう」
「ふふふ。ところで帝国陸軍まで動いているとは我々も初耳だ。君はどこでその情報を得たのかな?」
「彼の国にもユグドミレニアの協力者はいるということです」
「恐いね。〝八枚舌〟と呼ばれるだけある。ともすれば私も君の舌先三寸に踊らされている道化かもしれないが、君の話を聞いた以上は踊るしかない。強かなものじゃないか」
ダーニックは微笑みをほんの少し薄くしながら、目を細める。
外では既に日が落ちようとしている所だった。
「監督役、ですか」
日本の冬木市で行われるという聖杯戦争について一通りの説明を受けた言峰璃正は、どことなく現実味のない話に呆然とするのを堪えることが出来なかった。
一大宗教の総本山、ヴァチカンにあるとある教会の一室にはカソックを一部の隙もなく着込んだ璃正と、フードを被った顔の見えない男の二人だけがいる。
窓もないため明かりといえるのは青白い火を灯した蝋燭だけだった。
「そうだ。七人の魔術師と七人のサーヴァントによる聖杯争奪戦、魔術師という連中は時にとんでもない茶番を考案する」
魔術師というのは璃正にとっては特段珍しいフレーズではない。
一大宗教の裏側、吸血鬼などといった化物や魔術師という異端の術を操る者を屠る組織こそが聖堂教会であり、璃正と目の前の上司もそれに所属する人間だ。
大衆にこそ秘匿されている魔術も、聖堂教会の人間にとっては有り触れたものに過ぎない。
「教会と魔術協会の間には表向きには一応不可侵の盟約が結ばれている故、本来であれば魔術師同士のいざこざになど知らんぷりを決め込めば良いのだが、奪い合うものが聖杯であるというのならば黙してもいられない。
アインツベルンと魔術協会の要請もあり聖堂教会からは中立の立場、審判兼神秘漏洩を防ぐ者として監督役を派遣することになった。それが」
「私だと?」
上司の男は口元を三日月のように歪めながら言った。
「君は彼の土地に土地勘があるだろう。第八秘蹟会における君の働きぶりも聞き及んでいる。適任は君しかいないと思ってね」
「…………」
璃正が所属している第八秘蹟会は世界各地に散らばった聖遺物の管理、回収を任務とする部門だ。
璃正自身、諸国に散った聖遺物の回収を自らの試練・責務と定め世界中を巡り歩いた過去を持っている。
高まりつつある戦争気運もあって海外に出るのが難しい現代。こうして日本人でありながら遥か遠いヴァチカンにいることが、言峰璃正が自らの義務に生きているという証明でもあった。
故にもしも本当に〝聖杯〟が冬木にあるのだとすれば、この身を賭して監督役の任につくのは何の疑問もない。寧ろ若輩の身でありながら『聖杯』という最高峰の聖遺物を目にする栄誉に歓喜しただろう。
危険であることも理解しているが、己の義務のためならば百の悪魔の軍勢相手でも飛び込めるだけの精神を璃正はもっている。魔術師たちの血塗られた闘争であろうと臆するものではない。
だがそれは聖杯が本物だった場合の話だ。
「二つ三つほど確認したいことがあります」
「なにかね?」
「貴方の仰った話によれば冬木の聖杯とは『万能の願望器』としての力をもつだけの紛い物。真の意味での聖遺物たる聖杯ではないとのことでしたが、ならばどうして我々が監督役などを派遣するのです。
魔術師同士の争いであるのならば、魔術協会の者に監督させれば良いでしょう」
万能の万能器とは表向きの話。璃正に伝えられた真の目的は節理の外、あらゆるものの原因があるとされる『根源の渦』へ到達することだという。
聖堂教会は魔術師と魔術師たちの集団たる魔術協会とは敵対する立場にあるが、魔術師の目指す『根源』については一切興味がない。
故に聖堂教会がわざわざ聖杯戦争に介入する必要などないのだ。
「一理ある。だがそれは君が考える必要のないことだ」
「――――――」
大方聖堂教会、魔術協会、それにアインツベルンまで巻き込んだ政治ゲームが繰り広げられたのだろう。質問を無愛想に切り捨てられたのは好ましい対応ではなかったが、なるほど政治ゲームなど璃正からしたら全く興味も関わりもないものだ。
「それに聖杯の真の目的がどうであれ『万能の願望器』としての力を聖杯がもっているのは事実だ。『根源』などというものを目指す魔術師が勝利してくれるのならば構わないが、醜悪な望みを持つ者が聖杯を手に入れれば大参事が引き起こされる可能性もある。
璃正。監督役には聖杯戦争による被害を最小限にするだけではなく、聖杯による被害も最小限にして貰わなければならない。
真に聖杯を担うに相応しいマスター。それを選別するのも君の仕事だよ」
「……分かりました。不肖、言峰璃正。微力を尽くしましょう」
「ありがとう。君が引き受けてくれて私も肩の荷が降りたよ」
代わりに言峰璃正の肩には大きな重責が圧し掛かってしまった。紛い物といえど、よもや自分が聖杯探索の列に名を連ねることになろうとは思いもよらぬことだ。
魔術師一人だけでも節理から外れた存在だというのに、それが更に七人で英霊たるサーヴァントが七騎。
これの激突が齎すであろう騒ぎを想像して――――止めた。魔術師の戦いならまだしも、神話や伝説の人物である英雄同士の戦いなど、言峰璃正という一介の信徒に想像できるものではない。
「冬木の管理者であり、始まりの御三家の一角。遠坂には既に話を通してある。遠坂は聖杯戦争前からこちら側とも繋がりのある家でね。細かいことは彼より聞いてくれたまえ」
「はっ」
璃正は一礼してその場を辞する。
上司から渡された書類に目を通すと『遠坂』は大日本帝国の帝都〝東京〟にあるホテルで待っているらしい。
そこでアインツベルンから監督役に『聖杯の器』の引き渡しも行われると。
「励むしかないか」
信仰と対極にある魔術師と慣れ合うのは個人的には好まないが、それでも聖堂教会から与えられた任務であれば、これもまた修練の一つ。
修練であるならば信仰者たる璃正は全身全霊をもって挑むだけだ。