はっきり言って貨物列車の乗り心地は劣悪だった。
客席なんて上等なものは当然ないため、床に座ることを強要され、しかも揺れる度に積み上げられた荷物が落ちてくることを警戒しなければならない。
明かりもないため空間全体が暗闇に包まれており、息を吸えば空気と一緒に埃を吸い込んでしまう。
帝都に来るときに乗った列車と比べたら雲泥の差だ。これが正規の手続きで乗り込んだのならば文句の一つでも言いたいところだが、非正規の手段でこっそり同乗している身ではそれも出来ない。
結局はこれも聖杯戦争の一貫として我慢するしかないのだ。いや、するしかないはずだった。
不幸中の幸いにもキャスターがぱぱっと明かりと埃についてなんとかしてくれたので、今はそれなりの環境で列車に揺れていられる。
しかし明かりに関しては魔術なので良いとして、一年中ほったらかしにした倉庫のように埃まみれだった車内を、ものの数分で新築の家のように綺麗にしてしまったキャスターの掃除手腕には舌を巻くしかない。どんな口煩い姑もこのピカピカっぷりを見れば白旗をあげるだろう。
ちなみにどうして王なのに掃除がこんなに上手だったのかと疑問に感じ、キャスターにそれを尋ねたところ、
「俺は王の子として生まれたが、王族として育ったわけじゃない。産まれて直ぐ俺はウーサーの臣下だったエクトルに身分を隠して預けられ、エクトルを実の父と思いながら育った。だから掃除くらいは当然できる」
キャスターはさも普通のように語っていたが、この掃除っぷりは明らかに普通ではない。キャスターは嫌な顔をするかもしれないが、もうクリーナー(掃除人)の英霊を名乗っても良いくらいだ。或いはバトラー(執事)でも良いかもしれない。
なんとなく冥馬は執事らしい燕尾服を着込んだキャスターを想像し、それがかなりマッチしていたので吹き出してしまった。
「そうだ。戎次とライダーの戦いで拾ったお札だが……」
「何か分かったのかね?」
懐にしまっていたお札を取り出しながら声を掛けると、璃正が鉄面皮で応じてくる。敵マスターに関する情報にはキャスターも興味があるらしく実体化した。
貨物列車に揺られて数時間。冥馬は何もしていなかった訳ではない。戎次が戦場に残していったルーンの刻まれたお札を冥馬なりに調べてみたのだ。その結果、分かったことが幾つかある。
「戎次の使っていた魔術は肉じゃがみたいなものだ」
「――――はい?」
「おい冥馬、まさか頭をうったのか?」
璃正とキャスターが二人して心配したような視線を向けてきた。心外なものだ。自分は至って平静である。頭などうってはいない。
「はぁ。璃正もキャスターもユーモアというものを理解していないな。聞く所によれば東郷平八郎が留学先で食べたビーフシチューを、艦上食にしようと日本の料理人に作らせようとして生まれたのが肉じゃがの発祥らしい。つまりそういうことだよ」
「いや、だからどういうことだ」
キャスターがツッコミを入れてくる。
冥馬は鈍いな、と思いつつもキャスターのマスターとして物分りの悪いサーヴァントに懇切丁寧に説明することにした。
「東郷平八郎に依頼された料理人は困った。なにせその料理人はビーフシチューなんて知らないし、ビーフシチューを作る素材も手元になかったからな……。
そこでその料理人は醤油と砂糖を使い東郷平八郎から聞いたビーフシチューのようなものを生み出した。そのビーフシチューのようなものこそが今に伝わる肉じゃがなんだ」
「……………だからそれと相馬戎次がどこをどういう風に関係しているのだね?」
分かっていないのはキャスターだけではなく璃正もだったらしい。
千年以上前の人物であるキャスターならまだしも、現代人である璃正すら分からないとは驚きである。
璃正は聖堂教会の神父として聖遺物を回収するための苦行に身を捧げてきたと言っていた。そのせいできっとユーモアを解する心を育むことができなかったのだろう。
冥馬は友人に語り聞かせるように優しい口調で続けた。
「戎次の魔術は肉じゃが誕生と同じということだよ。このお札はこの国古来からの神秘の担い手たる呪術師や陰陽師が使うものと殆ど同一だ。しかし奇妙なことにお札に記されているのは北欧などに伝わるルーンだよ。これをどう思う?」
「単にルーンを刻むものが他になかったから代用したのでは?」
三人の中で唯一魔術師でない璃正はそんな事を言った。だがキャスターの方は漸くなにかに気付いたのか腕を組んで考え込む。
「聖杯戦争なんて命懸けの大一番、しかも帝国陸軍から参加してるようなマスターが、ルーンを刻む素材を用意できないなんてことはないだろう」
先の戦いで帝国陸軍は大量の銃火器だけではなくゼロ戦まで投入してきた。昨日の戦いでの損失は、ルーン魔術師が一生で使うルーンを刻むものよりも多い。
だから相馬戎次がルーン魔術師が使うようなルーン石ではなくお札なんてものを使ったのには他に理由があるのだ。
「それに奇妙なのはお札だけじゃない。ルーンもそうだ。俺も自分の研究ついでにルーンの方も専攻していたからルーンについてはある程度知っている。
けれどこのお札に刻まれているルーンは俺の知るどのルーンとも合致しない。面影、のようなものは残っているが」
「面影?」
「……これはあくまで推測なんだが、奴の使う魔術には『魔術』だけでなく、まったく形態の異なる神秘。恐らくこの国の呪術が混在している」
「つまり彼は魔術師であって呪術師であると?」
璃正の言葉に首を振るう。惜しいがそれだけでは不正解だ。
「〝両立〟じゃない。これは〝混在〟だ。俺も呪術に関しては門外漢だから偉そうな事は言えないが、これは魔術と呪術を混ぜ合わせて出来た魔術でも呪術でもないなにかだ。このルーンも呪術と混ざり合って独自発展していったものだろう」
冥馬は時計塔で様々な魔術の一端を垣間見てきた。その中には背筋が凍てつくほど危ないものもあった。だがこれほど特異な魔術を見るのは生まれて初めてである。
魔術と呪術、形態の異なる神秘を融合させ――――しかも真っ当な〝術〟の範疇に留める、これがどれほどの奇跡か、冥馬には良く分かる。例えていうならワインと日本酒を混ぜて、新しく美味い酒を生み出すようなものだ。
「だからこそ最初の『肉じゃが』発言に繋がるのか。言われてみれば西洋の料理を東洋の料理人が再現した肉じゃがと、戎次の使っている魔術と呪術が混在したソレは成り立ちにおいて似ているな。だが冥馬、お前のサーヴァントとして忠言する」
「なんだ?」
「ユーモアのセンス皆無だな」
「なっ!?」
キャスターの失礼千万な言葉に憤慨して顔を赤くする。けれど遺憾なことにキャスターのみならず璃正まで腕を組んで頷いていた。
「ふっ。千年以上前の人間のキャスターには現代人のユーモアなんて分からないさ。この時計塔で私が培ったユーモアなど」
「すまない冥馬。君と同じ現代の人間である私も、君のユーモアはないと思う」
「り、璃正まで!?」
「お前のユーモアに笑う奴がいるとすれば鏡くらいだ。ああ鏡が笑うんじゃないぞ。鏡に映ったお前が一人で馬鹿面を晒すんだ。周りが冷めきっているのに気付かないまま」
「………………」
それが止めとなった。
二人にこうも全否定されては反論することもできない。反論を封じられた人間がとれるのは沈黙のみだ。
キャスターが嘆息しながらお札を拾い上げる。
「もっともユーモアセンスはさておき分析能力は及第点だな。この短時間では上々だ」
「キャスター?」
「今後苦しめられるだろう難敵になるマスターの魔術形態について知ることができた……。スズメの涙ほどの情報だが情報には違いない」
もしかしたらキャスターはフォローしてくれたのだろうか?
無愛想な上に性格がひん曲がったサーヴァントだと思っていたが、素直じゃないだけで意外に根は良い奴なのかもしれない。
「と言っても情報が分かっても彼我の戦力差を覆す決定打にはならないわけだが」
フォローして直ぐにキャスターが気分が落ちる事を言った。けれどキャスターの発言は否応なき真実だったので冥馬は神妙にコクリと頷く。
魔術と呪術が混在したどちらでもないなにか――――そうは言っても、方向性としては魔術の側に傾いていた。ならば一応は〝魔術師〟という呼称で良いのだろう。
これは相馬戎次の魔術行使を見ての推測だが、遠坂冥馬の魔術師としての技量は相馬戎次を上回っている。魔術をもって競い合えば冥馬は戎次に勝てるだろう。
(だが――――)
当然この聖杯戦争は魔術のみを頼りとする戦いではない。表側の軍隊が投入されていることからも分かる通り、聖杯戦争はルール無用の殺し合いだ。
そして魔術師としては兎も角、戦士としてならば相馬戎次は遠坂冥馬より遥かに高みにいる。
「やはりネックになるのは戎次の馬鹿げた強さと帝国陸軍だな。キャスター、戎次とライダーと帝国陸軍を纏めて吹っ飛ばせるような切り札でも持ってないのか? ほら宝具とかに」
英霊とはそれ単体では英霊として成り立たない。英霊には必ず共に武勇譚を築き上げた聖剣や魔剣、または逸話や特殊能力などが付随するものである。それこそがサーヴァントのもつ宝具だ。
宝具の中には常時発動し続けているタイプのものがあるが、殆どは宝具の真名することで初めて真価を発揮するものである。
英霊の宝具はその全てが現代の魔術など及びもつかないほどの『奇跡』であり、英霊同士の戦いは宝具と宝具の激突といっても過言ではない。
だが宝具とは即ち英霊にとっての『象徴』だ。宝具の真名を解放するということは英霊としての真名を教えることに等しい。真名を知られるということは、その英霊が滅びた死の原因や弱点すら知られるということ。そのためサーヴァントにとっては宝具の解放は文字通りの奥の手なのだ。
キャスターが彼のアーサー王であるというのならば宝具となるのは聖剣エクスカリバーしか有り得ない。エクスカリバーほどの宝具であれば或いは、と一縷の期待をかけて尋ねたのだが、
「あるかそんなもの。無い物ねだりする前に頭を使って考えろ」
そんな幻想はあっさりと切って捨てられた。
「……そうだな。そんな都合の良い話はないか」
やはり相馬戎次を倒すにはキャスターの言う通り頭を使うしかないだろう。
冥馬は腕を組んで考え込むが、キャスターが突然に声を張り上げた。
「伏せろ!」
冥馬が何事かと反応した時には、キャスターが手元に黄金の剣を出現させ横薙ぎに一閃していた。
背にしていた荷物が切り刻まれ破壊される音が響く。刃の一撃と同時に、暗く溶けた闇が蠢く。
「――――っ!」
否、それは暗闇ではない。それの体躯が闇の如き黒を纏っているせいで、この風景に溶けてしまっているだけだ。
積み重なった荷物や壁を足場に、蜘蛛のようにソレが跳ぶ。目についたのは色素を全て取り出してしまったような真っ白な仮面。髑髏を模したそれは獲物を嘲笑するかのように笑っていた。
キャスターやランサーのように濃密なまでの魔力を放っているわけではない。その存在は異様でありながら陽炎のように薄い。
それでも全身が悪寒で震え上がる。黒衣の白い髑髏は濃密な死の具現だった。
気配が薄いのも道理である。死とは……死神とは誰にも見えることなくその背中に歩み寄り、無慈悲に鎌で命を奪う無貌にして無色なる狩人。目の前の存在は正にそれ。実体化した死神の化身だ。
そのサーヴァントがなんなのかなど考えるまでもない。聖杯戦争において隠密行動とマスター殺しに特化したサーヴァント――――暗殺者(アサシン)のサーヴァントだろう。
「…………気配の遮断も、攻撃に移ればマスターは兎も角、サーヴァントを誤魔化せはしないか」
異様な姿に見合わぬ理知的で落ち着いた声が反響する。白い仮面は嗤っていたが、その仮面の奥に性格すら包み込んだ暗殺者はどこまでも無感情にこちらを注視していた。
キャスターが冥馬と璃正を守るように一歩前へ出る。
「ぬかったな暗殺者。攻撃に移るまでこの俺にすら気づかせなかったところは暗殺者の面目躍如だが、俺が冥馬の近くにいる時に仕掛けたのは過ちだったな」
「さて」
暗殺に特化したアサシンにとって敵サーヴァントと真正面から対峙している状況は好ましくないはずだ。だというのにアサシンは落ち着きを失わず、まるで教え子を諭す老境の教師のような口調で言葉を紡ぐ。
「私の本分は暗殺。影に忍びマスターを仕留めるがアサシンの本領。故にキャスター、お前がいない機を狙うのが最も効率の良い方法だっただろう。だがそれはそんな機会があればの話だ」
「ほう」
「息を潜みお前達の会話は聞かせて貰った。そしてお前のマスターの人格と精神についてもある程度のイメージを固めさせて貰った。お前のマスターはそうそう自らのサーヴァントから離れ無防備な身を晒しはすまい」
アサシンは敵である冥馬を評価するような事を言う。けれどそれは評価ではない。己のターゲットを確実に仕留めるためのプロファイリングである。
そしてアサシンのプロファイリングは正しい。ナチスや帝国陸軍なんていう物騒な連中が聖杯を狙う以上、自らの居城である遠坂の邸宅以外ではキャスターと別行動はすまいと冥馬は決めていたのだから。
「故に今こそを狙った。どうせ一人でいる時を狙えないのであれば、この狭く冥い空間と、列車が人里から離れた今をもって、私はここが殺すべき場所であり殺すべき時であると判断した」
「どっちにせよ饒舌だな暗殺者。暗殺に失敗した暗殺者の末路は西洋問わず死刑というのがお約束。彼の山の翁が当主であればその鉄則は分かっているだろう」
「失敗したかそうでないか判断するのは貴様ではない。結果という産物のみだ。そして結果はまだ定まってはいない」
アサシンの仮面が動いた。それを追うようにキャスターもまた動く。
この狭い空間で下手に魔術を放てば視界が塞がれ、アサシンにマスター殺しの好機を与えることとなる。そのことを理解していたキャスターは魔術は使わず剣のみを武器にアサシンへ迫っていった。
暗殺者の英霊であるアサシンは強力なサーヴァントではない。
三騎士と騎乗兵が等しく備える対魔力スキルのためキャスターが最弱のサーヴァントと呼ばれるが、こと真正面からの対決においては下手すればアサシンはキャスター以上に貧弱だ。
そして此度のキャスターに招かれし英霊は彼の騎士王。暗殺という分野であるならまだしも、向かい合っての殺し合いではアサシンを圧倒している。
「キキ、キーーーー!」
けれどアサシンは最速たるランサーを超える敏捷性と蜘蛛のような動きを最大限活かし、キャスターの斬撃を巧みに躱し続ける。
躱すのは自分の勝る部分を最大限活用するという意図もあるのだろうが、それ以上にキャスターと力勝負をしては勝てないと理解しているからだろう。
とはいえ戦いそのものはキャスターが有利だ。攻撃しているのはキャスターばかりでアサシンはまるで反撃できていない。聖杯戦争始まって以来初めて経験する優勢というものだった。
といってキャスターには油断は一切ない。
攻撃をひたすら回避しながらも、アサシンは殺意を引込めてはいなかった。アサシンはどれほどの斬撃を前にしようと回避に徹し絶好の好機を待ち、キャスターは好機を狙うアサシンへの警戒を緩めない。
「……あれが伝え聞くアサシン、山の翁か」
璃正が跳び回りながら戦うアサシンを見据えながらそう漏らした。
他のサーヴァントと違いアサシンのクラスは始めから召喚される英霊が確定している。何故ならば『アサシン』というクラスそのものが、その英霊を招く触媒となるがためである。
だから冥馬もアサシンの真名はこの聖杯戦争が始まる前から知っていた。
アサシンの真名はハサン・サッバーハ。マルコ・ポーロの東方見聞録にも登場する暗殺教団の首魁であり『アサシン』という単語の語源にもなった人物だ。
そしてハサン・サッバーハとは個人の名ではなく暗殺教団の歴代当主が襲名する名であり、これまでの聖杯戦争でも〝ハサン・サッバーハ〟という真名をもつ異なるハサン・サッバーハがアサシンとして召喚されている。
「はっ――――!」
戦いに動きがあった。
初めてキャスターの攻撃がアサシンに届く。剣を囮として繰り出された蹴りの一撃は、アサシンを弾き飛ばし壁に叩きつけた。
仕留める好機とキャスターがアサシンに刃を振り下ろした。それこそがアサシンの策だと知らぬままに。
王や将軍ならまだしも、騎士や武将であれば所謂考えなしの猪武者であろうとその武勇をもって英雄となることができる。
けれど暗殺者はそうではない。暗殺に必要なのは百の兵を薙ぎ倒す武勇でも、如何な剣士をも切り伏せられる剣術でもない。暗殺者にとって必要不可欠な素養の一つは、目的達成のためにあらゆる手段をとる実行力及び執念だ。
力において他サーヴァントを下回るアサシンは勝利の為には如何なる手段をも許容し利用する。それが例え己の主であろうとも。
「ふふっ」
ここではない何処か。アサシンを通じて一部始終を眺めていた〝魔術師〟が微笑む。それが合図となった。
貨物列車に積み込まれていた多くの荷物。箱にしまいこまれたフランス人形たちに殺戮としての機能が宿る。
アサシンのマスターである人形師が作り上げたフランス人形は、殺人に特化させた機構を与えられてはいても正真正銘の〝人形〟だ。普段は何の魔力も宿っていないただの物である。だからこそキャスターもそれに気付くことができなかった。
平時において単なる人形でしかないそれらは、作り手である人形師が命令を送った時、内部の機関から魔力が発現し自律稼働を始める。敵を殺すという至上命題を果たすために。
「――――っ!」
覚醒した人形たちが背中を晒している冥馬目掛けて一斉に其々の殺戮機構を発揮する。
ある人形はしこみ刀で、ある人形は胴体をぱっくり開けて放たれる無数の毒針で、またある人形は血腥い糸鋸で。数々の凶器が遠坂冥馬に牙をむいた。
「!」
数瞬遅れてキャスターがそれに気付いた。だがキャスターはアサシンを仕留める為にほんの数メートル冥馬から離れてしまっている。
たった数メートルと侮るなかれ。この瞬間、数メートルは遠坂冥馬という魔術師の命を確実に奪う絶壁としてキャスターに立ち塞がった。
あらゆるものがスローモーションになったかのように錯覚する。
キャスターは全力で後退し、冥馬を守ろうとし。冥馬はなにが起きているかも分からずに呆然としていて。アサシンはキャスターの助けを妨害するため己の〝宝具〟を解放する予兆を見せた。
遠坂冥馬の纏うスーツは宝石を溶かし、衝撃の減衰と拡散の力を込めた魔術礼装である。攻撃ではなく防御に特化したソレは言うなれば最高品質の防弾ジョッキといえるものだ。ナチスや帝国陸軍の兵士達が使っている機関銃の弾丸でも楽々とストップさせるだろう。或いはアサシンが武器として雷光染みた速度で投擲する毒針すら防ぐかもしれない。
だが人形使いがそこまで分かっていてなのかは分からないが、凶器の一部は冥馬の体ではなく首級へ向いていた。……そう、スーツに守られていない生肌に。
当たり前のことだが銃弾を防ぐスーツも、覆われていない部位に関してはなんら意味を為さない。
冥馬は如何に相手が正面切っての戦いで貧弱なアサシンといえど油断しているつもりはなかった。だが如何に父・静重より誇り高い精神を受け継いでいたとしても、冥馬はまだ三十にも満たない若輩だ。アサシンを後一歩というところまで追い詰めたことで、本人の知らぬ間に気の緩みが生まれていたのだろう。
アサシンとそのマスターはそれを見逃さない。遠坂冥馬とキャスターの主従はここで脱落するだろう。もはやこの主従には脱落の運命を回避する術はないのだから。
もしもこの場にいるのが冥馬とキャスターだけならば、の話だが。
「危ない!」
だがここには冥馬とキャスター以外の人物がいる。
キャスターから少し遅れて冥馬に迫った凶器を認識した璃正は、咄嗟に冥馬のことを蹴り飛ばした。
「がっ……ッ!」
蹴り飛ばされた冥馬が列車の壁に叩きつけられた。そして冥馬の首を落としているはずだった凶刃は空振りに終わる。
いきなり蹴飛ばされた事に文句を言おうとした冥馬は、自分が今さっきまで立っていた場所に殺到した凶器たちを見て口を噤む。
「……助けられたようだな璃正」
「なに。助けられているのはお互い様だ」
「……ふ。しかしこの人形、糸で操るタイプじゃないな。独自の動力を内蔵した自律型。なんでこんがものが貨物列車の積荷に」
冥馬がこの貨物列車を使うことになったのは偶然が積み重なった結果である。だから事前に回り込んで罠を張ったという線は考えにくい。
だとすればアサシンのマスターである人形師がこの貨物列車で『人形』を冬木へ運ぼうとしていた所に、偶然冥馬たちが乗り込んだと考えるのが妥当だろう。冥馬にとっては極めて運の悪いことに。
冥馬を仕留められなかった人形たちが箱を突き破り這い出てくる。人形使いの趣味なのか、それは全て美しい造形のフランス人形だった。もし凶器をもっていたり、腹部が開いて毒針を放ったりなどの物騒な仕掛けがなければ、そのままフランス人形展に出展されてもおかしくはないほどの一品揃いである。
「――――どういうことだ」
アサシンが咎めるように言った。
「どう、とは?」
「キャスターのマスター、貴様に言っているのではない。私はそこの監督役に向かって話している」
「私だと?」
「御主君より此度の聖杯戦争からは中立の審判として監督役が置かれると言った。監督役は中立故、私も危害は加えぬよう配慮したつもりだ。しかし何故中立である監督役が遠坂のマスターを庇う。これは監督役として越権行為に当たるのではないか?」
「……そ、それは」
璃正が口ごもる。アサシンの指摘はその異様な見た目に反して非常に理に叶ったものだった。
言峰璃正は聖杯戦争の監督役である。ナチスドイツや帝国陸軍から『聖杯の器』を守るため、一時的に冥馬と行動を共にしているが本来であればそれも好ましいことではない。
監督役がマスターと接触するのはマスターの届け出をする時か、マスターが教会へ保護を求めた時だけに留めるべきなのである。
これまでの戦闘ではナチスや帝国陸軍は冥馬とキャスターの排除だけではなく、監督役が管理する『聖杯の器』をも狙って来ていた。だからこそ監督役に敵対する彼等と戦い、冥馬と共闘するのは特に問題のないことだった。
しかし今回はそうではない。
アサシンは確かに冥馬を殺そうとしたが今の所は『聖杯の器』にはなんのアクションもしていなかった。或いは冥馬を殺しキャスターが消えてから、璃正のもつ『聖杯の器』を奪おうと計画していたのかもしれないが、それを指摘したところで何の証拠もない以上は意味のないことである。
「答えろ監督役。答えぬのであれば、貴様は中立の立場を放棄し、遠坂に肩入れしたと見なす」
「……………」
璃正には深い考えがあった訳ではないだろう。ただ冥馬が殺されそうになっていたから咄嗟に助けてしまった。それだけだ。なにかこれはと思う理由があっての行動ではない。
人助けに理由はいらない、と賢者は説く。けれど世界の大半の人間は賢者ではない。賢者たちが作っていない世界に賢者の道理は通じず、当然それは聖杯戦争でも同じ。
だからこそ璃正もそんな言い訳をしなかった。堂々と胸を張って、やましさの欠片もない顔で口を開く。
「無論、聖杯戦争の管理のためだ」
「管理だと?」
「私が遠坂冥馬殿と行動を共にしているのは、監督役に敵対し『聖杯の器』を奪取せんと目論むナチス及び帝国陸軍からの護衛を依頼したからだ。本来監督役が参加者に協力を求めるなど有り得ぬことだが、サーヴァントから身を守るにはサーヴァントをもつマスターに頼るしかい。これは聖杯戦争を運営するにあたって仕方のない措置である。
だが監督役として参加者に依頼をしたのだ。そのマスターには特別な褒章が与えられて然るべきだろう。そうでなければフェアではない。私が遠坂冥馬殿を庇ったのは、私と『聖杯の器』を警護して貰っている褒章の一貫だ」
「……屁理屈だな」
「だが理屈ではある」
キャスターが刃を振り落す。アサシンは後ろへ跳ねて、それを回避した。
人形による奇襲でアサシンの手品の種も尽きただろう。強いて言えば未だ隠し持つ『宝具』――――それがアサシンにとって唯一の形勢逆転の切り札だ。しかし宝具の発動の予兆はサーヴァントであれば察知できる。これ以上ないほどアサシンは追い詰められているといえた。
自分の劣勢は悟ったアサシンの行動は早かった。
ふらり、と力を失ったかのようにぐらついたアサシンは、次の瞬間には貨物列車から飛び降りていた。
「逃がさん」
追撃しようとするキャスターに殺戮機構を備えた人形たちが立ち塞がった。人形たちを無造作に切り払おうとしたキャスターは驚愕する。
人形たちはその身を挺してキャスターを足止めしようとしていたのではなかった。その身を投げ捨ててキャスターを足止めしようとしていたのだ。
耳に届いたのはカチッという何かのトリガーが引かれた音。瞬間、人形たちの動力源が高速で逆回転を始め、動力ごと人形が爆発した。
「チッ」
キャスターは舌打ちする。芸の細かいことに人形の爆発が撒き散らしたのは爆風だけではなかった。人間を殺すほどの毒煙までも撒き散らしたのである。
「くっ……降りるぞ!」
毒煙に気付いた冥馬の行動は早かった。密閉された空間で毒煙は致命的である。
風の魔術で毒煙を防ぎつつ三人はアサシンを追って列車から飛び降りた。
「無事か?」
「なんとか、だが」
璃正もしっかり『聖杯の器』を忘れずに飛び降りたようだ。冥馬が風の魔術で防壁を張った事もあり毒煙による体への影響はない。サーヴァントであるキャスターは言わずもがなである。
髑髏の仮面の暗殺者は己を追撃した三人をじっと睨んでいた。
月光が降り注ぎ、暗闇に隠されていたアサシンの姿を露わにする。
「これは」
思わず声を零す。
暗闇に紛れた事から仮面以外は黒装束で体を包んでいるのだろうとは思っていた。その予想は正しく、アサシンの姿で黒くない部分は白い髑髏のみだった。
だから冥馬が目を剥いて注視したのは別の所。
月明かりに照らされたアサシンは小さかった。小柄、で済む次元ではない。元からそうだったのか、サーヴァントとなったせいで特徴が誇張されてしまったのか。アサシンの背丈は冥馬の膝ほどもなかった。
背が小さいといっても童話に登場するドワーフのようにずんぐりとした体型ではない。サーカスの軽業師のように洗練されたフォルムをしていた。
戦闘において背丈が小さいというのはメリット以上にデメリットが目立つ。だが暗殺者としてならばその異常なまでの小躯は利点だった。
なにせ体の面積が限りなく少ない。これに気配を断たれ、ランサー以上の速度で変則的に動くとなれば、アサシンに攻撃を命中させるのは至難の業だろう。事実キャスターの斬撃の悉くを躱したという実績がアサシンにはある。
だからこそ好機だった。冥馬たちが飛び降りたこの場所は平野。暗殺者が潜むべき物陰もなければ、足場とする木々もない。アサシンにとっては最悪の地形だろう。
暫しのにらみ合い。先に動いたのはアサシンだった。アサシンは背中を向けると、一目散にキャスターから逃げ出した。
「逃がすな、追ってくれキャスター!」
「分かっている」
目を離してしまえば気配遮断により逃げ切られてしまう。
だがキャスターが追撃に出る前に冥馬たちの背後から幼さを残した声が振りかかった。
「――――千載一遇の好機を得たと喜んだのに、上手くいかないものですね」
アサシンのトーンの低い声ではない、生きた人間を感じさせる声色に驚いて振り向く。
「子供……?」
小躯のアサシンのマスターはそれに合わせるかのように小さな子供だった。
黒と白を基調としたゴシックロリータと後々に呼ばれるようなファッションに、色素の薄い長い金色の髪が風に靡いている。浮世離れした雰囲気と可憐さは彼女が使役していたであろうフランス人形とダブって見えた。
「失礼ですね」
子供と言われた事に少女は憤慨したように目を細める。
「私はこれでも貴方より一回りは年上ですよ。遠坂のボウヤ」
「ぼ、ボウヤ!?」
それなりに高位の魔術師であれば見た目の年齢をある程度操作するなど造作もないことだ。その究極が不老不死たる死徒であるが今は関係ない。
少女の佇まいは確かに年端もいかぬ少女というより、洗練された淑女のそれだった。しかしそうと分かってもやはり十歳程度の子供にボウヤ呼ばわりされるのは違和感がある。それでもコホンと咳払いして気分を落ち着かせると冥馬は慇懃に言う。
「失礼したレディ。私は遠坂家当主、遠坂冥馬。こうして我が前に現れた貴女はアサシンのマスターで相違ないか?」
「ええ相違ないですよ。エルマ・ローファスと申します、遠坂の当主様」
エルマと名乗った少女はスカートの端を持ち上げると優雅に一礼した。
冥馬はエルマという名前には覚えはなかったが、ローファスという家名については知っていた。
「ローファス、まさか貴女はガブリエル・ローファスの縁者か?」
ガブリエル・ローファス、時計塔では同期だった人形使いだ。フランスにおける人形使いの名門ローファス家の次期頭首とされていた人物で、最近父親の後を次いで正式に当主になったはずである。
年齢が近かったことに席が近さが合わさって友人と言える程度には交流があった。
「ガブリエルは私の弟です。お世辞にも仲睦まじい姉妹とは言えませんが、聖杯戦争なんてものについて教えてくれたことには弟にお礼を言わなくっちゃいけませんね。
だから貴方の事も聞いていますよ。遠坂冥馬、貴方という人間も貴方の得意とする魔術についても」
「……そういえば、彼に私の管理地で行われる儀式について話したことがあったな」
口は災いの下とは言ったものだ。ガブリエル・ローファスは性癖に多大な問題を抱えているが、基本的には研究第一の典型的魔術師で、聖杯戦争などにはまるで興味を示していなかったが、どうやら姉の方は違ったらしい。
冥馬は自分の不注意で敵を呼んでしまった事を今更ながら呪う。
「だが解せないな。ミス・ローファス、貴女はどうもサーヴァントであるアサシンを逃すためにこうして姿を現したようだ」
「ええ、そうですよ。お蔭でアサシンは逃げたでしょう」
既に周囲を見渡してもアサシンの姿はない。霊体化した上に気配遮断を行ったのだろう。もはやキャスターの索敵でもアサシンを再発見するのは不可能だ。
「アサシンは逃げた。だが貴女がここにいる。アサシンを倒せずとも、アサシンのマスターを倒せば同じ事だ」
冥馬の指摘を受けてもエルマ・ローファスは動じた風がない。そこに良からぬものを感じるが、だからといって見逃すことはできない。
「ミス・ローファス。私も無駄な血を流すことは本意ではない。それが女性であるなら猶更だ。令呪を用いアサシンに自害を命じて欲しい。さもなければ私もマスターとして、キャスターに貴女を討てと命じることとなる」
「やれやれ。さっきは毛虫にも少しくらいは見所があると褒めてやったが、やはりお前は肝心なところで抜けているな」
「キャスター? なにを」
キャスターが冥馬などお構いなしにずかずかとエルマに歩み寄っていく。手にはこの地上のあらゆる金属と比しても固い聖剣。
エルマの前に立ったキャスターは容赦なく剣を振り上げた。
「待っ――――」
制止の声すら無視された。キャスターはなんの感慨もなく聖剣を振り下ろす。
キャスターの突然の命令無視による凶行。けれどエルマという少女の体から血飛沫ではなく木片が散らばった事でキャスターの意図を理解した。
「これは…………人形?」
「列車内で襲ってきた自律人形よりも遥かに高度なものだがな。ある程度の自己判断力に人間としての気配に擬似魔術回路まで与えられているとは、現代の魔術師も侮れん」
感心したようにキャスターが言った。
人形は冥馬の分野ではないが、エルマ・ローファスとして現れたソレが途轍もなく高度な魔術理論で構築されたものであることは分かる。
さしずめ人形を操る人形とでもいうべきか。そして人形ではない本物のエルマ・ローファスは安全な場所で今頃高笑いしているだろう。
「やられたな」
終わってみれば結局アサシンの一人勝ちだ。エルマ・ローファスの人形を破壊することは出来たものの、肝心のアサシンを取り逃がしこちらが持っていた情報を無料で盗み聞きされてしまったのだから。
それに最悪なことがもう一つある。冥馬たちが飛び降りた列車は既にどこか遠くへと行ってしまった。補足すればこの辺りには駅どころか民家すらありはしない。
「…………キャスター、第二案だ」
「そこはかとなく嫌な予感がするが、言ってみろ」
「俺達をおぶって冬木市まで連れて行ってくれ」
「――――――」
十分間に渡る説得の末、漸くキャスターに了承をとりつけることに成功する。
そして劣悪な環境であった貨物列車がどれほど素晴らしい環境だったかを冥馬と璃正は身を以て知ることとなった。