ちゅんちゅんと鳥が鳴いていた。青い空から降り注ぐ太陽光が街を照らしている。気温も……この寒い季節にしてはそれほどではない。時計の針が0を超えてから六時間後、日差しが目に入ったことで、冥馬は眠りから覚め目蓋を開けた。
ナチスの襲撃という異常事態から始まった聖杯戦争だが、早いもので今日で三日目である。
そして三日目にして漸く冥馬と監督役である璃正は冬木市の地に足を踏み入れていた。
「漸くの冬木市だな」
感慨深く冥馬は呟いた。
前回と前々回の聖杯戦争でも『冬木市に到着する』ことにこれほど苦労したマスターは他にいないだろう。ランサー、ライダー、アサシン。サーヴァントの数だけでも三騎、三体ものサーヴァントとここに来る過程で戦闘することになった。うち二つは軍隊のおまけつきである。遠坂冥馬の人生を通しても冬木市に辿り着くまでの二日間は最も濃密な時間だった。
しかしこんなものは序の口。少なくとも冥馬の知る限りにおいて聖杯戦争の脱落者はゼロだ。ナチスと帝国陸軍ばかりに注意がいきがちになるが、遠坂と同じく御三家に名を連ねる『間桐』と『アインツベルン』も百五十年前からの因果に決着をつけるべく最強の主従を送り出してくるだろう。更にはまだ見ぬ外来の魔術師も、これはという英霊を呼び出して戦いに挑んできているはずだ。
冥馬は隣りにいる璃正を見る。
「どうしたのかね?」
「いや」
散々な結果に終わった前回の聖杯戦争の失敗を鑑み、被害と犠牲を最小限にするため監督役が派遣されはした。璃正の人柄と能力についてもこれまでの二日間で冥馬は良く知っている。言峰璃正なら並大抵の異常事態は問題なく対処できるだろう。
だがそれはあくまでも並大抵の範疇に事態で済めばの話。七体の英霊と七人の魔術師、そしてナチスと帝国陸軍の激突――――これがどのような運命へ導くかは神ならぬ身でなければ分からぬことだろう。
「……ここが、冬木市なのか」
帝都から離れた場所にありながら、港町として栄えた為にそれなりに近代的な街並みを眺めつつ璃正は言った。
「聖堂教会から渡された資料に冬木市の写真はなかったのか?」
「写真ではなく生で見なければ分からない事もある。それに写りが悪かった上に撮影した場所が悪かったのか写真が曖昧で、とてもじゃないが冬木市全体の様子なんて分からなかった」
「なるほど」
最近の科学の進歩は魔術師である冥馬にとっても、否、魔術師だからこそだろうか。驚くことばかりだ。しかし写真というのは生で見る景色と異なり、色が白黒だけなせいでどうにも見難いのだ。
尤もこの世界に五つを除いた神秘を追放した科学技術である。時代が進めば白黒ではなくカラーの写真を撮る技術も生まれることだろう。それがいつになるのかは科学者ではない冥馬の知ることではないが。
「それに――――とてもではないがこの街に七体の英霊を呼び寄せるような『聖杯』が眠っているとは思えない。至って普通の地方都市だ」
璃正の発言には冥馬も同意である。この土地の管理者である冥馬の目から見ても冬木市はなんの変哲もないのどかな街だ。街中に謎の地上絵が浮かんでいるだとか、空が紫色になっているだとか。目に見える異常はどこにもない。
「聖杯戦争、それに魔術は秘匿するもの。まさか駅前に『聖杯戦争名物の地、冬木市』なんて大々的に張り出すわけにもいかないだろう」
「確かに」
璃正が苦笑いする。そんな張り紙を出した日には冥馬だけでなく監督役である璃正も事後処理で大忙しになるだろう。
聖杯戦争のことは魔術と関係のない一般人には絶対に漏らしてはいけないのだ。もしも一般人に聖杯戦争が露見すれば口封じに殺すか記憶を消すかしなければならない。
「三日ぶりだっていうのに遠坂の家が懐かしく感じるな。本当なら遠坂のマスターとしてさくさく敵を倒していきたいところだけど……今日は流石に疲れもあるから、一日休息を置くか」
「ふん。疲れたのはこっちだ。誰がお前達をここまで運んできたと思ってる? 夜の間マスターの御命令通り黙々と冬木市を目指し走っていた俺と違い、お前と璃正はアホズラ引っ提げて寝ていただろう」
実体化したキャスターは貨物列車に置いていかれたせいで、体の良い足として使役されたことの苛々をぶちまける。
キャスターの立場になって振り返ってみれば召喚された早々に召喚者が殺され、マスター権が譲渡され、一夜明けてからは怒涛の二連戦からの夜通しの全力疾走。余程人間のできたサーヴァントでなければ文句の一つや二つ言いたくなるのも無理もないだろう。
「はいはい。分かってるよキャスター。一番疲れているのは誰かってくらい。だからこそキャスターの為にも今日は休息にする。それで構わないな?」
「生前であればどんな理由があろうと馬車馬の如く働かせるし、俺も働いていたところだが、俺と違い貴様は脆い。一日に一度睡眠が必要なくらいに。休息くらいは認めてやる」
「いやいや。一日に一度睡眠をとるのは生き物としての基本だろう?」
「俺は一週間に一度の睡眠が基本だったが?」
「……なんだか、すまない」
そういえばアーサー王が生きていた頃の当時のブリテンはかなり貧しい国だった。キャスターも生前は貧しい国の運営に日夜頭を悩ませ眠る時間などなかったのだろう。
相手が英霊といえど、その労働環境を思い冥馬は心の中で同情した。
「そんな目で俺を見るな鬱陶しい。これでは俺が『私は可哀想ですよー』と自己主張する頭がファンタジーなお姫様みたいだろうに。俺はお前に心配されるために言ったわけじゃない。そもそも俺はお前とは体のできが違う。常人なら死ぬほどの仕事量も平然と乗り越えるからこその英雄だ」
不機嫌を露わにキャスターが毒づく。
「つまりなんだ。貴様に体調を崩されては俺の方が困る。聖杯戦争中に病人の介護なんて俺もしたくはないからな。だから冥馬、お前も今日は休むことだ」
冥馬が返答する前にキャスターは言い終えたとばかりに霊体化して姿を消してしまった。試にキャスターを呼びかけても再び実体化することはない。
口調はアレだったがキャスターはキャスターなりに冥馬のことを心配してくれていたのだろう。
「さて。それじゃ行くか」
「うむ」
冥馬は璃正を連れ冬木市を歩く。こうして街を歩いてみても久しぶりの冬木市は特に変わった様子はない。サーヴァント同士の戦いの跡のようなものもなかった。
聖杯戦争が開始して三日が経っているというのに、まだ間桐やアインツベルンがサーヴァントを召喚していないなんてこともないだろう。肝心の『聖杯の器』が冬木にないために動くのを躊躇っていたのかもしれない。
(だとすれば)
監督役が冬木教会に到着し『聖杯の器』が冬木にあると、全参加者が確認した今日を切欠に戦いは激化するだろう。
これまで冥馬は兎にも角にも『冬木市へ璃正を連れて戻る』ことを考えて戦ってきた。だから敵と遭遇しても先ず生き延びることを第一に考えてきた。
だがこれからはそうもいかない。三日目ともなればそろそろ参加者が脱落してきても不思議ではない頃合いだろう。
こうして璃正と呑気に冬木市の気候や特色について雑談しながら歩いている冥馬も、明日にはこの世にいないのかもしれないのだ。父・静重より受け継いだ令呪の刻印は重く冷たい。
「ここまでだな」
冬木市にある高台にきて冥馬は足を止めた。
「ここが監督役の……教会?」
冬木市の高台は他とは周囲が一変していた。
元々は間桐が根を下ろしていた地だったそこは、今では高台の全てを聖堂教会が購入し教会の土地となっている。右を見渡しても左を見渡しても地面がしっかり人の手で舗装されており、その中心には荘厳と聳え立つ教会があった。
神を信仰する者のみならず、神を信じない者にすらある種の畏敬を抱かせるその教会は『聖杯』を巡る争いを監督する者の家としては十分過ぎるほどのものだった。これほどの教会は日本中探してもそうはないだろう。
「驚いた。まさか私のような若輩者がこれほどの教会を管理することになるとは」
璃正も想像以上に荘厳なる教会の威容には目を奪われているようだった。
本当なら冥馬も教会の中まで同行して、この教会の建設工事にまつわるあれこれを話したいところだが、聖杯戦争の参加者という立場がそれを許してはくれない。
「ここでお別れだな璃正。ここから先は璃正一人で行ってくれ」
「ああ、分かっている」
聖杯戦争のマスターが教会に訪れるのはマスターの届け出をする時と、戦いに脱落し保護を求める時だけ。
例えここまで璃正を護衛していた冥馬だろうと、キャスターを従えるマスターである以上は教会に足を踏み入れることはできないのだ。マスターの届け出についても冥馬はとっくにすませてしまっている。
「成り行きとはいえ君には随分と世話になってしまったな……。冥馬、もしも君が――――」
「辛気臭い話はいいさ。俺も……いいや私も遠坂の当主としての義務を果たしたまでだよ。だがそうだな、聖杯戦争が終わりマスターでなくなればこの教会で呑気にティータイムと洒落こむのも悪くない。祈りを捧げろというのは勘弁願いたいが」
「ははは。魔術師であればそうでしょうな」
遠坂冥馬と言峰璃正、出会ってから日も浅ければ性格的にも余り似ていない二人である。冥馬は普段人前では遠坂当主として一部の隙もない人間を演じているが、地は完璧な当主というよりは不良貴族だ。対する璃正は爪の先から頭の天辺まで神に仕える信徒。だというのに二人の間には十年来の友人のような和気藹々とした雰囲気があった。
友人となる最も手っ取り早い方法は『共通』のことを見出すことであるが、共に死線を潜り抜けたという経験もまた立派な共通事項だ。
「迷惑ついでというわけでもないが、一つ私には懸念することがある。君の意見を聞いておきたいのだが良いだろうか?」
穏やかな表情を消し、一転して深刻な顔で璃正が口を開く。
「懸念? なんだ?」
「ナチスと帝国陸軍だ。監督役は中立……だが彼等がその中立を破ってまで『聖杯の器』を狙ってきているのは君も知っての通りだ。この教会で聖杯戦争の管理を担うのは良いが、果たしてナチスや帝国陸軍なら『聖杯の器』を求めて中立を破ることは十分考えられる」
「彼等の襲撃を受けた身として全面的に同意だな」
やり方に若干差異はあれど手段を選ばず聖杯を手に入れようとしているという点でナチスと帝国陸軍は同じ穴のムジナだ。
そして連中が軍隊とサーヴァントを用いて教会に押し寄せて来れば、仮に教会が腕利きの代行者で警護されていようと何の意味もなさないだろう。
冬木市に来るまでは冥馬が璃正を護衛したが、まさか冥馬が教会に留まり四六時中璃正の護衛をするわけにはいかない。冥馬が良くても間桐やアインツベルンが文句を言ってくるだろう。
「こういうのはどうだ?」
「ほう」
「ナチと陸軍の連中はアレだが、参加者全員が暴挙を容認しているわけじゃない。ことが『聖杯の器』ともなれば遠坂だけじゃなく間桐やアインツベルン、外来の参加者も黙っていないだろう」
「『聖杯の器』がどこか特定の勢力の手に渡るということは、己の勝利が遠ざかることでもあるから当然そうでしょう」
「そこで間桐やアインツベルン、ナチスに帝国陸軍。他に居場所を知れている外来の魔術師たちにも布告を出す。『もしもルールを破り教会に敵対行為に及んだ者がいた場合、それ以外の全ての勢力をもって違反者を倒すこと』と。これならばナチスや陸軍もそうそう暴挙には出れないだろう」
「言いだした本人である君はまだしも、他が聞くかね?」
「聞かざるを得ない。どこの勢力も他の勢力の手に聖杯が渡るのだけは阻止したいはずだからな」
サーヴァントに追加して軍隊という戦力を抱えているナチスと帝国陸軍も、流石に六体のサーヴァントを相手にしては一溜まりもない。牽制としての効果は十分のはずだ。
「ありがたい。これで懸念事項が薄らいだよ」
「どういたしまして、これは貸しにしておくよ。さて、これで本当にお別れだな。それじゃ次に会う時は勝者として聖杯を取りに来るから、くれぐれも頼むよ」
「聖堂教会の意向とあらば全力で万進するが私の使命。言われるまでもない」
自然に冥馬は手を差し伸べていた。一瞬璃正は面食らうが直ぐに苦笑しつつも手を握り返してくれた。
短い握手。魔術協会と聖堂教会、相容れぬ組織に身を置く者同士なれど、奇妙な縁もあってこうして行動を共にしてきた。
しかしこれからは其々の役目に戻らなければならない。暫しなのか永遠のになるか分からぬ別れの挨拶。この握手にはそういう意味も含まれている。
「では再会の日まで壮健で」
握手を終えると冥馬は遠坂邸へ、璃正は聖堂教会へと歩いていく。冥馬の側にはキャスターが控えており、璃正の手には聖杯があった。
冥馬と璃正が再び会う事があるとすればそれは聖杯戦争の大一番となるだろう。それまでどちらかが生きていればの話だが。