アインツベルンの森を睥睨しつつ、木嶋少佐は煙草に火を付けた。
魔術については門外漢に等しい木嶋少佐には、アインツベルンの森に張り巡らせている結界がどれほど高度な術式で編まれたものなのかはまるっきり分からない。
だが聖杯戦争の前線指揮官を任されるだけあって木嶋少佐は無能な男ではない。良く言えば慎重、悪く言えば臆病な性格も指揮官としては美徳にもなりうる。
森の結界がどういうものなのか魔術師として理解できずとも、軍人として攻め難い敵陣地であるということは承知していた。
「我ながら馬鹿馬鹿しいことをしている。本当に……大人になりたくないものだ」
「は? どういう意味でしょうか」
「なんでもない。用意はできているな」
「はっ。ぬかりなく」
副官として宛がわれた男とちょっとしたやり取りを済ますと、煙草を地面に落とし踏みつぶして火を消す。
ここ冬木に派遣された軍の中で最も魔術に精通しているのはライダーのマスターであり、陸軍の誇る最強戦力である相馬戎次だ。木嶋少佐が副官や一部の兵士たちと共にいるのは、戎次お墨付きのトラップもなにもない安全地帯である。
ライダーと戎次を含めた実行部隊は既に攻め込む準備を完了させているだろう。後は木嶋少佐の一言で作戦を開始することができる。
(聖杯なんて訳の分からないもののためにここまでの軍事力を投入するとはな。よっぽど上の方も余裕がないらしい)
相馬戎次にしても帝国陸軍にしてもこれから戦争をしようという帝国にとっては重要な戦力となるはずだ。
元々オカルトに傾倒しているナチスでもあるまいし、幾ら自国でのこととはいえ軍隊で介入するなど木嶋少佐からは陸軍の迷走にしか見えない。
その圧倒的強さから兵士達の間で信仰染みた人気をもっている相馬戎次がいなければ、部隊の士気も低いものだっただろう。敵国の軍隊と国家をかけて戦うならまだしも、誰しも聖杯戦争なんて訳の分からない戦いで死にたくはない。
(ま、これはこれで私にとっては悪くない話だった)
相馬戎次のように国の為に己の魂を捧げている愛国心溢れる男と木嶋少佐は違う。軍隊を自らの天職と定めたのは、家が貧しく学を得る為には軍隊に入るしかなかったからであるし、他人よりもっと上等な暮らしをするためだ。
誰かに聞かれれば非国民とされることは確実なので決して口には出さないが――――愛国心や忠誠心など木嶋少佐にとっては無縁なものである。
聖杯戦争における前線指揮官の任も断ろうと思えば断ることができた。だから木嶋少佐がこうして聖杯戦争なんてものに赴いているのは自分にとっても旨味のある話だったからに過ぎなかった。
その旨味のためにも今は全力で御国の為に頑張らなければならない。それが自分の為にもなる。
「少佐。但馬中尉より配置についたと」
「よし」
アインツベルンの森がどれほどのものかは知らないが、軍事的にいえば森に罠を仕掛けたゲリラのようなものだろう。
相手が魔術師でなく森に潜むゲリラだというのならば、やりようは心得ている。
「少佐。相馬少尉によればアインツベルンとやらは十世紀もの間を聖杯探究のみに費やした一族だとか」
「らしいな」
「この作戦、連中に通じるでしょうか?」
「知らん。魔術師なんて訳の分からん連中を確実に倒せる作戦があるなら私が教えて貰いたいくらいだ」
「……私にはまだにわかに信じられません。魔術師なんて存在がこの世界にいたなんて。てっきり空想上のものだとばかり」
「奇遇だな。私もだ」
副官と木嶋少佐だけではない。聖杯戦争に参加してきている兵士達の多くは『魔術』について何も知らなかった者ばかりだ。魔術についての知識があるのは相馬戎次含めた一部の人間だけである。
木嶋少佐にしても最初にこの命令を受けた時、目の前で魔術の実演を見せられなければ聖杯戦争なんて荒唐無稽な戦いに参加などしなかっただろう。
「だが幸いなことにこの作戦は魔術師の相馬少尉と共に構築したものだ。魔術師である彼の意見を取り入れたものであれば、魔術師相手にも効果がある。そう信じたいところだよ」
「相馬少尉ですか。確かに彼ならば――――」
副官が相馬戎次という人間が知ってからまだ二週間と経っていない。だが副官の声には相馬戎次という男に対する信頼が垣間見えた。
相馬戎次は確かに強いが、単に強いだけではここまでの信頼を得ることはできない。だとすれば相馬戎次には人々を惹き付ける理屈ではないなにかがあるのだろう。
こうして存在するだけで人々の畏敬を集めるような人間を或いは世界は英雄と呼ぶのかもしれない。
「それに我々の大多数は魔術について無知だが、連中にとっても同じだ。千年の歴史をもつ錬金術の大家といえば聞こえは良いが、言い方を変えれば千年間も世俗から離れて引きこもっていた世間知らず。現代の戦いがどういうものなのかを奴等は知りはしないだろう」
「……なるほど」
そろそろ頃合いだろう。木嶋少佐は周りにいる兵士達を見渡しつつ口を開いた。
「引きこもり連中に現代の戦争を教授してやろうじゃないか。作戦開始だ。奴等を森から炙り出してやれ」
「はっ!」
鶴の一声。嵐の前の静けさは終わり、森を焼き払う嵐が始まる。聖杯という西洋の秘宝を求めた東洋の兵士たちが一斉に動き始めた。
事態が動き始める中、木嶋少佐は二本目の煙草に火をつける。数はこちらの方が優勢だが、先日の遠坂冥馬との戦いもあって魔術師という連中に人間としての常識が当て嵌まらないのは良く知っている。
数の優勢など引っ繰り返され兵士達が大勢死ぬだろう。もしかしたら負けるかもしれない。だが木嶋少佐の心が揺れることはなかった。
単純作業を延々と繰り返される労働者のように冷めきった表情で、一本目と同じように二本目の煙草を足で踏みつぶした。
「迂闊でした。ここまでするなんて……」
アルラスフィールは歯噛みする。自分のサーヴァントが役立たずだったこともあって、アルラスフィールはより念入りに情報収集に励んでいた。だから帝国陸軍やナチスドイツが軍隊まで投入して参戦してきていることも知っていたし、参加しているマスターの名前や経歴についても洗い出していた。
しかしアルラスフィールは読み違えてしまったのだ。軍隊という組織のもつ力を。
決してアルラスフィールが愚かだった訳ではない。アインツベルンが必勝を誓い生み出したアルラスフィールには優れた判断能力を備えた頭脳がある。人間が紙に長々と計算式を書かなければ導き出せない答えも、アルラスフィールは暗算で出すこともできよう。
だが生まれて以来の人生をずっとアインツベルンの領土で過ごしてきたアルラスフィールには致命的なまでに経験が足りなかった。
軍隊のもつ力を知識として知っていても、軍隊という軍事組織が牙剥く時の容赦のなさを認識しきれなかったのである。
その結果が自室の窓から見える森の景色だった。
完全に日は落ちているというのに森は赤々と光っていた。森のあちこちでは耳を劈く爆発音が響いている。
戦闘機による爆撃に加えての森への放火と破壊。今や郊外の森は火の海だった。
「あははははははははははははははははははははははははは! 凄い凄い、森が燃えてるわ!」
不愉快なまでのアヴェンジャーの馬鹿笑いを叱責する余裕すらありはしなかった。
結界に構築しておいた結界と罠を起動し操ることで、空を飛んでいた戦闘機は全て撃墜できたが、地を行く兵士達は戦闘機ほど容易くはいかない。
どれほど厳重な罠を強いていても爆撃や大砲で術式を刻み込んだ地面ごと吹き飛ばされ、今や折角構築した術式の三割が崩壊してしまっている。
「どうするのアルラスフィール? このまま高みの見物するの? 私は別にそれでもいいけど」
「馬鹿を言わないで下さい。こんな暴挙を放っておいてはアインツベルンの名折れ。そもそも高みの見物などしていたら城の周りは焼野原です」
森に構築した術式を使い消火をしているが、火が回る速度の方が早い。
アインツベルンの城は周囲が煉獄と化したところで落ちるほどヤワではないが、森という天然の壁を失えば防御力を著しく低下させることになるだろう。
「だとすれば打って出るわけね。あ、もしくは尻尾撒いて逃げ出すのもアリかもね」
「……………アナタはっ!」
緊張感のないアヴェンジャーを睨めつけるが、アヴェンジャーを怒りきれない自分がいるのは確かだった。
意味のない仮定であるが自分のサーヴァントがアヴェンジャーではなくまともなサーヴァントなら迷わず打って出ただろう。そしてアインツベルンの領土に踏み込んだ不埒者にしかるべき制裁を下した。
しかし自分のサーヴァントが聖杯戦争史上最弱のアヴェンジャーであることがアルラスフィールを押し留めている。
(帝国陸軍のサーヴァントはあの着物の女で間違いない……)
三割の術式が吹き飛ばされたとはいえ、この森でのことはアルラスフィールに筒抜けだ。
アルラスフィールの目には目の前にある景色以外に、術式ごと木々を凍らせながら悠然と歩く白い着物の女と、児戯の如く妖刀で魔術を切り刻んでいく黒衣の男が見えていた。会話を盗み聞いたところマスターの名前は相馬戎次で、サーヴァントのクラスはライダー。
冷気を操るライダーというだけでは一体全体どこの英霊かは不明だが、かなりの強敵であることは瞭然だ。少なくともアルラスフィールのサーヴァントたるアヴェンジャーの一万倍は強いだろう。
マスターもマスターでその戦闘力は超一流。並みの魔術師では歯が立たない戦闘用ホムンクルスを超えるポテンシャルをもっている。しかも武器の刀はサーヴァントの宝具クラスの神秘を備えていた。
その脅威は拠点を放棄して逃げ出す、という屈辱的選択肢が脳裏を過ぎるほどのものだった。
「ほら早くしないと皆が来ちゃうわ。決めるなら急ぎなさい。アルラ」
「アナタも私のサーヴァントなら、少しはマスターを助けるための意見を出したらどうなのですか?」
「くすくす。無理無理。だって私、最弱の英霊だし。私が出来るのは人殺しくらいよ。建設的な意見なんて最悪の悪神様に求めないで欲しいわね」
「なにが最悪の悪神ですか。最弱の間違いでしょう」
「ご名答~♪」
聖杯戦争は七騎の英霊を招くための大儀礼。そしてゾロアスター教の大邪神〝この世全ての悪〟は英霊ではなく正真正銘の〝神霊〟だ。
神霊とは神話の時代で権能を振るい天地を割り、世界を創造するほどの力をもった超常の存在。無論、神霊の中にも英霊に劣るほど弱い者もあるが、その多くは『万能の願望器』としての聖杯すら超えるだけの力をもっている。
それほどの存在を招くなど如何に〝聖杯〟であろうと不可能だ。そもそも神霊なんてものを呼べるほどの力があるなら、聖杯など不要とすらいえる。
こんな初歩的なこと御三家の当主たるアハト翁なら分かっているだろうに、勝利を急ぎ過ぎたが故に無理をして〝神霊〟を呼ぼうとするから真名が〝この世全ての悪〟なだけの最弱英霊が出てくるのだ。
「仕方ありません。討って出ます。皆も準備なさい」
アルラスフィールが命令を下すと、戦闘用ホムンクルスたちがさっとアルラスフィールの周囲を守るように立った。
マスターとサーヴァントの間にあるラインにも似たものでアルラスフィールとホムンクルスたちは繋がっている。アルラスフィールにとっては彼女達は自分の体も同然だった。
アヴェンジャーはそんなホムンクルスたちをぼーと見ていた。
「なにをしているのです。アヴェンジャー、アナタも来なさい」
「私なんて連れて行ってもどうせ役に立ちはしないし、ここに置いて行ったら?」
「人間相手には最強なんでしょう。アナタに対サーヴァント戦での強さなど欠片も期待していません。けれど周りの人間の兵士達を掃除するくらいは出来るでしょう?」
「うーん、それくらいならいけるわね。私、これでもアンリ・マユだし。だけど戦いの余波で吹き飛んで死ぬかも……」
「御託はいいです。行きますよ」
「はいはい。了解しました、マスター」
アルラスフィールは戦闘用ホムンクルスたちと、ついでにアヴェンジャーを引き連れて敵に対して討って出る。
本来であれば最大戦力のはずのサーヴァントをついで扱いしなければならないことが、アルラスフィールにとっては嘆きだった。