「はっくしょん!」
未遠川から這い上がって来たばかりの冥馬は、日頃自身に徹している家訓すら忘れ大きなくしゃみをする。赤いスーツには冷たい水がしみこみ、全身がびちょびちょだ。
幾ら強敵から逃げるためとはいえ、よもや聖杯戦争中に未遠川で寒中水泳をすることになるとは思いもしなかった。否、ただの寒中水泳ならまだ良かっただろう。
どうもキャスターはイレギュラークラス『スイマー』のサーヴァントとして召喚されてもおかしくないほど泳ぎが達者だったらしい。冥馬が水中で体感したキャスターの泳ぐ速度は、地上でのキャスターの全力疾走とほぼ同じ程度だった。
(我ながら意識があるのが不思議なくらいだ)
潜水艦にロープで首を繋がれて引っ張られたら、きっと同じような感覚を味わうのだろう。まともな人間どころか、人間としてまともではない魔術師でもこれを経験すれば水を大量に飲んで意識を飛ばすに違いない。
冥馬がこうしてどうにか岸に這い上がる体力を残しているのは、日頃から体を鍛え続けた一つの成果だった。
「だが一難去ってまた一難というべきかな。アインツベルンの方々」
水で濡れ目にかかった前髪を掻き揚げ、自分の目の前で警戒心を露わにしている一人の女性と、それを守る同じ顔をしたメイドたちを見回す。
冥馬は帝都のホテルで一度アインツベルンのホムンクルスを見ている。そのホムンクルスと彼女達は起源を同じくするためか非常に良く似ていた。いや全く同じとすらいっていい。
そしてメイドたちに守られる髪の長い女性がアインツベルンのマスターで間違いないだろう。確か事前に入手した情報によれば個体名はアルラスフィールだとか。
令呪の反応もそうであるし、なによりも体に満ちる魔力が桁外れだ。あのエーデルフェルトの双子姉妹を足しても勝るほどの魔力が華奢な体に宿っている。
冥馬とキャスターは既にエーデルフェルトと一戦交えたばかり。マスターとしての素養は断トツだろうアインツベルンとの連戦は望むものではない。
撤退、という選択が脳裏を過ぎるが、
(待て。もしやこれは好機なんじゃないか?)
良く観察すればアインツベルンが疲労困憊なのは明らかだ。
着ているものは火花や返り血などで薄汚れ、顔には隠しても隠しきれぬ疲労の影がある。これが――――アインツベルンの集団で一番マシなアルラスフィールの状態だ。彼女の周囲を守るホムンクルスたちにはもっと酷いものもいた。
冥馬たちも消耗しているとはいえ、宝具も使用していないため余力は十分にある。寒中水泳を慣行させられた冥馬は自分で戦うのは遠慮したいが、キャスターの方はあと一度の戦闘は問題なくこなせるだろう。
(試す価値はあるな)
やるならば徹底的にが冥馬の信条だ。目の前に疲弊している強敵がいたならば叩いておくにこしたことはない。
もし不利になるというのであれば急いで逃げればいいだけだ。幸か不幸か後ろには川もある。逃げ道には事欠かない。
「いけるな、キャスター」
「――――生憎と俺も気高い〝英雄〟の名を背負ってこの戦いに参戦している以上、泣き言を言うことはできないな。お前は下がっていろ。そこのホムンクルスたちは中々の代物だ。別に心配しているわけじゃないが、お前が死ぬとサーヴァントの俺も困るからな」
「分かった。戦いは任せる」
黄金の剣に魔力が紅蓮の炎となって流れる。煌々と光る炎が近くのものには身を焼く熱を、遠くのものには身を温める熱を与えた。
アインツベルンの全員がキャスターの武器を見た瞬間、凍りついたように固まる。アインツベルンの誰もがその剣を目の当たりにして理解したのだ。自らの敵が一体誰なのかを。
思いもよらぬ強敵と遭遇した者の対応は大きく分けて三つだ。ランサーのように出会えた幸運に歓喜するか。ルネスティーネのように闘争心を煮えたぎらせるか。もしくはアインツベルンの者達のように恐れるか、だ。
「……アヴェンジャー、戦闘です」
苦虫をかみつぶした表情でアルラスフィールが言った。
彼女の命令を受けたキャスターと睨み合っているソレの口元が三日月を描く。
「はいはい。要するに死ねってことでしょう。了解いたしましたわ、ご主人様」
(こいつ)
アルラスフィールのサーヴァントは上手く説明ができないのだが、なにかがおかしかった。
復讐者――――アヴェンジャーという基本七クラスに該当しないことは特に問題ではない。前回の戦いのこともあるし、イレギュラークラスが召喚されるのは特に珍しいことでもないのだから。
おかしいのはアヴェンジャーの存在そのもの。
どれだけ目を凝らしても冥馬にはアヴェンジャーの姿が輪郭だけしかない黒い影にしか見えない。キャスターも冥馬と同じなのか怪訝な目をアヴェンジャーへ向けていた。
しかもそれだけではない。
初めて目にしてからというものの、何故か冥馬はアヴェンジャーに対して嫌悪感を抱いている。特に理由はないのに、説明できないなにかに押されて冥馬はアヴェンジャーを嫌悪していた。まるでそれが人として当然の反応であるかのように。
「冥馬。アレの力はどれほどのものだ? マスターであるお前にはサーヴァントの強さがある程度は分かるだろう?」
「……あらゆるステータスが最低クラスだよ。はっきりいって雑魚だ。だが」
「分かっている。こういう奴は得体が知れないなにかを持っていることが多い」
英霊にとって宝具は己のシンボルであり、強さそのもの。サーヴァント同士の戦いは宝具と宝具の戦いと言っても過言ではない。
故にアヴェンジャーの基礎ステータスがどれほど低くとも宝具が強力無比であれば、強力なサーヴァント足り得るのだ。
なにせ相手は遠坂と同じ始まりの御三家にして、聖杯を十世紀にも渡り求め続けた一族。その一族が聖杯戦争に下手なサーヴァントを召喚するはずがないのだ。決して油断してかかって良い相手ではない。
「――――燃えろ」
キャスターの背中にある擬似魔術回路に魔力が流し込まれた。擬似魔術回路が輝き、そこにインプットされた術式を自動的に『完成』させる。
ぼぉっとキャスターの手に炎の剣が生み出された。キャスターは炎の剣を容赦なくホムンクルスたちへ投げつける。炎の剣が空中で広がりホムンクルスたちへ襲い掛かった。
戦闘用ホムンクルスたちには対魔術の守りも施されていたが、マスターならまだしもサーヴァントであるキャスターの魔術を防げるものではない。
ボロボロの身でありながら主を守るためにハルバートを構えたホムンクルスたちは、為す術もなく無慈悲な炎に焼き払われた。
「はっ――――!」
陣形が崩れたと見るやキャスターの動きは早かった。黄金の剣を手に真っ直ぐにアヴェンジャーへ向かっていく。
「くすくすくす……」
少女のように花咲く笑い声を奏でながら、アヴェンジャーは可憐な声に似合わぬ毒々しい奇形の短刀を出現させる。
時に〝クラス〟というのは戦い方の目安にもなるものだ。セイバーやランサーであれば白兵を。アーチャーであれば弓による狙撃か、飛び道具による攻撃か。ライダーならば強力な対軍宝具。キャスターならば魔術。アサシンは暗殺。バーサーカーは猪突……といった風に。
しかし基本七クラスのどれにも該当しないアヴェンジャーは戦い方もアンノウンだ。
「RAッAAAAAAAAAAA!!」
バーサーカーよりも知性の感じられぬ、怪物染みた鳴き声をあげてアヴェンジャーが迫りくるキャスターを迎え撃つ。
風を切り裂くように振るわれる聖剣と奇形の短刀。二騎のサーヴァントが交錯する。
だがこんなものはサーヴァントにとって互いの実力を確かめ合うだけの挨拶のようなもの。これから人知を超えた英雄同士の戦いが、
「え?」
始まることはなかった。
「ぎゃっ……がぁッ…………」
アヴェンジャーの肩から勢いよく血飛沫があがった。聖なる剣による切り口はアヴェンジャーの表面だけではなく、内部までじゅぐじゅぐと浄化していく。
一升ほどの赤黒い血を撒き散らせながらアヴェンジャーは苦悶の叫び―――――ではなく苦悶しながら薄気味悪い笑みを貼り付ける。
冥馬もキャスターも余りの呆気なさに呆然としてしまう。
本当に一瞬のことだった。ただ一度の交錯、それだけでアヴェンジャーは敗北しキャスターは勝利したのだ。それこそ雑兵一人が死ぬほどの容易さでアヴェンジャーというサーヴァントの一角を倒してしまったのである。
或いはここからなにかアヴェンジャーの恐るべき能力が発揮されるのか、と冥馬は疑う。しかし霞みがかり消えていくアヴェンジャーの姿がその疑念を否定する。
アヴェンジャーはもうなにも出来ない。信じ難い事にアヴェンジャーは完膚なきまでに負けたのだ。後は消えるだけである。呆れ果てるほどの弱さだった。
(アインツベルンはボケたのか? こんな弱いサーヴァントなんて前代未聞だ。なにを考えてこんな雑魚を召喚したんだか。……ん? アルラスフィールや残ったホムンクルスたちの姿もない)
召喚したサーヴァントを失おうとも、マスターを失ったはぐれサーヴァントと契約すれば聖杯戦争を続行することは可能だ。だから前回からサーヴァントを倒した後はそのマスターも仕留めておくのがセオリーとなっている。
そんなセオリーを知っていたアルラスフィールは己の危険を感じ、冥馬たちの狙いが自分に移る前に逃げ出したのだろう。
肩を竦める。
魔術師として血に濡れる覚悟はとっくにしているが、冥馬はなにも敵だからといって無差別に殺すつもりはない。第三次からは折角監督役なんてものがあるのだ。サーヴァントを失ったナチス以外のマスターは令呪を破棄させて教会に放り込むだけで済ますつもりだ。
尤も頑として令呪を破棄しないのであれば殺すまでだが。
「…………なんだ、アヴェンジャー」
霊体化ではなく真実この世から消えようとしているアヴェンジャーの視線は真っ直ぐ冥馬へ向けられている。
暫くアヴェンジャーは冥馬のことを見つめていたが段々と口の端が釣り上がっていった。
「あはっ」
アヴェンジャーが嗤う。
「アハ、ハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハ!!」
ソレは何に対して嗤っているのか。ただの一合すら切り結ぶことすら叶わずに敗退した己が身か。はたまた自分なんて役立たずを召喚したアインツベルンか。もしくはこんな自分を倒してしまった遠坂冥馬にか。
いやもしかしたら、それは過去・現在・未来における人間全てに対しての嘲笑だったのかもしれない。
「―――――!」
ぞくりと断頭台にかけられたかのように首筋が冷えた。
これは敗北者が単に意味もなく断末魔に笑い声をあげているだけに過ぎない。なんの脅威もないはずだ。だというのに冥馬は『自分はなにか取り返しのつかないことをしてしまったのではないか?』と思えて仕方がなかった。
アヴェンジャーの嗤い声が小さくなっていく。嗤うのを止めたのではなく、単にアヴェンジャーの体が消えていったせいで声が現実味を失っていったのだ。
聖杯戦争が始まって四日目の今日。アヴェンジャーと呼ばれたサーヴァントは此度の聖杯戦争で最初に消滅した。
棒のようになる足に鞭打ちアルラスフィールはひたすらに走る。その後をもはや十人足らずとなってしまったホムンクルスたちが続く。
果たしてどこを目指しているのかアルラスフィールにも分からない。当てなどなかったが遠坂冥馬とキャスターから逃げなければならない。
レイラインからはもうアヴェンジャーの反応はなかった。キャスターの一撃で完全に消滅したのだろう。御三家に名を連ねるアインツベルン家がよもや最初に脱落したという事実は屈辱的であるが驚くには値しない。
アヴェンジャーを召喚し、その能力について知った時からこんなことになるだろうとはなんとなく覚悟していた。
「サーヴァントはいない。……だけど、まだ終わりません……」
聖杯戦争が進めばマスターを失ったはぐれサーヴァントも出てくるかもしれない。そのサーヴァントと再契約できれば、また聖杯を狙うチャンスを掴むことが出来るのだ。
それにアルラスフィールの掌中には他の参加者にはない最後の切り札――――否、この聖杯戦争においてアルラスフィール自身の命よりも優先すべき代物がある。
ホムンクルスの中でもアルラスフィールの『側近』ともいえる魔術に秀でたメイド、個体名はイーラという彼女。彼女が抱えている黒いケースの中身がソレだ。
サーヴァントを失っても、これがあればまだ挽回は可能。アヴェンジャーという最弱のサーヴァントを失いながらも勝利を伺えたのは、アインツベルンがこれを握っているからだ。
これを手にしているということは、それだけで他のマスターたちより優位があるということ。なにせこれは全てのマスターとサーヴァントが等しく望む『聖杯』を手に入れる唯一の鍵なのだから。
分の悪い賭けであるが、サーヴァントがおらずとも黒いケースの中身さえあれば、他の参加者が勝手にサーヴァントを潰しあい『準備』を整えたところで、こちらで鍵を使い漁夫の利的に勝利を霞めとることもできる。
(冬木市中にはナチスや陸軍が徘徊している。アサシンだってどこに潜んでいるか分からない。サーヴァントを失い、戦闘を任せうるホムンクルスたちを失った私は、他の参加者からしたら恰好の獲物でしかない。
これが他の参加者なら、監督役のいる教会へ向かい保護を求め身の安全を確保するのでしょう。……きっとあそこには温かい食事もある。雨風を防いでくれる屋根がある。けどその道はやはり選べない)
教会に保護を求めれば、アルラスフィールの掌中にあるそれについて知られる恐れがある。
「はぁ……こんな時、アヴェンジャーならいい加減に諦めろと言うのかもしれませんね」
アヴェンジャーは常々逃げたいだとか降参しようだとか諦めようだとか。アルラスフィールのやる気を削ぐことばかり言い続けてきた。
こうしてアヴェンジャーを失ってみると、どうして自分がアヴェンジャーを憎んでいたのか分かる。
アヴェンジャーの言葉はアヴェンジャーだけではなくアルラスフィールの声でもあったのだ。心の奥底で無意識のうちに思っていて、けれど己に課した矜持と義務故に言葉に出せない感情。
心の奥底の声は本音と言い換えることができる。そして自分の本音ほど自分に対して甘く優しいものはない。だからアヴェンジャーの諦めは酷く甘美で、アルラスフィールはそれに流されぬようアヴェンジャーを嫌っていたのだ。
(冬木市にいるのは危険ですね。分の悪い賭けですが、一時的に市外に逃げるしか……)
冬木市内には監視の目が至るところにあるが、一度冬木市から離れてしまえば目は少なくなる。
聖杯戦争が終わる頃まで市外で待機して、はぐれサーヴァントが出るか、聖杯戦争が終盤戦ともなれば冬木市へ舞い戻る。これが現状とれる最上の策だろう。というより他にとれる手段がまるで思いつかない。
その時、一発の銃声が夜の闇に響いた。
「お嬢……様……」
「イーラ!?」
アルラスフィールの隣りにいたイーラがお腹からどくどくと血を流している。
生まれて以来、アインツベルンの領地から出た事のなかったアルラスフィールは所謂世間知らずであるが、聖杯戦争の数日のお蔭で世間の中でも最も陰惨にして壮絶なる側面についての知識は得ていた。イーラは遠方から狙撃されたのだ。
アルラスフィールは見た。暗闇で顔も着ている服も上手く認識できないが、建物の屋上に数人の人影がある。
人影の一つがパチンと指を鳴らした。それを合図として2mはあろうという大男が金属がこすれる音を響かせながら、アルラスフィールたちに襲い掛かって来た。
それからの戦いは、もはや戦いとすら言えないものだった。
疲弊したホムンクルスたちは大男には敵わず、一方的に殺戮された。更には――――
(アレを失ったら、私はもう……)
それが意図的に引き起こされたのか、そうでないかは分からない。ただ恐らくは知らぬが故に起きてしまった事故だろう。
アルラスフィールにとって最後だった『希望』であり聖杯戦争で最も大切だった〝もの〟まで大男の殺戮は蹂躙していった。聖杯戦争の肝心要というべきソレも、高度な魔術理論で構築されているだけで耐久性は良くはない。大男がばら撒いた鉄の板すら貫通する『たった一発』の流れ弾程度にも抗う耐久力はなかった。
その殺戮からアルラスフィールは唯一人逃げ出した。もはや希望もなく生きる目的すらなくなったというのに、ただただ逃げ出した。
彼女に従っていたホムンクルスが感情を露わに「逃げて下さい」と懇願したからかもしれないし、生命としての生存本能が芽生えたからなのかもしれない。答えはアルラスフィールにも出せないだろう。
ただ一つ言えることは聖杯戦争四日目をもって七人の魔術師と七人の英雄によって紡がれる『英雄譚』は、道化と悪魔が笑う『茶番劇』と成り下がったということだ。
銃火から逃げ冬木市を走り彷徨ったアルラスフィールは最後、神の家の光を見て意識を失った。
――――ここに七人の魔術師と七人の英霊による〝英雄譚〟は閉幕し、物語は語るに値せぬ〝茶番劇〟に堕ちる。
願いを叶えるは〝聖杯〟に非ず。
叶えるものがあるとすれば、それは――――
【元ネタ】ゾロアスター教
【CLASS】アヴェンジャー
【マスター】アルラスフィール・フォン・アインツベルン
【真名】アンリ・マユ
【性別】不定
【身長・体重】不定
【属性】悪
【ステータス】筋力E 耐久E 敏捷E 魔力E 幸運E 宝具-
【固有スキル】
絶対殺害権:EX
相手が純粋な『人間』であるならば必ず殺害することができる。