新しいことを初めると大抵の如く思うのは『こんなに大変だったとは』だ。
神に仕える信徒として、聖遺物回収の任に務める聖堂教会の神父として、言峰璃正は数多の苦行に挑み、その度に乗り越えてきた。
100の苦難を乗り越え、1000の疲労を耐え抜き、10000の距離を踏破した。だが苦難に耐える精神があっても、苦難が苦しいことが変わるわけではない。そして苦難に挑む時に殆どの場合、最も辛いのは最初の第一歩だ。
人間は便利なもので〝慣れ〟を覚えれば、普通では耐えられないことも耐えられてしまう。逆に言えば慣れている道理のない、新しい挑戦へ踏み出す第一歩はどうあったって辛いものなのだ。
「こうして多くの人間の上に立つ……責任ある立場に身を置くことが、これほど大変だとはな。傍からは椅子に座って指示しているだけに見えたのだが、やはり私もまだまだ修行が足りない」
若くして聖杯戦争の監督役に任命された璃正だ。当然同年代の信徒の中でも群を抜いてタフな精神と、厚い信仰心と高い能力とを持っている。
しかし璃正が如何に優れた能力をもった人材といえど、たった一人で聖杯戦争の管理運営が出来るはずがない。
そも璃正は人間としての能力は高いが、対魔術師や対化物に優れているわけではないのだ。そのため璃正の下には聖杯戦争を運営するため聖堂教会・魔術協会の双方が派遣したスタッフが大勢いる。
方向性は違えども両方とも魔術師に対して深い知識をもつ二大勢力の人員だけあって、彼等は極めて優秀だ。国家に属する表側の軍隊、ナチスと帝国陸軍の介入という過去に例のないイレギュラーな事態が発生しているにも拘らず、どうにか一般人への神秘の漏洩は完璧といっていいほどに出来ている。
(彼等の投入した軍事力が――――実は良く分からないタネが仕込まれているかもしれないが――――見た目としては純然たる近代兵器であることが幸いした)
これでナチスや帝国陸軍が投入したのが武装した兵士達や戦闘機ではなく、ビームを連射する巨大ゴーレムやらアンデットの大軍だったのならば神秘の隠蔽は更に難航したことだろう。
ただ慣れない仕事だったため普段の倍は疲労した。
肉体労働者からしたらデスクワークなど生易しい仕事に映るかもしれないが、二つを経験したことのある璃正に言わせれば、両方とも違った苦労があり疲れがある。
特に面倒だったのは聖堂教会のスタッフと魔術協会のスタッフの対立だ。表向きは停戦している二大組織だが、元来魔術師と教会の人間は相容れない存在。こうして同じ任務についても、殺し合いにならない程度の衝突は何度かある。そういう時は彼等の上にたつ璃正が仲裁するしかない。
この仲裁がまた大変で教会側に肩入れすれば魔術師が「依怙贔屓だ」と叫び、魔術師側に肩入れすれば教会の人間が「神に仕える信徒が魔術師に組するとは何事か!」と怒る。……監督役の仕事が終わるころには、きっと体重が5kgは減っているだろう。
「神父から坊主に鞍替えするのは避けたいところだな」
もしも次の四度目、順当にいけば六十年後にヘブンズフィール4――――第四次聖杯戦争があるのならば、これらのことは改善しておくべきことだろう。
尤も六十年後のことなど璃正には分からない。聖杯戦争は此度で終了するかもしれないし、或いはこの冬木市が丸ごと戦争で吹っ飛ぶかもしれない。自分が生きているかさえ曖昧だ。というより生きていたならば幸運、というべきだろう。
「璃正神父」
「なにか問題かね?」
サングラスをかけた男が璃正の部屋に入ってくる。申し訳程度にカソックを纏っているが、隠しても隠し切れない血と硝煙の臭いのする男だった。
彼は代行者、魔術師や化物を殺すため彼等と同じ術を身に着けた異端殺しのプロフェッショナルだ。そして璃正の下に派遣されたスタッフの一人である。
「いえ。先日の戦闘に関する報告書です」
「例の件か」
「はい。昨日の戦いについてですが、ルネスティーネ・エーデルフェルトと遠坂冥馬の戦闘は遠坂の領土内で行われたため神秘が漏洩した痕跡はありませんでした。
ただルネスティーネ・エーデルフェルトは脱落しましたが、未だ冬木には妹のリリアリンダが残っており、その妹もまたセイバーを使役しています。これは如何したものでしょうか?」
「どうにも出来んよ。それとも君はリリアリンダ・エーデルフェルトの屋敷に乗り込み、ルール違反だから君は脱落だと言うつもりかね?」
「言いに行け、と仰られたら私はどこにだろうと行くしかありません。ですがその前に紙とペンを頂きたい」
「何故だ?」
「友人とかに後のことを書き残しておなかければなりませんからね」
「分かっているなら宜しい」
結局のところ幾ら中立の審判を謳おうと『サーヴァントに対抗するにはサーヴァントをもってするしかない』という聖杯戦争の大原則は崩せない。
サングラスの彼以外にも対化物に特化した代行者はスタッフの中にいるが、監督役の下にある全戦力を投入してもサーヴァントの戦歴に細やかな花を添えることにしかならないだろう。それだけサーヴァントの強さは人間にとって埒外なのだ。
サーヴァントと互角に戦う相馬戎次という参加者もいるが、彼は例外を五つ重ねた例外の極み。参考には値しない。
「参加者の七組のうち二組は軍隊を投入して、一組は同じサーヴァントを二騎召喚ときている。参加者の暴走を防ぎ戦いの公平性を期す為に、アインツベルンが汚い工作までして教会の人間を監督役として置いたというのに、ここまで公然とルールを無視されるといっそ笑えてきますね」
「表も裏も戦争なんてそのようなものだろう。別に聖杯戦争にはルールブックがあるわけでもないのだ。……そもそも、このルールを制定したのは我々監督役ではなく、御三家の頭首たち。元から公平性などあってないようなものだ」
「勝つ為にルールを破るんじゃなく、勝てるルールを作るというわけですか? ははははははは。成程これは確かに表も裏も変わりません。丁度枢軸の二国家が参戦してますしね。となると御三家は同盟国ですか? ナチスと帝国陸軍の連中は言うまでもありませんね」
「君はどちらが勝つと思う?」
「うーん。枢軸ですかね」
「理由を聞こうか」
「だってパスタ野郎がいないじゃないですか」
璃正は苦笑してしまった。
璃正としては友人……というには少し憚られるだろうか。奇妙な縁で聖杯戦争が始まってからなにかと世話になった冥馬に勝って欲しいと願う心はある。だが中立である監督役が露骨に依怙贔屓する訳にもいかない以上、璃正に出来るのは精々冥馬の勝利を祈るくらいだ。
もっとも個人の感情抜きにすれば、一番勝利に近いのは帝国陸軍だろうか。軍隊を擁しているのはナチスと同じだが、帝国陸軍にとって聖杯戦争は自国での戦いである。兵力が減っても容易に援軍を呼ぶこともできるし、なによりも戦いにおけるジョーカーたる相馬戎次が恐ろしい。
魔力供給・判断力・人格・戦闘力などの総合力で一番なのは冥馬かもしれないが、戦闘力という一点において相馬戎次はマスター最強だ。あれと一対一で互角に戦うことは他のどのマスターにも出来やしない。
「では私はこれにて。他の仕事が残ってますので」
「ご苦労だった。なにかあれば直ぐに私に連絡をして欲しい。連絡法は無線だろうと使い魔だろうとなんでも構わない」
「分かってます。ああそれと、本当にここに護衛はいらないんですか? 代行者の数人くらい今直ぐにでも都合できますよ」
「要らないよ。護衛が必要となるような事態になったところで、サーヴァント相手に護衛が護衛として機能することはないだろう。私も死にたくはないが、どうせ死ぬなら死者は少ない方が良い」
「……そうですか。璃正神父、貴方に祝福を」
サングラスを外した代行者は、真っ直ぐな瞳で璃正を見ると真摯に璃正の無事を願った。
それが少しだけ意外だった。この代行者とは以前仕事の関係で面識があるが、少なくともこういう風に人の無事を祈るような男ではなかった。命が危ない同僚がいるのなら「お前が死んだら、お前の家にある秘蔵の酒をくれないか?」というような性格をした奴である。
「らしくないな。どういう風の吹きまわした」
「だって貴方が死んだなら、私が監督役の仕事を引き継げって言われてるんですよ」
またもや璃正は苦笑した。
サングラスの代行者が仕事に戻り暫くして、璃正は漸く今日やるべき仕事については粗方片付け終えた。面倒な仕事を終えた爽快感で璃正はぐぐっと両手を伸ばす。
だが仕事を終えたからといって休むわけにはいかない。この冬木教会は脱落したマスターの避難場所であり、聖杯戦争隠蔽の本部である。いつどんなことがあっても対応できるよう、監督役は常に教会にいるのが理想だ。
職務に対して忠実であらんとする璃正には聖杯戦争中に『外出』するという思考はないも同然である。幸い部下ならば大勢いるため、なにか欲しいものがあれば部下に買ってきて貰えば良いだけだ。
それでも人間であれば休息は必要である。
璃正は息抜きのため、手頃なワインをグラスに注ぐ。あまり上等とはいえないワインだが軽く飲むならこれで十分だ。適当に飲んだ後は部屋に戻り一度仮眠をとるのも良いだろう。
「聖杯戦争が始まって五日間か」
教会には今二人のマスター、否、元マスターがいる。
一人は非情に憔悴した状態で教会の敷地で倒れていたアルラスフィール・フォン・アインツベルン。もう一人は冥馬が教会に押し付けてきたルネスティーネ・エーデルフェルト。
監督役の仕事の一貫として彼女達は教会で保護した。今はマスターの為にと用意されていた奥の部屋で休んでいる。
特にアルラスフィールは余程疲労していたらしく二日前に保護してから一度も目を覚ましていない。本来であれば医者にでも見せるべきなのだろうが、彼女は人間のようでいてその実、錬金術師がその叡智をもって生み出したホムンクルス。医者など呼んだところで効果は薄い。
「五日で二人のマスターが脱落した。このペースでいけば、戦いが終わるのはいつになるのやら」
それにしても外来のエーデルフェルトは兎も角として、冥馬の遠坂家と並び御三家に名を連ねるアインツベルンが、四日目にして真っ先に脱落したのは驚きだった。
魔術師の事情については詳しくないが、十世紀も聖杯を求めた一族だというのならば、さぞ強力なサーヴァントを召喚してくるのだろうと思っていただけに、この結末は意外である。
なにか手違いがあったのか、それとも戦ったのが余程相性の悪い相手だったのか。答えを知っているのはアルラスフィールだけだろう。彼女に従っていたらしいホムンクルスたちに関しては、部下の報告により全員の死亡が確認されている。
「……ん?」
璃正がグラスを片手に物思いに耽っていると、奥の部屋で物音がする。どうやらマスターの一人が眠りから覚めたらしい。
足音が近付いてきて、璃正の部屋のドアが躊躇するようにゆっくりと開いた。
最初に銀色の髪が目に入る。それで直ぐに起きてきたのが誰なのか分かった。
アルラスフィールは戸惑うように部屋の中に入ると、視線がまず璃正へと向き、それからワイングラス、壁へと移り、また璃正へと戻ってくる。
美しい、と素直に思う。だがこうして直接顔を会わせてみると、その美貌はどことなく作り物染みていた。
「目が覚めたようだな」
「貴方は、監督役の言峰璃正……? だとするとここは教会……なんですか。私は、あれから……」
「記憶が混乱しているようだな」
職務を果たすべく淡々と事務的に璃正は口を開く。
「ミス・アインツベルン。一昨日の夜、貴女は一人で教会の敷地内に倒れていたところを私が発見した。
調べたところサーヴァントを失っていたようなのでね。中立地帯に倒れていた貴女を、教会に保護を願ったマスターとして保護した次第だ。なにか質問はあるかね?」
アルラスフィールは一瞬驚いて硬直したが、すぐに記憶が戻ってきたのか諦めたように両肩を降ろす。
その様は――――女性に対しこんな事を思うのは失礼だが――――人生に疲れ切った老婆のようだった。
彼女のその姿と表情を見ただけで、彼女にとっての聖杯戦争がどのようなものだったかは想像に難しくない。きっと彼女はこの戦いで一度も勝つことが出来ず、ただひたすらに敗北だけを重ねたのだろう。
「他の、私以外の者達は――――」
「ここにいるアインツベルンの人間は貴女一人だ。他の君に従ったメイドなどについては、生存が確認された者は一人もいない」
隠しても直ぐに分かることだ。ならば、と璃正はアルラスフィールにとって残酷であろう事実をありのままに告げた。
「なんとなく、分かってました。ああ、そうか……やっぱり私一人が、生き延びてしまったんですね。聖杯戦争の為だけに生み出された私は、もう生きていても意味なんてないのに」
(ホムンクルス、か)
ただ純粋に誕生を願う心で生まれる人間の子供とは違い、ホムンクルスであるアルラスフィールは『聖杯戦争に勝利する』という目的で〝製造〟された存在だ。
聖杯を手に入れ願いを叶えるために集ったマスター達とは根底からして違う。彼女は聖杯を手に入れる、そのためだけに生まれた。敗北してサーヴァントを失うということは、生きる理由の喪失と同義なのだ。
「ミス・アルラスフィール。それほどまでに戦いに固執するのであれば、貴女にはここを出ていくという選択肢もある。……可能性は低いが、もしもマスターを失ったはぐれサーヴァントを見つけることが出来れば、再契約により戦線復帰も叶うだろう。
もしも再戦の意志があるのならば言ってくれたまえ。ここは聖杯戦争における唯一の中立地帯。脱落者以外の戦う意志あるマスターを置いておくことはできないのでね」
「私なんて役立たずが、一人でここを出て行ったところで、ナチスや帝国陸軍のどちらかが情報欲しさに飛びついてくるだけです」
アルラスフィールは俯き声を絞り出す。
「それに私の……いえ聖杯戦争はもう終わってるんです。戦う意味は、もうないの。私がこれからするべきことなんて、精々がこの戦いのことを事細かに当主に報告するだけ。それが終われば、本当にアルラスフィール・フォン・アインツベルンという女の価値は消えてなくなります」
聖杯戦争は終わっている、というフレーズに妙な違和感を覚えるが言い様の問題だろうと深く気にせず、璃正は神父として迷える者に告げる。
「戦いの儀が終わるまでまだ暫くかかるだろう。なにもすることがないのであれば、それまで考えると良い。人間の価値など、ないようでいて探せば幾らでも見つかるものだ」
「理想論ですね。そう簡単に人間の価値など分かるはずないでしょう」
「そうでもない。例えば貴女が近所の公園に落ちているゴミ拾いをするという善行を積んだとすれば、貴女には公園の美観に務めたという細やかな価値が生まれる。
この世の中、無価値なものは幾らでもあるだろう。だがそれ以上に価値あるものに溢れている。誰かの価値ある人間になるということは、やろうと思えば難しいようでいて簡単なものだ」
「一番難しいのは〝やろうと思うこと〟なんですよ、璃正神父」
「ふむ。それだけ喋れるのであれば体調に問題はないようで、なによ――――」
「どういうことですのこれはぁぁぁあああああああああああッ!!」
教会中に野獣と聞き間違えんばかりの叫び声が轟いた。
アルラスフィールの控え目な足音とは百八十度反対の、気位の高さと高慢さを現すような足音が近付いてくる。
「そこの神父!! 遠坂冥馬はどこですの!?」
「いきなりそれかね?」
起きて早々に大騒ぎのルネスティーネ。同じ脱落者でもアルラスフィールとは大違いだ。ルネスティーネはオーラすら視認できそうな怒りの形相で璃正に詰め寄ってくる。
だが毎度のスタッフ同士のいざこざを仲介し続けた璃正は悪鬼阿修羅の形相で女性が迫って来ても動じない。流石に少し職務放棄したくなったが。
「遠坂冥馬は君を教会スタッフに引き渡した後、聖杯戦争に戻った。彼自身はここには来ていない。それと君と君の妹がセイバーを二体召喚したことについてなのだが……」
「命だけ助けて恩を着せたつもりですの? し、しかも高貴なるこの私が長い年月をかけて溜めてきた宝石を、全て奪い自分のものにするなんて……! これだから極東の猿は下劣なのですわ! 田舎猿など魔術ではなく、動物園の檻の中でバナナの剥き方でも教わってればいいんです!
人の成果を掻っ攫うのはエーデルフェルトの務め。ハンターの金品を奪い取る猿なんて聞いたことありませんわ!」
「はぁ。私も日本人なのだがね。それと冥馬、宝石を奪ったのか……」
璃正は冥馬が宝石の出費についてあれこれ悩んでいる姿を何度か確認している。だがよりにもよって、こんな寝起きのライオンみたいな気性の魔術師から宝石を奪うとは、友人の剛毅さには呆れるばかりだ。
しかし宝石を奪っておいて命は奪わなかったのがまた冥馬らしい。
「こうしてはおられませんわ! 待っていなさい、遠坂冥馬! リリアのセイバーをパチったら、今度はメッタメッタのボッロボロにして川に放り込んでやりますわよ!!」
「ま、待ちたまえ! まだ話が…………行ってしまった」
止める間もない。嵐のように目覚めたルネスティーネは、嵐のように出て行ってしまった。
サーヴァントを失ったマスターが街をうろつくことほど危険なことはないのだが、殺しても死なさそうな性格だったので心配は要らないだろう。
「とまぁ、君のように大人しい女性もいれば、彼女のように……あー、アグレッシブな女性もいる。様々な人間を参考にしつつ、今後のことを考えるといい」
適当にアルラスフィールに言うと、璃正は仕事に戻る。
教会で保護したルネスティーネ・エーデルフェルトが出て行った件について書類を書かなければならない。