序盤においてアインツベルンに大規模な攻撃を仕掛け、アルラスフィールとアヴェンジャーが早期脱落する最大の原因を作った帝国陸軍は、あれから元の拠点には戻らずにアインツベルン城に駐留を続けていた。
帝国陸軍に組する魔術師勢によりアインツベルンに張り巡らせた結界も九割方が解除され、もはや碌に機能を発揮してはいない。かわりに陸軍によるトラップや結界が新たに構築され、順調にアインツベルン城は主の名前を変更しつつあった。
とはいえなにも帝国陸軍は頑強な拠点欲しさにアインツベルンを狙ったのではない。ここ冬木に派遣された部隊が帝国陸軍上層部より受けた命令は『万能の願望器、聖杯の入手』である。
リスクを犯してまでアインツベルン城を狙った大義名分とは、アインツベルンが『聖杯』を隠し持っている可能性を考慮してのことだ。
「それで結局のところ〝聖杯〟は見つかったのかい?」
無作法にテーブルに腰かけたライダーが、愛刀や愛銃の整備をしている戎次に話しかけた。
「――――いや。木嶋少佐たちがずっと捜索してたらしいが、それらしいもんは見つかんなかったらしい」
頭を上げず両手は整備を続けながら戎次は返事だけ返した。
「というとアインツベルンをやったのは完全に無駄骨?」
「そうでもねぇ。杯は手に入らなかった。だが代わりに〝城〟が手に入った。
アインツベルンの方もこっから逃げた後で脱落したらしい。教会の神父に保護されるところを、うちの奴が放った使い魔が見た。首級は獲れなかったが、これで敵が一つ消えた。こんだけの戦果がありゃ無駄じゃない」
「だったらいつまた動くの? アインツベルンと一戦してから、戎次ンとこの大将。まったくやる気出さないじゃない」
「知らん。俺は一介の士官だ。戦う時を決めんのは俺じゃねえ。上官が戦えつったら俺は戦うだけ。戦うな、って言われりゃここにいる。あとライダー、木嶋少佐は少佐だ。大将じゃねぇ」
「ふーん。アインツベルン攻めはあれだけ強行だったのに。お宅の大将……じゃなくて少佐。普段はやる気がない癖に、突然令呪で命令されたみたいに強権発動するんだから面倒くさいよ。
ま、私はいいんだけどさ。この城は中々居心地が良いし、お酒もいいのあるし。私、日本酒は好きじゃないんだよねぇ」
ライダーが地下の酒蔵から無断に拝借してきたワインを、グラスに注ぐこともなく豪快に口に含む。
酔いのせいか仄かに頬が赤く染まり、これはどういう意図なのか知らないが胸元が僅かに肌蹴ているためどうにも艶めかしい。戎次は努めて自分の仕事に没頭した。
銃の整備を疎かにしていれば万が一の時のツケは自分の命で支払うことになる。戎次には相馬家に戦国時代頃より伝わってきた妖刀という何にも勝る武器があるが、千変万化する戦場においてはサーヴァントすら殺す妖刀ではなく、どこにでもある平凡な銃が必要となる時もあるのだ。
「この城になかったっていうことは戎次の上官のそのまた上官たちが欲しがってる聖杯は、やっぱり教会にあるのかい?」
「たぶんそうだ」
万が一アインツベルンが木嶋少佐の推測通り『偽物』を監督役に掴ませていたとしても、それなら確実に『聖杯』は自分の手元に置いておくだろう。
だがアインツベルンの城をどれだけ捜索しても『聖杯の器』を見つけることはできなかった。見つかったものといえば精々がアインツベルン秘蔵の魔術礼装くらいだ。
だとすれば――――アインツベルンが聖杯の偽物を用意したという仮定に基づくならば――――聖杯は城から脱出する際に一緒に持っていったと判断するべきだろう。そして『聖杯の器』を持っているであろうアルラスフィールは教会に保護された。
聖杯が『偽物』だろうと『本物』だろうと結果的には教会にある可能性が一番高いのだ。ならば戎次たち帝国陸軍は当初の予定通り全てのマスターとサーヴァントを討ち取った後に教会へ赴けば良い。
聖杯を手に入れれば戎次たちの任務は一先ず完了。その後、聖杯がどういう使われ方をするかに興味がないといえば嘘になる。だがそういうことは上層部の、自分より広い視野をもつ人間が決めればいいと戎次は思っていた。
「そういやお前ぇ、聖杯なんてまったく眼中にねぇような態度だけどよ。なんでだ?」
「なんでって?」
「サーヴァントって〝聖杯〟が欲しいからサーヴァントになったんじゃねぇのか?」
記憶にある限り召喚されて以来、ライダーが聖杯戦争に対してある種の積極性を発揮したことは一度もなかった。
別に戦闘で手を抜いているというわけではない。敵を前にすれば真面目に戦うし、命令しなくても戎次の援護をしてくれたこともある。ただ他のサーヴァントにはある聖杯が欲しいという意気込みがライダーにはないのだ。
「うーん。戎次はそういうけどね。私は聖杯が欲しいからこうやってサーヴァントなんて形で出て来たんじゃないよ」
「じゃあ聖杯以外になんか欲しいもんでもあるのか?」
「それもないね」
「……だったらなんで聖杯戦争に参加してるんだ?」
聖杯戦争に参加しているのに〝聖杯〟が欲しいわけでもなければ、現代で仮初の生を得てやりたいことがあるわけでもない。
戎次にはライダーがどうして戦いに参加したのかさっぱりだった。
ライダーはワインをテーブルへ置き、考える仕草をすると。
「ないよ」
「は?」
「だから理由がない。聖杯も欲しくないし、特別やりたいこともない。戎次も知ってるでしょう。私が特殊な英霊だって」
「ああ」
ライダーは時代において伝説を築き上げ〝英雄〟に至ったサーヴァントたちとは違う。
人々を守ろうなどとは全く考えていなかったというのに、人々が勝手に祀り上げて偶像化しただけの存在。故に殆どの英雄が持ち合わせている自尊心や矜持なんてものはまるで持ち合わせていないし、どこか人間社会に捉えられない自由な雰囲気がある。
「他の英霊がどうだかは知らないよ。もしかしたら他の英霊には聖杯から戦いに参加するかどうかって問いがあって、それに答えたら召喚されるのかもしれない。だけど少なくとも私はそうじゃなかった。
気付いたらこんな姿で魔法陣の上に立っていて、ライダーっていう役職に現代と聖杯戦争に関する知識が流れ込んできて、目の前には初心そうなご主人様がいたわけ」
「初心? 俺ぁ数百人の首級を獲ってきたぞ。初陣はとっくにやってる」
「そっちの初心じゃないよ。殺し屋とか兵士とかじゃなくて、人間的に初心ってこと。あんまり多くを経験してないとも言うね。まぁ私はそういう子の方が好きだけど」
くすくすと口元を着物の袖で抑えて妖艶に笑う。ゴクリと思わず戎次は生唾を呑み込んだ。どれだけ国を守る戦士に徹していようと、戎次とて一人の男。そういった欲望を消し去ることはできない。
「とまぁそんなわけで、気付いたらいつのまにか戦いに参加することになっていた私は聖杯が欲しい理由がないってこと」
「良く分からねぇがたぶん分かった。じゃあなんで戦ってるんだ? やる気ねぇならさっさと元来たとこに帰っちまえばいいんじゃねえのか。俺は困るけど」
サーヴァントがマスターに従うのは『令呪』という絶対命令権以上に自らも聖杯を欲するからに他ならない。しかし聖杯を求めぬライダーには、戦いに参加する必要もなければ、生きている理由すらないのだ。
だというのにライダーはマスターである戎次とその上官である陸軍の意向にも比較的従順である。命令に不満や文句を返しても、命令違反や命令拒否はしたことがない。
ライダーはまじまじと戎次を見ていると、やがてなにがどうしたのか唐突に笑い始めた。
「ははははははははははははははは!」
「なにが可笑しいんだ?」
「あはは、はははははははっ。やっぱり戎次、アンタは初心だよ。戎次ってさ、生きてる人間には生きる理由がないと生きていけないって思ってる?」
「良く分からねえ」
相馬戎次にとっての『生きる理由』とは考えるまでもなく『国を守る』ことだ。相馬家の男子は代々そうやって生きてきたし、戎次もそうなるよう生きてきた。他の生き方なんて考えた事などなかったし、これからもする気はない。
だが他の人間にとっての『生きる理由』がどういうものなのかは知らないし、稀に愛国心の意味を履き違えた馬鹿がするように『国を守る』という理由を他人に押し付けようとも思わなかった。
いやきっとこれがライダーが初心と言う理由なのだろう。相馬戎次は普通の人間より碌に他人を知らないのだ。
「私は色々な時代の色々な人間を知ってるけどね。誰もが皆、アンタのように明確な『生きる理由』をもって生きているわけじゃないんだよ。
自分のやりたいことはあるけど、諸々の事情でやれない。ただ惰性のままに毎日生きている。取り敢えず生きているからなんとなく生きている。細かいことは考えず、生きてるから生きてる。大抵の人間なんてね。そんなものなんだよ。
実のところ、こうしてここでサーヴァントなんて形で存在している私も同じ口でね。サーヴァントとしてこうやって生きているわけだから、なんとなくサーヴァントとして戦ってるの。戎次のことが個人的に好きっていうのもあるんだけど」
「んじゃ聖杯がもし手に入ったらどうするんだ?」
「考えてないよ。獲らぬ聖杯の皮算用なんてしてもとれなきゃ意味ないし。けどそうだね。聖杯で願いが叶うなら……現状維持でも願うかな。今の自分はわりと好きだし。こんな機会なんて二度とあるもんじゃないしね」
「そっか」
ライダーの言葉は多くの人間を俯瞰してきた神のそれで、所詮は一つの時代を生きているだけの人間たる戎次には七割も理解できなかった。
けれどなんとなくライダーが信頼できる味方であるとは分かった。ならばこれ以上は追及することではない。
戎次は止まっていた手を動かし始め、銃の整備を再開した。
夕日も地平線の彼方へと沈み、そろそろ薄暗い空が真っ暗になるかという時間。冥馬は一人、自分の屋敷の安楽椅子に背中を預けてゆっくりと寛いでいた。
一人、だ。他には誰もいない。魔術師らしく偏屈でありながら、人間としても出来た人だった父は既に亡く、聖杯戦争において最大の味方であるサーヴァント・キャスターの姿もありはしなかった。
霊体化して待機しているのではない。本当に屋敷の中にいないのだ。
といっても別に冥馬がヘマをしてキャスターが消滅してしまった、という訳ではない。キャスターは霊体化したまま偵察に出ているのだ。
常道からいえば聖杯戦争期間中にサーヴァントとマスターが離れ離れになるのは好ましいことではない。
だが魔術師と英霊がこの蠢く冬木では偵察任務を任せるのに単なる使い魔では心伴い。サーヴァント――――それも魔術師の英霊であるキャスターはこういった情報収集においてはアサシンに次ぐだけの能力を持っており、マスターとしてはこれを活かさない手はなかった。
ただでさえキャスターは地力で他のサーヴァントに劣るクラスなのだ。こういったキャスターの特色を最大限に使っていかなければ勝てる戦いも勝てない。
それに戦いは人目を避けて夜にするのがお約束だ。頭のネジが吹っ飛んだ馬鹿でなければ白昼堂々に屋敷へ襲撃をかけてくるなんてことはないだろう。キャスターにも夜になる前に帰還するように言い付けてある。
もし万が一この時間帯に仕掛けて来れば、屋敷にある結界が反応するため直ぐに分かる。冥馬だけではなくキャスターも手を加えた結界だ。例えアサシンのサーヴァントでも完全に気付かれずに侵入するのは不可能である。
敵が来れば――――その時は仕方がない。少し勿体ないが令呪を使ってキャスターを呼び戻せばいいだけだ。
ルネスティーネとの戦いと同じく、自分のホームグラウンドで優位な戦いをすることができる。
「冥馬、戻ったぞ」
丁度紅茶の三杯目を注いだ所だった。偵察に出ていたキャスターが帰還した。
かしゃん、と甲冑が揺れる音を鳴らしながらキャスターは数体の鳩を見せる。
「帰る途中に結界外から屋敷を伺っている使い魔が数体いた。処分しておこう」
キャスターがパチンと指を鳴らすと数体の鳥が驚いたように悲鳴をあげつつ一瞬で白骨化し、そのまま霧のように雲散してしまった。
芸の細かい事だ。前に執事でもやっていけると思ったが、この分なら手品師でもやっていけそうだ。
(駄目だな。手品師のマジックには人間が実行可能かつ推理可能なトリックがないといけない。キャスターのマジックには少なくとも常人が見抜けるギミックがない。
種も仕掛けのないマジックはミステリーじゃなくてファンタジックだ)
冥馬は背凭れに預けていた背中をあげると、真面目な顔つきでキャスターに向き直る。
「それじゃ報告を聞こう。どうだった、偵察の成果は? 収穫はあったかな」
「良い報告と、もう一つ良いか悪いか不明な報告がある。どっちから聞きたい?」
「……良い報告と悪い報告なら悪い方から聞くんだが、不明とはまた中途半端なそれじゃ良い報告から」
「ナチスの居場所が分かった」
ピクリと冥馬の眉が動く。それだけで目立ったリアクションはなかった。
ただ見る者が見れば二つの瞳に危険な色が宿ったのを悟ることができただろう。そしてここに時計塔の冥馬の知り合いがいれば、今直ぐに荷物を畳み避難を開始したに違いない。
「どこだそこは?」
「柳洞寺。どうやら以前に俺達が見に行った後から潜り込んだようだな。寺の空気が様変わりしていた。坊主が念仏唱えるようなところに、硝煙の臭いが漂うなんてアンバランスも良い所だろうから直ぐに分かった」
「ナチスという確証は?」
「寺の外から軽く仕掛けてやったら黒い軍服とハーケンクロイツの腕章をした兵士がいた。ついでに修行っていう名目で寺から出された坊主にも確認済み。
坊主たちには現代の魔術師にしてはそこそこの暗示がかけられていたがな。軽く解除して持ってる情報を吐かせてやった。聞く所によれば朝方いきなり兵士達が侵入してきて、指揮官らしい風体の奴に顔を覗き込まれ、それ以後の記憶はないだと。
一々坊主どものアフターサービスするのは面倒だったから、連中の思惑通りの暗示をかけ直してから放り出しておいた。今頃は悟りを開くため皆で仲良く座禅でも組んでいるんじゃないのか? 暗示で操られている状態で悟りも糞もないと思うが」
「上々。見事な仕事だよキャスター」
欲しくてたまらなかった情報の一つ、ナチスの居場所。
冬木市最大の霊地であり、要塞とすればこれほど難攻不落な所はないという場所に拠点を置くあたり、ナチスの兵士達を操っている指揮官は中々の戦術眼をもっている。
だがそんなものは関係ない。
敵対する相手は徹底的に完膚なきまでに叩き潰すのが遠坂冥馬の流儀だ。特に尊敬に値しない個人的に腹立たしい敵へは情けなどかけず悉く皆殺しにしてきた。
今回も同じ。帝都であそこまで虚仮にしてくれたナチス全員、生きてこの冬木市から出してやる気はない。
「それじゃもう一つの……良いか悪いか分からない報告は?」
「最初の使い魔と似たような件だが、鳥を見つけた」
「鳥?」
「ただこっちはお手紙つきだよ。宛名は間桐狩麻、お前の知り合いだろう?」
「狩麻の手紙、だって」
キャスターが手を差し出すと、そこから足に手紙を括りつけた梟が出現する。蟲使いの間桐家出身の狩麻だが、鳥の使い魔に梟を好んで使うのを冥馬は長い付き合いから知っていた。
理由が気になり尋ねたところによれば「梟の方が魔女らしいから」らしい。合理的ではない浪漫溢れるその言葉が可笑しく、笑ってしまったことを覚えている。ついでにその時の狩麻が恥ずかしそうに頬を赤く染めた表情も
冥馬は足に括り付けられていた手紙を開いて中を見た。
「へぇ」
「なにが書かれてあったんだ?」
「ん? 見ていなかったのか?」
「マスターの手紙を渡す前に盗み見るほど俺は不作法者になったつもりはない。宛名や呪いなどがないか調べはしたが」
「そうか。……なに、パーティーの招待状だよ。開催場所は柳洞寺。こっちでオープニングの花火はあげるから、こちらには沸き立つ会場にゲストとして登場してダンスでもして欲しいとさ」
キャスターに手紙を渡す。キャスターはすらすらと手紙を流し読みして、
「――――――というと、間桐も柳洞寺の居場所を掴んで、連中を倒すのに共闘しようと言ってきたわけか。
信用できるのか? あの屋敷からは離れていても蟲の臭いがプンプンとしてきた。蟲っていうのは日の光のあたらない場所で人間様の迷惑をかけることに小さい脳味噌を働かせるものだ。謀られているかもしれんぞ」
「蟲が嫌いなのか?」
「当然だ! あいつらめ、所用で二日出ただけで俺が丹念に掃除した台所に住みついていたんだぞ。俺はああいう潰しても潰しても湧いてくる頑固な汚れが大嫌いなんだ」
キャスターが綺麗好きなのは数日間一緒に過ごした冥馬が身を以て知っている。
今では窓の淵を指でなぞっても埃一つとして付着しやしない。有り難い事なので放置しているが、やはりアーサー王としてはどうなのかと思わないこともない。
「心配はいらないさ。私は狩麻のことは昔から良く知っている。あれも聖杯戦争に参加するマスターなら大局を見誤ることはないさ」
ナチス、あの連中こそが、この戦いで出来る限り早期に退場させなければならない存在だ。
間桐狩麻は愚かな女ではない。そんな簡単なことはとうに理解しているだろう。狩麻を自分のライバルだと思っている冥馬はそう信じていた。
「俺は戦争に関しては…………なんでもない。指揮権はマスターにある。マスターに従うさ」
「それじゃ、そういうことで」
冥馬の認識は決して間違いではない。冥馬の思っている通り間桐狩麻は無能でも考えなしでもなく、優れた実力と思考力をもつ魔女だ。
もしこれが〝遠坂冥馬〟となんの関係もない戦いであったならば、狩麻はナチス打倒を最優先に動いただろう。
しかし冥馬には幼馴染に宿る〝遠坂冥馬〟への執着まで見抜くことはできなかった。それが冥馬の考えを狂わせる。
冥馬は気付かぬうちに蠱毒の中へと誘われようとしていた。