海外から取り寄せた絨毯の上に、割れた食器類やインテリアがぶちまけられていた。
ともすれば泥棒でも入られたのでは、と邪推するような惨状。しかしこの家に限ってそんな事は有り得ない。
なにせここは御三家の一角たる間桐の屋敷。立派な外観に誘われた泥棒などがいれば、屋敷内に入った途端に蠢く蟲たちの血肉となるだろう。
だからこの惨状は外来者によるものではなく、内部の者。間桐の現当主でもある狩麻のやったことだった。
怒り心頭。狩麻は肩を震わせながら、赤い花の入った花瓶を床に叩きつける。
「おやおや。非礼は承知しているけど貴女の忠実なるナイトとしてマイ・マスターに忠言させて貰うよ。物に当たるなんて美しくない真似は、マスターのような可憐なる一輪の花には似合わない。君に似合うのは怒った顔じゃなくそよ風のような微笑みさ!」
白い歯をキラリと光らせるアーチャー。やや濃い顔なことを除けばアーチャーは十分に美青年だ。舞台役者のような大仰さに潜む獅子の気配を放つ男の口説きに、そこいらの女性なら一発でクラッときたかもしれない。
だが狩麻がそこいらの女性に分類されるはずもなく、苛立ちを増しただけだった。
「忠実なナイトぉ? 随分と自分のことを過大評価するじゃない。貴方のどこが忠実なるナイト様なのよ。あの邪魔してきたセイバーを始末するのを放棄して、私の意見すら聞かずに逃げ出すなんてどういうつもりよ。事と次第によってはどうなるか分かってるんでしょうねぇ」
思い出すと狩麻はまた苛々してきた。
あの時、アーチャーが強引に自分を抱き抱え逃走に出た際、狩麻は当然ながら戻れと命じた。だがアーチャーは有無を言わさず狩麻の口を塞ぐと、命令を無視して全速力で間桐の屋敷に逃げ戻ったのである。
冥馬を前にして逃げ出したこともそうだが、なによりも自分の命令を無視したアーチャーが最も腹立たしい。これまでフリーダムなようでいて、最低限サーヴァントとしての節度は守っていただけに裏切られた気持ちは強い。
「これは私の国じゃなく、現代でいうところの中華に嘗て存在した軍師の言葉だが……〝兵は神速を尊ぶ〟というものさ」
アーチャーは話のテンポこそ普段通りだったが、瞳の奥には真面目で鋭い英雄としての光が輝いていた。
無意識にその輝きに圧され、狩麻は口を噤みアーチャーの弁明を聞くことにする。
「もしも僕がマスターに相応しい力をもつ英霊なら、十二勇士最強の騎士とアーサー王の義兄君の二人の賓客を相手にして華やかな円舞曲を奏でられたろうけど、生憎と微力な僕の力では僕自身の鎮魂歌を奏でることになりかねない。……いや僕の命なんて大して価値のあるものじゃなかったね。僕が憂慮したのはもっと別の、ずっと大切なものさ」
「自分の命より大切なものがあるっていうの? なんなの、それ?」
歴史にその名を轟かした英雄たるアーチャーが、自分の命以上に惜しむもの。それが何なのか興味があった。
しかしアーチャーから返って来たのは予想外の答えだった。
「はっはははは! そんなのマスターに決まってるじゃないか!」
「え?」
「僕の命なんて大して価値のあるものじゃない。そんなものよりも、マスターの儚くも可憐な魂の方がよっぽど大切なものさ。その大切なものを守るためなら、サーヴァントの本分を破ってでも動かないとならないだろう?
「――――――」
呆気に囚われた。
アーチャーは嘘をついていない。そもそもこんなことに嘘を吐くほどアーチャーは小さな男ではないだろう。それはなによりも彼の偉業が証明している。
にわかには信じられないことに、この稀代の英傑は本心から自分の命より遥かに上位にマスターである狩麻を置いていたのだ。
「不甲斐ないと君は思うかもしれないけど、セイバーとキャスター。二人の気高きナイトによるデュエットはマスターの身を危険に晒すほどの脅威だった。
僕もマスターに事情を説明してから、その上で撤退を選びたかったんだけどね。セイバーの突撃の破壊力が予想以上だったもので、マスターに許可をとっていたらセイバーに剣が届く範囲まで近付かれそうだったのさ。
マスターが命じるのであれば、僕はどんな敵とだって戦うけど、至近距離で十二勇士最強の騎士と競り合うのは、余りにも分が悪い賭けだったから、仕方なくマスターの許可もとらず勝手に撤退したんだ。ごめんね☆」
芝居がかった口調で捲し立てるアーチャーだったが、こうして一通り理由を聞くと戦術的に間違った判断ではない。
如何にアーチャーが優れた英霊といえど、接近戦でセイバーと戦えば敗北は目に見えているのだから。
「だけどマスターの命令すら聞かず勝手な行動をしたのは事実。マスターが望むのならこの僕の命を散らすことで許しを求めよう」
気障に薔薇の花の香りを嗅ぎながらアーチャーが微笑む。
随分と殊勝な態度だが、感心することはなかった。そもそも遠坂冥馬を倒すにせよ聖杯戦争に勝ち抜くにせよサーヴァントは必要不可欠。この段階でアーチャーを切り捨てられるはずがない。そんなことはアーチャーも承知しているだろう。だからこんなのはマスターの覚えをめでたくするためのフリに過ぎない。狩麻は努めてそう思い込もうとした。
「もういいわ。私の命を優先したっていう釈明に免じて許してあげる。やっぱりサーヴァントっていうのはマスターの従順な道具じゃなければねぇ」
「褒め言葉として頂戴するよ、マイ・マスター。その冷笑が素敵だ、バンビーナ」
狩麻は『遠坂冥馬』が関わると感情的になり易いという欠点をもっているが、それを除けば物事の計算は出来る人物だ。故にアーチャーの説明に納得することができた。或いは言葉通りアーチャーのマスターを優先する態度に少しばかりの心の変化があったのかもしれない。
兎も角アーチャーのことを一先ず許した狩麻だったが、すると今度は別の怒りがぶり返してくる。
「それより気に食わないのはあいつよ……! エーデルフェルトの小娘……! 後一歩で冥馬を跪かせられたのに、よくも邪魔を! あいつさえ……あいつさえ来なければ……!」
ナチスを利用してまで得た遠坂冥馬を倒す絶好の好機。誰がどう見ても狩麻とアーチャーは完全に冥馬とキャスターを追い詰めていただろう。
だがリリアリンダ・エーデルフェルトの乱入が全てを狂わせてしまった。
「もう直ぐ……あとちょっとで私が冥馬より〝上〟になれたのに。あの女……! 許さないっ」
奥歯を噛みしめる。
苛立ちを感じたのは一度や二度ではない狩麻だが、今度は過去に無い程の憤怒が渦巻いていた。
リリアリンダが後一歩のところを邪魔したことが、リリアリンダが遠坂冥馬の味方をしたことが、リリアリンダが遠坂冥馬と肩を並べていたことが。
あらゆることが気に食わない。腹立たしい。リリアリンダ・エーデルフェルトという女の存在が許せない。
「――――マドモアゼル・エーデルフェルトを討ちに行く気かい?」
「違うわ。あの女は心底腹立たしいけど、あんな脳筋サーヴァントの相手なんて御免よ」
セイバーは頭は悪そうだが、戦闘力に限れば優秀なサーヴァントだ。姉妹による別側面からの分割召喚なんてルール違反などではなく、正規の方法で万全に召喚されていたら敵無しの最強のサーヴァントとして、聖杯戦争を圧巻していたことだろう。
あのセイバーを相手にこちらの手の内を晒さずに勝利することは不可能だ。これまで隠してきたアーチャーの宝具、二つのうち一つを確実に晒すことになる。
それは駄目だ。アーチャーの宝具は遠坂冥馬を確実に倒すために徹底して隠してきたもの。遠坂冥馬を倒さないまま、他の相手に宝具を使うなど狩麻のプライドが許さない。
「前に私の所に来たナチスをもう一回利用してやるわよ。あいつらだって冥馬とエーデルフェルトは鬱陶しいはずだし、冥馬を倒すためなら利用できるでしょう。
あいつらにエーデルフェルトを襲わせている間に、私は冥馬に仕掛ける。それなら邪魔は入らない。今度こそ冥馬を屈服させられる……」
エーデルフェルトはさておき、遠坂冥馬とキャスターの戦力については以前の戦いで大体掴むことができた。サーヴァントの強さに限ればアーチャーはキャスターを完全に上回っている。まともに戦って負けるということは有り得ない。
魔術師の工房とは防御のためではなく侵入者を確実に殺すための城塞。こちらから攻めるとなると狩麻も不利を強いられるが、そこは強力な対軍宝具をもつアーチャーがいる。その気になれば遠坂の屋敷を地面ごと吹き飛ばすことも可能だ。
「余り賛成できないなぁ」
だというのにアーチャーは狩麻の作戦に良い顔をしなかった。
「なんですって? サーヴァントの癖に私の命令に逆らう気?」
「そんなつもりは毛頭ないよ。さっき言ったじゃないか、僕はマスターの忠実なナイトだって。ただね、ムッシュ・ダーニックと組むのはどうかな。
彼は気高き獅子じゃなく四方に糸を張り巡らせ獲物を狙う獰猛なる蜘蛛。麗しき姫君たる君は蜘蛛と組むべきじゃない。君が組むに足るのは……ムッシュ・トオサカだけじゃないのかな?」
「っ! 馬鹿じゃないの? 私は冥馬を私の前に跪かせるために、入念な準備をして聖杯戦争に参加したの! その私がどうして冥馬と手を組むのよ。そもそも――――」
自分と冥馬は昨日戦ったばかり。しかも罠にかけた上で、だ。そんな自分が改めて手を組もうと持ちかけたところで冥馬が了承するとは思えない。
はっきりいってアーチャーの進言は論外といって良かった。
「そうかな」
窓の外から日の光が差し込む。アーチャーの姿が暖かな光に照らされた。光の中にいるアーチャーは暗がりにいる狩麻に手を差し伸べてくる。
「ムッシュ・トオサカは僕の目から見て聡い人物のようだ。彼なら懇々と利害を解けば、ムッシュ・ダーニックを倒すまでの停戦は呑むと思うよ。
そしてマスターにとって邪魔な者達を一掃した後でムッシュ・トオサカと雌雄を決すればいい。その時は我が名にかけてマスターに勝利を捧げると誓おう。どうかな?」
無意識に狩麻はアーチャーの差し伸べた手を掴もうと手を伸ばす。だが途中で自分にそんな資格はないとばかりに手を引っ込めた。
アーチャーは自分のマスターの手を掴めなかった自分の掌に目を落とすと、表情を曇らせた。
「私の命令は、もう決定しているわ。今度こそ――――――冥馬を潰すわ」
そう言った狩麻の瞳は病的な熱を帯びていながら、どこまでも純粋な色をしていた。
きっと寒い季節なのだろう。双子館の屋根の上。見張りのためずっとそこで待機していたセイバーはぼんやりとそんなことを考えた。
聖杯の奇跡により仮初の器を与えられ現世に蘇ったサーヴァントには感覚がある。痛みも感じるし、寒ければ寒いとも思う。
だがそれは実体化すればの話。こうして霊体化して見張りをしている分には冬の寒さも他人事だ。
とはいえセイバーはそんな細かいことなど考えていない。精々が「寒さを感じないなぁ」とぼんやりと思う程度だ。
「……………………」
リリアより見張りを命じられて数時間、ずっとセイバーはここに一人でいる。
この見張りが果たして有意義なものなのか、それとも無意味なものなのかセイバーには分からない。ただセイバーは自分が頭の悪いことを自覚している馬鹿だった。
馬鹿な自分があれこれ考えるより、頭の良いマスターに任せた方が良い。自分はマスターが考えた事を信用して、マスターの言う通り力を振るえばいい。その方が性に合っている。セイバーのスタンスはこんなところだ。
自分みたいな馬鹿が考えても碌な結果にならないなんてことは、セイバーは生前からの経験で良く知っていた。
「寒いなぁ、ホントに」
一瞬だけ実体化したセイバーの全身に氷のように冷たい風が当たる。まるでセイバーのことを責めているかのように。
嘗て戦いがあったのだ。聖杯戦争なんて街一つの小規模なものではなく、国と国、民族と民族の血戦が。
偉大なる王の下に集いし十二人の勇士。その中にあってセイバーは最強だった。
聖騎士ローラン、十二勇士最強の騎士。
剣技において並び立つ者は一人としておらず、その鋼の肉体は剣や槍の悉くを弾き、聖騎士としての加護があらゆる魔術を跳ね返した。
だがなまじ強すぎたのが過ちの元だったのだろう。訪れた戦いでローランは致命的なまでのミスを犯した。
敵軍を捻じ伏せ援軍を呼び寄せる角笛を王より授かりながら、援軍を呼ぶのは武門の恥として角笛を吹く事を拒絶した。
向かうところ敵なし。無敵を誇った事が過ちを生んだのだろう。
自分が強いからといって、他の者が自分ほど強くないことが理解できなかった。自分が一万人の軍勢を単騎で相手取れるからといって、他の騎士がそうではないことに気付けなかった。どんな大軍が相手だろうと自分と友ならば勝てない者はいないと、手前勝手な考えを信じていた。
――――いやそれは致命的なミスではない。
自分がどれほど馬鹿なことを考えていようと、それだけなら問題になるはずがなかった。
ローランが犯してしまった最大の過ちは友の言葉に耳を貸さなかったこと。
この世で誰よりも信頼していた騎士は血戦の前に言った。角笛を吹き、王の軍勢を呼び戻せと。
自分より頭の良い友の言葉だったのに、この世の誰よりも信頼していた友の言葉だったのに――――愚かにも自分は友の考えより自分の考えを優先してしまったのだ。
敵軍四十万に対して自軍は二万。如何にローランが万夫不当の豪傑だとしても覆せる戦力差ではなかった。
二万の精鋭は獅子奮迅の活躍をみせ、ローランも敵の王の息子を討ち取り王の右拳を奪った。だが倒せど倒せど敵兵は尽きぬ。とうとう角笛を取り出し、自分の肉体が壊れるほど吹き鳴らしたところで全ては遅い。
ローランとその友に率いられた騎士たちは湯水のように湧き出る異教の兵士により一人また一人と死んでいった。
幼馴染で一番大切な親友だったオリヴィエも、友情の証として髪飾りをくれた騎士も、最期まで共に戦った大司教もみな死んだ。
そして最後まで残っていたローランも、自分のせいで死んでしまった皆と同じように力尽きて死んだ。
生き残った者は誰一人としていない。ローランが友の言葉に耳を傾けなかったばかりに、二万の命は無残に喪われたのだ。
「……セイ……」
こうしてサーヴァントとして聖杯戦争なんてものに招かれた英霊は多かれ少なかれ未練を背負っている。
だとすればこのことが英霊ローランが背負う最大にして最悪の未練といっていい。
「………バー」
だからこそ、
「セイバー!」
「おっ、おおっと!?」
いきなり自分の名を強く呼ばれて、屋根に座っていたセイバーはバランスを崩して倒れかける。
慌てて声のした屋根の下を見下ろすと、そこには腕を組んで明らかに立腹している様子のマスターがいた。
「ふぅ。誰かと思ったらマスターか。敵かと思って冷や汗かいたぜ。で、どうかしたのか? エスコートの誘いなら喜んで……」
「どうしたか? じゃないわよ! 私が仮眠してる間、見張りをしといてっていったのに私が名前を呼んでも気付かないってどういうことよ」
「名前を呼ぶ? もしかしてさっきから何度も?」
言葉にせずとも、じとっと睨むリリアの目が全てを物語っていた。
「悪い悪い。ちょっと昔のことを思い出しててうっかり……」
「はぁ。アンタも仮にも英霊なんだから、昔を思い出すなら見張りをこなしながらしなさいよ」
「いや~。生きてた頃から一つのことをしてるともう一つの事が考えられなくなる性質でさぁ。だけど大丈夫。これでも騎士だし、敵意をもってる奴が近付けば感覚的にモゾモゾくるから分かる」
「感覚的にって、敵には暗殺特化のアサシンもいるのよ?」
「ハサン・サッバーハのことだろう。心配しなくても連中のことは良く知ってる」
知っているといってもサーヴァントとしての知識ではなく生前の記憶によってだ。
例え深く考え事をしていたとしても、ハサン・サッバーハが近付けばセイバーは瞬時に戦闘体勢をとったことだろう。
「ふーん。ならいいけど。それより行くわよ」
「行くってどこに?」
「冥馬から連絡がきたの。同盟の件は了承するって」
「あいつ等かぁ」
昨日共闘した遠坂冥馬とキャスターを思い出す。
馬鹿の自分には細かい事は分からないが、取り敢えず胡散臭い感じはしなかったし、良からぬ気配もなかった。それに頭の良いマスターが同盟を組むことを提案したのなら、きっと信用できるのだろう。
「だから同盟の細かい打ち合わせのため会うことになったの。まさかセイバー、私を一人で行かせる気じゃないでしょう?」
「そういうことなら分かった。それで打ち合わせってどこでするんだ?」
「中立地帯の教会近くよ」
「教会?」
思わず聞き返す。もし自分の記憶力が仕事をしていたのならば、監督役のいる教会は原則的にマスターとサーヴァントは立ち入ってはいけない場所だったはずだ。
「心配しなくても教会の敷地内には入らないわ。けど中立地帯の近くなら敵の目もあんまりないだろうし、あったとしても派手に仕掛けることは難しいはずよ。こういう内緒話をするにはもってこいってわけ」
「へー。色々考えてるんだなー」
考えの深さに舌を巻きつつ、セイバーはリリアに追従する。
大きな未練を背負わせた血戦だが、未練以外に教訓もセイバーに与えていた。その足取りに迷いはなく、リリアというマスターを信頼して己の舵取りを任す。
そして一つの戦いが終わり、新たなる戦いが始まろうとしていた。