今頃遠坂の邸宅で行われているであろうアーチャーとライダーの戦いの喧騒も、円蔵山の上にある柳洞寺まで届きはしない。
夜空に浮かぶ月を見上げながら、ダーニックは影のある勝利の笑みを浮かべた。
「おっと」
傍らに置いてあるナチスの無線機がザァザァという雑音を届ける。ダーニックはやや拙い手つきで無線機を操作すると、送られてきた電波をキャッチした。
ナチスの無線機であるが、タイミングからしてロディウスやナチス兵たちからの連絡ではない。これは表向き敵対関係になっている者からの成果報告だ。
『……ミスタ…………ダー……ック』
無線機から雑音混じりに聞こえてきたのはぎこちない英語で話す男の声。ダーニックが指で無線機を操作していくと徐々に声がはっきりしていく。
『ミスター。ダーニック・プレストーン・ユグドミレニア。聞こえていますか?』
「ええ聞こえていますよ。木嶋少佐」
無線機越しにも拘らずダーニックは人を安心させるような朗らかな笑みをする。
無線機越しならどんな表情をしていようと相手には分からないのだが、だからといって油断して無表情に受け答えしていたら声にもそれが出るかもしれない。
『貴方の言われた通り相馬少尉とライダーを遠坂の屋敷へと向かわせました。間桐狩麻とアーチャーがそこにいることは黙っているようにとのことでしたので、彼等には屋敷にいる敵の首級を倒して来いとだけ命じましたがどうだったでしょうか?』
「問題ありません。十分ですよ、少佐」
『それは上々。私も貴方の御依頼を達成できて一先ずは安心といったところです。貴方の機嫌を損ねるのは私にとって不利益ですからな』
相馬戎次の上官であり事実上帝国陸軍側の総指揮官である木嶋少佐と、ダーニックはまるで昔からの知り合いのように話し合う。
聖杯戦争における二大ダークホースたるナチスのマスターと帝国陸軍の指揮官がこうして話している所を他のマスターが見れば、顔を青褪めるだけでは済むまい。あの狩麻ですら冥馬との戦いを中断してナチス・帝国陸軍以外の他マスターと一時休戦し共闘を選ぶはずだ。その果てに待つのはナチス・帝国陸軍の同盟とそれ以外という図式。
だからこそ、このことは極秘のことだった。他の参加者たちや、木嶋少佐以外の帝国陸軍の面々には特に。
『他になにか御用がありましたら、ここで仰って下さい。私もそう何度も貴方と連絡をするわけにもいきません。他の目もありますので』
「おや。では遠慮なく。そろそろ始めますので、少佐も動いて頂きたい」
『…………………………大詰めというわけですか』
「はい。準備は滞りなく。貴方にとってはこれが最後のオーダーです。これが終われば約束は果たします」
『了承した、ミスター。ではこれにて。動くのであれば早く動くべきですからな。相馬少尉たちが戻る前に』
「ご武運を」
通信が切れる。
木嶋少佐と帝国陸軍についてはこれで良い。
ダーニックとしては出来れば遠坂冥馬やリリアリンダ・エーデルフェルトという障害を排除してから動きたかった。だが御三家とて馬鹿ではない。これ以上時間をかけていたら御三家の誰かがダーニックとナチスがやろうとしていることに気付くだろう。そうなっては面倒なことになる。
「残念だねぇ。彼女を切り捨てるのかい?」
ダーニックの背後から惜しむような男の声がした。
「…………ファーレンブルク大佐。黙って後ろに立つのは止めて頂きたいものです。咄嗟に攻撃しかけてしまいました」
「ははははは、許してくれ。驚かせるつもりはなかったんだ。ただ地下の大空洞にずっと篭っていると気分が滅入る。こうして散歩がてら月明かりの下に出て気分転換するのは必要だろう」
ダーニックは所謂魔術使いではないし、特別戦闘に秀でているわけではない。〝魔術師〟としては兎も角〝戦闘者〟としてなら遠坂冥馬やエーデルフェルトの双子姉妹に劣るという自覚はある。
だが時計塔で海千山千の権力闘争を勝ち抜いてきたダーニックは勝利の数だけ恨みも買っているし、だからこそ背中への警戒は欠かしたことがない。
そんな自分からこうもあっさり背後をとったロディウス・ファーレンブルクという男。どうやら単に魔術師として優れているというわけではなさそうだ。ナチスへ亡命する際に、時計塔から差し向けられた封印指定の執行者十名を返り討ちにしたという噂を聞いたが、この分だと事実なのだろう。
「あの着物といい間桐家のフロイラインは私にとっては細やかな癒しだったのに、こんなことになってとても残念だ」
これまでの言動から察するにロディウスはこの国における民族服たる『着物』に並々ならぬ関心を抱いているらしい。
ダーニックには良く分からない趣味だが、ロディウスが間桐狩麻に対して関心を抱いているのも彼女が着物美人だからだろう。
「間桐狩麻は遠坂冥馬を倒す駒として利用してきましたが…………それも昨日まで。手負いの遠坂冥馬を殺せず取り逃がした時点で彼女は用済み。
失敗した間桐狩麻を援助してまで遠坂冥馬を倒させるより、確実に間桐狩麻を消しておくほうが肝心です。これから御三家の度肝を抜く事を始めるのですから。石橋を叩き過ぎるということはない」
「ハイリスク&ハイリターンより安全策。面白味はないけど悪くない考えだ。〝聖杯戦争〟のことは君に一任している。フロイラインのことは残念の極みだが、君の好きなようにするといい。我々ナチスは君を全面的に信用して、君を全面的にバックアップする」
「御助力痛み入ります。もうしばらくお待ちください。これがなれば大聖杯は貴国のものに――――」
この地にある聖杯は伝承で語られる聖杯とは違う贋作だが、真作に劣らぬ力を秘めた奇跡の結晶である。
流石のナチスも真作の〝聖杯〟を見つけ出すことは出来なかったが、贋作の〝聖杯〟が本物に劣らぬ奇跡をもつのであれば関係ない。
寧ろ本物故に担い手を選ぶ真作より、偽物故に担い手を選ばない贋作の方がナチスにとっては都合が良いだろう。
「ベルリンの総統閣下も聖杯入手の報を聞けばさぞお喜びになられるだろう。ナチスのもと世界は統一され、統一された世界で君はユグドミレニアの繁栄を約束される。まことに素晴らしいじゃないか」
機嫌を良くしたロディウスは疲れを抜き出すかのように伸びをすると、背を向けて地下の大空洞へ戻っていく。
この時ダーニックは気付くべきだった。先程のロディウスの言葉の中に総統とダーニックの幸福は含まれていても、自分自身の幸福が含まれていなかった事に。
気付いたところで、どうすることが出来たかは分からないが。
固有結界。
術者の心象風景で現実を塗り潰すそれは魔術における大禁呪であり、魔術師にとって到達点の一つとも言われている。
そんな才能ある魔術師が一生かけても到達できないような奇跡を、狩麻は目の当たりにしていた。狩麻の視界に広がるのは果てのない雪原。降り注ぐは冷気の結晶たる白雪。
魔術の奥義を使いこなす英霊となれば、本来であればそのクラスは魔術師の英霊たるキャスターであるべきだ。
だが敵はキャスターに非ず、ライダーのサーヴァント。
魔術師ではないライダーが自身の心象風景で世界を塗り潰せるのは、そもそもライダーが心象風景そのものが具現した英霊だからだろう。
ライダーの能力が固有結界ではないのだ。この固有結界そのものがライダーなのである。
故にライダーの真名は〝冬将軍〟。幾多の侵略者を挫いてきた冬の極寒が、人々の想いにより人の形で起動した存在である。
「あ、アーチャー! 相手が悪すぎるわ……!」
悲痛な声をあげる。
ライダーの真名が〝冬将軍〟だというのならば、アーチャーにとっては相性最悪の天敵もいいところだ。なにせアーチャーは生前それに敗北した英霊なのだから。
だが今更そんなことを言ってどうするというのか。
此処はライダーの心象世界、固有結界の中だ。ここに取り込まれた以上、ライダーを倒すか自然に結界が消滅するのかを待たない限り逃げることは出来ない。
「相性が悪い、か。そうだね……マスターの言っていることは間違いじゃない。これは厳しい戦いになりそうだ」
「っ! 他人事みたいに言わないで! どうするのよ、もう……!」
むかっ腹が立つ。冗談ではなく不味いのだ。狩麻にとって自分のサーヴァントがアーチャーである以上、このライダーは絶対に真っ向勝負してはならなかった相手だった。
そのことをしっかり理解しているのかと文句を言いたくなる。
「目を背けるな、マスター。過去に思いを馳せるのも、安楽の未来に浸るのも無意味だ。賢者であらんとするならば現在に挑むべきだ」
「アーチャー?」
豹変、と言う他ない。これまで間桐狩麻が見てきたお調子者のお祭り男はそこにはいなかった。
吹き荒れる白雪で真紅の舞踏服を彩りながら、毅然と天敵を見据える横顔はたった一人で世界に挑戦した偉大なる英傑のそれだ。
「マスターの懸念は知っている。〝俺〟は嘗てアレに敗北した。我が挑戦の道程はアレにより打ち破られたといっていい。
だが、以前に負けた相手に次も負けると決まっているわけじゃない。俺は自分が〝勝てる〟と信じている。これまでも、これからもそう信じて実際に〝勝って〟きた。マスター。君はこの俺の勝利を信じないのか?」
不思議だった。あれほど絶望的な状況に敗北の二文字が刻銘に浮かんできていたのに、アーチャーならば例え最悪の天敵相手でも勝ってしまうのではと信じたくなる。
きっと彼に付き従った者達も同じ気持ちだったのだろう。アーチャーの言葉には『この男ならやってくれる』という信頼を与えるだけの力強さがあった。
「……ったわよ」
「聞こえない。なんだ?」
「分かったわよ! そこまで言うんだから勝ちなさいよ! 負けるなんて許さないわっ!」
狩麻の叫びがマスターの証たる令呪にも宿ったのか、その言葉が絶対命令という形をとって発現した。
令呪の一角が失われ、その分の魔力がアーチャーの魔力となり守りとなる。
「――――その言葉を待っていた。征くぞ、嘗ての天敵。戦いだ、戦争だ」
「へぇ。記憶は曖昧なんだけどね。その口振り、アンタも生前に私にやられた口か。道理で見覚えがあるような気がした訳だよ。
アンタの言う通りこれは戦争だ。冬を超えるか、冬に折れるか。この雪原を乗り越えて、私にキツい一発を喰らわせられるか試してあげる……!」
水を一瞬で凍結させる冷気と、大地を抉る砲撃が激突した。
自らの世界を展開して嫣然とするライダーと、自然の猛威に果敢に挑むアーチャー。奇しくもそれは人類史の一つの象徴的姿といえた。
しかしマスターである狩麻には分かる。分かってしまう。
アーチャーの動きが鈍い。以前のキャスターとの戦いで見せた動きのキレが失われている。
原因を探るまでもなくこの固有結界の影響だろう。
命があることを許さぬとばかりに荒れ狂う極寒は確実に生命力・体力・魔力……戦うためのあらゆる力を根こそぎ奪っていく。
これこそがライダーの宝具『冬将軍・雪原白牙』の猛威。
この固有結界に取り込まれた者は、冬の極寒に侵攻を阻まれた数多の軍勢たちと同じ痛みと絶望とを味わうこととなる。
身を固めることなど気休めにもならない。魔術で体を温めようものなら、その魔術に使う魔力すら奪われて大した力を発揮できずに終わる。
――――アーチャーの言葉には『この男ならやってくれる』という信頼を与えるだけの力強さがあった。
それは決して間違いではない。アーチャーであればどんな不可能が立ち塞がっても、諦めずに戦い抜き不可能を可能にしてしまうだろう。
だが固有結界に取り込まれて十分も経っていないというのに、その信頼は揺らぎそうになっている。だとすれば
――――この雪原には、絶対の信頼をも奪い去るだけの絶望があった。
過去・現在、そしてこれからの未来。
この星に人類がある限り、永遠に侵略者の敵であり続けるソレは戦争の悪夢そのものだ。
「まだだよ」
ライダーが右手を上げると雪原が盛り上がっていき、雪山でもないのに雪の津浪が押し寄せてくる。
これまでの冷気による攻撃とは規模が段違いだ。それも然り、ライダーは人間霊に属する通常の英霊とは違い自然霊に近い存在。戦う場所が大雪原ならばライダーはその力を何倍にも増す。
ましてやここはライダーの固有結界。全てがライダーの都合が良いように出来ている。
「照準――――」
アーチャーの周囲に並ぶ無数の大砲。城壁をも砕く砲弾も雪の津浪という自然災害の前には微々たる力しかないだろう。
しかし人間とて自然に敗北を重ねてきたわけではない。時に知恵を絞り、工夫を凝らして圧倒的な自然に人間は抗ってきた。
アーチャーもそうやって常に強大なものに挑んできた英雄。雪崩を前にしてもその膝が屈することはなかった。
「――――撃てッ!」
砲撃が雪崩の一角を突き崩す。
狙い通り突破口を開いたアーチャーは強引に狩麻を抱き寄せると、マスターを抱き抱えたままその突破口に飛び込んだ。
背後にて白い津浪がアーチャーと狩麻が先程までいた場所を呑み込んでいく。あのまま棒立ちしていればアーチャーは兎も角、人間である狩麻は白い牙の餌食となっていたことだろう。
「上手く逃げるじゃないか。まだまだいくよ!」
「っ! 着地地点に氷柱を……!」
氷の柱の先は一流の刀匠が鍛えた剣よりも鋭く尖っている。こんな場所に着地すれば針山地獄を再現することとなるだけだ。
着地の寸前、砲撃を氷柱に喰らわせることでバラバラに破壊する。これで着地地点に問題はなくなった。
「―――――――頂戴だァ!!」
ただしそれはあくまで着地地点の話。
この雪原もライダーのマスターには影響がないのか、相馬戎次は変わらぬ俊足でアーチャーに迫るとその首級目掛けて刀を振り落した。
薔薇の舞踏服に身を包んだ騎士が動く。否、既に動いていた。疾風のような妖しき刃は、それよりも先に放たれていたサーベルに弾かれる。
「俺の首級、そう安々とは獲らせはしないぞ。相馬戎次……!」
戎次が刃を振り落してから反応していたのでは間に合いはしなかっただろう。だがアーチャーはライダーの存在ばかりに目を奪われ、もう一つの脅威である相馬戎次を失念するという愚を犯しはしなかった。故にこの三段構えも事前に読んでいた。
とはいえ読んだからといって防げるわけではない。相馬戎次との鍔迫り合いに押し負けると、アーチャーは狩麻を左腕で抱き抱えたまま雪原に叩き落とされた。
「うっ、ぁあっ!」
全身を殴りつけられたよな痛みが狩麻に奔る。
理解の追い付かない攻防に魔術で受け身をとるという判断が出来なかった。しかし状況は狩麻の理解を待ってはくれない。狩麻が寒さと痛みとに顔を歪めているその瞬間にも戦いは動いている。
空から雹のように降り注ぐ氷柱。それに対するは大砲の一斉砲火。氷と爆炎が空中でぶつかり合い炸裂する。
爆風の余波で狩麻は吹っ飛ばされた。
「マスター!」
アーチャーの声が遠くから響いているように聞こえる。
全身の痺れるような痛み。焼けるような冷たさ。着物から侵入した雪が白い肌をその冷たさで直に切り刻む。
「…………ぅ」
意識が遠くなっていく。心が落ちていくにつれて、痛みも冷たさもなにも感じなくなっていった。自分に必死に語りかけるアーチャーの声も聞こえない。
氷柱と砲弾の炸裂の余波であがった白煙。アーチャーは狩麻を抱き抱えると自分も体力を奪われているだろうに、逃げ場のない雪原の中、全速力でライダーたちから後退していった。
うっすら残った視界に真紅が広がる。どうやらアーチャーが自分が着ていた真紅の舞踏服を自分に被せたようだ。
それを最後に、狩麻は完全に意識を手放した。