聖杯戦争もいよいよ七日目。初日より一週間が経過した。戦いは中盤戦を終え、そろそろ終盤戦へと突入しようという段階だろう。
戦いが終わりに近付けば、これまで慎重策をとっていた者達も派手に動くようになる。温存していた宝具もばんばん使ってくるはずだ。
そうなれば必然的に聖杯戦争を管理運営する立場である自分の仕事が増えることになる。璃正はそれに掛かる労力を想像し少しだけ憂鬱になった。
とはいえこれも与えられた一つの修行なのだと割り切り、手始めに残っている仕事を片付けることにする。
だが璃正が残りの仕事に取り掛かろうとした時、背後でドアをノックする音。
目の前に仕事があるとはいえ璃正は自分が神父であるということは忘れてはいない。そして神の家は常に開かれてあるべきだ。
神父としての本分を果たすべく璃正は腰を上げる。
「待たれよ。今開けよう。教会の門は常に開かれている」
璃正が扉に手をかけようとした次の瞬間、
「いや。こちらが勝手に開けよう」
「―――――!」
扉の向こう側から感じた殺気。
璃正の動きは早かった。数多の苦行により培われた瞬発力で横合いに飛びドアから離れる。
それと同時に教会のドアを貫通する鉛玉の豪雨。神の家に飛び込んだ弾丸が椅子や十字架などに風穴をあけていく。床を弾丸が跳ね、神聖な神の家に殺戮の弾がばら撒かれた。
暫く璃正が息を潜めていると軍服を着た兵士達を引き連れた男が、ドアの残骸を踏み潰しながら入ってきた。
「冥馬はナチスよりは紳士的だと評していたが、やはり同じ穴のムジナだったということか」
指揮官と思わしき男も、引き連れてきた兵士も白人ではなく東洋人だった。纏う軍服も黒ではなくくすんだ緑。そして指揮官の男には〝少佐〟の階級章があった。
恐らくは相馬戎次の上官、この聖杯戦争で帝国陸軍を指揮する立場にいるであろう男だ。
「心配はご無用だ、神父様。我が帝国は神道国家。君達の信仰している神とは一切合財関係ないし私も信じていない」
「木嶋少佐」
「ああ、分かっている」
部下の一人に急かされた木嶋少佐は、懐から抜いた拳銃を璃正の眉間に照準する。
「アインツベルンより移譲された〝聖杯〟を出して貰おうか。あれを手に入れることが我々の――――というよりは我々を派遣した上層部の目的でね。
所属が聖堂教会といえど君も名前からして日本人だろう。同じ日本人同士、これも日本の為と思って大人しく渡してくれるとありがたい。
聖杯を差し出せば悪いようにはしない。帝国としても聖堂教会との仲をこじらせるのは本意ではないだろうしなぁ」
言いつつも木嶋少佐の向ける銃口は璃正の眉間から外れることはない。彼の引き連れてきた兵士も自動小銃を向けている。
「断れば容赦なく撃つ、か」
「そういうことだ……。どうするね神父様。神様の家とやらに神父の血が流れる悲劇を生むか。はたまた神様の杯の贋作を我々に渡すか。十秒だけ待ってやろう」
聖杯を差し出せば撃たないというのは信じていいだろう。
彼等の所属する国家、即ち大日本帝国とイタリアは同盟関係。ヴァチカンに本拠地を置く聖堂教会の神父を殺すのは避けたいはずだ。
そもそも連中は聖杯が目的であって、言峰璃正を殺すことにメリットなどありはしない。
「10、9、8……」
カウントが刻まれている。
流石に本職の軍人というべきか。向けられている銃口は震え一つない。カウントが0を刻めば銃口は容赦なく火を噴くだろう。
だが解せないこともある。
(聖杯を奪うならどうして帝国陸軍は、ここに相馬戎次とライダーを差し向けなかった。如何に私がただの監督役でサーヴァントのような戦力をもたないとはいえ、万全を期すならサーヴァントを投入するべきだ。
なにか重要な別件があった? それとも私一人相手にサーヴァントなど要らないという油断か? はたまたなにか別の理由が……)
いや、そもそもそれ以前に。
(連中は本当に聖杯戦争を制する気があるのか?)
思い返せば帝国陸軍の動きは最初から奇妙だった。
帝都での襲撃でも総兵力をもって一気に叩き潰すという単純明快にして最善の策をとらず、敢えて戦力を小出しにしてこちらの実力を測るような行動をとっていた。
石橋をたたいて渡る、だけでは説明できないほど病的なまでの慎重さである。慎重が度を過ぎて石橋を叩き過ぎた挙句に破壊してしまう本末転倒さ。
それにこうして対峙していても、木嶋少佐からは冥馬やルネスティーネにあった勝利を求める貪欲さが見受けられない。
(だが――――)
例え木嶋少佐の心中がどうであろうと、木嶋少佐が部下を引き連れて教会に保管されている〝聖杯〟を奪おうとしているという事実は変わらない。
そして聖杯戦争の監督役として璃正は違反者から〝聖杯〟を守る義務がある。
「5、4、3……」
木嶋少佐のカウントがどんどんゼロに近付いていく。そしてカウントが2を告げようとしたその瞬間。
「覇ァッ!!」
璃正の体が柳のように揺れ、次いで疾風のように動き、雷霆の如き掌底を叩き込んだ。
だが聖杯戦争なんて場所に指揮官として派遣されるだけあって、相馬戎次という規格外には劣るものの、木嶋少佐も相応の実力者ではあった。非道にも隣りにいた部下を自分の盾として璃正の掌底を防いでいた。
木嶋少佐の無傷を代償に盾となった兵士は地面に崩れ落ちる。
「やはり簡単に聖杯を譲ってはくれないようだな。この数を相手に暴挙だと思うが」
「そうでもない」
璃正とて敵にサーヴァントがいるならば徹底抗戦という選択肢を捨て、〝聖杯〟を持って逃げるという選択をとっていただろう。
サーヴァントがどれほど人間にとって理不尽な脅威なのかは一度ランサーと戦ったからこそ理解している。
だが相手が人間。それも魔術師でもない兵士達というのであれば、言峰璃正でも交戦して勝つ可能性はある。
「大人しく聖杯を譲ってくれればこちらも無駄な労力を使わないで良いというのに。ままならないものだ」
「君達が国の命でここに来ているように、私も聖堂教会の命でここに来ている。君達軍人は目の前に敵がいるからといって敵前逃亡をするのかね?」
「成程。確かにそれは出来ない。軍人にとって敵前逃亡は銃殺だ」
璃正と木嶋少佐の距離は二歩半。この距離であれば銃より拳の方が早い。璃正の技量をもってすれば、二歩半を縮めるのは容易いことだ。
会話しながらも、璃正は容赦せず怒涛の拳打を木嶋少佐に放っていく。
けれど至近距離で八極拳士と銃で戦うことが愚であると木嶋少佐も承知していた。
故に彼が抜いたのは銃ではなく日本刀。相馬戎次の持つ妖刀と比べればサーヴァントと切り結ぶことなど到底不可能な刀ではあるが、人間の武器としては十二分に上等な名刀である。
「本職を舐めるなよ神父」
無感動に繰り出された斬撃。頸動脈を正確に狙う刃を、璃正は後方へ体を下げることで回避する。
お返しとばかりに木嶋少佐に蹴りを喰らわそうと足に力を込める璃正だが、こと逃げに関しては木嶋少佐が一枚上手だった。璃正が回避に費やした僅かな時間で、自分は部下の兵士達の背後に引っ込んでしまっていた。
部下の背後に逃げた木嶋少佐は前線で直接刃を交える兵士から、本分である指揮官の仕事に戻る。
「交渉は決裂だ。聖杯は神父を始末してから手に入れる。撃て」
命令と同時に火を噴く銃口。だがその程度に璃正が臆することはなかった。
「ふんっ!! こんなもので!!」
璃正は銃弾から逃げ出すどころか、逆に銃弾に真っ直ぐ突進していった。
それは誰の目から見ても自殺志願者と見間違わんばかりの蛮勇であったが、璃正の纏う僧服が防弾仕様であるという一点が蛮勇を勇気に変える。
「うぉおぉおおおおおおおお!!」
両手をクロスさせ、迫りくる銃弾を僧衣で弾きながら突進した璃正は、兵士達に自分の間合いまで近付くと三人の兵士をまとめて蹴り飛ばした。
これには無感動を貫いてきた木嶋少佐も目を丸くする。
接近された兵士はナイフを取り出し、または銃剣術で璃正に襲い掛かってくるが、兵士達の隙間を滑らかにすり抜けると、次々に手刀を叩き込み兵士達を失神させていく。
ざっと二十人の武装した兵隊。彼等はおよそ数分のうちに言峰璃正一人によって沈黙させられた。
あちこちが破壊された教会で立っている人間は二人。言峰璃正と木嶋少佐だけ。
木嶋少佐は倒れた部下を見下ろすと、あることに気付き眉を潜めた。
「驚いた。全員死んでいないな」
璃正によって倒された木嶋少佐の部下である兵士達。彼等の中には腕の骨が折れている者や椅子に頭から突っ込んでいる者などはいるが、誰一人として命を奪われてはいなかった。命が危うくなるほどの致命傷も受けてはいない。程度の差はあれ全員がゆっくり休んで療養すれば健康体に戻れるだろう。
「私とて聖職者の端くれだ。このような血腥い監督役に任じられたとはいえ、殺生に手を染めるわけにはいかん」
「ご立派な考えだが、甘いことだ。それともこんな連中を相手に殺す気になるまでもないという余裕かな?」
「――――信念だ」
残る敵は木嶋少佐のみ。璃正の目算では木嶋少佐もかなりの使い手だが、それでも武術家としての強さであれば自分が上回る。
兵士達を倒した以上、形勢は逆転している。璃正の方が木嶋少佐よりも優位に立った。
璃正は残った木嶋少佐に、岩をも砕く拳を突き出した。
「なん、だと……?」
驚きは璃正のもの。
木嶋少佐へと突き出された拳は、古めかしい鉄製の盾により受け止められた。鉄を思いっきり殴った璃正の掌からは血が滲む。
けれどそんなことは大した問題でもない。木嶋少佐を盾で守った人物、それが最大にして最悪の問題だった。
「何故だ……! 何故ナチスのサーヴァントが帝国陸軍の指揮官を庇う!?」
璃正と木島少佐の戦いに割って入った白い影。それはランサーのサーヴァントだった。
「どうしてかだって? それがクライアントからのオーダーだからさ」
ランサーは以前に会った時と変わらぬ飄々とした口調で言うと、手から出現させた無骨な槍で璃正を薙ぎ飛ばした。
「ミスター木嶋。迷惑かと思いましたが、丁度邪魔者のそちらの兵士達が消えてくれたようですので御助力させて頂きますよ」
カツカツと規則正しい足音をたてて歩いてくるのはナチスドイツ側の魔術師、ダーニック・プレストーン・ユグドミレニア。
「いえいえ。彼は予想以上の使い手らしく、こちらの兵士達では持て余していたところ。御助力は望むところです」
帝国陸軍の指揮官である木嶋少佐。ナチス側のマスターであるダーニック。本来ならば敵同士であるはずの両者はまるでそれが自然体のように並び立つ。
その光景に璃正は自分の悪寒が正しいものだったのだと悟る。
「ま、まさか帝国陸軍は……いや木嶋少佐、貴方はナチスと裏で内通していたのかっ!」
「今更否定する意味もない、か。その通りだよ神父。こうして帝国陸軍の指揮官などを任されている私だが、ミスター・ダーニックとは取引を交わしたギブ&テイクの関係でね。無論、これは上層部も部下達も知らぬことだが」
「なんてことだ」
つまり木嶋少佐は最初から聖杯を手に入れるつもりなどありはしなかった。何故ならば木嶋少佐はダーニックの協力者。表向きは帝国陸軍の指揮官として、帝国に聖杯を献上するため戦いながら、裏ではナチスの有利になるよう立ち回っていた。
とんだ出来レースだ。まさか第三次聖杯戦争における最大戦力が裏では通じ合っていたとは。
「こうして姿を現してしまった以上、ここで気絶している彼等には悪いが……。宜しいですね、木島少佐」
「構いませんよ。貴方がやらずとも私がしていたことです」
ダーニックの言葉に木嶋少佐が頷くと、ダーニックは一言「ランサー」とだけ言った。
ランサーは面倒臭そうに了解の意を告げると、どこからともなく天井から剣が降り注ぎ気絶している兵士達を貫く。
「――――なっ!」
一瞬の惨劇。璃正が決して死なぬように意識を奪うだけに留めた兵士たちは、その全てが凶刃に貫かれ絶命した。
神聖なる神の家に真っ赤な血だまりが広がる。
「なんて、ことを……。木嶋少佐! 君は自分の部下を見殺しにしたのか!?」
「仕方ないだろう。私の裏切りがばれれば私が死ぬんだから。私の命と部下二十人の命。悲しいことだが、私の基準では私の命の方が勝る価値を持つのでね」
「――――!」
木嶋少佐は迷いなく断言する。
璃正は悟る。この男、木嶋少佐には義侠心や愛国心なんてものは欠片もありはしない。あるのはどこまでも自分の私欲を追及する我欲だけ。
軍服を纏う資格などありはしない最低の裏切り者、獅子身中の虫。それが木嶋少佐の正体だ。
「無駄話が過ぎた。ダーニック殿、お願いする」
「分かりました。ランサー、仕留めろ」
「楽な仕事だ」
ランサーは特になにもしなかった。したことといえば左手から出現させた剣をなにもない虚空に無造作に振り下ろしただけだ。
だというのに璃正の体はまるで刀に切られたかのように割れて血を噴出させた。
「ぐっ……ぁっ」
監督役としてナチスが帝国陸軍の指揮官を使って暴虐をしているということを、どうにかして他のマスターたち――――冥馬に知らせなければならない。
そうでなければナチスを止められる者はいなくなり、聖杯は世界一危ない集団の手に渡ってしまうだろう。
冥馬の父に『相応しいものに聖杯が委ねる』ことを託された身として、こんなところで斃れるわけにはいかないのだ。だというのに無情にも璃正の体はみるみると力を失っていく。
だが無情にも流れていく血は、言峰璃正から大地に立つだけの力を奪い去っていく。
やがて立っていることすら出来なくなり、ばたんと床に倒れた。
(まだ、だ……)
ただし強靭な意志力で、倒れながらも意識だけはぎりぎりで繋ぎとめる。
冥馬ならばやがて騒ぎを聞きつけてここにやって来るだろう。その時のために、少しでも多くのことをこの眼に焼き付けておかなければならない。