極東の地方都市にある教会とは思えないほど立派だった冬木教会は、見る影もなく破壊されていた。
薬莢と破壊された椅子の破片が乱雑に散らばり、殺された兵士達の流した血が赤い絨毯を敷き、神父の体に剣が刺さったその光景は実に冒涜的だった。敬虔な信仰者がこれを見ればこの惨劇を齎したダーニックと木嶋少佐を正面から非難することだろう。
しかし神ではなく魔術という神の奇蹟に反した力をもつダーニックと、そもそも無神論者である木嶋少佐には神の家で行った暴虐にも特に思うことはない。
ダーニックと木嶋少佐は腰を掛ける場所を失った教会で、ランサーが目的の物を探し出してくるのを待つ。
「――――あったぞ。これだ」
待つこと数分。教会の奥から出てきたランサーが脇に抱えていたのは、どこか清らかさを感じる木箱だった。
流石にランサーは物を見る目に関しては超一流である。苦も無く教会にあるソレを探し出してみせた。
これでTPOを弁えず銃火器を徹底的に嫌いぬく困った性質がなければ、それなりにマシなサーヴァントなものを。ダーニックは決して悟られぬよう何重にも覆い隠した内心で溜息をついた。
「ご苦労。確認のため見せてくれ、ランサー」
「そら」
ランサーは死んだ兵士達の持ち物だった機関銃を足で踏みつぶし粉々にしながら、ダーニックに木箱を手渡した。
木箱を開けるとそこに収められていたのは、心を溶かすほどの魔性の美しさをもつ黄金の杯。
贋作とはいえ聖杯を語るだけはある。幾多もの政治闘争を潜り抜けてきたダーニックをもってして感動を表に出してしまうほどの一品だった。
錬金の大家アインツベルンは伊達ではないのだとダーニックは改めて思い知る。
「美しい……」
そう呟いたのは木嶋少佐だった。
自分の私利私欲のために国を売るような男も、人並みの美観というものは備えていたらしい。
「同感です。正にこれこそ聖杯という出来栄えですね。監督役の神父はさぞ大切に保管したことでしょう。神の血を受けた正真正銘の聖杯ではないと頭では分かっていても、聖杯という名前でこれほどの美しさであれば聖職者として感動を覚えずにはいられない」
「私からすれば外面だけで中身の無いすっからかんの代物だがな」
つまらなそうに聖杯を目の端で捕えながらランサーは酷評する。
ダーニックや木嶋少佐と違い神域の眼力をもつランサーからしたら、この聖杯は感動どころか唾棄すべきものに過ぎないのだろう。
「君からすればそうだろう。しかし君ほどの目をもつ人間など現代には指で数えるほどしか……いや指で数えられる程もいないだろう。我々からすればこれは十分に〝聖杯〟足り得るのだよ……」
ともあれこれで目的は果たした。ダーニックは笑みを深める。
「ところで教会で保護されているアルラスフィールは見つかったか? アインツベルンの知識を持つ彼女は出来れば押さえておきたかったのだが……」
ランサーはゆっくりと首を振る。
「残念ながら。どうもあのホムンクルスは逸早く逃げ出したらしい。奴が保護されていたと思わしい部屋の窓が開いていた。貴様たちの無粋な鉄屑の雑音がトラウマになっていたんじゃないのか?」
「そうかもしれん」
アルラスフィールは城を追われてから、夜通しナチスや帝国陸軍の兵隊による襲撃を受け続けていた。
その結果彼女が銃声などの兵士を連想させるものにトラウマを覚えていても不思議ではない。
「まぁホムンクルスは止むを得ないか」
どうせアルラスフィールの確保は念には念を入れて更に念を入れるレベルの保険に過ぎない。確保しなかったところで、計画に支障などは出ないだろう。
「どうにかここまでは計画通りに進められたな」
遠坂冥馬という強敵を屠る絶好の好機を、ランサーの下らないプライドで妨害され失敗するというイレギュラーはあったが、聖杯戦争は概ねダーニックの思惑通りに進んでいる。
今頃障害の一人である間桐狩麻は木嶋少佐の命令で向かわせられた相馬戎次とライダーにより仕留められているはずだ。
仮に仕留められてなかったとしても、相馬戎次とライダー相手に間桐狩麻はかなりの消耗を強いられるのは確実。そうなれば他の陣営――――それも夜な夜なターゲットを求め徘徊しているであろうアサシンにとっては良い的となるだろう。
間桐狩麻が今宵敗退するのは九割方確定していることだ。
遠坂冥馬、リリアリンダ・エーデルフェルト、エルマ・ローファス。作戦決行直前に三組の主従を残してしまったのは少し痛いが、止むを得ない。時間が押しているのだ
それに残った三組への対策の一貫として、こうしてわざわざ教会に保管されている聖杯を奪取するなんていう、ダーニックとナチスの計画では必要なかった寄り道をしたのだ。ここまでやって失敗するのなら、なにをどうしようと作戦成功は不可能だったと諦めもつく。
「それでは木嶋少佐」
「はい」
「貴方はこの聖杯を〝帝都〟へと持ち帰って下さい。他の連中が気付くよう出来るだけ派手にね」
「……私達が他の参加者たちを引き連れているうちに貴方は本命の大聖杯とやらを奪取すると」
コクリとダーニックは頷いた。
柳洞寺地下にある聖杯戦争システムのそもそもの大本である大聖杯。あれを奪取するのがダーニックの目的だ。
正規の方法で聖杯を獲得し、願いを叶えようという考えはもはやダーニックにはない。
そもそも聖杯戦争なんていうのは所詮御三家が仕組んだ出来レースでしかない。聖杯の正しい所有者を決める為にサーヴァントを召喚し争い合うなんていうのは、御三家が外来の参加者用に吹き込んだ出任せ。本来の目的は別にあるし、そもそも普通の参加者は聖杯が具体的にどのようなものかすら分からないのだ。
故に冬木の聖杯戦争は最初からゲームマスターである御三家が最終的に勝利するようになっている。
柳洞寺を拠点にしたことで偶然にも大聖杯の存在を知ったことで、聖杯戦争の裏事情をほぼ完全に理解したダーニックたちナチスといえど勝てるかどうか。仮に御三家のマスターを全て仕留めた上で、聖杯降霊に臨んでも、土壇場で勝利を予期せぬ誰かにかすめ取られるのではないかという懸念は消えてくれない。だとすれば、
「わざわざゲームマスターの望み通りのルールで、ゲームマスターの用意したゲームを戦ってやる必要などどこにもない。ゲームマスターを上回るためにはゲームマスターの定めたルールなど無視して、我々の勝手なルールでゲームそのものを引っ繰り返さねば」
即ち聖杯戦争の根本である大聖杯そのものの奪取。
今この場で聖杯を使えずとも大聖杯を奪って、御三家の手の及ばぬ遠い地で聖杯を起動すればいい。年月は相応にかかるが、今この場で大博打をするより勝算はある。
「冬木の聖杯には二種類ある。聖杯戦争を作り上げている大魔法陣としての大聖杯。そしてサーヴァントの魂をくべる小聖杯。
そのうちの一つ。小聖杯が監督役の手から奪われたとなれば、どの陣営も血眼になって小聖杯を奪い返そうとするでしょう。そうすれば柳洞寺地下の大空洞で暗躍する我々に目を向ける余裕もなくなるはず……。
木嶋少佐。我々の計略で貴方の果たす役割は重要だ。なにせ最大の障害である三組もの主従の視線を釘付けにして貰わなければならないのですから。期待していますよ」
「微力を尽くします。サーヴァントは愚か、時計塔や聖堂教会も干渉することの叶わぬ例の場所へ『聖杯の器』を移送すると言えば、誰も違和感など覚えはしないでしょう。寧ろ私の判断を賞賛されるかもしれない。
ただ約束の報酬は用意してくれるんでしょうね。私はその為だけに貴方に協力しているのですから」
「海外に家政婦つきの豪邸と三十人が一生遊んで暮らせるだけの額を用意しています。心配せずともこの程度の出費を惜しんで、大聖杯奪取計画の大切な協力者の信用を裏切る真似はしませんよ」
「豪邸と大金をその程度の出費ですか。庶民の生まれの私からしたら実に羨ましい」
「貴方は金と財産が欲しい。私は金と財産では手に入らないものが欲しい。私の金と財産の一部を譲るかわりに、貴方は私の手に入れたいものを手に入れるための協力をする。ギブ&テイクというものです」
正義や理想で動く人間より、金や財産で動く人間の方が信用できる。
前者だとどれだけ大金を積まれても動かないこともあれば、時にダーニックが下らないと思う理由で裏切りを働くこともある。だが後者ならばしっかり報酬を出しているうちは裏切ることはないし、裏切るにしてもそのタイミングは計り易い。
そういう意味で木嶋少佐はランサーと同じタイプといっていいだろう。いや木嶋少佐にはランサーのような美意識や美学がないため尚良いといえる。
尤もそういう人間だと嗅ぎ分けた上で、木嶋少佐に取り入ったのはダーニックなのだが。
「恐いものだ。真実よりも真実らしく平然と嘘を吐く。報酬を貰ったら貴方にはもう関わりたくありませんね」
「誉め言葉として受け取っておきますよ。それにええ。事が終われば会わない方がいいでしょうね」
偶然が重なり木嶋少佐は聖杯戦争に関わっているが、彼は軍人であることを除けば魔術師の家の生まれでもなければ魔術回路もない一般人だ。一般人がそう何度もこちら側に関わるべきではない。
木嶋少佐もこちら側に踏み入る事を望んでいないだろう。一般人が不用意に魔術に足を踏み入れて良かった試などありはしないのだから。木嶋少佐はそのくらいのことは分かる人物だ。
「――――大の男が三人集まってなにヒソヒソ話しているのかしら? 獲らぬ狸の皮算用はするもんじゃないわよ」
鈴のような軽やかさと、淑女らしい凛とした雰囲気が同居した少女の声。ダーニックと木嶋少佐が同時に顔を強張らせた。
「Elektrizitat!」
少女の声で魔術の詠唱がなされると、破壊されたドアから苛烈な電撃が侵入してきた。
ここで木嶋少佐を死なす訳にはいかない。彼にはまだやって貰うことがある。ダーニックは咄嗟に木嶋少佐を庇うように前へ進み出て防御魔術を発動させた。
ダーニックとて時計塔で名を馳せた魔術師。魔力量を背景とした一小節のわりには中々の威力の電撃だったが、ダーニックの防御魔術を突破するには足らない。ダーニックとその背にいる木嶋少佐には傷一つなかった。
教会にいる人間に襲い掛かった電撃はランサーにも直撃していたが、彼には自前の対魔力があるし、最上級の魔除けの指輪をつけている。魔力の一切はランサーに通用しない。
「ふーん。八枚舌なんて如何にも口先ばかり一流な異名持ちの癖して、実力の方も大したもんじゃない。そこいらの二流魔術師なら、あれ一発で黒焦げなんだけどね」
カツカツと足音を鳴らし、さながら女王のような風格で姿を現したのはリリアリンダ・エーデルフェルト。エーデルフェルトが生んだ稀代の双子魔術師の片割れ。雷を手足のように操る魔女だ。
そして若き女当主の隣りに控えしは白銀の甲冑に身を包んだ銀髪の騎士、セイバー。
「……リリアリンダ・エーデルフェルトか」
ダーニックは眉間に皴を寄せる。
世の中上手いことばかりではない。順風満帆の中にこそ落とし穴は潜んでいるもの。時計塔でそんなことはとうに学習したと思っていたのに、自分ともあろうものが運命の女神がどれほど性悪で不細工な女なのか失念していたらしい。
「不味いことになりましたね。ミスター・ダーニック」
試す様に木嶋少佐が語りかける。
リリアリンダは聡い女だ。教会のこの惨状を見ればナチスと木嶋少佐がどういった関係なのか直ぐに理解するだろう。つまり絶対に知られてはならない木嶋少佐のナチスとの内通が、強敵の一人に露見してしまったことになる。
「この聖杯もどきに魅入られてきたのはクライアントとその協力者だけじゃなかったらしい。不滅の刃の担い手とその主まで引き連れてくるとはな」
「ランサー!」
不用意な発言を咎めようとするダーニックだが、どうせもうリリアリンダ相手に隠せるような段階でもない。
叱責の言葉を声に出すことなくそのまま呑み込む。
下手な発言をしてまたランサーにへそを曲げられでもしたら冗談ではすまないのだ。全てが終わるまではランサーに味方であって貰わなければならない。
「勘違いしないでくれる? 私が来たのはアンタ達みたいに聖杯をコソコソ掠め取ろうとしたからじゃない。
ちょっと教会近くで殿方と待ち合わせていたら、喧しい銃声が鳴り響くものだから飛んできたのよ。伝手からアンタ達が監督役の持っている聖杯を奪おうとしたっていう話を聞いていたからもしやと思ってね。
そしたら案の定。私達の目から隠れてこっそり聖杯盗もうとしていたみたいだけど残念だったわね。聖杯は聖杯戦争の勝利者だけが手に入れる資格をもつトロフィー。アンタ等みたいな奴に渡すわけにはいかないわ」
「ふっ。エーデルフェルトが横から掠め取るのを非難するか」
「あら、種無しユグドミレニアはエーデルフェルトについて理解が足らないようですね。私達エーデルフェルトが掻っ攫うのは優勝賞品と――――勝利そのものだってことを!」
ピクリ、とダーニックの眉が動く。抑揚さは消え去り、瞳は抜き身の刀のように細まった。
「セイバー、出番よ! 容赦することはないわ。ここで叩きつぶしてやりなさい」
「任せておけ! あいつらを倒せばいいんだな? 簡単な命令で助かる。……おほんっ!聖杯を掠め取る盗賊共よ。その非道! 例え神が許そうと俺が許さん。我が剣の錆としてくれる! 俺の剣、錆ないけど」
セイバーが〝絶世の名剣〟を手から出現させ、その刃をランサーへと向けた。
ランサーはまじまじとセイバーの手にある聖剣を観察しながら「良い使い手の手にあるようだ」と嬉しそうに頷いていた。
「さて。向こうはやるつもりだが……ダーニック、クライアントはお前だ。お前がオーダーを出せ」
ここでのベストとしてはリリアリンダとセイバーを排除してしまうことなのだろう。そうすれば木嶋少佐の内通が他に知られることもなく、今後の障害を一つ消し去ることにもなる。
しかしそう簡単に排除できるというならダーニックとてとっくにやっている。
リリアリンダ・エーデルフェルトとセイバー。聖杯戦争において最も厄介な敵の一人だ。特にセイバーはイレギュラーな召喚のツケで霊格が低下していて尚も強力なサーヴァント。その強さはダーニックのランサーを完全に上回っている。
戦って勝つというのは難しい。それにモタモタしていたらリリアリンダの待ち合わせ相手もここに駆けつけてくる危険性もある。
「……止むを得ないか」
パチンとダーニックが指を鳴らして合図すると、教会の天井を突き破り、ナチスが生み出したサイボーグが七体教会に降り立つ。
「なにこいつらっ!?」
人間の肌色の中に明らかな鋼の色をもったサイボーグの出現に、リリアリンダが目を見開き吃驚する。
あちこちの戦いに好き好んで介入し勝利を掻っ攫ってきたハイエナも、ナチスのサイボーグを直接に見たことはなかったようだ。
ナチス上層部でも総統を含めた極一部の者しか知らぬことなのだから当然といえば当然だが。
「目的は果たした。退くぞランサー!」
「待ちなさい!」
待てと言われて待つ義理はない。
サイボーグたちがリリアリンダとセイバーを遮っているうちに、ランサーはカーテンくらいの大きさのある白い外套を自分とダーニック、木嶋少佐に被せる。
擬似的な空間転移。白い外套が空気に溶けるように掻き消えた時、三人は教会ではなく柳洞寺の石段前に立っていた。
一回限りの使い捨て。宝具もどきの外套だが、念のためにランサーに用意させておいて正解だった。お蔭でリリアリンダとセイバー相手にこうも容易く逃げることに成功した。
尤もあの外套は一つしかない。二つ目を用意するならば最低六日はかかるので、恐らくもうこの聖杯戦争中は使えないだろう。
「いいのですか? ダーニック殿。リリアリンダ・エーデルフェルトを捨て置いて」
「我々の内通が彼女に知れたところで、マスターたちが貴方の手にある〝聖杯〟を奪還する必要があることに違いはありませんよ。
それに今更になって計画を延期することも出来ません。木嶋少佐。貴方はこれから約束通り聖杯を帝都へ持ち帰って下さい。我々は計画通り大聖杯奪取作戦を続行します」
「……分かりました。では」
これ以上の話し合いは時間の浪費でしかない。聖杯を脇に抱えた木嶋少佐は帝国陸軍本隊と合流するべく駆け足で退散していった。
その後ろ姿を見送りダーニックも地下大空洞へ足を向ける。
ユグドミレニアの繁栄という未来を切り開くために。