円蔵山地下大空洞にある大聖杯。
御三家の当主であればそれを知らぬ筈がない。150年前に三人の賢者が集まり作り上げた神域の大魔法陣。七人の英霊をサーヴァントとして世に降霊させるという奇跡を実現させている戦いの大本。
まさかという他ない。当初からナチスは掟破りのことばかりをしてきたが、これは極め付きだ。よもや聖杯戦争を根本から破壊してしまうようなことを企んでいるとは。
「大聖杯……? なんなのそれは。教会にある聖杯以外にも聖杯があるの?」
御三家当主である冥馬、監督役である璃正とは違いリリアは大聖杯のことについて知らない。だからその疑問は当然のものだろう。
魔術師は自身の魔術を決して他にはばらさない。魔術師が自分の魔術の全てを見せるのは後継者に当主を譲る時のみ。
これは聖杯戦争にも当て嵌まる。本来ならば外来の参加者に聖杯戦争の裏側を教えることは、魔術師として著しく外れた行為だ。だがことがこと故に止むを得ない。
「リリア。教えても良いが、これから話すことはオフレコで頼む。もしあちこちに言い触らすつもりなら、俺はナチス共を消し去った後、お前を殺さないといけなくなる」
「聖杯戦争なんてそういうものでしょう? 今更ね」
「……そうか」
髪を掻き揚げながら挑発げに笑うリリア。
冥馬は溜息をつく。彼女がそういうつもりならば惜しいが仕方ない。リリアの助力を諦めるか、それとも助力して貰った後に始末するか、ここで決めなければならないだろう。
自分としては前者を選びたいが、状況を考えれば後者が正しい選択というやつだ。
しかし冥馬が口を開く前にリリアがふっと笑う。
「冗談よ。聖杯戦争が殺し合いってのは冗談じゃないけど」
「冗談?」
「誰にもばらす気なんてないってこと。大聖杯のことは遠坂だけじゃなくて御三家全員にとっての秘密なんでしょ。そんな秘密をペラペラと暴露して回ったら、アインツベルンとマキリも私を許しはしないでしょうね。
落ち目のマキリはまだしも、錬金の大家と全面戦争なんて幾ら私がエーデルフェルトでも御免蒙るわ。だから大聖杯のことは誰にも喋らない。勿論ルネスにも………というかルネスにだけは絶対に教えてやらないわ」
「なら良かった」
ほっと今度は安心から溜息をつく。
ナチスと帝国陸軍に追加してリリアまで敵に回れば、0.0001%ほどの勝機も消し飛んでいたところだ。
「それで教えてくれるんでしょ。大聖杯っていうのはなんなの?」
冥馬は流石に外来の参加者に教えるには不味い深すぎる情報――――大聖杯の真の用途――――などは意図的に避け、取り敢えず大聖杯がどういうものなのかを説明する。
「大聖杯……その名前から察せる通り冬木にある聖杯の大本といえるものだ。聖杯戦争の原因といってもいい。といってもここにあった『聖杯の器』のように杯の形をしているわけじゃない。
聖杯の正体は150年前に当時のアインツベルン、マキリ、そして遠坂の当主たちが集まり敷設した大魔法陣だ」
「大魔法陣ですって!?」
黙って聞いていたリリアだったが、この地にある聖杯の大本が柳洞寺地下にある巨大魔法陣であることには驚きを露わにした。
魔術師にとって魔法陣とは馴染み深いもの。サーヴァントを召喚するにも召喚のための魔法陣を描いている。
だがだからこそサーヴァント七騎を召喚するほどの奇跡が魔法陣――――つまりは魔術式によるものだったことが信じられないのだろう。
なにせサーヴァントは『魔法使い』ですら御することの出来ないほどの神秘の塊なのだ。
「円蔵山の地下大空洞、つまりは冬木市における最大の霊地に安置された大魔法陣は、六十年かけて七騎のサーヴァントを召喚するためのマナを土地から吸い上げる。
そして七騎のサーヴァントを召喚するだけの魔力が溜まった段階で、マスターとして相応しい人物に令呪を授けていき『聖杯戦争』を開始する……。これが聖杯戦争システムだ」
「待って」
「…………」
ピクリと冥馬が眉を動かす。
「大聖杯が七騎のサーヴァントを召喚するための魔力を集めるのは分かった。だけどそれだけじゃ肝心なことが分からないわ。
聖杯戦争は英霊七騎を集めて殺し合わせるためにあるわけじゃない、あくまで聖杯の持ち主を決めるための戦いでしょう?
だけどそれにしても解せないことがあるわ。聖杯がそもそも大魔法陣で『万能の願望器』があるなら、七騎の英霊を招くなんて大がかりなことしないで、魔術師だけで雌雄を決してから生き残った一人が聖杯を使えばいい。願いを叶えるという目的を果たすのに、七騎のサーヴァントを殺し合わせるというプロセスがまったくの無駄じゃない。
ねぇ冥馬。教えてくれないかしら。万能の願望器――――〝聖杯〟っていうのはなんなの? そもそも〝聖杯〟はどうやって願いを叶えるのかしら」
目を伏せ冥馬は苦笑する。
やはりというべきかリリアは聡い魔術師だ。肝心なところを見落としてはくれない。余り話したいことではないが、ここまで気付かれているなら止むを得ないだろう。
「無駄どころじゃない。七騎のサーヴァントを殺し合わせる……これが聖杯戦争の肝とすらいっていい。アインツベルンは十世紀もの間『聖杯』を求め続けてきた一族だ。魔術師の中にあってあれほど『聖杯』を求めた一族は他にないだろう。
そして十世紀の年月を『聖杯』に費やしたアインツベルンの技術はもう『聖杯』を自作する粋にまで達していた。『過程』をすっ飛ばして『結果』を実現させる神の器を」
「過程をすっ飛ばす……?」
「例え話をしよう」
冥馬は手近にあった椅子の残骸、木片を拾い上げる。そして拾い上げた木片をそのままリリアに差し出した。
リリアはいきなり木片を手渡されて「これは……?」と疑問符を浮かべたが、冥馬が「いいから」と言うと渋々と受け取った。
「リリア。お前は今からあの壁に木片を『当て』なければならない。さて、どうする? どうやって当てる?」
「そんなの……」
半信半疑ながらリリアは木片を壁に向かって投げつける。木片は真っ直ぐに飛び、教会の壁に『当たる』とバラバラに飛び散った。
「他にも」
冥馬はニヤリと笑い木片を蹴りあげると、そのまま壁にシュートした。壁に『当たった』木片はリリアが投げたものと同じようにバラバラに飛び散る。
「蹴り飛ばして当てるなんて方法もある」
「それがどうしたのよ?」
「だがこれが聖杯ならそんな『過程』はない。聖杯は投げることも蹴り飛ばすこともなく、ただ壁に『当たった』という結果だけを齎す。
世界を救いたいと願えば過程もなんにもなく『世界が救われた』という結果が生まれる。人類滅亡を願えば過程なく『全人類の死体』が脈絡なく転がる。
聖杯の魔力が許す限りならば理論や過程をすっ飛ばして成就させる願望器。それが過去二度の戦いで争いの中心になり、此度の戦いではアインツベルンから監督役に引き渡された『小聖杯』。聖杯の器だ」
「……!」
リリアの頬を一筋の汗が伝う。
アインツベルンが錬金の大家であることは知られることだが、よもやその業がここまでの代物だとはリリアも想像すらしていなかったのだろう。
「ちょ、ちょっと待って! アインツベルンが自分だけで聖杯を用意できるなら、それこそ聖杯戦争なんてする意味ないじゃない! 自分の領土で聖杯を造って、自分たちだけで願いを叶えればいいんだから……!」
「単純なことだ。アインツベルンが用意できたのは聖杯の〝器〟だけ。聖杯を万能器として使うための『魔力』を、中身を用意することは出来なかった。
わざわざ大聖杯が六十年かけて冬木のマナを集めて七騎のサーヴァントを召喚するのは、戦いに負けたサーヴァントの魂を回収して聖杯の器を魔力で満たすためだよ。英霊の魂は高純度の魔力の塊。それが六騎もくべられれば、あらゆる願いを叶えるに足るだけの魔力が満ちるだろう」
「……ってことは聖杯の所有者を決めるなんて全部嘘っぱちで、私達マスターの役目はサーヴァントを呼び出しておしまいってことなの」
「そういうことになる」
極論を言えば集まった七人のマスターがサーヴァントを召喚した瞬間に令呪で自害を命じれば戦う必要性すらないわけだ。
もっとも自分を犠牲にして『聖杯』を特定の誰か一人に委ねる奇特な魔術師がいるはずもなく、聖杯争奪戦は第三次まで続いてしまっているわけだが。
「セイバー」
「ん?」
これまでマスター同士の会話に入るのは騎士として無礼と思ったか、そもそも単に話が難しくて退屈だったからか。話に加わらず黙っていたセイバーが、リリアに名を呼ばれ顔を上げた。
「話しは聞いてたわね?」
「勿論だ。オリヴィエの長々しい説教を毎日聞いてきた俺だ。ばっちり聞いていたさ。……話の半分以上理解できなかったけど」
「……不憫な」
キャスターがしみじみと呟いた。
セイバーの頭が不憫なのか、それともこのセイバーに毎日説教していたというオリヴィエが不憫なのか。或いはその両方か。
らしくもなくキャスターは心の底からの同情をセイバーに向けていた。
「アンタはどう思うの? 聖杯戦争はアンタたちの魂を生け贄に捧げて、万能の願望器を生み出そうっていう儀式だったみたいだけど」
「うーん」
リリアは聖杯戦争の裏事情を知ったところで冥馬と事を構えるほど愚かではない。
キャスターは言わずもがな。今さっきリリアに話したことなど、キャスターにはとっくに教えている。知った上で自分の願いのために戦っているのだ。問題が起こることはない。
だがセイバーは違う。生け贄のために呼ばれた事に激怒して、こちらに刃を向けてくる可能性もある。冥馬はいつセイバーが動いても対応できるよう警戒した。
「まぁいいんじゃないか?」
あっけからんと、なんでもないことのようにセイバーは言った。
「いいの。そんな適当で」
「良く分からないが、ようするに勝てば聖杯は貰えるんだろう」
リリアが確認するように視線を向けてきたので、冥馬はこくりと首肯する。
「ならば問題はない。俺はマスターの意志に従い騎士の本分に乗っ取り剣を振るうだけだ」
「負けたら生け贄よ?」
「負けなければいいだけじゃないか。それに俺は元々生け贄になって当然の男だし。それはそれでいいんじゃないか?」
「ま、アンタがそう言うなら良いけど」
ほっと一息つく。セイバーが理知的な判断を――――いや、理知的かはさておき短絡的な行動に出なくて一安心である。最悪この場でセイバーと戦うなんて余計な消耗を覚悟しなければならないことだった。
だがセイバーがあっさりと聖杯の件を流してくれたお蔭で、取り敢えず対ナチス・帝国陸軍においてはセイバーという最強のサーヴァントは味方になってくれるということだ。
これほど心強いものはないだろう。
「〝大聖杯〟のことについては分かったわ。話を戻しましょう。ナチスが大聖杯を奪取っていうけど、大聖杯は巨大魔法陣なんでしょう? それって移送とかできるわけ?」
「大魔法陣は冬木の霊脈からマナを集める機能をもっている……とはさっき言ったか。必然的に魔法陣は円蔵山の霊脈に根付いていることになる。
それを移送するとなったら大聖杯ごと円蔵山をひっぺり返すようなもの。はっきりいってまともな思考の持ち主ならそんな馬鹿げたことをやろうとすら思わないだろうな。だが……」
「――――ナチスならやりかねない」
キャスターが冥馬の言葉を代弁する。
人目を憚ることもなく行われたホテルのロビーへの襲撃、帝国陸軍指揮官との内通、明らかに異常なスペックをもつサイボーグたち、サーヴァントの宝具は一人につき一つという常識に真っ向から逆らうかの如く無数の宝具を使い分けるランサー。
これまでの戦いでナチスの異常っぷりは冥馬も身に染みている。
どんな馬鹿げた作戦でもナチスならばやりかねない。そしてやり遂げかねない。
「御三家当主である俺の立場としては、ナチスへの対処を優先させたい。仮に帝国陸軍に『聖杯の器』を奪われても、俺の子かその孫が次の聖杯戦争に挑むだけ。それに俺の子孫なら聖杯なんぞに頼らずとも悲願を遂げるだろう。
だが大聖杯を奪われれば次の聖杯戦争も、次の次の聖杯戦争もなくなる。強引な大聖杯の奪取が霊脈に影響を与えれば遠坂家もマキリのように衰退の道を辿るかもしれないし、冬木市全体に空前の大恐慌が訪れるかもしれない。
父上の手前もあるし、俺には命を賭して聖杯戦争を制する義務があるが、俺個人に課せられた義務とこれから続いていく『遠坂家』と冬木市に対して果たすべき義務を思えば後者の方が重い」
冥馬は自分の考えを皆に伝えるが、誰もそれに追随することはない。
当然だ。キャスターもリリアもセイバーも、冥馬の協力者であって配下でも同志でもない。其々の理由から聖杯を求める協力者だ。
冥馬と違い彼等にとっての聖杯戦争は今回限り。彼等からすれば『大聖杯』も『聖杯の器』も同価値のものなのだ。
それに冥馬とて端から追従して欲しくて自分の考えを述べたわけではない。作戦会議を円滑に進めるために自分の考えを述べたまでのことだ。
「言うまでもなく私達がアンタだけのために動く理由はないわ。私が欲しいのは勝利だけだもの。なのに二匹の泥棒猫が持ち主の決まってない二つの優勝カップを盗み出そうとしている。だったらやることは一つでしょう」
「二面作戦か」
「そう」
冥馬が聞き返すとリリアが優雅に頷く。
「戦力分散が愚策なんていうことは知ってるけど、どっちも奪われたら負けなんだからどっちにも勝つしかないわ。となると誰がどっちを当たるかだけど」
「順当にいくなら俺とキャスターがナチス、リリアとセイバーが帝国陸軍だな」
リリアもそれが妥当だと首肯する。
心情的にも戦力的にも相性的にもこの組み合わせがベストだろう。少なくとも組み合わせを逆にしたり、マスターと主従同士をあべこべにするよりは余程勝機がある。
「……本当に大丈夫なのか、それで?」
荒い息で璃正が言う。リリアは気まずそうに「仕方ないでしょう。これが現状のベストなんだから」と答えるが、冥馬の方は口端を釣り上げると、
「いやどうせならよりベストな選択をとろう」
「他に……なにか良い秘策でもあるの?」
「秘策ってほどじゃない。どこの国でも当たり前に使われてきた戦争の基本だよ。要するに敵より多い兵力を集めるってあれさ」
「……!」
「わざわざ俺達だけで聖杯戦争存亡の危機に立ち向かうことはない。この冬木にはまだ狩麻とエルマ・ローファス。アーチャーとアサシンのマスターがいるんだ。彼女たちも引っ張り出そう」
「大丈夫なの?」
心配そうに尋ねるリリア。アサシンといえばマスターの天敵とされるクラスで、アーチャーのマスターの狩麻はナチスと組んで冥馬を殺そうとした相手だ。
お世辞にも背中を預けられるほど信頼に足る相手ではないだろう。リリアの懸念は至極当然のものといえる。
「聖杯戦争が崩壊するのはあっちだって望んではいない。俺達と目的は一致している。居所が掴めないアサシンのマスターは兎も角、大聖杯奪取を阻止するために一時的に協力しようって言えば狩麻の方もYesって言うはずさ」
冥馬は自信をもって断言する。
まさか狩麻ほどの魔術師がナチスのシンパになったわけはないだろう。御三家の当主として、そして聖杯戦争のマスターとして聖杯戦争を根底から揺るがす暴挙は許せないはずだ。
狩麻はどうやら自分の命を狙っているらしいが、聖杯戦争崩壊の危機となれば一時的に矛を収めるだけの分別はある。だが、
「――――無理だよ。もうマスターはYesなんて言えないさ」
どこか詩人を思わせる達観した声が教会に反響する。声のした方向に視線を向ければ、そこには以前交戦したアーチャーが立っている。
「だってマスターは僕の力足らず、先に逝ってしまったのだから……」
仕えるべき主人を失い、はぐれてしまったサーヴァントは静かに告げた。その瞳に燃え盛る業火のような〝戦意〟を灯しながら。