聖杯の器に付着した魔力反応。ゼロ戦という足を使い、それを追ってきたキャスターは懐かしむように目を細めた。
眼下に広がるのは木造建築ばかりだった冬木市とは違う、鉄筋コンクリートの近代的ビルが立ち並ぶ街並み。
この国・この時代に顕現してまだ一週間程度でしかないキャスターだが、ここはキャスターにとって懐かしさを覚える場所だった。なにせここはサー・ケイという英雄が、サーヴァントとして今生の主君に見えた地なのだから。
「懐かしいな」
「懐かしい、じゃないでしょアンポンタン!! 思いっきり東京に突撃してどうすんのよ!」
出来る限り人目を避けるとは一体なんだったのか。
人目を避けるどころか、この国で最も人目の多い場所に突っ込んでいったキャスターに、リリアは気焔を吐いて威嚇する。だがキャスターは狼狽えることなく冷静に反論した。
「あのまま馬鹿正直に追いかけても、途中で追いつけるかどうかあやふやだったからな。奴等が確実に来る場所に先回りしただけだ。
それに安心しろ。帝国陸軍だったか? 連中も神秘の隠蔽に関しては、監督役たちに負けず劣らず手際が良い。それは実際に帝都で襲撃に合った俺が保障する。今は夜でもあるし、連中の方でなんとかするだろう」
リリアの怒りをさらりと流すと、キャスターはゼロ戦で東京の飛びながら地上を見下ろす。
「――――はぁ。ホントは文句は山ほどあるけど、今更言い争いしたところでどうにかなるもんじゃないわね」
先回りが功を制して、どうにか『聖杯の器』が皇居に運び込まれる前に帝都に到着することができた。だが世の中そうなにもかもが都合良くいくわけはない。キャスターの探知が指し示す『聖杯の器』の現在地はそう遠くない。つまりキャスターたちと同様、既に『聖杯の器』も帝都に入っていた。
小聖杯が『皇居』に運び込まれてしまえば、その時点でアウト。これまでの追撃は、全て無駄になる。
帝国陸軍は小聖杯を『皇居』に送れば勝ち、リリアたちはその前に小聖杯を確保すれば勝ち。要はラグビーのようなもの。分かり易い勝利条件と敗北条件だった。
「ここまできたんだから、なんとしても聖杯は取り返すわよ。キャスター、聖杯に向かって全速前進よ! エーデルフェルトからお宝を掻っ攫っていったこと後悔させてやるんだから!」
「女にしては話が分かるな、お前は。だが――――」
「もうやってるから一々言うな、でしょう?」
さっき散々と言いたい放題言ってくれたお礼だ。
リリアはニヤリと挑発気に口端を釣り上げる。
だがリリアの期待とは裏腹に、キャスターは自分の台詞をとられてムッとする、なんてことはなく、
「いや実に的外れな発言をしているところ悪いが、俺は『連中もそう簡単には行かせてくれないようだ』と言おうとしたんだが」
「へ?」
キャスターにそう言われてリリアも気づいた。前方から高速接近してくる飛行物体。直線的な翼、機首で凄まじい速度で回転しているプロペラ。帝国陸軍の戦闘機が七機、リリアたちの乗るゼロ戦に向かってくる。
恐らくは聖杯戦争を知る帝国陸軍上層部の命令で来たのだろう。なんの威嚇も警告もなしに、七機の戦闘機は容赦なく機関砲の洗礼を浴びせてきた。
「舌を噛む、口を閉じろ」
有無を言わさぬキャスターの警告。と、同時にキャスターは素早く操縦桿を動かす。機首が急激に上がり、竜巻のような横回転をしながらゼロ戦が機関砲を躱した。
機関砲を回避した鋼鉄の鳥は最大速度で空へと逃げていく。自動車にも言えることだが、人間とは違い、戦闘機は急な方向転換は出来ない。人間のように急に立ち止まって、後ろを振り向くなんて芸当――――普通の戦闘機にできることではないのだ。
だがサーヴァントという埒外の力が不可能を可能とする。
「それなりに負担をかけるから行きでは使わなかったが、もういいだろう。奔れ」
奔れ、その言霊をキャスターが放った瞬間、キャスターの魔力が操縦席から翼の先まで伝わっていく。
魔術師が覚える魔術としては基本中の基本であり、だからこそ極めるのが難しいとされる強化の魔術。その名の通り魔力を流したものの性能を強化する魔術だ。
それがゼロ戦という空の騎士を、天空を支配する王者の座に押し上げた。
魔術で風を操って、完全停止からの三百六十度の方向転換。そしてゼロ戦の砲口が向けられるのは、擦れ違ったばかりで背を向けている七機の戦闘機たち。
「堕ちろ」
機関砲が火を噴く。
比喩ではない。キャスターの魔力放出により炎熱を纏った砲火が、狼のように七機の戦闘機に喰らいついていった。
頑強であろう装甲もまるで意味を為しはしない。
サーヴァントという古の英雄が操る最新の兵器によって、七人の若いパイロットたちは自分達の敗因すら気付けず空に散っていった。
「こんなものか」
「全然こんなもんじゃないわよ……」
しれっとしているキャスターに向かって、リリアはげっそりと言った。
未だにリリアの心臓がバクバクと五月蠅く鳴っている。手は震え、口には胃の中のものが限界ぎりぎりのところまで競り上がってきていた。なんとも言えない、すっぱい味をリリアはどうにか呑み込む。
「幾ら緊急事態だからって、あんな無茶苦茶な空戦軌道しないでよ。死ぬかと思ったわ。うぅ、吐きそう……」
「吐きそうで済むならば十分上等だ。そら、本命のお出ましだ。腹に力を入れろ」
「本命……?」
上空から降り注いでくる氷柱の雨。キャスターは空戦機動ではなく、魔術で炎の防壁を発生させそれを防ぐ。
氷の柱による攻撃とくれば、それをやったサーヴァントは一人しか考えつかない。
「ライダーっ!」
ぎりっとライダーを睨みつけるリリア。
風に乗って宙を漂うライダーは、リリアを見下ろすと艶やかに微笑む。白い着物に身を包み、きらきらと光る水色の髪を靡かせる形貌は天上の乙姫のようであった。
ライダーのクラスは騎乗兵であり、ライダーのサーヴァントは大抵はなにかしらの乗り物を操るものだが、さしずめこのライサーの乗り物は〝世界〟そのものなのだろう。
妖艶に微笑みながらライダーが口を開く。ゼロ戦で高速で動いているせいでライダーが何を言っているのか聞き取ることはできない。だがライダーの周囲にまた氷柱が出現していくのはリリアにも見えた。
だが敵はライダーだけではない。
キャスターが突然に左に機体を傾ける。それから僅かに遅れて魔力を帯びた機関砲がそこを通過した。
ライダーを援護するように、猛然とこちらに接近してくる戦闘機。魔術師のサーヴァントと同じように戦闘機に魔力を帯びさせるなんて無茶。それをやる人間など一人しか思い浮かばない。
相馬戎次。現代に蘇りし英雄譚の体現者、生きた英霊。大日本帝国陸軍最強戦力の御登場だ。
相馬戎次もライダーと共にリリアたちの足止めにきたのだろう。聖杯の器を皇居へ移送するまでの時間稼ぎのために。
「不味いことになったわね」
既に『聖杯の器』は帝都に入っているのだ。一秒だって無駄に消費することはできないというのに、相馬戎次とライダーという強敵と戦えば、短期決戦を挑んだとしても十分は釘づけにされてしまう。
こうしている間にも聖杯が皇居に運び込まれてしまわないとも限らないのだ。ならば、
「キャスター、あんたって……飛べる?」
唐突な質問。キャスターは機関砲と氷柱の掃射を巧みに回避しながら、簡潔に返答した。
「ああ」
そっけない肯定の意思表示。これでリリアのとるべき行動は決まった。
キャスターと視線が交差する。付き合いは短いが、キャスターはセイバーと違って頭脳派だ。リリアがやろうとしていることをキャスターも瞬時に理解する。
「セイバー!!」
叫びながらキャスターが操縦席を開く。外と遮るものがなくなったせいで、冷たい風が操縦席に直撃するがリリアは耐えた。
「――――ん? なんだ?」
セイバーがあろうことか機首の上に実体化する。しかしキャスターはそれを咎めることはなく、
「パイロット交代だ。お前はあそこにいる相馬戎次――――あの戦闘機をやれ。魔力は流したままにしてある。お前が全力で操縦しようと耐えられるだろう」
「そりゃいいけど、お前はどうするんだ?」
「俺はライダーを相手する」
キャスターの背中に刻み込まれている魔術刻印が、傍目にも分かるほど強い輝きを灯す。
伝承に記される大魔術師マーリン。彼が人々の理想たる王を守護するため、王の絶対的な味方たる騎士に与えたソレは、擬似的なものでありながら本物の魔術刻印以上の性能をもっている。
まるで聖痕のような魔術刻印はキャスターの意志を読み取ると、刻印に刻まれた数多の魔術の中からキャスターが望む魔術を発動させた。
「凄い」
思わずリリアは溜息を零す。
キャスターの背中から噴出するのはオレンジ色に光る炎だ。ゆらゆらと揺らぐ炎は徐々に〝翼〟の形をとっていく。
言い表すのであれば炎翼。それがキャスターの行使した魔術の正体だった。
「他は任せた」
それだけ言うとキャスターはたん、とゼロ戦から飛び降りた。
サーヴァントとはいえ物理法則が完全に通用しないわけではない。足場を失ったキャスターは重力という魔物に足を引っ張られ、地面に落下していく。
だがキャスターの背に顕現した炎翼が羽ばたくと、蒼い騎士は重力をものともせずにライダーへ向かっていった。
「なんでも出来るんだな、あいつ」
キャスターにかわって操縦席に座ったセイバーは感心しながらも、パイロットの仕事を完璧に引き継いでいた。
元々知能に差はあっても騎乗スキルのランクに差はない。性格の違いからかセイバーの操縦はキャスターと比べると荒々しいが、十分に上手いといえるレベルのものだった。
炎と冷気がぶつかりあう音が夜の空に響き渡る。ライダーはキャスターに抑えられていて、こちらを攻撃する暇はないようだ。
だがリリアもいつまでもここでこうしてはいられない。
「セイバー、アンタはしっかりと相馬戎次を釘付けにしておきなさいよ」
「ん?」
リリアはゴクリと唾を呑み込みながら、ゼロ戦から体を出す。
キャスターがライダーを、セイバーが戎次を抑えている間に自分は『聖杯』の気配を追う。これが今とれるベストな選択だ。
「まさかマスター、空を飛ぶのか? キャスターみたいに」
「箒みたいな礼装なしに人が簡単に飛べるわけないでしょう! アンタはいいから、ぶんぶん飛び回ってる鬱陶しい戦闘機を倒すことだけ専念しなさい。頼りにしてるわよ」
「おう! 任せておけ!」
セイバーに細かい作戦を指示している暇なんてないし、したところで意味はない。
ピシャンと言い切ると重力制御の術式を唱え、飛び降りる準備をする。三重属性という稀有な才能をもつリリアにとって、重力制御で高所から飛び降りるなんてさして難易度の高いことではない。だがそれにも限度がある。
沈没船からの脱出くらいならば経験したことのあるリリアだが、ビルより高い高度で空戦機動をする戦闘機から飛び降りるのは初めだ。
少しでも術式が狂えば死ぬ。ここから落ちれば、人間の体など地面に落ちたソフトクリームのように原型も残さずにペチャンコになるだろう。そんな不安が脳裏を過ぎりかかるが、
「リリア。落ち着いていつも通りにな」
「セイバー?」
「力まないでもマスターなら大丈夫だろ。マスターは俺なんかよりよっぽど頭も良いしな」
裏表のない快活な一言。
我ながら単純だと思うが、今の一言でリリアの中にあった不安は吹っ飛んでしまっていた。
「そっちこそ。しっかりやんなさいよ!」
パンと頬を叩き気合を入れると、迷いなく絶望的な高高度に身を投げ出した。
瞬間。重力の重りが全身を引っ張っていく。
全身を強打する風圧。黒い巨竜が大口を開けてリリアリンダ・エーデルフェルトを呑み込もうとしているようだ。
しかしリリアは落ち着いて普段通り、重力制御の術式を発動する。
相馬戎次の操る戦闘機がこちらを仕留めようと機関砲の砲口を向けてくるが、
「させるかぁ!」
セイバーが放った機関砲に妨害され、それは失敗する。リリアは心の中で「ナイスアシスト」とセイバーに呟くと、ぐんぐんと地上へと堕ちていった。
途中、重力制御の術式が起動する。暴力的な重力が緩み、リリアは宙に浮く羽根のようにゆっくりと降下していく。
二人の騎士とサムライがドックファイトを頭上に、リリアリンダ・エーデルフェルトは地面にその両足をつけ着地した。