リリアと遭遇するや否やあっさりと『聖杯の器』を放り捨てて、逃げ出した木嶋少佐は揚々とした、だがどことなく影のある表情で自動車を走らせていた。
敵前逃亡は軍人にとって最大の恥であり、死に値する重罪だ。
それは聖杯戦争という、条理の枠から外れた軍務にあっても例外ではない。仮にこのことが上層部に知られれば、木嶋少佐は処分を免れないだろう。良くて左遷、悪ければ首を吊ることになる。
だがもはや敵前逃亡なんて、木嶋少佐にとってはどうでもいいことだ。何故なら木島少佐は、この国とも軍人という立場とも今夜限りでお別れするのだから。
「ダーニックとの誘いで、こんな珍妙な戦いに参加し一時はどうなるかと思ったが、終わりは呆気ないものだったな。
小聖杯の帝都への移送作戦は失敗したが、十分に帝都へ敵マスターとサーヴァントを引き付ける囮にはなった。後はダーニックが冬木で上手くやるのを祈るばかり……いや、もはや彼等がどうなろうと私には関係ないか」
要求した財産・屋敷・土地。ダーニックがその全てを希望通りに叶えたことは、既に確認済みだ。
後は港へ行き、事前に用意してあるチケットで船に乗り込めば、恐らく十年以内には敗戦国になっている日本からも、永遠におさらばできる。
人生最後となる帝都の景色を、惜しむことなく車を走らせる横顔には、自分の私利私欲の欲望を果たすために、大勢の部下を死なせたことの罪悪感は欠片もありはしなかった。かといって実は罪悪感を乗り越えるほどの大義を抱いて行動している、なんていうオチはない。木島少佐の行動は100%完全に自分の我欲のためだ。
『金が欲しい』『贅沢がしたい』『長生きしたい』
木嶋少佐にある欲望は大きく分ければその三つ。極めて俗物的で、それ故に万人が嫌悪しつつも理解できる欲の形。
うち二つはダーニックとの取引で手に入れた。残り一つ〝長生きしたい〟という欲望は健康的な生活を心がけて生きていけばいい。それでも死に追いつかれたらその時はその時。寿命として受け入れればいい。
「……ん?」
もう少しで帝都から出るという所で、木嶋少佐の懐が熱くなる。
比喩的表現などではない。胸ポケットのあたりから紫色の光が漏れ、その部分が熱くなっているのだ。
「まさか――――もう来たのか」
木嶋少佐は苦笑しながら胸ポケットにあるそれを取り出した。
紫色の紙に何処の国の言語とも一致しない文字が描かれたお札。無論ただのお札ではない。帝国陸軍のマスターであり、帝国陸軍の最大戦力であり、木嶋少佐の部下だった相馬戎次。彼が魔術の使えない木嶋少佐に、と渡したお札の一枚だ。
その用途は自分の記憶が間違いでなければ連絡・通話。一度限りの使い捨て小型無線機のようなものだ。それが輝いたということは即ち、
『逃がさねぇよ……』
遣る瀬無い怒りと悲しみの滲んだ声がお札から発せられる。
木嶋少佐は部下の――――否、元部下の声を聞いても驚くことも慄くこともなく、寧ろ最初から分かっていたように目を細めた。
鳴り響く銃声。二発の弾丸が木嶋少佐の運転していた自動車のタイヤを正確に撃ち抜く。
タイヤをやられた自動車は直ぐに操縦不能になり、木嶋少佐のハンドル制御もむなしく壁に衝突した。
「つくづく優秀な兵士だよ、君は。え? 相馬少尉」
木嶋少佐は銃と自身の愛刀を握ると、自動車の扉を開けて車外へ出る。
冷たい風が木嶋少佐を叩く。まるで木島少佐を責めているような風だった。
風の向こう側には、黒衣に身を包んだ現代のサムライが木嶋少佐の行く手を遮っている。だが彼の愛刀である妖刀はどうしたことか鞘に納刀されており、代わりに手には兵士が標準装備している拳銃が握られていた。
「剣の達人、魔術使いとしての側面ばかりで君を評価していたがね。走行する自動車のタイヤを二発で左右二輪ずつ正確に命中させるとは、君はガンマンとしても優秀だな。
江戸時代であれば剣客に、戦国の世であれば猛将に、西部劇なら良い保安官になっただろう」
自分の自動車のタイヤを撃ち抜き、最悪の死の化身として立ち塞がる相手に、木嶋少佐は惜しみない賞賛を送る。
つい少し前ならそれを畏まって受けただろう戎次は、今はただ不安定な感情を瞳の中で揺らすだけだ。
「だが上官の乗る自動車を銃で狙うとはどういう了見だね。上官反逆罪は重罪だぞ」
「しらばっくれんな。ネタはあがってるんだよ。お前ぇが部下を背後から撃つのを見てた奴がいた。そいつに聞いた。少佐が……お前ぇが小聖杯をほっぽりだして逃げたことをな」
「あれはほら。相手がいきなり私の護衛の車を電撃で吹っ飛ばすもので気が動転してね」
「まだ白ァきンのか」
「…………」
「ネタはあがってるって言ったろうが。お前ぇが金目当てにナチスと内通してたのも知ってんだよ。お前ぇ自身が車ン中でペラペラと喋ってくれたお蔭でなぁ」
「人の独り言を盗み聞きとは品がない」
「裏切り者よりはマシだ」
「それもそうか」
盗み聞きをする者が品がないというのであれば、裏切り者の己はこの国にとって唾棄すべき売国奴。畜生にも劣る下衆だろう。
上層部の信用も厚い帝国陸軍少佐が今では国を裏切った売国奴。木嶋少佐は落ちる所まで落ちた我が身を自嘲する。
「アンタのことは知ってる。俺の仲間でアンタの部下だった奴等に聞いたかんな。面白味はねぇが軍務に人一倍熱心な御方だって言ってたぜ。なのに何で裏切った? 金の為か?」
「そうだ。金の為だ」
「ッ!」
「他に理由が要るかね。それとも私が誰かを人質にとられているだとか、真意は別にあってナチスドイツに組したフリをしているだとかいう実に都合の良い『同情できる理由』があると期待していたかね?
愚かなことだ。どんな理由があろうと己の為したことが変わる訳ではあるまい。例え愛情による殺人(復讐)であれ、正義による殺人(戦争)であれ、金のための殺人(略奪)であれ、殺しが殺し、裏切りは裏切り。そこに違いはない。
君の誤解を解くために断言しよう。私が祖国と国と上官と部下を裏切り、ナチスドイツと内通していたのは徹頭徹尾この私の金欲を満たす為であると」
「………………」
木嶋少佐の指摘は戎次にとって図星そのものだった。
如何に英雄に比肩しうる強さをもとうと、相馬戎次は偉業を為して死んだ英霊たちと比べ若い。人生を完遂した英霊だからこそもつ、ある種の達観と諦観。それを戎次は得てはいない。
だからこそ自分の仲間だった木嶋少佐に、自分の納得できる裏切りの理由を知らずのうちに欲していた。しかしその期待は木嶋少佐の告白によりあっさりと打ち砕かれる。
「…………そうかい。そうかい、そうかよ木島少佐」
「そうだよ、相馬戎次」
自分の上官が裏切り者だという事実を、相馬戎次は静かに受け入れた。
もはやその目に迷いはなく相馬戎次は嘗ての上官を正眼で捉える。裏切り者に死の鉄槌を与えるために。
「理由はどうあれ、やることが同じなら違いはねぇって言ったな」
「言ったとも。それがなにかね?」
「関係ねぇ。アンタがどう思おうとアンタの勝手だ。だが俺はやることが同じでも、理由が違えば違うと思う」
「結果が同じでもかね。非合理的な考え……お得意の根性論かい。馬鹿らしい」
「ぐだぐだ五月蠅ぇんだよ。さっきから聞いてりゃ御託並べやがって。自分の中の良し悪しを計算で決めてんじゃねぇ! 己の善悪を決めンのは計算じゃねえ……自分の心だろうが!」
「心……?」
「お前ぇは己の欲望のために56人の部下を利用し死なせた。俺がアンタを殺す理由なんざそれだけで十分すぎる。その命、頂戴はしねえ。貴様のその命、奪わせて貰う」
「フフフ。やはり戦うしかないか。結局のところ最後に頼りになるのは己自身、か」
木嶋少佐は使い慣れた愛銃をしっかりと相馬戎次に照準する。
対して相馬戎次はサーヴァントを呼ぶでも、魔術を使うでも、妖刀を抜くでもなく無手。
「……ライダーはどうした?」
「セイバーとキャスターの戦いで――――死んだ」
「おや。私の勝率が少し上がったな。では妖刀をどうして抜かない? 魔術は使わないのか?」
「あれはセイバーの奴に真っ二つに折られた。魔術も使わん。お前ぇを仕留めんのは俺の拳だ」
「ははははははは! それはいい。勝率がぐぐんと上がった!」
武士にしろ騎士にしろ、己の武器が手にない時のために徒手格闘戦技術の一つや二つ体得しているものだ。相馬戎次も例外ではない。
無手であっても戎次はかなりの難敵。魔術を封じ、妖刀がなくとも木嶋少佐が勝利する確率は限りなく少ないものだろう。けれど妖刀があり魔術が使える万全の相馬戎次が相手だったのなら、勝ち目は完全なゼロだ。ならば数%でも高い確率と思うべきだろう。
「死ね」
瞬きの瞬間を狙って木嶋少佐がトリガーを引き、鉛玉が戎次に飛ぶ。
戎次の体が陽炎の如く揺らめく。弾丸が貫いたのは戎次の残像。戎次は地面を滑るように木嶋少佐に向かっていく。
木嶋少佐が戎次を接近させまいと連続で発砲するが、戎次は物凄い脚力で壁を走りながら、全ての銃弾を掻い潜っていく。
「銃では倒せんか。ならば剣で勝負!」
木嶋少佐は愛銃を捨て去ると、日本刀を抜刀し己の肉体に刻まれた剣技を振るう。
壁を蹴り回転斬りを繰り出す戎次、それを斬る為に繰り出されたのは真っ直ぐな上段からの振り落とし。
刃が貫通する。勝敗はただの一度の交錯で決した。
「――――フ……ごはぁっ!」
木嶋少佐は口まで溢れてきた血を吐きだす。
戎次に振り下ろした日本刀は、手刀で腹を叩かれてあっさりと折れ、木嶋少佐の腹を戎次の貫手が貫ぬいていた。
鋼鉄の如く肉体を鍛えた者のみに許される槍の貫通力をもつ貫手。達人の手刀は刃物の如き切れ味をもつというが、相馬戎次の貫手は完全に木嶋少佐の命数を断ち切っていた。
戎次が手を抜くと、支えを失った木嶋少佐は血溜まりに沈む。
「……………時に相馬少尉」
「なんだ」
「君はしっかり実家には戻っているかね?」
自分の血溜まりに倒れた木嶋少佐は、とても末期の言葉とは思えぬ何気ない……本当に何気ない質問をする
戎次は自分の手でその命を絶ち切った木嶋少佐を見下ろしながら口を開いた。
「ああ。休みを貰えた時にはちょくちょくと」
「そうか。なら私の言うことはなにもない」
「――――そういうアンタはどうなんだよ」
「心配は無用。私には両親も妻も子ももういない。だから」
自分が死のうと悲しむ者は誰もいないし、身内が国を裏切ったと後ろ指刺されることになる者もいない。
喪う者はたった一つ、自分の命だけ。
もうなにもないから、木島少佐に出来たのは我欲を満たし、自分を幸福にすることだけだった。幸福にしたかった自分以外の人は、もういない。
「安いチップを懸けて大金を得ようなんて夢を見るものじゃないな」
最期にそれだけ言うと、特に悔やむ様子もなく、木嶋少佐は永遠にその目蓋を閉ざした。