大空洞を抜け出して、ダーニック・プレストーン・ユグドミレニアは一人で無人の道を走っていた。
これまでダーニックの周りを守っていた兵隊達やランサーはもうどこにもいない。
サーヴァントもサイボーグも、ナチスの兵士達も冥馬たちとの戦いにより喪なった。大空洞に置き去りにしてきた〝ファーレンブルク大佐〟も既に殺されているだろう。
「お、おのれ……後一歩のところで、遠坂冥馬め!」
ここに至るまで幾つかのイレギュラーはありつつも全ては順調に進んでいた。
後少し、ほんの後少しの時間があれば大聖杯奪取計画は成功し、あの神話級のアーティファクトはダーニックのものとなっていたのだ。
ダーニックは自分の掌に視線を落とす。
自分の指は確かに大聖杯に手をかけていたのだろう。だが手にかけて持ち出そうという段階になって、大聖杯は元の所有者に奪い返されてしまった。
空っぽの掌を握りしめる。
「口惜しい。やはり……計画を実行に移す前に、奴だけはどんな手段を用いても殺しておくのだった」
帝都ステーションホテルでの襲撃、柳洞寺での包囲網。遠坂冥馬を抹殺する好機は幾つもあった。
しかしその両方でダーニックは冥馬を取り逃がしてしまった。一度目はキャスターの召喚で、二度目はランサーの癇癪で。
もしあそこでああしていたら、こうはなっていなかった。冥馬達から逃れるため必死に足を動かしていたダーニックは、逃げながらそんなことばかり考える。
「フ、フハハハハハハハハ。情けない、私ともあろうものが。あそこでああしていたらなどと、負け犬の遠吠えをするなど」
ダーニックは自分の心にある弱音を吹き払うように己を嗤う。
動かしていた足を止める。焦りで時間の感覚が麻痺していて気付かなかったが、ダーニック冬木市の隣町まで来てしまっていた。ここまで来れば一先ず安全だろう。
随分と遠くまで走ってきたものだとダーニックは自嘲しながら、近くにあったベンチに腰を下ろした。
「これから、どうする」
腰を下ろすと気分も少しばかり落ち着いてきた。冷静になると過去を呪うのではなく、未来を思う余裕も出てくる。
「聖杯戦争は……口惜しいことこの上ないが、諦める他ない、か」
ランサーがいればダーニックもマスターとして、乾坤一擲の覚悟で正当な手段で聖杯戦争の勝者を目指していただろう。
だがサーヴァントを失い、ナチスという兵力まで失った一介の魔術師が、一人で制せるほど聖杯戦争は甘いものではない。
帝都に放っておいたスパイからライダーは消滅したという確認はとれている。よってこれまでの経過から推測するに、残るのはセイバー、アーチャー、キャスター、アサシンの四騎。
順当にいけばアーチャーとキャスターという二騎のサーヴァントを有する冥馬か、最優のセイバーを有するリリアリンダが聖杯戦争の勝利者となることは簡単に予想がつく。
あの二人が相手では、ダーニックが八枚舌と渾名される雄弁を振るったところで利用するなど夢のまた夢。ましてや遠坂冥馬のサーヴァントはサー・ケイ。口達者っぷりで並ぶ者なき英雄だ。稀代の口達者に口先で勝負を挑むなど、ボナパルトに戦争で勝負するようなものだ。
となるとダーニックが利用できる可能性があるのは、アサシンだけということになるが、こちらも絶望的だ。死の化身たる暗殺者は、ターゲットに対して寒気がするほど問答無用である。交渉に行ったところで、口を開く余地すらなく殺されるだろう。
「――――帰ろう」
だから結局はそこに行き付く。
聖杯戦争のことはすっぱり諦めるにせよ、マスターとサーヴァントが消え去った後で再び大聖杯を狙うにせよ、六十年後のヘブンズフィール4を想定するにせよ今現在のダーニックに出来ることはなにもない。
ダーニックがとれる最善手は命を繋いでいる幸運を感謝し、ユグドミレニアの地へ戻り再起を図ることだけだ。
幸いダーニックの政治力をもってすればナチスの力などなしに、日本国外へ出るなど難しいことではない。
ベンチから腰を上げ列車まで行こうとして、ダーニックは幽霊でも見たように蒼白な顔で足を止めた。
「あな、たは……ッ!?」
「ん? ダーニック。私の顔になにかついているかい」
ここにいる筈のない男、ロディウス・ファーレンブルクが柔和に微笑む。
目を擦る。幻などではない。仕草から服装に至るまで、目の前にいるのは間違いなくロディウス・ファーレンブルクだった。
「何故だ! どうして貴方がここにいる、ロディウス・ファーレンブルク大佐!!」
「何故と言われても、ここでこうして生きているからとしか言いようがないなぁ」
「ふざけないで頂きたい! 貴方は大空洞にいたはず。そう、我々が遠坂冥馬たちに敗北した大空洞に! よもや遠坂冥馬が情けをかけて逃がした訳ではないでしょう。何故こうして五体満足で無事なのですか?」
「大空洞にいた私は私じゃなくて、私を模したマネキン人形だったんだよ」
「冗談を聞いているのではありません」
マネキンなどではない。ダーニックは間違いなく『ロディウス・ファーレンブルク』という人間を大空洞で〝視て〟いる。
常人であればいざしれずダーニックが本物とマネキン人形を見間違うはずがない。ということは、あれは本物のロディウス・ファーレンブルクだったのだ。
「冗談なんかじゃない。あれはマネキンさ、尤も君にはあれが私として映っていたのだろうけどね」
「なにを?」
「ま、それはいいんだ。そういうわけだからダーニック、君の役目はここまでだよ。ご苦労様、これまで本当にありがとうね。私は私の方で頑張るから、君も大変だろうけどこれから頑張ってくれたまえ。Magus, be ambitious! 魔術師よ、大志を抱け! はっはっはっはっはっ」
「…………なにを、何を仰っているのですか大佐」
「鈍いなぁ。だから、こういうことだよ」
ガバッとロディウスは自分の胸元を開いて曝け出した。
ロディウスの胸元に刻まれてあるものを見て、脳がそれを認識した瞬間、ダーニックは金槌で頭を殴りつけられたような衝撃を覚えた。
「そ……んな……な、なぜ……」
ロディウスの胸元にある赤い刻印。それは紛れもなくマスターがマスターたる資格にして証明、絶対命令権たる令呪そのものだった。
咄嗟にダーニックは自分の手の甲に刻まれてあるはずのソレを見る。
ダーニックの手の甲にはロディウスの胸元にあったものと寸分違わぬ形の刻印――――令呪があった。
「――――あ」
カチン、と音がして自分の頭にかかっていた〝なにか〟が解けた。
自分の手の甲に未だ赤々と残っている令呪に打ちのめされた。
サーヴァントと令呪は繋がっている。令呪を使い果たしてもサーヴァントが消えることはないが、サーヴァントが消えれば令呪も消えるのだ。
だというのにダーニックの令呪は残っていて、ダーニックと寸分違わぬ形をしたロディウスの令呪も残っている。
何が起きているのかは分からない。だが自分でも分からない何かが起きているのは分かった。ダーニックは青ざめた顔でロディウスを見る。
「どういう、ことなのですか?」
「君には世話になったから黙っておきたかったんだけどね。ランサーを召喚して契約したマスターは君じゃなくて、この私なんだ。君の手の甲にある令呪は、私が私の令呪を元にでっちあげた偽物さ。サーヴァントを失った私に令呪が残っているのは、ほら、あれだよ。大聖杯のところでちょこちょこっとインチキをしてね。サーヴァントを失っても回収されないようにしたんだ。令呪の魔力は私の計画のために使えるからね」
「ッ!」
「まぁつまり、実は君は全て私の掌の上で踊っていたんだよ。いやぁ、申し訳ない」
信じたくなかった事実を教えられ、ダーニックの顔がみるみる強張っていく。
「何故、そんな真似をした? 私が裏切るという警戒……いや、そんなはずがない。私が裏切ると分かっていたのだとしても、こんな回りくどい方法以外にもっと他の方法があっただろう!
そ、それに今更なにをしようと遅い! 貴方が真のランサーのマスターだったとしてもランサーは消えたのだ。兵士やサイボーグだってもうない! 貴方がなにを考えていようと、貴方の計画は終わりだ。貴方が聖杯を手にすることは……ないっ!」
「いいよ別に。元から私は聖杯なんて欲しくなかったし」
「な、なんだと!?」
これにはロディウスへの怒りすら忘れて、ダーニックは呆気にとられた。
聖杯を欲しがらない者が、何重もの策謀を巡らし聖杯戦争の影で暗躍する。そんなこと余りにも辻褄が合わない。
「聖杯を手に入れることも一つの私の悲願の成就に辿り着く道筋なのかもしれないがねぇ。
だがよく考えてみろ。神話に名を轟かせる最強の英霊を招聘すれば聖杯戦争に勝利できるのか。武装した兵士達を戦線に投入すれば聖杯戦争に勝利できるのか。科学技術の結晶たるサイボーグを使えば聖杯戦争に勝利できるのか。
否だ、否。全部まるっきり否だよ否。そもそも聖杯戦争なんて最終的に御三家が勝つよう仕組まれた出来レース。ギャンブルだってそうじゃないか。最終的には胴元が利益を得るような仕組みになっているのさ。
故にどれほど勝利に近付こうと外来のマスターが聖杯を手に入れ、悲願を成就させることはできない。寸前でなにかしらの間違いが起こる。
だから私は聖杯戦争に勝つ気なんて端からなかった。だがそれだと勘の良い連中に気付かれるかもしれない。だからこそ老獪な連中の目を誤魔化すために、私には君という真に聖杯を欲する者をマスターとする必要があった。聖杯が欲しくて欲しくてたまらない者がマスターとして指揮を振るえば、聖杯戦争に眼中がない私の気配を隠すことができるからね」
胸元を直しながらロディウスは淡々と言霊を紡ぐ。
「私がランサーを召喚した時点で、私の計画の第一段階は達成していたんだ。聖杯の器を破壊し、その構造を入手することで第二段階も終了。第三段階もぼちぼちこなしたし、もう私には聖杯戦争が終結するまで何にもやることがなかった。
それにぶっちゃけると君が大聖杯の奪取に成功したら成功したらでも良かったんだよ。君が成功すれば私の計画が別の方向にシフトするだけで〝結果〟は変わらないからね。
だが君は失敗してしまった。だから我々ナチスが君に協力するのもこれまでだ。君の頑張りには感謝するけど、これでお別れだよ」
「き、貴様ァ!」
たまらずダーニックはロディウスに襲い掛かった。
全身に張り巡らせた魔術回路に沸騰しそうなほどの魔力が流れ込み、最大出力の魔術を発動させようとする。
しかしダーニックが魔術を発動させるよりも早く、ダーニックがなにもないと認識していた場所から銃弾が飛んでダーニックの心臓を貫いた。
「な……に……?」
「私と君の戦いは二か月前に既に完了している。君は私の右腕を持っていったが、私は君の脳髄を支配した。だからもう戦いに意味はない」
自分の作った血溜まりに倒れたダーニックは、そんな言葉を聞きながら意識を失う。
ロディウスの周囲にはダーニックが認識できていなかっただけで、無数の兵士達がいてロディウスを守っていた。
予備兵力として隣町に待機させてあったナチスの兵士達である。ダーニックも知らない、ロディウスだけが知る秘密の兵力だ。
ダーニックを見下ろすロディウスが眉を吊り上げた。
「おや、心臓を撃ち抜かれたのにまだ生きているじゃないか」
ランサーが餞別に、とダーニックに渡した刀。あれがダーニックに力を与えているのだろう。
他者の命を奪う刃ではなく、命を守護する守り刀。それこそランサーがダーニックに渡した真刀・火韻の能力。
「どうしますか大佐殿? 御命令とあらば止めを刺しますが?」
「いい。ランサーの味な真似に応じよう。これは気前の良いクライアントを殺してくれるなという、彼なりのメッセージだ。それに彼の政治力がなければ、我々は他国にこれほどの兵力を送り込めなかったんだ。
例え我々を最初から裏切り、出し抜くつもりだったとしても、ランサーの嘆願と彼の功績を鑑みれば殺すことはできん。行くぞ」
「はっ!」
敗北者を置き去りにして、ロディウスは進む。
壊れた舞台で、聖なる杯ではなく己の奇蹟を掲げるために。ロディウス・ファーレンブルクの計画は第五段階へと移行しようとしていた。