相馬戎次は自分の手で殺めた木嶋少佐の亡骸の近くに腰を下ろして、開いていた両目を塞いだ。
例え木嶋少佐がナチス・ドイツと内通して私利私欲を肥やそうとした俗物で、軍人の風上にもおけない男だったとしても、死ねば仏。死者に鞭打つ気はなかった。
それに木嶋少佐を完全に憎みきることも出来ない。彼の瞳の奥にあった投げやりな色を覗いてしまったが故に。
「相馬中尉……」
両手を合わせて祈っていると、部下の上代軍曹が走ってくる。
彼には上層部にライダーの消滅と、裏切り者である木嶋少佐の殺害完了を報告して貰っていた。
上層部からの指令――――恐らくは撤退命令を伝えに来たのだろう。
だが一つ気になることがあった。
「俺は少尉だ。中尉じゃねえ」
「いえ、上は木嶋少佐の裏切りを察知した功とこれまでの奮戦を認め、相馬少尉を中尉に昇進させるとのことです」
「……そうか」
こんな時に昇進したところで嬉しさの欠片もないが、上層部がそうするならばそうすればいい。それに上の決定に異論を唱えられるほど戎次は偉くはないのだ。
「階級のこたぁいい。それより軍曹、報告はしたな」
「は、はい」
「なら戻るぞ。聖杯戦争は、もう仕舞いだ。これ以上やっても無駄死ににしかならねぇ」
戎次は過信ではなく客観的事実として自分の強さを把握している。自分ならばサーヴァントとも戦える。キャスターと剣のみで戦えば勝てるとも。
だがサーヴァントと同程度の身体能力があってもサーヴァントとは戦えない。
霊体であり強力な神秘の塊である彼等と戦うには、親から貰った体だけではなく、サーヴァントの神秘に匹敵するだけの武装が必要だ。
これまで戎次には妖刀があった。だからこそサーヴァントと打ち合うことも出来たし、サーヴァントを殺すことも可能だった。けれどその妖刀は既に戎次の手にはない。あるのは二つに折れた刀の残骸だ。これではサーヴァントと戦うことは難しい。
しかも肝心要の戦力だったライダーはもうなく、指揮官だった木嶋少佐もナチスと内通していて、失った兵士達も数多い。
これ以上、聖杯戦争を続けても勝算などないのだ。どれほど悔しくても、勝ち目がないなら恥を忍んで撤退を選ぶのも正しい選択である。
「それが……少尉。上層部は少佐が裏切り者だったのならば、追加の兵力はある程度都合するから中尉が臨時の指揮官となり聖杯戦争を続行せよと」
「な、なにぃ!?」
だが正しい選択が分かる者が必ずしも正しい選択が出来るとは限らない。
特に軍人は指示を下す者の目が曇っていれば、下の者の目が聡くとも意味はないのだ。そして木嶋少佐の更に上の上層部の目は生憎と近眼だった。
「しっかり報告したのかっ? サーヴァントの強さ、これまでの戦いで死んでいった仲間たちの数!」
「も、勿論です! 報告しました。ライダーが消滅したことも含めて全部!」
「だったら――――」
「上は兵力に損害を出したのは木嶋少佐が敵と内通し、碌な指揮をとらなかったからだろうと。サーヴァントについても過去の英雄を相手取るなど、一個小隊もいれば十分だろうと仰せです」
「馬鹿か!? 一個軍団は必要だ!」
上層部はサーヴァントをただの過去の人間程度にしか認識していないのだろう。
サーヴァントの宝具や万の軍勢を薙ぎ払うほどの奇跡を目にすれば、こんな楽観視などできないはずだ。
聖杯戦争という条理の枠の戦いの現場を知らずに、人間の条理内で物事を考えているからこんな阿呆な判断をする。
軍人という立場上、戎次は上層部を侮辱する発言は慎んだが、心の中では罵詈雑言の数々をぶっ放した。
「参ったなぁ、こりゃあよぉ」
上層部の命令が不満であっても、軍人は上官の命令には従うもの。これはどこの軍隊だって万国共通。
勝ち目がないと分かっていても、命令ならば戦うしかないのである。
(いけねぇなぁ)
木嶋少佐が裏切って私欲に走った気持ちが分かりかけ、戎次は自省する。
「……一ついいか?」
「なんでしょう」
「追加の兵力は、俺が決めていいのか?」
「そう仰っておりました。といっても一個軍団は流石に」
「だろうな」
一個軍団といえば数万の軍勢だ。これを指揮するとなれば将官の階級が必要となる。尉官の戎次どころか、佐官だった木島少佐にも指揮することは出来ない。
中尉の階級で指揮できるのは中隊が精々だ。
聖杯戦争に派遣された兵達の中には、木嶋少佐以外にも戎次より高い階級の者もいたが、彼等は全員が戦死してしまっている。中隊以上の兵力はあてに出来ないだろう。
「だがある程度は俺の都合を聞いてくれんならいい。やりようはある」
「ほ、本当ですか!」
「ああ」
上代軍曹の表情に光がさす。戎次は彼に背中を向けると、
「報告しておいてくれ。過去の遺物共を倒し、聖杯を得ることなど我一人で十分。増援など無用と」
「ちゅ、中尉! 何を仰られますか!」
「どれほど上層部に都合して貰おうと勝ち目なんざねぇ。百人追加すれば百人、千人呼べば千人が死ぬ。だったら俺一人で行って俺一人が死ぬ。
これから英米との戦争が待ってるんだ。帝国を守る兵士を無駄死にさせるわけにはいかねぇ」
戎次とて死にたいわけでもない。
とうの昔に国の為に生きると誓い、命を捨てる覚悟もしてきている。だが言葉にすれば臆病と罵られるから誰にも言いはしないが、やはり完全に死の恐怖を捨て去ることは出来なかった。
だが死よりも恐ろしいものが無駄死にだ。死ぬにしても国の為に少しでも役に立てるなら良いが、なんにもできずただ死ぬのだけは絶対に御免だ。
これから自分は死ぬが、自分の死で死ぬはずの人間が生きるなら決して無駄死にではないだろう。
それに人を殺すために死ぬより、人を活かすために死ぬ方が、死に甲斐があるというものだ。
「中尉だけを御一人で行かせはしません。私も一緒に」
「駄目だ。軍曹、お前ぇ……来週、祝言をあげるそうじゃねえか」
「あいつも軍人の妻。覚悟はできています。それに妻ならば寧ろここで中尉のお共をしないことを怒るでしょう」
「俺はお前ぇの女房のために生きろって命令してんじゃねえぜ。これから生まれるお前ぇの子供のために生きろって言ってんだよ」
「!」
「命を懸けて子供を産むのが母親の義務なら、魂を懸けて女房を励まして子供が生まれたことを喜ぶのが父親の義務ってもんだぞ」
これもなにかの縁。戎次は自分の父親に言われ、自分もまたいつか息子に聞かせようと思った言葉を送る。
「命令だ。来るんじゃねえ。逝くのは俺一人だ」
「うっぅぅっ! 中尉、無理は承知で言います。どうかご無事でっ!」
「死ぬ気で頑張る」
泣きながら敬礼する上代軍曹を残し、戎次はたった一人で英霊たちの戦場へ――――冬木市へと戻っていく、
『私はいつだって国を守る男達の味方さ。長生きしてね、戎次。アンタが長く幸せに生きれば生きるほど、私が命を懸けた価値が大きくなるんだからさ。私の命を安っぽくしないでよ』
戎次の脳裏に命懸けで戎次を守ったライダーの死に顔が蘇った。
「心配すんな。お前の命はこれから死ぬはずだった百人、千人を活かす。活きた百人、千人は万人の国民を守る。守った万人は十万の子供を産む。お前の命の価値は無限大だぞ」
だからライダーが恥じることなどなにもない。
一つ戎次に未練があるとすれば、自分も軍曹のように誰か好きな相手と結婚をしてみたかったというくらいか。
けれど良い。ライダーと一緒にいた日々は短かったが、それなりに楽しかったし心も温かかった。その思い出があれば十分、自分は満ち足りている。これ以上、望むものなどありはしない。
アーチャーはソファに腰を沈ませ、誰に聞かせるでもなく一人でギターを弾いていた。
決して上手くもなく、寧ろ下手とすらいえるものだったが、不思議と物悲しい音色だった。
「なにをしているのかえ、アーチャー」
奏でられている音色を聞いて地下の蟲蔵から出てきた翁、間桐臓硯はアーチャーに話しかけた。
アーチャーは指で音色を奏でながら目線を上げると、ゆったりと微笑む。
「見て分からないかい? ギターを弾いているのさ」
「儂はここで何をやっているかではなく、何故ここでギターなぞ弾いているかを尋ねたのじゃがのう」
間桐臓硯は伊達に500年を生きて、150年の聖杯戦争を見続けてきたわけではない。アーチャーが自分自身の貯蔵魔力を使い果たし、消滅寸前なことくらい臓硯には一目で見透かせる。
その上、アーチャーにはマスターがいない。これではもはやアーチャーは消えるのを待つばかりだ。
「どうせ消えるならマスターの生まれ育ち、その思いを溜めこんできた場所で、マスターの鎮魂を祈りながら逝こうと思ってね」
「解せぬのう」
「亡き主人を悼み殉死するのは、従僕としてそれほどおかしいことかい?」
「ああ解せぬとも。サーヴァントにとってマスターなぞ世に留まる為の単なる憑代に過ぎぬじゃろうて。
英霊の誇りとしてマスターに忠義を誓うのは分かるが、ちと忠義が行き過ぎじゃないかえ。英霊ボナパルトともあろう男が、そこまで尽くす価値が狩麻の奴にあるのかのう?」
狩麻が頑として教えなかったアーチャーの真名。それを何処で聞いたのか臓硯は当然のように知っていた。
だがアーチャーはどこで己の真名を知ったか聞く事はしなかった。間桐の支配者たる間桐臓硯である。狩麻から聞き出さずとも、アーチャーの真名を掴む方法など幾らでもある。
「狩麻はマキリの魔術師としては優秀な者じゃった。それはこの儂が保障するとも。じゃがのう、それはマキリという井戸の中での話よ。狩麻より才能溢れた者など探せば幾らでもいよう」
「表向きとはいえ、孫娘に随分な評価だね」
「呵呵呵呵。そう年寄りを苛めるでない。儂とて孫娘は可愛いとも。じゃが儂もマキリとしての矜持があるのでな。孫娘可愛さに、その才能を天下一などと嘯けぬわ」
この聖杯戦争に集まった狩麻以外の七人のマスターたちにも、狩麻より優秀な魔術師は多くいた。
エーデルフェルトの双子姉妹、アインツベルンのホムンクルス、八枚舌のダーニック、そして狩麻が誰よりも執着した遠坂冥馬。
もしもアーチャーが魔術師としての狩麻に忠義を誓ったのなら、狩麻より格上の冥馬のサーヴァントになりながら、その下を辞するはずがない。信じ難いことにナポレオン・ボナパルト、この稀代の英傑はマスターとしてではなく、間桐狩麻個人に仕えていたのだ。
「ボナパルトともあろう男が、何故狩麻にそこまで入れ込むのじゃ。年寄りへの冥土の土産と思って聞かせてくれんかの」
「――――そうだね。言葉にできるほどシンプルな理由じゃないけど、一つには共感かな」
「共感?」
狩麻とボナパルトに共感するような共通点など見受けられない。臓硯が首を傾げると、
「俺はどうも昔から大きな山を見たら登らずにはいられなくなる性分でね。一つの山を登り切ったら、もっと大きな山に兆戦したくなって、もっと大きなもっと大きなって登り続けていたら……いつの間にか自分を余なんて呼ぶようになり、周りからは皇帝陛下なんて呼ばれるようになっていた。
最初はただ皆に認められたかっただけなのに、僕はその思いをセントヘレナという鳥籠に閉じ込められるまで忘れていたんだ。
鳥籠は自由もなく退屈極まる場所だったけど、今は少し感謝している。お陰で自分が遥かな過去に置き去りにしていた忘れ物を取り戻すことが出来たからね」
アーチャーは言い終えると目蓋を閉じる。もう目を開けている力すら惜しいのだろう。けれどその指はまだ動いて音色を奏でていた。
「英雄ボナパルトがロマンチストみたいなことを言うのう」
そう言う臓硯の顔には嘲りは一切なかった。それどころかアーチャーの言葉を聞くと、何故か郷愁にも似た思いに囚われそうになる。
サーヴァントの言葉に心動かされるなど不甲斐ない、と臓硯は郷愁を振り払う。
「ムッシュ・ゾォルケン。僕にも最後に教えて欲しい」
「なんじゃ?」
「君が此度の戦いに余り乗り気でなかったことは知っている。だけど狩麻は君にとっても大切な後継者のはずだ。なのに戦いについては、その一切を狩麻に丸投げして自由にさせていた。これはどういうことなんだい?」
「狩麻は一人の魔術師としては上等じゃったろう。じゃが狩麻は次代に魔術を継承する当主としては致命的な欠陥があった。なら聖杯戦争くらいは、狩麻の自由にやらせてやろうと思ってのう」
「……そういうことか。なんてことだ」
「この戦いで死んだのは、もしかしたら狩麻にとって幸せだったかもしれんのう。己が決して愛した男の妻となれぬ運命だと知らずに済んだのじゃから」
「――――それでも彼女は生きたいと願っていたんだ」
からんころん、とアーチャーのギターが地に落ちる。
臓硯は誰もいなくなったソファを一瞥すると暗い蟲蔵へと戻っていく。狩麻の映る写真立ての横には赤い薔薇が手向けられていた。