義妹が、否、義弟が選定の剣を抜き王となってから、ブリテンは目覚ましく変わっていった。
異民族の侵略に喘ぎながら、自殺行為である同胞同士の争いを繰り返す死を待つばかりだった国は、たった一人の王の誕生によって再生していったのだ。
同胞たちの争いは偉大なる王の下で平定され、迫りくる蛮族たちを王自らが陣頭に立ち、見事な用兵で撃退していった。
騎士王、円卓の王、常勝の王、そしてアーサー王。彼女を称える呼び名は数多い。だが彼女を称するに最も相応しい呼び名はさしずめ〝完璧な王〟といったところか。
〝世の中に完璧なものなどない〟
どれほど悪の人であれ、どれほど善の人であれ人間には心がある。いくら合理的かつ機械的になろうとしても、人間が人間である以上は合理性だけでは動いてはいられない。どうしても感情に引っ張られる。
もしもあらゆる局面において、完全なまでに合理主義に徹する者がいるとすれば、それは人間としてどこか壊れたモノだ。王の義兄であり、王の秘密を知る者であり、王に最も近い騎士だった彼はそう考えている。
だがそこに例外があるのならば自分の義妹だろう、と彼は考えていた。
それほど玉座にある彼女は常に完璧だった。
最初は年端もいかぬ王など、と侮っていた騎士達も彼女の辣腕を知れば彼女が王であることを認めるしかなかった。
戦においては幾度の戦場に臨み常勝無敗。
政においては寸分の狂いなく国を治め。
法においては寸分の違いなく人を裁いた。
だがそれは茨の道である。完璧な成果を得るのであれば、何かを犠牲にしなければならない。
軍備を調達するために一つの村を干上がらせるなんてしょっちゅうだった。
より多くの十を救うために少数の一を切り捨てる。大勢を守る為に一つの村を焼き払う。
王になるとはつまりはそういうこと。王とは一番多くの人々を救う救世主の真名であり、一番多くの人を殺す殺戮者の真名だったのだ。
「あの王は完璧過ぎる」
「王には人の心がないのではないか?」
「人の心が分からぬ王に、どうして人の世が治められようか」
やがて王を非難する声がキャメロットに囁かれ始めた。
戯けたことだ。王に完璧であることを求めたのは騎士達自身である。だというのにいざ王が完璧であれば文句を言うとは。そもそもブリテンは殆ど死んでいる国。アーサーという偉大なる王がいるからこそ、死ぬ寸前で保っているに過ぎない。王が一度でも〝完璧ではない采配〟をすれば、その瞬間に国は内外より滅び去るだろう。
それを分からず王を非難することしか出来ない騎士たち、そして己もそんな騎士達と同じ穴の狢であるということも、なにもかもが戯けたことだった。
彼女に心がないはずがない。彼女が元から心のない人間であれば、彼が魂を懸けて仕えることなどはしなかっただろう。
そう、彼女はただ皆を守りたかった。
だが皆を守るためには人の心などあってはならない。人々を守りたいという心があっては、人々を守ることなど出来はしない。彼女はその誓いを厳格に守り続けていた。
彼女が王となってから、彼は彼女の笑顔を見た事がなかった。騎士達が武勇を語り合う円卓も、彼女が来た途端に静寂へと変わった。
「――――王も惨いことをする」
「自国の民草から物資を奪うなど、王はなにを考えておられるのか」
「この前の戦など、民草を囮に蛮族を焼き払ったのだぞ。あのような戦いは、騎士の行いではない」
「王には慈悲の心がないのだ」
今日もキャメロットで王への反感が囁かれる。
義妹は完璧なる王者だ。この反感にも眉一つとして動かすことなく、統治の一貫として組み込むことだろう。だが彼は円卓の道化役にして、騎士達を侮蔑し円卓の怒りを集める者。
王であれば流したであろう反感に、彼は我が意を得たとばかりに口を開く。
「戦場にて数多の蛮徒共を討ち取り、貴婦人たちの羨望の的であろう騎士たちが、このような人気のない場所で女人のように陰口とはな。花のキャメロットも落ちたものだ」
「サー・ケイ!」
王の義兄に王の反感が聞かれ、騎士達の顔がみるみる青く染まっていく。
だが彼はまるで騎士達の顔色など気にはせず、言いたいことをありのままに紡いでいった。
「あ、いやすまない。女性を軽視する発言をするなど、騎士以前に人間として酷く愚かで低俗な行いであった。女人達も貴卿等などと同一視されては迷惑千万だろう。外面が立派な羽虫は、中身は脆いというがさて」
「サー・ケイ! 如何に王の義兄といえど無礼が過ぎませぬか!」
「その通り。我等を侮辱するおつもりか!」
「失敬。いやすまん。影に隠れて他人の悪口を囁く卿等と違い、私は誰に対しても悪口は面と向かって言うのでね」
青かった騎士達の顔が、今度は怒りで赤くなっていくが、やはり彼は気にも留めない。
彼等にとってサー・ケイは怒りを向ける対象なのかもしれないが、彼にとっての彼等は嫌いな無数の者達のたった二人に過ぎないのだから。
今にもはち切れんばかりの彼等だったが、一応は彼等も騎士を名乗る者の端くれ。己が主君を批判する言葉を囁いたことに恥じを覚える心は残っていた。
集まっていた者達で最も位の高い騎士が弁明を始める。
「誤解して貰っては困るな、サー・ケイ。我等はただ王に仕える騎士として、王の行いに嘆いていただけのこと」
「ほう」
恥を知る彼等は恥を隠すために、また別の恥で塗り潰すという恥知らずの言い訳を始めた。
「王とは民草を守り慈しむもの。そして我等騎士達の象徴にして規範となられるべき御方。その御方が、守るべき自国の民草を焼き払うとはどういうことか。王であれば誰一人の犠牲もなく国を守るのが筋というものであろう」
「成程、素晴らしい意見だ。王であれば自国民全てを守るべき。いやいや私の不明を詫びよう。それができるなら君は王より優れた騎士だな。今日にでも王に貴卿に玉座を渡してはどうかと進言してみよう」
「分かって頂けたのならば良いのです。しかしサー・ケイ殿、買被りが過ぎますぞ。この私が王などと」
王より優れた騎士と賞賛され、その騎士は満更でもない顔をする。記憶力の良い彼は、その騎士が選定の剣に挑みあっさりと敗れ去った有象無象の一人であると覚えていた。王の手前、謙遜してみせたが心の中ではどう思っているか分かったものではない。
だが彼は恥知らずで愚かだった。よりにもよって彼の大魔術師すらやり込める国一番の口達者に言い訳などをしたのだから。
彼は冷酷に騎士達を見つめながら嫌らしく嗤う。
「いやいや、決して買被りなどではない。玉座にはより優れた者が座るべきだ。我等の王は賢明であられる。己より優れた者がいるのであれば、迷いなく玉座を渡すだろう。
して……自国の民草から物資を徴用せず、満足に軍備が整っていない軍を率いて、どのようにして蛮族たちを打ち破るのか。王の行いを非難した貴卿であれば、当然その策もあるのだろうな。後学のため是非とも聞かせて欲しいものだ」
「ふっ。自国の民草を殺さずとも、我々ブリテン国の騎士達たちが一致団結すれば、数ばかり多い蛮族共など恐れるに足らぬ」
それを聞いて彼は露骨に騎士たちを嘲笑した。
「――――話しにならん、馬鹿馬鹿しい。卿等の窮屈な頭蓋に閉じ込められた知識が泣いていよう。卿等程度の精神で蛮族を滅ぼせるなら、家畜共を戦線に投入すれば世界征服ができるな」
「き、貴様ッ! 王の義兄だと思って下手に出ていれば!」
「抜け、サー・ケイ! 我等の誇りを侮辱したのだ……決闘の覚悟はあろうな!?」
「気に入らないことがあれば直ぐに武に頼る。貴様等みたいなのばかりだから、我が国はアーサー王が玉座に座るまで不毛な内紛を繰り返してきたのだ。
王の聖剣が万の軍勢を焼き払おうと、更に万の軍勢を防ぐには万の軍勢が必要。その軍勢が碌な装備も兵糧もない弱兵の集まりであれば、蛮徒共はたちまちのうちにブリテンの大地になだれ込むだろう。そうなれば焼き払われるのは村一つではなくこの国全てだ。
誹謗中傷非難、大いに結構。だが王の行いに反対するのならば、反対するに足るだけの対案を持ってくるのだな」
「おのれ……。言わせておけば」
騎士の一人が剣の柄に手をかける。
だが激昂した騎士に斬られそうになりながら、彼は剣に手をかけるどころか何もせずに立っていた。
「なにをしている」
剣呑な場に凛として堂々とした声が響き渡ると、騎士達が一斉に進化の礼をとった。
「こ、これは王! 何故このような場所に……?」
「サー・ケイが私に提出すると言った書簡を持ってこないのでな。時間が押している故に私から出向いたまで。サー・ケイ」
「これは失礼致しました、アーサー王。なにぶん彼等が物陰に隠れ王への不満を並べ立てていたもので。臣としては見過ごす……いえ聞き逃すことができず」
騎士達の顔が蒼白になっていく。
陰口を叩くということは、言いかえれば直接面と向かって反論する勇気などないという裏返し。騎士達とて完全に愚かなのではない。頭では王が自分達より遥かに優れていることを理解している。王の眼に見つめられた彼等は蛇に睨まれたカエルだった。
「お、王……。我々は……」
「楽にせよ」
「はっ!」
「卿等は戦場において良く働いてくれている。その卿等をたかだか我が身への非難程度でどうして罰を与えられよう。今後も卿等の奮闘に期待する」
「は、ははー」
騎士達に視線を外し、彼女が去ると彼もそれに続く。これでいい。これでほんの少しは王への不満を自分への怒りに変えられたはずだ。
口ばかり達者で人望がない己には、ランスロットやガウェインのように騎士達を纏めることなんて出来はしない。彼に出来るのはこうして憎まれ役でいることくらいだ。
「ケイ。例のものは?」
「これです、アーサー王」
羊皮紙をアーサー王に手渡すと、サー・ケイは口を開いた。
「資金の分配に無駄が有り過ぎましたな。ただでさえ我が国は豊かではないのです。たった一本の釘ですら無駄にはできない。……こうして無駄を省くことが、転じて一人でも多くの命を救うことにもなるでしょう」
「……すまない。私は矢銭のやりくりは苦手でな貴卿には感謝している。これからもブリテンのため励んでくれ」
「御意」
兄と妹ではなく、どこまでも王と騎士として二人は振る舞う。
きっと彼女は王として在る限り、王として完璧であり続けるだろう。
だがブリテンに平和が戻り、彼女が王としての使命をやり遂げた時、彼女は王としての責務は終わる今はまだ遠いことでも、いつかきっと彼女の戦いが終わる日がやってくるのだ。王としての責務をやり遂げた時こそ、彼女は人として安らいだ笑顔を見せてくれるだろう。
だからいつか訪れるその日までは――――己はサー・ケイ。アーサー王に仕える一人の騎士だ。
窓の外では小雨が降りしきっている。
キャスターの過去を夢に見るのも四回目となれば驚きはない。だが驚きはなくても英霊の過去というのは、現代の人間からすればなにもかもが手の届かぬ遠き日の伝説。それは真理を追い求める魔術師であっても例外ではなく、驚くことはなくても慣れるということはなかった。
こうしてソファでくつろいでいると昨日の激戦が嘘のようである。聖杯戦争も九日目まできて、いよいよ残る敵はセイバーとアサシンのみとなった。
後二騎、たった二騎のサーヴァントが消えれば遠坂冥馬は『聖杯』を手に入れる初めてのマスターとなるだろう。
だがその最後二騎はいずれも難敵だ。
リリアとセイバーは勿論、アサシンとそのマスターもナチスドイツと帝国陸軍が爆撃の雨を降らし、いつ死んでもおかしくなかった戦場を強かに生き延びてきた猛者。
決して侮れる相手ではないということは、あの狩麻がアサシンにより命を奪われたことが証明している。油断していれば自分も狩麻と同じ運命を辿ることだろう。
「狩麻……狩麻か」
狩麻が自分のことを好いていた、アーチャーに最後に言われた言葉が耳から離れない。
「あの女のことで悩んでいるのか?」
実体化したキャスターがいつもの顔つきで尋ねてくる。
だが冥馬の目には心なしかキャスターは少しばかり不機嫌そうに映った。
「そういえばキャスターは狩麻のことが好きじゃなかったみたいだが……」
「ああ。元々俺は嫌いな人間の数が、好きな人間の数に勝るタイプでね。ああいう手合いは好きじゃない。いや、はっきり言うなら嫌いなタイプだ」
キャスターのことを非難はしない。
冥馬が好きな人間を嫌う人間がいるように、冥馬が嫌う人間を好きな人間がいる。他人を好きになるのが罪ではないように、他人を嫌いになることも罪ではない。罪なのは人を嫌うことではなく人を侮辱することだ。
だからキャスターが狩麻を嫌っていても、それもまた一つの価値観。否定することはできない。しかし逆を言えば冥馬が狩麻に対してどういう感情を抱いたとしても、キャスターに批判することもまた出来ないのだ。
「俺は、狩麻のこと。そんなに嫌いではなかった。だけどまさか狩麻が俺のことを、なんて。全くそんな素振り見せなかったじゃないか」
「お前が気に病むことはないだろう。あの女がお前に思いを伝えることもできず、アサシンの手にかかり殺されたのは徹頭徹尾アイツ自身の責任だ。お前に一切の責任はない。
間桐狩麻が聖杯戦争に参加したのはお前が頼んだからか? 間桐狩麻がお前へ思いを伝えなかったのはお前が耳を塞いでいたからか? 間桐狩麻が死んだのはお前が殺めたからか?」
キャスターは慰めなどかけない。キャスターが語るのは自分が思った事、そして冷酷な真実だけだ。
冷静かつ冷淡にキャスターは冥馬に責任が無い事、狩麻の責任を暴き立てていく。
「間桐狩麻の無念も、間桐狩麻の死も。全て遠坂冥馬は無関係だよ。あの女は自分の責任で戦いに臨み、自分の責任で死に果てた。これはただそれだけに過ぎん」
「……別に責任を感じているわけじゃない。ただ少し……自分が嫌いになっただけだ」
間桐狩麻の中にある複雑に屈折し行き場を失っていた感情。それに遠坂冥馬が気付いていれば、或いは狩麻が死ぬことはなかったのかもしれない。チャンスはいくらでもあったのだ。なにせ間桐狩麻は、肉親を除けば冥馬にとって最も長い時間を共有した幼馴染なのだから。
狩麻の死に責任は感じていないが、幼馴染で好敵手でもあった『友人』の心に気付かなかった自分がたまらなく厭だった。
「人の心が分からない――――嘗て他人にそう呼ばれた者がいた」
「キャスター?」
「だがお前はその者とは真逆だな。あいつは人の心が分かりながら、人の心をもたぬ完璧な者として振る舞わなくてはならなかったが、お前の場合は人の心が分かるようでいて実は人の心が分かっていない」
「……」
「間桐狩麻、あの女の性根は陰性だった。表向きの顔は自信満々の高飛車お嬢様のようでいて、その中身はコンプレックスの塊。劣等感に嫉妬に愛欲が屈折して混ざり合い、光が完全に閉じ込められている。
対するお前は陽性だ。仮面である余裕をもって優雅な貴族としての顔も、本性の荒ぶっている顔にしても陽性。
分かるか? 同じ仮面であってもお前達の仮面はまるで性質が異なるんだ。間桐狩麻の仮面は己が成りたいと思う理想の自分だが、お前にとっての仮面はお前の中にある一つの側面だけを現出した別の自分に過ぎない。
被る仮面の質も素顔の性も正反対のお前では、間桐狩麻の心を知ることはできやしなかっただろう」
キャスターの言う通りなのだろう。
実際冥馬はアーチャーに狩麻の思いを伝えられるまで、まったくその心を知ることはなかった。もしアーチャーが教えなければ一生そのことを知ることはなかったはずだ。
「あの女のことはもう気にするな。もう過ぎた事だ。それとも聖杯であの女の復活でも祈る気か?」
「……いや」
それは違う。言葉には上手く言い表せないが、なにかが違う気がした。
「なら深く考えず今は休め。昨日の戦いでお前もかなり消耗しているだろう。休める時に休まなければ、いざという時に力が出ないぞ」
キャスターの忠告に従うことにした。
狩麻のことは過ぎてしまった事。今更どうすることもできない。これから冥馬が狩麻にできるのは精々彼女の墓前に花を手向けることくらいだ。
だから狩麻の墓に花を手向ける為にも、聖杯戦争を勝ち残り生き延びなければならない。
ソファに背中を預けたまま、冥馬は目蓋を閉じた。