戦争というのは百の戦いに勝利したところで、重要な決戦で一つ負ければ敗戦するものだ。逆に百の負けを重ねても、重要な戦にたった一回勝つだけで勝利者になることもある。
アサシンを召喚したエルマ・ローファスは軍人でもなければ、ましてや殊更実戦経験が豊富というわけではない。
だがエルマ・ローファスの父であるダリス・ローファスは歴史好き、特に戦記や兵法といった『戦争』に関連したものを読むのが趣味だった。そして父親の意向でずっと家閉じ込められていたエルマの数少ない楽しみになったのは、皮肉にも世界で一番嫌いな父の本だった。
こうして両親の下を離れ仮初の自由を得たエルマにとって、あの頃の記憶は忌まわしいものでしかないが、多くの戦記を熟読した経験が聖杯戦争で少なからず役に立っているのだから皮肉なものである。
「想定外のことは多かったけど、聖杯戦争も正道に戻ったようでなによりです」
郊外の外れにある誰からも忘れ去られた廃墟で、さも我が家のようにくつろぎながらエルマは毎日飲んでいるミルクティーを口に運ぶ。
「貴方もご苦労様でした、アサシン。昨日はなにかと扱き使ってしまってすみませんでした」
「気になさることはない。我は御主君の敵に平等なる死を送る者、御主君の従僕であるが故……」
何もない所から声が発せられ、エルマの耳に届く。
声のした場所から大体の位置は察せそうなものだが、アサシンが不思議なトーンの声を使っているせいか、エルマにはアサシンが自分の左にいるのか右にいるのかも分からなかった。
「なら言い方を変えます。ありがとう、アサシン」
「私のような者には勿体なきお言葉」
主君からの感謝を、姿を消したまま受けるのは非礼だと思ったアサシンが、エルマの目の前に実体化する。
戦闘時も自律人形を派遣するにとどまり、基本的にここを動く事のないエルマだが、アサシンが情報収集のため日夜跳び回っているため現在の聖杯戦争の動向については大体認識している。
アサシンは直接戦闘を不得手とするサーヴァントだ。エルマの自律人形にしても、それなりの強さをもつといっても、サーヴァント相手ではただの雑兵以上の性能を発揮することはない。正面からまともに対峙すれば、勝ち目などありはしない。
だからエルマは徹底して他の参加者達から隠れ、隙を見せた背後を突くという方針をとってきた。
けれどそんなエルマにとってもナチスの大聖杯奪取作戦と、帝国陸軍の小聖杯奪取作戦は想定外に過ぎた。
影に潜み虎視眈々と背中を狙うのは聖杯を手に入れるため。勝利者が決まる前に賞品である聖杯が持ち逃げされてはなんにもならない。
敵の勝利を喜ぶことなど本来は有り得ぬことだが、今度ばかりは遠坂冥馬たちが勝利してくれてなによりだ。
「……………」
「どうかしましたか?」
「いや私はただの一振りの短刀。黙って主に従うのみ。申し上げるべきことは特に」
「変なアサシン」
エルマがミルクティーを飲んでいるのを見つめていたアサシンは恥じ入るように霊体化した。
消えたアサシンは何処へ行ったのかと視線を彷徨わせながら、エルマは退屈げに頬杖をつく。
エルマがこの廃屋に引きこもって既に一週間ほど。最初は埃が積もり過ぎて害虫の城だった廃屋も、エルマが掃除に精を出したこともあって、人間が生活するのに問題ないレベルにはなっている。
だが過ごすのに問題がなくとも、こんな場所に一週間近くも缶詰というのは退屈過ぎて精神がすり減る。
これが自分の工房であれば、エルマも魔術の研鑽に情熱を注ぎ時間を忘れただろう。だが聖杯戦争中に、魔術の修行なんてやっていられるわけがないし、かといって観光に来た訳ではないエルマは本などの娯楽品も持って来てはいない。
自分自身で立てた戦略のためとはいえ、狭い廃屋に閉じこもって何もしないでいるというのは中々にしんどいことだった。
「アサシン、いますよね?」
「無論。御主君の命もなく外へ出ることなどはない。命令なき時の我が務めは御主君の警護なれば」
退屈を紛らわすためエルマは、誰かと話すという最も手頃な暇潰しをすることにした。
「アサシンは……今の今まで聞いてなかったけれど、勝って聖杯を手に入れたらどんな願いを聖杯に託すんですか?」
ちょっと失礼だろうか、と思いながらもエルマは聖杯戦争の参加者であるが故に共通する話題を振った。
「――――――――」
沈黙が漂う。面食らっているのか、それともエルマの問いかけに不満を感じたのか。
闇に溶け込み、己の感情を自身の奥深くに包み隠したアサシンの心は、例えマスターであっても読むことは出来なかった。
だがもしかすると不機嫌を覚えているのかもしれない。大切なパートナーであるサーヴァントと、こんなことで不協和音を奏でるなんて百害あって一利なしだ。エルマは慌てて謝る。
「ごめんなさい。言いたくないことなら言わなくても構いません」
「…………いや、いきなりの問いかけ故に、どう応えたら良いか迷っていただけ。我が願いは、この巨大なる世界と比すればいと小さきこと。口に出せぬほど大それた願いではない」
アサシンは淡々と、だがどこかこちらを気遣うように言う。
「なにより御主君は私のような暗殺者風情に、誠意をもって相手をしている。我が願いを聞かれて明かさねば、主人に対して非礼というもの。我が身の潔白のために御主君の問いに答えよう。我は黒装束故に潔白というのも妙なものだが」
少しだけエルマは緊張して背筋を強張らせた。
暗殺者であるアサシンは、他のサーヴァントと比べ霊格は高い方ではない。それは霊格が高いことによる魔力供給の多さを気にして、敢えてアサシンを召喚したエルマが誰よりも知っている。
だがアサシンとてサーヴァント。人を超えた神秘をその身に宿す存在、本来なら魔術師が従僕にできるはずもない死の化身である。
そのアサシンの願い。魔術師もマスターも関係ない一人の人間として、エルマには興味があった。
「我が願い、それは〝英霊〟となること」
「どういうことです? なるもなにも貴方は英霊でしょう」
英霊になるもなにも、七騎の英霊をサーヴァントとして使役する戦いに招かれたのだから、英霊になるなんて願いを叶えるまでもなくアサシンは英霊のはずだ。
エルマがそう言うとアサシンは「それは違う」と首を横に振るう。
「我は英霊に非ず。御主君も知っての通り〝ハサン・サッバーハ〟とは私だけの真名ではなく、暗殺教団の教主が代々襲名してきた称号。
私は顔を削ぎ無貌の『誰でもない者』になることで『ハサン・サッバーハ』となった19人の山の翁の一人に過ぎない」
自分の顔を削ぎ落とし、誰でもなくなる。それがどれほどの苦痛で、どれほどの地獄なのかエルマには想像もつかない。
歴史の影に隠れ表舞台には決して姿を現さぬ暗殺者。その一生は影ゆえに想像を絶するものだ。
「お分かりか、御主君。私には他の英霊が当たり前にもつ己の顔、己の名、己の偉業。その全てが〝無い〟のだ。私にあるのは〝ハサン・サッバーハ〟という他の十八人と共有する称号のみ。私だけのものが何一つ無い。
だからこそ私は欲する。私の本当の顔を、私だけの名前を、私が私として成す偉業を。私は……私だけが、唯一人のハサン・サッバーハとなりたい。
私の願望など他の純正の英霊と比べれば下らぬものだろう。英霊にとっては己の名誉を投げ捨ててでも、なにか叶えねばならぬ悲願があるのかもしれん。しかし私は英霊ではないが故に、英霊としての己の名誉を望む。
申し訳ない。つまらない話をしてしまった」
「そんなことありませんよ。私と同じですね」
「御主君と?」
コクン、とエルマは頷く。
「少しでも多くの魔術回路を持つ後継者を欲していた父は、母胎内にいる段階で胎児に手を加えて調整を施したんです。けど結果は失敗。産まれてきたのは当時の当主だった父の半分以下の魔術回路しかもたず、先天的に障害を抱えていた出来損ない」
エルマは自嘲気に自分自身を指差した。既に二十歳をとうに超えながらも、未だ少女の姿のまま成長(老化)しない己を。
もしも、などという仮定に意味はない。だがもしエルマの父が母胎内にいるエルマに手を加えたりなどしなければ、エルマは五体満足の健康体として生まれていたはずだ。
「お蔭で父からは人間扱いなんてされませんでした。名前で呼ばれるより、失敗作と呼ばれることの方が多かったくらいです」
「……そうか」
エルマの壮絶とすら言える過去を聞かされたアサシンはしかし、慰めの言葉などはかけなかった。
現代の人間からすれば成程エルマ・ローファスの境遇は悲惨の一言だろう。だが現代より遥かに死が身近だった時代を生きたアサシンからすれば、エルマの過去は世に溢れる不幸の一つでしかない。はっきり言ってアサシンはエルマ以上の不幸を強いられた人間など、両手の指で数えられないほど知っていた。
別にエルマもアサシンに同情を求めていたわけでもないので、気にせず先を続ける。
「過去のことで父を呪っているだとか、そんなことはないんです。後妻との間に私みたいな失敗作じゃない出来の良い弟が生まれると、父もあんまり私には構わなくなりましたし、父が死んでしまえば私はそれなりに自由でしたから。
けど失敗作の体だからでしょうか。ちょっと性質の悪い病にかかってしまって、医者からは余命は後一年が精々って診断されて……」
「御主君は魔術師であろう。医術で体に救う病魔を殺せずとも、他に方法があるのではないか?」
「魔術はそう便利なものじゃありませんよ」
過去でれば魔術は医学では治せない病も治す事が出来た秘術だっただろう。しかし医学の進歩した現代では、医術で治せない病よりも魔術で治せない病の方が多いくらいだ。
エルマが知らないだけで、封印指定を喰らう程の神秘の深淵に踏み込んだ魔術師なら、或いはエルマの病を治すことができるのかもしれない。
だがエルマ・ローファスがその魔術師を知らない以上、そんな仮定など意味のないことだ。
「私は贅沢を望んでいるわけじゃないんです。ただ――――普通の人が当たり前に享受している健康な体、人並みの寿命、人並みの人生が欲しいだけ。
だけど人として失敗作の私にとっては、当たり前の事を望むのに聖杯なんていう奇跡を頼らないといけないんです」
弟には感謝をしている。弟が友人の遠坂冥馬から聞いた『聖杯戦争』について教えてくれなければ、エルマは一年後の死を座して待つしか出来なかっただろう。
だが聖杯を知った事で僅かだがエルマには希望が見えた。これまで望んでも手に入れられなかった、人が当たり前に持つものを手に入れる機会を得たのだ。
「成程。私が御主君に呼ばれた理由に合点がいった」
エルマ・ローファスは人間として当たり前のものを、アサシンは英霊として当たり前のものを。
当たり前のものを欲する。
それがエルマ・ローファスが十九人のハサンたちから小躯のハサン・サッバーハを召喚した最大の繋がりだったのだ。
同じ願いを持つ者同士。その共通点がエルマとアサシンの間に奇妙なシンパシーを生む。
だが……。
「っ!?」
それに浸る間もなく、突然に天から小さな物体が流星の如く落ち、廃墟の屋根を突き破った。
轟音と共に土煙が上がる。主君を守る使命を帯びたアサシンは、この突然の事態にも慌てず、屋根を突き破って現れたそれからマスターを守る為に立ち塞がる。
「……貴方は?」
エルマが恐る恐る、それに問いかける。
それはエルマの問いに答えることなく、野獣の双眸をエルマたちに向けた。
「――――集めた拠点候補の三番目、ここで当たりだったか。アサシンのマスターだな、お前ぇ」
上官に裏切られ、サーヴァントを喪いながらも、国から戦いを続けることを命じられた男。
相馬戎次が鬼気迫る貌でエルマ・ローファスとアサシンの前に現れた。命を奪いに来た敵として。