投入できる兵力の限界、指揮官の裏切り、妖刀の破損、ライダーの消滅。
帝国陸軍、いや相馬戎次が聖杯戦争に勝つ見込みは、もはや皆無に等しい。だからこそ戎次は生きて戻らぬという決意で、敢えて兵士達を帝都に置いて、単独で冬木に舞い戻ったのだ。
しかしどうせ命を散らせる気で挑むのであれば、足掻けるだけ足掻きたい。やれる限りはやりきる。それが戎次の出した結論だった。
今の自分ではセイバーを擁するリリアや、キャスターを擁する冥馬と戦っても勝つことはできない。せめて妖刀があれば、と思うが無い物ねだりをしても仕方ないこと。あるもので戦うしかないのだ。
セイバーも駄目、キャスターも駄目となると、もはや狙うべきは残るアサシンしかいない。
アサシンは気配遮断スキルをもちマスターの天敵と呼べるクラスだが反面、正面戦闘では脆弱なクラスだ。アサシンであれば或いは今の相馬戎次でも打破しうるかもしれない。
不幸中の幸いか、陸軍の調査でアサシンとそのマスターの拠点については、幾つかの目星はついていた。
一つ向かい空振りに終わり、二つ向かい徒労に終わり、三つ目で遂に正解を引き当てた。
「見ィつけたぜぇ」
エルマ・ローファスと小躯の暗殺者と正面から対峙して、戎次は鋭い日本刀の刃を向ける。
刀といってもこれまでの戦いで使っていた妖刀ではない。ありったけの魔力で強化を施した由緒正しい〝名刀〟だ。
時代を経た物品はその存在した年数だけの神秘が宿る。真正の妖刀であり宝具であった嘗ての愛刀と比べれば劣るが、六百年前の名刀を魔力で補強すれば、サーヴァント相手にもそれなりに有効な殺傷力を得ることができる。
「……相馬戎次。サーヴァントも令呪も失った敗北者が、わざわざこの冬木に戻ってきてなんの用です?」
エルマは自分の手足であり兵士となる自律人形に、自分の周囲を守らせながら油断なく言った。
鋸や鉈に斧といった、生々しく猟奇的な凶器を装備したフランス人形たち。彼等の感情のない無数の視線が戎次を射抜く。
だがこの程度の視線で臆する戎次ではない。正眼でエルマとアサシンを捉えながら口を開く。
「今日はアサシンの命を獲りにきたんじゃねぇ。アサシン、お前を貰う」
「……! 私から令呪とサーヴァントを奪う気ですか!?」
「ああ。俺はお前のアサシンと令呪が欲しい」
「サーヴァントを失ったマスターが、マスターを失ったはぐれサーヴァントと契約することがあるとは知っていましたが、サーヴァントを失ったマスターが、他のマスターを殺して、サーヴァントを奪おうとするなんていうのは初めて聞きました」
アサシンをただ殺すのでは冥馬やリリアを利するだけに終わってしまう。
しかしエルマの令呪とサーヴァントを奪い取れば、相馬戎次は正式にマスターとして戦線復帰を果たすことができる。
戎次一人では逆立ちしても冥馬とリリアの戦力には及ばないが、戎次にアサシンの戦力が加われば、この絶望的な戦況にも一筋の光芒が差し込む。戎次にとってアサシンを奪うことだけが、聖杯戦争に勝利する唯一残された手だった。
「女で、しかも餓鬼とあっちゃ俺も殺したくはねぇ。令呪とサーヴァントを置いていけ。そうすりゃ俺は身命に誓ってお前には手出ししねぇ」
「思い上がらないで欲しいですね、軍の狗。それは私の台詞です。サーヴァントを喪失した上に、ご自慢の妖刀もない貴方が私達に勝てるとでも?」
エルマが魔力を送ると自律人形の目が赤く発光した。
自律人形たちは其々が個別の動力炉を備え、エルマが一々魔力を送り操作せずとも自己判断で動くことが出来る。だが近くに術者がいる場合、魔力を送りその動きを制御し、その戦闘力を格段に増大させることも可能なのだ。
遠隔自動制御からエルマの手動制御に切り替わった事で、フランス人形たちの戦闘力が大体1.5倍に跳ね上がる。これにサーヴァントであるアサシンが加われば、そう負けることはないだろう。相手が人間なら尚更だ。
「勝てるか勝てねえかじゃねえ。俺がやンのは、勝つ気でやる。こんだけだ。征くぞッ!」
空気抵抗を減らすため体を小さく丸め、弾丸の如き速さで疾駆する。戎次の狙いはアサシンでもフランス人形たちでもない。令呪を宿すエルマ・ローファス唯一人。
だがアサシンもフランス人形たちも、己の主に食い掛かってくる狼を見逃すはずがない。
フランス人形の半分はエルマの防衛のまま待機、残り半分が防衛から敵への攻撃へ転じる。攻撃を命じられたフランス人形たちは戎次を取り囲むように展開した。
数の暴力、物量を活かした包囲からの袋叩き。古代、中世、近代。いつの時代でもそれは有効な戦術の一つだ。
「押し潰れなさい」
冷たい命令。凶器をもつフランス人形たちが、殺人という狂気の命令をケタケタと狂喜しながら実行する。
圧倒的物量による圧殺は確かに効果的な戦術だ。だが英雄とは単身で天地に刃向う者。圧倒的な物量を単騎で打ち破ってこその英雄。
ならば人の身で英霊に肩を並べる強さをもつ相馬戎次が、フランス人形程度の物量に負けるはずがない。
「だぁらァッ!」
牙のように鋭い歯を見せながら、戎次が雄叫びと共に刃を振るう。
風を切り裂く刃。
一人一殺、一対一を旨とする剣術では一体のフランス人形を切り伏せられても、第二第三の追撃により打破される。
なればこそ相馬戎次の刀の切っ先が描くは直線に非ず。相馬戎次の立つ場所を中心とした円の形。
竜巻のような斬撃はエルマが作り出した殺戮用自律人形たちを容赦なく巻き込んでバラバラに解体していった。
「――――!」
無数の人形たちを切り伏せた余韻に浸る間も戎次にはない。
攻撃の間を縫って、闇に溶けるよう黒く塗られた毒針が飛んでくる。視覚で捕捉することの困難なそれらを、戎次は第六感で感じ取って叩き落とした。
「やるな、軍人。我が針をこうも見事に躱すか」
アサシンの賞賛は本心からのものだ。毒針の投擲、シンプルに思えるが黒く塗られた上に極小の毒針を視認することは、サーヴァントであっても困難極まることである。
毒針を叩き落とせたのは戎次の常識外の技量と、よく鍛え上げられた第六感の賜物である。戎次と同じことを完全にこなせるのは、此度の聖杯戦争に集ったサーヴァントではセイバーくらいだろう。
「だが私は暗殺者、貴殿と正々堂々と技比べをする風情はない。しめやかに仕留めさせて貰おう」
アサシンはその敏捷さで戎次の周囲の木々を跳び回り毒針を投擲する。
別にアサシンが増えたわけでもないのに、戎次は二十人の暗殺者に物陰から毒針を投げつけられている感覚を味わった。
そして――――。
「まだまだ私の人形たちは戦えますよ」
アサシンの毒針を叩き落としながら戦う戎次に、更なる窮地を招く命令が下される。戎次に切り刻まれ壊滅したフランス人形の部隊。その生き残りに、エルマの護衛だったフランス人形が援軍として加わる。
フランス人形の群れたちは、毒針の回避に全霊を費やす戎次へ猛然と襲い掛かった。
猛毒の塗られた毒針が人間の戎次に必殺なら、フランス人形たちの凶器もまた人間の戎次にとって必殺。
必然。戎次はアサシンの毒針を回避しながら、フランス人形たちを切り伏せることを強いられた。
「貴殿のその刀、それなりの名刀であるが、最初の妖刀と比べればなまくら刀に等しかろう。なによりも貴殿の力に刀の強度が追い付いていない。いずれは内部より折れ、使いものにならなくなる」
「ふふふふっ。死ぬ気で掛かってくる敵と、わざわざ真正面からぶつかることはないでしょう。貴方が疲弊して武器を失ったところを狙わせて貰います」
エルマとアサシンは距離をとり、戎次の攻撃が届かない安全圏に身を置きながら自分達は遠隔で戎次を攻撃する。
「ちっ……!」
戎次は歯噛みする。
敵が人形たちだけなら大技を使い即座に切り伏せることが可能だったろう。毒針だけならどうにか掻い潜る事も出来ただろう。
だが大技を繰り出せない絶妙なタイミングを見計らって毒針の邪魔が入るせいで、戎次は行動が大きく制限されてしまっている。
体力とて無限ではなく、用意した日本刀も負担を増していて限界が近い。戎次の体力が尽きるのが先か、刀が折れるのが先か。どちらにせよ、このまま続けていては相馬戎次はアサシンに殺されるだろう。
だから戎次はこのまま戦うことを止めた。
「悪ぃが、俺の武器は剣だけじゃねえ」
刀を振りながら戎次がばら撒いたのは無数の札。戎次が念と魔力を送ると、札にかかれた呪印がその通りの効果を発揮する。
呪印の意味は炎。札が一斉に紅蓮の火種となってフランス人形たちを焼いた。
「うおおおおぉぉ!!」
フランス人形たちを蹴り飛ばし、戎次が狙うはエルマ・ローファス唯一人。
如何な暗殺者といえどマスターの危機となれば、戎次の行く手を遮るために立ち塞がざるを得ない。木々を跳び回っていたアサシンが、戎次の命を摘み取りマスターを守るため背後から追いすがる。
ニヤリと口端を釣り上げ、戎次はくるっと反転する。
「かかったなぁ!」
「っ!」
「俺の狙いは、こっちだぁ!」
百八十度、方向転換した戎次はエルマではなくアサシンに斬りかかる。
マスターだけを狙おうにもアサシンがいてはそれは難しい。ならばアサシンに動けない程度のダメージを与えてから、エルマを狙うという風に戎次は方針転換したのだ。
空気の壁を貫通する毒針を放つアサシンも、真っ向からの切り合いではフランス人形よりはマシという程度。
戎次の繰り出した斬撃は飾り気のない剥き出しの武。これを回避することはアサシンには出来ない。
「躱して、アサシン!」
アサシンの不可能を、エルマの赤き刻印が可能にする。
神の操る糸に動かされたように突然にアサシンが左に飛び退き戎次の斬撃が躱されてしまう。
そして必殺の斬撃を躱されたサムライなど、暗殺者にとっては恰好の獲物に過ぎない。アサシンは自分がマスターの令呪で救われたと認識するよりも早く、相馬戎次を殺すために動いていた。
アサシンの投擲した毒針が戎次の体に突き刺さる。
「……っ!?」
針が刺さった痛みではなく、全身を駆けまわる毒の苦痛で戎次は顔を歪める。
そこへ生き残った一体のフランス人形が、戎次の背中に人斬り包丁を突き刺した。
「うぉっ、ごぉぁはぁッ!」
内蔵から溢れ出た血下呂を吐き出す。
背中から差し込まれた人斬り包丁は、戎次の体を貫通し銀色の刀身を赤く塗っていた。
「令呪を使うほど追い詰められたのは流石としか言えませんね。だけど終わりです。毒が塗ってあるのはアサシンの毒針だけだと思いました?
言う義理もなかったので言ってませんでしたけど、私の人形たちの凶器にもアサシンの調合した毒が塗ってあるんですよ。アフリカ象だって殺せる猛毒を。ねぇ、アサシン」
エルマは人形の凶器に毒を塗った張本人、アサシンに話を振った。
「然り。魔術師、貴殿もよくやったがここまでだ」
話している間にも戎次の全身には毒が回っていく。更に突き刺された人斬り包丁は内蔵の一部を貫いてもいた。だが、
「アフリカ、象? ひ、はははっははははははははははははははははは」
相馬戎次が唱えたのは念仏ではなく笑いだった。
「何が可笑しいのですか?」
「ああ可笑しいねぇ。人間、舐めるなよ英霊。ンな毒なんざぁ、知るかァ!!」
「!?」
戎次は自分を貫いていた人形の頭を鷲掴むと埒外の握力で握りつぶした。
刺さっていた人斬り包丁を抜きとる。栓がとれたことで傷口から血が流れ出るが、戎次はそんなことは気にも留めない。
血を滝のように流しながら、相馬戎次は地獄から這い出した悪鬼の如き壮絶な笑みを浮かべた。
「ありがとうよ。武器が増えたぜぇ」
フランス人形から奪い取った人斬り包丁を構える。
半死半生、死に足を引かれながら戎次はそんなこと知るかと言わんばかりに走った。
その余りの壮絶さ。人間の生命の常識を超えた異様にエルマ・ローファスは封印したはずの恐怖の感情を呼び覚ます。
「っ! 私に近付かないで!」
エルマにとって一つの切り札ともいえるフランス人形が戎次に真っ直ぐ突っ込んでくる。
戎次はそれを己の刀で撃退しようとするが、その瞬間。
「空想電脳」
アサシンの呪言により、フランス人形の腹部に隠された人間の生首が起爆した。
体の内部で暴れる猛毒と腹に空いた穴。二つの重傷を抱える戎次に追い打ちをかけるように爆風が襲い掛かる。
「まだ、まだぁああああああああッ!!」
だが尚も戎次は倒れない。
もう人間ならば死んでいる筈なのに、それを気力で捻じ伏せて両足はエルマ・ローファスのもとへ行くために動いた。
「やっと、着いたぜ……」
遂に戎次がエルマの眼前に立つ。
たった数十メートル。それだけを踏破するのに戎次は毒に犯され、人斬り包丁に貫かれ、爆炎に身を焼かれた。
「あ、ああ――!」
「お前ぇの令呪、頂く」
「やらせぬ」
戎次とエルマの間に割って入る黒き影。
暗闇から人の命を刈り取る暗殺者は、この時は真っ向から主君を守り通す騎士となる。
あらゆる脳髄を爆弾に変える魔指が戎次に迫った。が、魔指が戎次の頭に到達するよりも早く、腕ごと刀で斬りおとされる。自分の血で染まった戎次の黒衣に、別の血が混ざった。
「キ、キキーーーーッ!」
苦悶に顔を歪めながらもアサシンは毒針を投擲し、遂にその針が戎次の心臓に突き刺さる。
「う、おおおおお……!」
心臓を貫いた瞬間、戎次は人斬り包丁でアサシンの心臓のある場所を貫いた。
そのまま懐に潜ませた妖刀の破片を、アサシンの体に押し込む。
人斬り包丁や名刀とは違い、妖刀はサーヴァントを殺すに足るほどの神秘。それは折れて破片となっても変わるものではない。
戎次の命を賭しての猛攻はアサシンに届いた。
「やっと……邪魔すんのが……いねぇ……ようになったなぁ。……次は…………」
「い、いや」
止めどなく血を流し、顔面を青くし迫る戎次は鬼のようだ。
エルマは恐怖で顔を歪めながら後ずさる。そして戎次は最後の力を振り絞り日本刀を振り上げた。
「暗殺者を……舐めるなよ人間」
最後の力で振り上げられた日本刀は人を切ることなく空を切る。
霊核をやられながら未だに息を保っていたアサシンが、刀がエルマの肉を切る寸前でエルマを突き飛ばしたのだ。
戎次はアサシンを幽霊を見たかのように見つめる。
「まだ……生きてンのかぁ?」
「暗殺者は決して、獲物より先には死なん」
「そうか……そりゃ……そうだよなぁ」
星々を覆い隠していた雲から月明かりが覗いた。
「雪、か」
戎次は自分の掌に落ちた白い粒を見つめながら零す。まるで涙のような雪を握りしめると、戎次は安らかに息を引き取った。
だがこれより消えるのは戎次だけではない。アサシンもまた己の霊核を破壊され死を待つ身だった。
「失礼。御主君に聖杯を捧げると契約しながら、我が身はこれから滅びるようだ」
自分の死すら他人事のようにアサシンは言う。
アサシンとて確かな悲願をもって参加したサーヴァント。無念でないといえば嘘になるだろう。
されど暗がりから死を運ぶ『死神』の道に生涯を捧げた暗殺者にとって、死とはなによりも身近なもの。
無念を感じながらも自分が死ぬことを客観的な事実として、理性が理解して受け入れてしまっているのだ。
「勝手な事を、言わないで下さいよ……。貴方が死んでしまったら、もうおしまいじゃないですか」
だがエルマは自分の敗北を客観的に受け入れ納得できるほど場数を踏んでいない。
血溜まりに倒れ消えゆくアサシンにエルマは必死に縋りつく。
「ふむ。おしまいとは?」
「死ぬってことです! やっと……やっと当たり前の人間として普通に生きられるかもと思ったのに! 頑張って、最後の三人に残ったのに! こんなところで、私には傷一つないのに終わりだなんて……」
それはサーヴァントや敵マスターに殺されるという意味ではない。
既に医者から余命一年と宣告されたエルマにとって、聖杯という奇跡を手に入れられないということは死ぬことと同じこと。
教会に駆け込めばこの聖杯戦争で死ぬことは免れるだろうが、聖杯戦争で負けて死ぬのも一年後に病で死ぬのも少し遅いか早いかだけで結果は同じだ。
「なんとかならないんですか。私には令呪が後二つも残っています。令呪の魔力で貴方の損傷分を補填できたら」
「不可。腕の損傷程度なら令呪で如何様にもできようが、私が彼奴に獲られたのは腕だけに非ず。彼奴が獲ったのは我が命、サーヴァントの心臓ともいえる霊核そのもの。
死した人間が蘇らぬのと同じだ。心停止した者を蘇生することはできても、火に焼かれ骨になった者を蘇らせることはできまい」
「知っていますよ、そんなことは!」
死者蘇生には時間旅行、並行世界の運営、無の否定いずれかの魔法が絡む。魔法使いではないエルマがそれを為そうとすれば、聖杯という願望器がなければ不可能だ。
だがエルマがアサシンに言ってほしいのは冷徹な返答などではなく、大丈夫だという一言だったのだ。
アサシンはそれを察しつつも、しかし夢想を抱かぬ暗殺者は根拠のない断定はしなかった。
「御主君よ。消えゆく我が身なれど最期に諫言させて頂く。我が身などに縋らず逃げよ。……が、教会に保護を求めるのは危険かもしれぬ。あの監督役は遠坂のマスターと懇意にしている様子。或いはなにかの取引が成立しているかもしれぬ。
私の考え過ぎと言えばそれまでだが、慎重な行動が命を繋ぐ秘訣。御自身の体を労われよ」
「労わってどうなるんですか。どうせ私は一年後には死んでいるのに」
「御主君」
「なんですか? もう御節介は沢山です。逃げ帰っても真綿で首を絞められる恐怖を一年も味わうくらいなら、私は一思いにここで誰かに殺されます……。ここでじっとしていれば、いずれ誰かが私を殺すでしょう」
「それなのだが御主君。御主君は死なぬ」
「――――へ?」
アサシンはふと、そんな良く分からないことを言った。
「御主君の病というのは、頭蓋の裏側に巣食った魔のことであろう。あの病であれば、私がその病の特効薬を調合する術を知っていたが故に治させて貰った」
「……え、治った……?」
「左様」
突然アサシンから告げられたことが、余りにも衝撃的過ぎて理解が追い付かない。エルマの頭が漸く言葉の意味を呑み込むと、エルマはあたふたとしながら言う。
「う、嘘でしょう……? 私が、もう治ってるなんて!? 大体いつ私が特効薬を飲んだっていうんですか!? 私はそんなものを飲んだ覚えはありません!」
「御主君が毎日飲んでいたミルクティー。それに薬を混入していた……」
「あ」
はっとエルマは驚き目を見開く。
思い返せば確かにアサシンは『ミルクティーを飲んだのか?』とよく訊いてきた。それはミルクティーを飲んだかどうかの確認ではなく、ミルクティーに混ぜた特効薬を飲んだかどうかの確認だったのだ。
「それじゃあ私はもう……一年経っても死ぬことはないんですか?」
「左様」
「なんで私に黙って……」
「――――恥ずかしながら、利己的な理由故に」
「利己的?」
「私には御主君の抱える全ての問題、その体の成長などについては解決できぬが、御主君の抱える最大の悩みたる余命――――病を解決する術はあった。
しかしもし病が治ったことを御主君が知ってしまえば、御主君は聖杯戦争を放棄して私との契約を切ってしまうかもしれぬ。
マスターがなければ私のような暗殺者は消えるしかない。だからこれまで話せずにいた。非礼、謹んで詫びさせて頂く」
エルマが聖杯戦争に参加したのは体のこともあったが、一番には一年間というタイムリミットをどうにかしたかったからだ。
だからアサシンの言った事を「そんなことない」と否定することはできない。もし――――もしもアサシンが、病が治った事を告白していれば、自分はアサシンを裏切って命欲しさに逃げ帰っていたかもしれないのだ。
「だけど、それなら最初から私の病を治療したりしなければいいじゃないですか! どうして私の病を治してくれたんです?」
だってアサシンにはメリットがない。
エルマの病の治療を黙っていたところで、なにかの拍子にエルマがそのことに気付く可能性は十分にあった。
アサシンからすればエルマを治療したことは、自身にとって何の益のない行為なのだ。
「御主君。貴女が私を一介の暗殺者として、ただの英霊もどきの亡霊として扱っていたのならば、私もただの道具、ただのサーヴァントとして貴女に報いただろう。
だが貴女は私のような者を紛れもない英霊として遇した。ならば薄汚い我が身なれど、英霊として貴女に報いずにはおれなかった……。ただそれだけのこと」
利己的な理由で治療を黙っていたあたり所詮は英霊もどきだが、とアサシンは自嘲しながら付け加えた。
「そんなことありません!」
だがエルマは精一杯の感謝と共に薄れゆくアサシンの手を握る。
「例え他の誰がなんと言おうと、貴方は私の命を助けてくれました! 貴方は私にとって紛れもない本当の……英雄です!」
そう、エルマ・ローファスは一年後に死ぬはずだった。だがアサシンは一年後に死ぬという運命を覆しエルマの命を救った。
これだけは誰にも否定できない現実だ。
「そうか……余り自覚していなかったが、私は命を救ったのか。思えば生前も今も我が手は人に死を送るばかり。誰かの命を救うなど一度も経験したことがなかった。
フフフ、そうか。感謝の言葉が胸に満ち、饒舌につくし難い感慨が心を潤ませる。これが……これが命を救う達成感なのか。
悪くないな……もしも人として生まれ変わることがあるのならば、今度は暗殺者などではなく医者となるのも良いかもしれぬ」
エルマには一瞬アサシンが微笑んだような気がした。
黒衣の暗殺者が消えてゆく。その姿を見送ってからエルマは立ち上がった。
エルマの左胸にはアサシンが救ってくれた命が脈打っている。
「ありがとうございます、アサシン」
エルマは精一杯の感謝を共に戦った恩人に告げると歩き出した。
これからの人生を存分に生きるために。