――――酷い時代だった。
終わらぬ戦乱、小国家に分裂してしまった狭い島。
下から見上げても、上から見下ろしても響いてくるのは戦乱に喘ぐ悲鳴ばかり。
切欠は永劫不滅と誰もが信じて疑わなかった帝国の衰退である。
数多の蛮族の侵攻に見舞われた帝国は、その島国から軍を撤退させてしまったのだ。
国とは家屋に例えることができる。ともすれば〝帝国〟という主柱を失った島がばらばらに分裂してしまうのは自明の利だったのだろう。
そんな時代に彼は生まれた。
父であり王に仕える〝騎士〟でもある老騎士の下で、彼は自分もまた〝騎士〟となるべく修練に励んでいた。
修練といっても彼が学んだのは剣術だけではない。
騎士とは王の剣として敵を屠る為だけにあるのではなく、時に王の助言者となり朋友となるべき者。
素朴であった老騎士は真摯にそう言って聞かせては、彼に馬術や学問など多くのことを教え込んだ。
「兄君」
ある日から自分の修練に一人の〝少女〟が混ざることとなった。
月に濡れたような金色の髪と翡翠の瞳。そこに在るだけで空気が澄みきるような佇まい。もしも彼女がドレスで着飾れば誰よりも麗しい姫として、遍く騎士たちが目を奪われた事だろう。
彼にとっては妹というべき少女。けれど〝少女〟は妹ではなく弟であり〝少年〟だった。彼は〝弟〟が少女であることを知っていたが、父である老騎士により彼女は彼として扱われていたのだ。
だから剣を振るえる年齢となった彼女が、彼として修練に混ざるのも当然のことだった。
「私もこれより共に剣の鍛練に加わることとなりました。どうか、ご指導をお願いします」
少女は幼さを残した顔立ちで、花の咲くような笑顔で微笑みかけた。
「――――」
少女は美しかった。そして誰よりも真っ直ぐだった。
ともすれば彼よりも、老騎士よりも純粋に、ひたむきに――――私心なく国と苦しむ人々の為に剣技を磨かねばならぬ、という使命感が宿っていた。
その透き通った目で見つめられ、笑顔で頼まれたのである。
万人が万人、少女の力となれる栄誉を歓喜と共に受け入れ、ただ一言「喜んで」と応えるだけだろう。
しかし彼は生憎と万と一人目の人物だった。
「指導だと? どうして俺がお前の為に指導なんぞしなければならん。そもそも頼めば相手が教えてくれるなどというのはとんだ思い上がりだ」
師事の拒絶が途轍もなく衝撃的だったのか、少女は目をパチクリしながら呆然と彼を見上げていた。彼はそんな少女に顔を向けることなく畳み掛ける。
「いいか、俺は俺の鍛練で忙しい。お前に構っている時間などはない。
話は以上だ。どうしてくれる? お前のせいでもう十秒ほど無駄にしてしまった」
彼は明確なる拒絶の意を告げると、少女を置いてさっさと自分の鍛練を続行しようとした。
「ま、待って下さい兄君!」
当然少女はそんなことに納得できない。
今日は所用で彼と少女の父である老騎士はおらず、その老騎士は自分に変わり〝彼〟に師事するように、と少女に申し付けていたのである。
「俺は忙しいと言ったはずだが?」
実に大人気ないことだが、不機嫌さを露わに彼は少女を睨みつける。
けれど少女も女の身でありながら男として剣の鍛錬に率先して混ざろうとする意欲と、自分の言ったことは曲げない頑固さがある。
少女は一歩も退かずに頭の上がらない兄に立ち向かう。
「ですが父君は今日は兄君に剣を見て貰えと私に仰られました。兄君は父君の仰られたことを無視されるのですか?」
一部の隙もない追及。
彼もまた少女と同じく〝父〟より教えを受ける教え子である。彼はなにかと偏屈なところもあるが、自分のやらねばならない責務は守る人物だ。
教師である父の託を無視することはできない、と少女は思っていたのだが、剣の才能ならまだしも、こと弁舌にかけて彼は稀代の人物だった。
「ふん」
彼は馬鹿にするように鼻で笑うと、
「だったらお前の教師として本日の鍛練の指示を下す。――――休息だ。今日は休息日とする故、帰って寝ろ」
「ふざけないで下さい」
あまりにも適当極まる対応に、さしもの少女も怒る。頬を怒気で赤く染めながら、牙と角が生えてきそうな勢いで彼に詰め寄った。
彼は嘆息しながら、このままでは埒が明かぬと見て言った。
「父から俺に剣を学ぶよう教えられた? だからお前にせっせと剣の教導をしろだと? とんだ愚か者だなお前は。それだからいつまで経っても算術で俺に及ばないのだ」
「なっ! 確かに算術では兄君に遅れをとっていますが、その他の学問であれば……」
「喧しい奴だ。では逆に問うぞ。お前はいずれ騎士として……いいや将としてこの国の軍団を預かる立場に置かれた時、侵略者共に『貴方達の戦術が良く分かりません。教えて下さい』なんて間抜け顔で乞食のように頼みこむつもりなのか?」
「そんなことするわけありません! そのように頼んだとて、敵が己の手の内を晒すわけがないでしょう」
「教えてくれるわけがない。よし、正解だ。足りない脳味噌でよく平均点ぎりぎりの解答を捻りだした。分かったな、だから俺は教えないのだ。じゃあ俺は俺の鍛練を再開するから、さっさとどっか行け」
「……話を摩り替えないで下さい。確かに敵は教えを請われたところで情報を教えてはくれないでしょう。ですが兄君は敵ではなく、私の兄ではありませんか」
「――――!」
初めて〝彼〟に動揺の色が垣間見える。兄を見つめる少女の双眸には濁りのない兄への敬愛と親愛だけが宿っていた。そこに疑念や疑惑といったものはまったく含まれていない。
如何な偏屈者であろうと、こんな目を向けられては観念するしかないだろう。
だが、否、だからこそ、だろうか。
少女の兄である彼はより意地悪げに言う。
「この世界に不変なものなどはない。永遠だと信じて疑わなかった帝国すら、その繁栄は永劫のものではなかった。だったらなにを根拠に俺を味方だと断じる。時の巡り合わせによっては、俺がお前の敵となるかもしれないではないか?」
「兄君が敵……? いえ、ですが、そんなことは――――」
少女は言葉を詰まらせた。
反論を封じられたのではない。自分の兄が自分に敵対する、そんな未来など信じたくはないと、その悲しみが宿った横顔が告げていた。
目に見えて悲しそうな顔をする少女に彼はそっぽを向く。
少女が嫌いなのではなく、自分で自分の言った事が少し嫌になっただけだった。
己の肺の中に溜まった毒を堂々と言い放つことに躊躇いなどない彼だが、だからこそ時には自分の言いたくないことも言ってしまうことが多々ある。
少女と過ごしてから、そういう機会が増えてきたのを彼は自覚していた。
「なにを俯いている」
気恥ずかしさからか、それとも他の理由からか。
彼は顔を合わせない様にそっぽを向いたまま口を開いた。
「え?」
「頼んだところで敵はなにも教えてくれない。だったら教えを乞うのではなく相手のすることを盗むことだ」
「盗む?」
「今もそうだ。お前はこれまでなにをしてきた? 木剣を握ることが許されなかった年齢から、俺と父の鍛練を盗み見ては木の枝やらなんやらで見よう見まねの不細工な剣技をしていただろうに。
だったら今回も同じことをすればいい。俺の教えを請うよりも、俺の鍛練を見て剣技を盗む努力をしたらどうだ?」
「――――!」
彼はそう言い捨てると、今度こそ自分の剣の鍛練へ戻る。
少女もそれ以上は食い下がることもなかった。彼から受けた最初の〝教え〟を胸に刻み、彼の剣技を見ては息を吸うように彼の剣技を盗み、それを自分のものに昇華しては、己の業として更に発展させた。
幾年もの修練の月日。
少女が〝彼〟を追い越すのにそう時間はかからなかった。
最初に剣で負け、次に馬術で負け、その次は兵法や殆どの学問においても負けた。彼が少女に守り通したのは算術などといった細やかなものだけだった。
自分より年下の妹――――否、弟に負けた悔しさがないわけではなかったが、それ以上に充実した日々だっただろう。
修練は辛い事も多かったが、駒を使った遊戯や水浴びなどの楽しみはあった。
――――兄君。
ある日、少女が凛とした面持ちで彼に言う。
「最初に兄君から教えを受けた日、兄君は時の巡り合わせによっては私達は敵同士になるかもしれないと言いました。あれは」
「阿呆」
少女がそんな昔の他愛ない会話を覚えていることと、少女と同じようにそのことを覚えていた自分を馬鹿にするように笑う。
「俺が――――――、だろう」
常日頃からまったく素直でない彼だったが、その時は思うことがあったのか心からの本心を告げた。
少女は初めて兄の素直の言葉を聞いて面食らっていたが、やがて心からの嬉しさをそのまま表情に出して、太陽のような微笑みを浮かべた。
暗転。
彼と少女の遠い夢は、睡魔の退散により唐突に途切れた。
(…………う、なんだ。あの夢?)
頭の中に居残り、ぐわんぐわんと踊りまわる眠気に負け、冥馬は再びベッドに体を預けたくなったが、どうにかギリギリのところでそれを堪える。
カーテンの隙間から光が差し込む。外には昨日の激戦が嘘のような青い空が広がっていた。
隣の布団では璃正が静かに寝息をたてている。
「ああ、そうか」
自分の手に刻まれた昨日までは父の腕にあった令呪。これを見て眠気で朦朧としていた意識が一気にしっかりとする。
ナチスやランサーの襲撃を躱すためホテルを飛び出した冥馬たちは、一般の宿泊施設に泊まるのは危険だと判断し、適当な家を見繕いそこで一夜を明かすことにしたのだ。
といっても馬鹿正直に『泊めて下さい』と家主に懇願したのではない。暗示の魔術で一日ほど旅行に行って貰い、誰もいなくなった家に転がり込んだのである。
(はぁ。出来れば一般人の魔術をかけるなんて真似はしたくはなかったんだが)
魔術が当たり前であった神代、神秘がより密接だった中世はまだしも、科学技術が神秘した現代。魔術は社会における異物である。
それこそ大昔であれば人一人が変な行動をとっても気にも留めなかっただろう。だが現代で一般人に暗示をかけて操ろうものなら、そうした不審な行動は徹底的に調べられ、表社会は魔術を知りはしないので『理由もなしに変な行動をした』という調査結果だけが残る。規模の大小など関係なく、一般人に魔術を使うのは神秘を漏洩することに他ならないのだ。
故に魔術師は魔術を使いはしない。魔術は『根源』へ目指すための手段に過ぎず、魔術を使うことが魔術師の目的ではないのだ。
当然、命の危険――――魔術の研究ができなくなるという最大の災厄を前にしては、魔術師も魔術を使うが、逆を言えば必要な時以外に魔術師が魔術を使うことはないのである。
遠坂の〝魔術師〟である冥馬もそんな訳で一般人に暗示をかける、なんて事はしたくなかったのだが、止むを得ない状況であるのだから仕方ないと諦めた。
「つい昨日だ」
「キャスター?」
椅子に腰かけながらキャスターが実体化する。
「ナチスとかいう軍隊の狗どもと、狗に首輪で繋がれた狗コロのランサーに襲われて死にかけた癖に、よくもまぁカバのような阿呆面で安眠できるものだな。その図太さ、中々真似できるものじゃない。一応お前の稀有な素養だな」
紆余曲折あって冥馬はこのキャスターと正式に主従関係を結んだわけだが、キャスターの口の悪さが優しくなるということは皆無だった。
キャスターはオブラートに包みこむという概念を知らないのだろうか。
「はいはい、一日中俺と璃正が眠っている間も見張りご苦労様。だけどサーヴァントは魔力供給さえしっかりしていたら寝る必要も食べる必要もないんだろう? だったらその特性を最大限に活かさないと。マスターとしては」
「人使いの荒いマスターだ。だがぐっすり安眠したなら昨日の疲れが残ってるなんて小便垂らした新兵のような泣き言はなしだろうな。
準備が良いならさっさと行くぞ。そこの監督役と聖杯を冬木の地に届けなければ始まる戦いも始まらないだろう」
「分かってるよ。けれどそう焦る必要はない。こういう時こそ余裕をもって優雅たれ、だ。璃正を起こさないとならないし、朝食をとるくらいは良いだろう?」
そういえば、と眠っている間に見た夢を思い出す。
見渡す限りの草原も、古めかしい鎧甲冑に身を包んだ騎士も、そしてあの涼風のような少女も。どれも遠坂冥馬の記憶にはないものだ。
そして夢の中にも出てきた〝彼〟は遠坂冥馬の目の前に佇むキャスターをそのまま小さくしたような姿をしていた。
父から聞いた話なのだが、マスターは契約のラインを通してサーヴァントの過去を夢に見ることがあるという。
だとすればアレは遠坂冥馬ではなく、キャスターの過去だったのだろう。
(しかし――――)
チラリとキャスターの横顔を伺う。
アーサー王が実は魔術師でもあった、と聞いた時も並々ならぬ衝撃を受けたものだが、今回は下手すればそれ以上に衝撃的だった。
よもやアーサー王にあんな妹がいたなど、まったくの初耳である。
(おまけにその妹、アーサー王より強かったし)
冥馬は夢で垣間見たのみであったが、剣術を本格的にやり始めた最初の頃は兎も角、成長するにつれてその技量は完全に後のアーサー王たるキャスターを上回っていた。
魔術だけではなく武術も高いレベルで身に刻み込んだ冥馬だからこそ、猶更キャスターとあの少女の強さの違いがはっきり分かるのだ。
別にキャスターが弱いというのではない。
キャスターも英霊だけあって並みの達人など及びもつかないほどの剣技をもっている。剣ではなくとも、仮に身体能力を均一に設定した取っ組み合いでも冥馬はキャスターに勝てないだろう。
キャスターが弱いのではなく、要は単にあの少女が強すぎる、というだけ。
アーサー王伝説にアーサー王を超える少女騎士がいたなんて伝承はないので、恐らくは女の身であったが故に少女はその剣の才を戦場で振るうことなく歴史の中に消えていったのだろう。
それを勿体ないと思う一方で、どこかほっとしている自分に気付く。
我ながら困ったものだ。たった一度夢の中で見ただけなのに、あの少女に戦いなどには赴かず平穏無事に暮らして欲しいと思うなどとは。あの少女には容姿なんて外面的なもの以上に人の心を惹き付ける求心力や魅力というものがあるのかもしれない。
そしてその可愛い妹をあそこまで適当に扱えるキャスターもキャスターで別の意味で凄まじかった。あんな妹がいれば冥馬なら猫可愛がりしていただろう。こういうところも流石はアーサー王、と言うべきなのだろうか。
「そういえば冥馬、一つお前に聞いておくことがあった」
「ん? 俺に答えられることなら大抵は答えるけど、そんなに改まってどうしたんだ」
椅子から腰を挙げたキャスターは真剣な面持ちで冥馬を見据える。
その目は一切の虚偽を許さぬ、と静かであったが鉄を焼き切るような熱があった。
「聖杯戦争の大前提、聖杯に託す願いだよ。冥馬、お前はこの戦いに期せずして参加することとなっただろう」
「ああ」
「ということは、他のマスターと違い、なにがなんでも聖杯を欲するにたる理由がお前にはない。気合と根性があればどうにでもなる、というような脳筋共の掲げる根性論を賛美するわけでもないが、戦いにおけるモチベーションというのは勝敗を左右する条件の一つだ。
俺はお前のサーヴァントだ。サーヴァントである以上、戦う時はお前に俺の背中を預けることになる。その背中を託す人物が唯々諾々と流されるままに参加したような奴だと、俺も背中を守りながら戦う必要があるからな。まずはそこを確認しておきたい」
「聖杯を求める、理由か」
はっきりいって冥馬には聖杯に託す願いなどない。
魔術師の最終到達点『根源』を目指すために聖杯を使うのが正しい在りようなのかもしれないが、冥馬はそれをする気はなかった。
『根源』への到達を諦めているわけでもない。
時計塔で学んでいた頃も、遠坂の当主を継承してからも冥馬は大師父が『遠坂』に与えた〝課題〟をクリアしようと研鑽を続けている。
しかし聖杯による『根源』への到達はする気はなかった。
聖杯戦争には外来の魔術師やサーヴァントには知らされていない秘密がある。その一つが聖杯の使い道による『生け贄』の数だ。
聖杯を願望器として使うのならば聖杯へとくべるサーヴァントの魂は六体で済む。だが世界の外にある『根源』へ到達するために使うのであれば、生け贄の魂は七体必要となる。
そう、七体だ。
自分のサーヴァントも含めた、聖杯戦争に召喚される全てのサーヴァントである。
故に『根源』への到達を目指す魔術師は、他のサーヴァントを駆逐し終えた後に、己のサーヴァントを自害させるため令呪を一画残しておくのだ。
だから冥馬が『根源』を到達することを目指すなら、他のマスターとサーヴァントを倒した後に、令呪をもってキャスターを自害させることになるのだが、
(それは遠坂冥馬の主義じゃない)
努力や頑張りには然るべき報いと報酬があるべき、というのが冥馬の考えだ。
勿論世界はそんな単純に出来ていない。努力は必ず報われるものではなく、頑張りに対して裏切りで返されることも多々ある。
だが世界が不条理なものでも、自分もまた不条理を良しとして開き直るのは別だ。
冥馬は平等主義者ではないが、物事は公平であるべきだとは思う。
だから聖杯戦争を自分と同じように戦うサーヴァントを一方的に切り捨て、自分だけが報われるなどというのは少なくとも『遠坂冥馬』のやり方ではない。
魔術師として人間性を捨てろというのならばそうするし、殺せと言えば殺そう。しかし〝自分〟を捨てる気は毛頭ない。
父を殺したナチスには落とし前をつける気でいるが、それは聖杯戦争の過程の中で行うものであって、聖杯を求める願いではないだろう。
『根源』への到達が却下で、父の復讐のためでもないとなると、他に聖杯に叶えて貰うような願いはないので、結局のところ聖杯に託す願望は〝ない〟というところに落ち着くのだ。
「…………そうまで悩むということは、やはり願いはないのか?」
「嘘を吐いても仕方ないから白状するけど、その通りだ」
「――――」
「だが聖杯に託す願いはなくても、聖杯を掴む理由はある」
「矛盾しているぞ。万能の願望器を求めるのに、願いがないなど」
「矛盾なし、だ。私は父上より遠坂家当主として聖杯を掴め、と遺言を受けている。〝聖杯〟を手に入れるのは遠坂を継ぐ者としての義務だ。だから義務を果たすため命を懸けて聖杯を求める」
「にわかには信じられないな。万能の願望器だぞ、その気になれば世界平和だとか世界征服なんて願いも……まぁ叶えられるかもしれんのに」
「世界平和に世界征服って。そんなアホらしい願いなんて生憎と生まれてこの方もってないよ。ああけど、聖杯に宝石一生分って頼めば山のような宝石が出てくるのか。いやそれよりもお金を……駄目だ。戦争気運が高まってる中、お金の価値は不安定だ。ここは山のような黄金を頼めば」
「――――はぁ」
目の色を$とゴールドにしている冥馬に、キャスターは呆れた様な笑うような溜息を吐く。
「欲望じゃなく、己の義務のために命を賭けるか。……ふん。聖杯に託す願いがなかろうと、命を懸けて戦うのであればお前も他のマスターと変わらない。同じ地面に足をついて聖杯を目指す挑戦者だ。
ま、及第点だな。俺も戦いの最中は背中は守らないことにしよう」
キャスターはぶっきらぼうであったが、遠坂冥馬に背中を預けるという意志を伝えた。
自分のサーヴァントにこうして信頼を示されたのは嬉しいが、聖杯に託す願いなんて話をふっかけられると冥馬としても気になることが出てくる。
「そういうキャスターはどうなんだ」
「なにがだ」
「聖杯戦争に参加しているのはキャスターも同じだ。人に願いはなんだって説教するなら、キャスターにも聖杯に託す願いがあるんだろう?」
「……………………」
聖剣を抜いた王として、ブリテンを統一し外敵の悉くを打ち破った騎士王。しかしその最期は不義の息子の叛逆により息絶えるという悲劇的なものだった。
そんなアーサー王がなにを願いにして聖杯戦争に挑んだのか。一人の人間として興味のあることだった。
「俺の願いなど大したものじゃない。俺の……アーサー王の救済、つまるところ幸せだよ」
「――――へぇ。それはまた」
「なんだ悪いか?」
「悪くないが、なんというか」
イメージに合わない、の一言に尽きるだろう。
自分の幸せを追い求めるのは人間として当たり前の行動原理だが、騎士の王とまで謳われた英雄の願いとしては想像以上に普通過ぎる。
冥馬はもっと壮大なものをイメージしていた。
「選定の剣を抜いてから私情を完全に押し殺し、ブリテンの安寧のため身を粉にして働いてきたんだ。
それでもって漸く国に平和が戻ったら、どこぞの馬鹿の不倫とどこぞの馬鹿の叛逆で国はバラバラ。最期は己も国も民族も纏めて滅亡だ。
こうして全てが終わった後くらい自分の幸せを願っても罰は当たらないだろう?」
「はははは……」
「笑いごとじゃないぞ、冥馬。それともお前は俺の不幸がそんなに楽しいのか?」
「そうじゃない。ただ少しだけ英霊を身近に感じただけだよ」
折角蘇った現世、だからこそ二度目の生を手にするチャンスを――――奇跡を掴まんとする。
キャスターの語った願望は実にシンプルだが、それ故に万人が理解できるものだ。
隣の布団でもぞもぞと動く音がする。恐らくは璃正が目を覚ましたのだろう。
ここは冬木から遠く離れた帝都、東京。聖杯戦争を勝ち抜くにせよなんにせよ先ずは冬木市へと戻らなければならない。