もはや昔のことであるが。
あの日、彼は彼女と出逢った。
あの日から、彼と彼女はずっと一緒にいた。
彼は彼女を愛していた、彼女も彼を愛していた。
彼は彼女と生きると誓った、彼女も彼と生きたいと願った。
その日、彼女は願いを零して死んだ。
その日、彼は彼女の願いを叶えると誓った。
彼は彼女の願いを叶えるため万進する、彼女はなにも言いはしない。
彼は彼女の願いを叶えるため腐心する、彼女はなにも答えはしない。
そして、この日がやってきた。
彼の王が君臨してからのブリテンは破竹の勢いだった。十度の会戦において常勝不敗。円卓に君臨した騎士の王。無双の騎士達を束ね、民草を導く姿は正に人々の誉れ。その名声は地平の彼方まで轟き、彼の王の味方は喝采し、彼の王の敵は恐怖した。
そして遂に王の余りの強さに恐れ慄いた蛮族たちは、王に和議を申込み、戦火に晒され滅びを待つだけだったブリテンは漸くの平穏を勝ち取ったのだ。
やっとここまで来た、と王に仕える騎士として常に義妹と共にあった彼は喜ぶ。戦争は終わってからが肝心。平和を掴んだからといってまだ仕事は山と積まれている。
だが義妹の手腕をもってすれば、残った仕事などはほんの些細なことに過ぎない。あと数年も王が辣腕を振るえば、ブリテンはその平和を盤石なものとするだろう。
無論、恒久的な平和などこの世にありはしない。やっとの平和を得たブリテンも、またいずれ戦火に晒される日がくるだろう。しかし百年後の戦乱は百年後の君主の責務だ。今の王たる彼女の責務ではない。
そして彼女が王としてやるべきことは、もう少しで完遂されるのだ。
王となったその時、アルトリアという少女はこの世から消えた。
王として国を守るには、人の心などもっていてはならない。だから人の心を捨て、少女だったアルトリアから理想の君主たるアーサー王になった。
しかし王としての責務を終えれば、もう彼女が人の心をもたぬ〝王〟である必要はない。
捨て去った心を拾い集め、またあの日のように笑えるだろう。
だが彼は楽観が過ぎた。
悲劇の足音は彼女の直ぐ背後に忍び寄っていたというのに、ことが起きてしまうまで彼はそれに気付けなかったのだから。
――――滅びの日がやってくる。
果たして切欠はなんであったか。円卓で最も誉れ高き騎士の体現者とまで称された男が、理想の王妃と絶賛された女と内通したからか。それとも叛逆の騎士が円卓に加わった時か、はたまた大魔術師と対をなす魔女が誕生したその瞬間か。
それはもうあの日を生きた誰にも分からない。一つ分かることがあるとすれば事実だけだ。
カムランの戦い。
アーサー王伝説の最期を飾るエピソードにして、アーサー王の終焉を紡いだ物語。
不貞を働いたサー・ランスロットの討伐のため遠征に赴いたアーサー王。
国の留守を預かっていたモードレッドは、王がいないのを好機と見るや王を僭称し国を奪い取った。
かねてよりアーサー王に不満を抱いていた豪族と騎士たちはモードレッドにつき、一人の騎士の叛逆は国を真っ二つに分けた争いに発展する
彼女がやっと掴み取った平和という黄金のキャンパスは、一人の騎士の叛逆によりどす黒い鮮血に染め上げられたのだ。
激しくぶつかり合い、多くの死者を出した両軍は、遂にカムランの丘にて最期の戦いを始める。
狂乱は最高潮に達していた。
戦場の狂気に支配され平和の尊さを忘れ去った騎士達は、相手がつい少し前まで共に轡を並べた者同士だということすら忘れ殺しあう。
従兄弟同士が互いの首を刎ね合い、杯を交わした朋友同士が嬉々として命を奪い合う。丘に積み重なる遺骸は死屍累々。烏が死体を食い漁り、丘は騎士たちの血を吸って朱に染まる。
もしも、もしも地獄があるのならばここがそれだろう。
――――血を吸い赤く染まった大地を、彼は彼女の姿だけをひたすら探して駆ける。
カムラン以前の戦いで三度魔剣に切られていた彼の体は、既に死んでいるも同然だった。
内臓の四割は消し飛び、四割は働くのを止め、残りの二割もいつ止まるか分からない。
いつ死んでも、ではなく既に死んでいなければおかしい状況。でありながら彼は気力のみで、死神の誘いを跳ね除け続けていた。
「どこだ……どこにいる……」
血反吐を吐き出しながら、彼はこの戦場で今も戦っているであろう王の姿を探し求める。
こんな自分が王の下にはせ参じたところで何の役にも立ちはしない。そんな理屈を思いつく力は、彼にはもう残っていなかった。
ただ王を、否、義妹を助けたい。その思いだけを柱に、彼は走る。
「どこにいる、アルトリア……! 返事をしろ!」
もはや彼には心を捨て去っている余力すらなかった。己を取り繕う気力もなかった。
味方の騎士が隣で死んでいく。敵の騎士が後ろで死んでいく。左と右で味方と敵が死んでいく。味方と味方が相打ち、敵と敵が相打つ。
だがそんなものは気にも留めない。
彼は心を剥き出しにして、義妹の姿だけを探す。
「あれは――――!」
皮肉なことに彼が見つけたのは何よりも守りたい義妹ではなかった。彼が殺し合いの中で見つけたのは、全身と顔を赤と銀の鎧で包み込んだ小柄な騎士。
サー・モードレッド。妖姫モルガンがブリテンを呪うために生み出した、この戦いの原因ともいえる存在。
王の義兄にあたる彼にとっては甥でもあるその騎士を見た瞬間、彼の心には想像を絶するほどの憎悪が噴出し――――だがその憎悪は海よりも深い〝愛〟により心より一蹴された。
彼にとって大事なのは義妹を探すこと。モードレッドに構っている場合ではない。
「アーサー王! アーサー王は何処! 姿を見せろ、アーサー王! このサー・モードレッドと戦え!!」
だがモードレッドの雄叫びが耳に届いた瞬間、彼のやるべきことは決まった。
この騎士を生かしておいてはいけない。この騎士を義妹の下に行かせてはならない。魂がそう直感する。
「モードレッドォ!」
憎悪ではなく、王の騎士としてでもなく。彼は兄として、妹を守る為に叛逆の騎士へ斬りかかる。
そんな彼の咆哮に対して返されたのは叛逆者の刃ですらなく、背後からの無慈悲な槍だった。
「――――!」
叛逆者に組した騎士たちに後ろから貫かれた彼は、残りの二割すら奪われた。全ての内臓が止まれば、もはや呼吸もままならない。己も他の騎士達と同じように斃れ、大地を染める一つとなる。
命懸けで挑んだ叛逆の騎士は、彼を一瞥することすらなく、彼の体を踏みつけて王の下へと向かっていった。
(こんな……こんなところで……)
彼の肉体は死んでいた。両手両足、内臓に至るまで死にきっていた。超えてはならぬ一線を越えてしまえば、もはや戻ることなどできようはずはない。
だというのに彼が依然として意識を繋ぎとめていたのはどういうことか。
伝説に刻まれることすらなかったが、それは正しく一つの奇跡だった。
命を失いながら、意志のみで未だに意識のある彼は、地を這いながら赤く染まった視界で黄金の輝きを探す。
一体どれほどの時間をそうしていたのか。
彼はやっと探し求めていた妹の姿を見つけた。同時に彼は自分が間に合わなかったという絶望的現実を突きつけられた。
モードレッドを倒しその愚かなる野心を打ち砕きながら、彼女もモードレッドの凶刃によって致命傷を負っていたのである。
それも、もう助からないであろう傷を。
――――全て終わってしまった。
騎士王と数多の騎士たちの死によって、蛮族たちは再びブリテンの大地に攻め寄せてくるだろう。そして蛮族たちは騎士たちのみならず、なんの罪もなく今を生きる民草の命をも蹂躙する。
アーサー王の死は一人の王の死を意味しない。アーサー王の死とは即ち国の死であり、民草全ての死であり、民族の死なのだ。
大地に倒れ、空を見る彼の心に去来するのは妹の死の原因となった者達への憎悪と、それに勝るほどの自責。
(不甲斐ない。いつかは、きっといつかは――――そんなことを唱えながら、辿り着いた結末がこの様だ)
彼は王に悲劇が待ち受けることを知っていた。なのに『平和になればきっと義妹は笑えるようになる』なんて根拠のないことを妄信し続け、何の打開策も提示することが出来ず、王に仕える一人の騎士として振る舞っていたのだ。
義妹を悲劇から守りたければ、無謀に思えるほど困難であろうと彼女を取り囲む不条理全てと戦うべきだったのだ。
やり方はどうであれサー・ランスロットやサー・モードレッドたちは不条理に抗った。ならば彼等は、国を滅ぼす原因を作った愚か者であれ、悪逆の徒であれ――――負け犬ではない。
しかしサー・ケイは不条理と戦うどころか、訪れるであろう不条理を先延ばしにし続けてきた。彼等が愚か者ならば己は度し難い負け犬に違いない。
絶望と悔恨の中、彼は目蓋を閉じる。
全て終わってしまったのならば、せめてこの絶望を抱き死ぬのがせめてもの償いだろう。だが、
「世界よ……」
声が聞こえた。
彼女の声、彼が国や民草などより守りたかった唯一人の者。義妹の透き通る声が頭に響く。
「我が死後を預ける。その対価に、私に聖杯を掴む機会を与えよ」
消えゆく意識が覚醒する。
世界に身を預け、その対価を貰う契約。それはやってはならぬことだ。
その契約が成されれば最後、その者は永久に世界の奴隷として扱き使われるという絶望の日々が待っている。
「ふざ、けるな……!」
そんなことが認められるはずがない。
彼女は……義妹は……アルトリア・ペンドラゴンは、誰よりも国を守ろうと頑張っていたのだ。誰よりも最善を尽くしていたのだ。
断言できる。最善を尽くした彼女で駄目だったのだから、誰がどうしようと国の滅びを避けられはしない。
ここまで頑張って運命がこのような結末を彼女に返したのならば、せめて彼女はもう頑張ってはいけないのだ。もう自分を犠牲にしてはならない。
けれど彼の叫びは丘の上に立つ義妹には届かない。
「させん……それだけは、させん……ッ!」
血反吐を吐き出しながら、彼は感覚のない掌を握りしめる。
『最初に兄君から教えを受けた日、兄君は時の巡り合わせによっては私達は敵同士になるかもしれないと言いました。あれは』
『阿呆』
もはや遠い過去の問答。妹の問いかけに、彼はこう答えた。
『俺がお前に刃を向けるなど、あるわけがないだろう』
誓ったのだ。例えこの世全てが妹の敵にまわろうと、己だけは絶対に味方であり続けると。
もしも世界との契約が成されれば、もはや彼の大魔術師をもってしてもどうしようもならなくなるだろう。如何な大魔術師でも、一人で森羅万象全てを内包する世界をどうにかすることなど不可能なのだから。
ならば、
「世界よ……ッ!」
必死になって彼は天に手を伸ばす。
「我が身など幾らでもくれてやる、如何様にもするがいい! だから俺にも寄越せ! 妹が聖杯を求めるならば、妹より先に聖杯を手に入れる機会を、この俺に寄越せぇぇえええッ!!」
渾身の願いを振り絞る。それがサー・ケイという人間の正真正銘の最後の力だった。
意志というか細い糸で繋ぎとめられた意識が、遂にこの世から消える。
されどそれはサー・ケイという騎士の終わりを意味しない。
世界は彼の願いをしかと聞き届けていた。
彼が次に目を覚ました時、彼は騎士ではなくサーヴァントとして七騎の英霊が集う戦争に呼ばれていた。
彼の視界には神父と血まみれで倒れる初老の男性。目の前で槍を向けるのは白衣のランサー。そして赤いスーツを纏った魔術師。
そこは彼の願い通り正しく彼女が聖杯を求めることになる場所で、彼女がまだ訪れていない場所であった。
「召喚されて出てきてみれば、いきなり心臓を突き刺されて倒れているとはな。これはまた随分なマスターに引き当てられたものだ」
この日、彼は運命に招かれた。
「ふぁ~あ」
優雅さをかなぐり捨てた欠伸をかきながら、遠坂冥馬は聖杯戦争が始まってから九度目となる朝を迎えた。
聖杯戦争の開幕を最初に戦闘のあった日だと仮定するのであれば、その始まりは冥馬たちが帝都のホテルでナチスに襲われた日だろう。
それから九回の朝を迎えたので、聖杯戦争は十日目だ。
「うん。良い調子だ」
大空洞でのナチスとの激戦。
魔術と肉体の酷使に、サーヴァントたちの宝具の大盤振る舞い。これにより冥馬は体力・魔力ともに枯渇寸前だったのだが、昨日一日を丸々休息にあてたお蔭でコンディションは万全に戻っていた。
喪なった宝石は戻らないものの、残った敵の数を思えば今後の戦闘回数は二回を超えることはあるまい。残りの宝石で十分に戦い抜ける筈だ。
もっともあのセイバーとリリアを倒すのには全ての宝石を使い切り、奥の手を晒し尽くしても勝てるかどうか、といったところだが。
言っても仕方のないことだが、つくづくアーチャーを手放したのが惜しまれる。
「にしても……これで五回目か。ラインを通して夢でキャスターの過去を見るのは」
カムランの戦い。
アーサー王伝説を少しでも齧った者なら、その戦の名を知らない筈がない。アーサー王とそれに付き従っていた騎士達の最後の戦いである。
伝承によればカムランの戦いで謀反人であるモードレッドを討ち取りながらも、自身も致命傷を負ったアーサー王は、精霊の導きにより妖精郷(アヴァロン)へ行き、そこで傷を癒しているという。
冥馬もアーサー王伝説を読んでカムランの戦いで悲劇的結末を迎えてしまうアーサー王に感動の一つも覚えたものだが――――現実のカムランの戦いは悲劇という一言では言い表しようのない地獄だった。
一年前には共に笑い共に泣いた騎士達が、互いの返り血で鎧を汚しながら殺しあう。国を守るべき騎士達が、国を滅ぼす戦いに自ら溺れていく。
――――最悪だ。
遠坂冥馬はアーサー王と円卓の騎士とは関係のない部外者だ。生まれた時代も国も違えば、主義主張も在り方も異なる、ただ円卓の騎士の一人をマスターにした魔術師というだけの男だ。
だがそんな冥馬ですら目を覆いたくなる理不尽な結末。これまで冥馬は多くの不公平を見てきたが、これほどまでの不公平は流石に見た事がない。
部外者の自分でこれなら、当事者だったキャスターやアーサー王の無念はどれほどのものか。
「酷いものだ……」
「ああ。実に酷いな。人の過去を勝手に覗き見するとは実に酷い。人間の風上にもおけん」
「っ! きゃ、キャスター!? なんでここに!?」
カムランの丘で血の雄叫びをしていた張本人。キャスターは不機嫌さを露わに実体化していた。
「なんで、とは異なことを。俺はお前のサーヴァント。これでも俺は自分の仕事は責任をもって最後までやりきる主義でね。
主人の寝所を守るも騎士の務めだ。それが例え心の中という絶対的プライベートの約束された場所でさえ、土足で踏み込んであれこれ覗き見るような類だとしても、マスターである以上はサーヴァントとして守らないわけにはいかん」
「……あー、その、すまなかった」
辛辣な糾弾に反論したかったが、キャスター相手に反論したところで逆にやり込められるのは目に見えている。
口の上手い相手には下手な言い訳をせずストレートに謝罪した方がいい。キャスターと十日間一緒にいて得た教訓の一つだった。
「ふん。まぁマスターがサーヴァントの過去を見てしまうことは、聖杯戦争ではよくあることの一つ。悪気があるのならば契約の解除も考えるところだが、不可抗力だというのならば仕方ない」
「許してくれるのか?」
「ラインを通して記憶を見た事は不問。いいな?」
「ああ、いいとも」
壮絶な説教を覚悟していただけに、キャスターにあっさり許して貰えたのは嬉しい誤算だった。
もしかしたら今日のキャスターは普段より優しめなのかもしれない。ならばこの機会に色々と質問するのも良いだろう。
「キャスター」
「なんだ?」
「お前は、英霊なのか?」
「…………」
通常のサーヴァント相手ならば「何を今更」と鼻で笑われるような質問。だがキャスターは鼻で笑うことはなかった。
数秒視線が交錯する。やがてキャスターは自嘲げに笑うと、
「その質問が出るということは本当に最期まで見たようだな。ご名答だ、マスター。俺は確かに英雄の末席を預かる存在だが、厳密にはまだ英霊ではない」
「ならやっぱりお前は」
「そうだ。俺はまだ英霊にはなっていない。カムランの丘で死んだ俺は、英霊の座に行かずに直接この聖杯戦争に呼ばれたサーヴァントだ」
人の身でありながら人を超えた偉業を成し、人でありながら信仰の対象となった魂。その魂が行く先こそが英霊の座だ。
そして英霊の座から英霊を降霊し、クラスという殻に押しこめサーヴァントとして使役する。それが聖杯戦争におけるサーヴァントシステムである。
だがキャスターは『世界との契約』により、死後に魂が英霊の座ではなく、この冬木市にサーヴァントとして飛ばされてきたイレギュラーな存在だ。
故にキャスター厳密には英霊ではない。死んでから英霊になる寸前で停止した、かなり不安定な存在なのだ。例えるならば半分英霊の半英霊といったところか。英霊としての宝具も能力も持っているが、英霊として時空を超えた知識は持っていない。あやふやな魂。
そんな不安定な状態で、こうして己の死後を受け渡してまで聖杯戦争に召喚される。
並大抵の精神で出来ることではない。世界との契約にしても、相当に強い意志がなければ不可能なことだろう。
なにがキャスターをそこまで駆り立てるのかと問われれば、こっ恥ずかしいことだが愛というしかない。
「アーサー王の救済、つまるところ幸せ、か。あの日のお前の願いの意味がやっと分かった……」
「下らん雑談で交わされた会話などを覚えるとは、お前の脳味噌にはスペースが有り余っているようだな」
キャスターはぷいっとそっぽを向いた。天邪鬼なキャスターにとって、自分の願いを看破されるのは面白いことではないだろう。
だが冥馬には一つどうしても気になることがある。
「けどキャスター。お前の義妹、アーサー王は聖杯を求めていた。ならお前が聖杯を手に入れなくても、アーサー王自身が聖杯を使って自分を救済するんじゃないのか?」
あれほどの不公平極まる結末を迎えてしまったのだ。
例えアーサー王が私情を押し殺し国のために尽くしてきたとしても、いやだからこそ、最後の最期で自分の幸福を祈って聖杯を求めるのも当然のこと。
それがどういう幸せの形かは分からない。現代に転生して普通の人間として暮らすことかもしれないし、起こった事をやり直すことかもしれない。ただ聖杯ならば一人の人間を幸せにするくらいは問題なく叶えられるだろう。
だがそう言った冥馬に返って来たのは「ふん」と鼻で笑うキャスターだった。
「お前はアルトリア・ペンドラゴンをまるで分かってない。あいつが死に際になって自分に訪れた理不尽を呪う? 己の幸せを願う?
ハッ! 見当違いにも程がある。舐めるなよ、遠坂冥馬。俺の義妹は骨の髄まで英雄で、心の髄まで王で、魂の髄まで国と民草のことを考えている〝人間〟だ」
自分の義妹を心から賞賛しつつも、それを兄馬鹿と済ませられないのは、冥馬もアーサー王の偉大さを知っているからか、それともキャスターの声に己への自責が含まれているからか。
「ならお前には、アーサー王が聖杯にかける願いがなんだか分かるのか?」
「伊達に生涯を通してあいつの義兄をやってはいない。……あいつのことだ。王の選定のやり直しでも願おうとしているんだろう」
「歴史の改変……!? だが、それは、いやしかし……聖杯なら可能、か」
歴史の変革という完全に魔法の領分であろうと、万能の願望器をもってすれば理論上は不可能ではない。
だがよりにもよって『選定のやり直し』など、人間どころか普通の英雄でも望むはずのないことだ。
「なんで、そんな願いを」
「自分は最善を尽くした。最善を尽くして駄目だったのだから、選定の剣は間違った人物を王に選んでしまったのだろう――――たぶんあいつならこう考える。
そして聖杯の奇跡で自分のように国を滅ぼさない、新たな王を選び直す。そうすれば国も騎士も民も救われる。己では出来なかった事を、己じゃない王がやり遂げてくれる」
「だ、だがそんなことをすれば『アーサー王』は消滅するぞ!」
アーサー王の願いが叶えばブリテンは救われる。カムランの丘も円卓の分裂も起きず、キャメロットには平穏と幸福が満ち溢れるだろう。
そしてアルトリアという少女は王にはならず、ただの少女として愛を育み子を成し老いて普通の人間として死ぬのかもしれない。正に誰もが幸福な理想郷だ。
――――だがその理想郷には唯一人の例外が存在する。
他ならぬ誰よりも国を救おうとしたアーサー王だ。
民草が救われ、国が救済され、少女だったアルトリアが幸福になろうと、選定の剣を抜いて王になったアルトリアはそうはいかない。アーサー王の頑張りの証明である名誉もなにもかも抹消され、誰からも称えられることも悼まれることもなく、死後も世界に奴隷として使役され続ける未来が待っている。
「だからお前はアーサー王を舐めている。己の名前をどれほど貶められようと、それこそ己の名前が消滅しようと、それで国が救えるのならば、あいつは迷いなくそうするだろう。何故ならあいつが欲しいのは名誉でも栄光でもなく、人々の笑顔なのだからな。我が妹ながらなんて無欲で、なんて強欲な魂だ」
キャスターが義妹の為に魂を懸けて戦う理由の一端が分かった様な気がした。
心を捨てて誰にも理解されなくとも、それでも皆を守ろうとする少女。そんな少女の幸せを一人くらい祈る者がいてもいいだろう。
「それが許せなくて、義妹の為に聖杯を求めたのか?」
「違う。義妹のためなんかじゃない」
だが冥馬の問いを、キャスターは否定した。
「義妹は、アルトリアは一度だって俺にそんなことを求めていない。あいつの願ったのは選定のやり直し――――国の救済だ。己の救済ではない。俺のしていることは、あいつが最後に抱いた願いを踏みにじる行為。ただの自己満足に過ぎん。口が裂け国が裂けても、そんな自己満足を義妹のためなんて綺麗な言葉で包み隠せるものか。
俺はただ俺の自己満足のために、義妹に救済を押し付けようとしているんだ。我ながら愚兄以外の何者でもない」
「…………」
「白状すると自分でも何が正しいのかなど分からないんだ。あいつの願いが叶えばあいつは地獄に堕ちることになるが、たった一人の犠牲で国も民草も全てが救われる。
時間の改変はしてはならないこと、そう言う者もいるだろう。が、それは結局のところ賢者と強者の意見に過ぎん。少なくとも民衆がまず望むのは明日の食事と平和だ。王が地獄を見て自分達が救われるなら諸手をあげて歓迎するはずだ。果たして何が正しいのか、何が正しくないのか」
時間を改変することの是非。そんなことは冥馬もこれまでの生涯で考えた事はない。
普段もしあそこでああしていれば、とぼんやりと思うことはあっても本気で過去をやり直したいなどと思った事は一度としてなかった。
だから冥馬に是非を決めることはできない。それを決められるのは恐らく、想像を絶する経験をしてそれを願った者か、それを願う機会を得た者だけだろう。
「俺には、分からない」
らしくない弱音ともとれる言葉。それを咎める気にもなれない。
「だが、ああ……そうなんだ。度し難いことに俺にとって国や民草の全てより、アルトリアという義妹一人の命の方が重いんだ。やっと分かった。だから俺は万民の救いという願いを踏み躙って、義妹一人の安寧を願おうとしていたのか。救えないな、俺も」
心に渦巻いた靄がとれたキャスターは、なんの偽りもない心から素直な笑みを浮かべた。
国と民草の為に己を犠牲にする妹と、国と民草を救う願いを踏み躙り、己を犠牲に妹を救おうとする兄。これが妹の理想を支え続けた兄の、最後の反抗なのだろう。
なにが正しいのか、なにが正しくないのか。それは冥馬も分からないが、唯一つだけ断言できるのは、願いを叶えられるのは唯一組の勝者のみということだ。
だとすれば冥馬のやるべきことは最後一組になるために努力することだろう。
冥馬が覚悟を新たにしていると、窓から伝書鳩が入ってきた。
「なんだ……教会からか」
冥馬は伝書鳩の足に括り付けられていた手紙を流し読むと、その表情を強張らせた。
「――――キャスター、教会へ行くぞ」
「なにがあったのか?」
「アサシンが倒れた」
アサシン、つまりそれは残っているサーヴァントがキャスターとセイバーの二騎だけになったということに他ならない。
残る相手が一組だけなら、もはや残る戦いは一度のみ。
聖杯戦争最後の戦いはこうして始まった。