遠坂冥馬が冬木に放った〝目〟がそれを見つけたのは時計の針が両方とも5の数字を超えた時刻だった。
赤い舞踏服を着こなして悠然と歩道を歩く少女。彼女の高貴な華やかさは無機質な道ですら赤絨毯に錯覚させるほど、香しい匂いを放っている。
そんな絵に描いたような令嬢であれば、そこに従者が付き従うのも必然というべきだろう。白銀の戦化粧の武装は敵の刃を弾く無骨さと、騎士の誉れを見事に両立していた。後ろ髪で結った長い銀色の髪は、夜の闇に浮かぶ星のように美しく流れている。
絵物語の中より抜け出してきたような姫君と騎士こそが、遠坂冥馬とキャスターが戦うべき最後の相手。即ちリリアリンダ・エーデルフェルトと最優の名を欲しいままにするセイバーのサーヴァントである。
戦う前に万全ともいえる布陣を整えたが、冥馬とキャスターの勝率はそう高くはない。寧ろ低いと言っていいだろう。
イレギュラーな召喚の影響でセイバーのコンディションが万全でないのが救いだが、それでもセイバーとキャスターの間には、そう安々と飛び越えられない差が横たわっている。
『セイバーは俺の義妹と並んで世界でも三本の指に入る剣の英霊だ。この俺じゃまともにやりあえば千回戦って千回この躯を晒すだろうよ』
キャスターなどは半ば自嘲げに、半ば冷静にそう評したものだ。しかしそれを臆病と詰ることなど出来る筈がない。キャスターは良くも悪くも現実主義的人物で、決して的外れなことは言わない男だ。耳を削ぎ落したくなるような罵詈雑言にも、必ず納得せざるをえない理がある。だからこそキャスターは英霊屈指の弁舌家なのだ。
故にキャスターがまともに戦って勝てないと断言したのであれば、なにをどうしようと絶対に勝てないのである。
〝円卓の騎士〟と〝十二勇士〟
共にたった一人の王に忠誠を誓った、誉れ高く勇壮なる騎士達の集った銘だ。時代を問わず七騎の英霊を呼び寄せる聖杯戦争で、円卓の騎士と十二勇士が同時に招かれたことには、ある種の因果を感じてしまう。もしも冥馬の呼び出したサーヴァントが正真正銘のアーサー王であれば、さぞや壮絶な決勝戦となったであろう。
だが遠坂冥馬のサーヴァントはアーサー王ではない。アーサー王の名を騙ったアーサー王の義兄。円卓最弱と己を称するサー・ケイだ。
対する相手はいと名高きシャルルマーニュ十二勇士において〝筆頭〟であり〝最強〟とされる騎士。これと戦うにはサー・ケイでは役者不足も甚だしい。
――――ならば勝てないからと尻尾撒いて逃げ出すか?
それも論外である。
勝ち目のない戦いに挑むのは馬鹿のすること、というありがたい教訓は冥馬もキャスターも心得ている。しかしながら勝ち目が僅かでもあるのならば、逃げずに戦うことは、決して馬鹿の行いではない。
諦める、仕方がない――――これらの言葉を口にして負け犬にならないのは、そこに至るまで己のやるべき事を全てやった人間だけだ。自分の出来る最善を尽くしたのだから、もしそれが叶わなかったとしても時の運、是非もない。が、最善を尽くさずに諦めるのは怠慢に過ぎない。
確かにセイバーは強い。基礎スペックにおいてキャスターを上回っているのみならず、セイバーだけあってその剣技も流麗にして豪壮。キャスターの義妹と比べても甲乙つけがたい素晴らしい技だった。
更にはその手に握られている森羅万象あらゆるものを両断する聖剣。セイバーの剣技にこの聖剣があるとなれば、はっきりいって白兵戦という分野では無敵に近い。これでオルランド側にとられた肉体の不死性まであったら、本当に手がつけられなかったところだ。
それにキャスターによれば、恐ろしいことにセイバーはまだ何か奥の手を隠しているという。
サーヴァントが隠し持つ奥の手となれば、思い当たるのは三つ目の宝具一択しかない。その宝具が個人を相手取る対人宝具なのか、それとも集団を相手取る類のものなのか、はたまた何か特殊な効果を発揮するものなのか。それはセイバーの宝具を見ていない遠坂冥馬には分からぬことだ。しかしセイバーほどの英霊が頼みとする奥の手である。かなり強力無比な代物だと考えて良いだろう。
これでマスターの方に隙があるのならば、冥馬が上手く立ち回ることで如何様にも出来たかもしれない。だがリリアリンダ・エーデルフェルトは口が裂けても弱兵などとは言えない相手である。姉のルネスティーネとほぼ互角の実力の持ち主だとされていたことからも油断ならぬ難敵だ。
マスター、サーヴァント共に一級。しかも既にリリアたちはキャスターの真名にも心当たりがついているという。
聖杯降霊地点を確保しているということを除けば、あらゆる不利が目白押しな冥馬とキャスター。
けれどやはり勝算は皆無ではない。
強い者が必ず勝つのか、弱い者は必ず負けるのか。
〝答えは否だ〟
百の武人を薙ぎ倒す羅刹が、一瞬の油断で子供に命を奪われる時がある。名もなき一兵卒の我武者羅に突き出した槍が、無双の英傑の心臓を突き破る瞬間がある。
まともに戦って勝てないなら、まともじゃないやり方で戦う。
キャスターが大人気ない罠を仕掛けて、義妹から一本をとろうとしたことには呆れたものだが、これより冥馬たちがとるべき戦術は正にそれだ。
格下が格上を倒すのには裏技を用いる他ない。強者が真正面から剣で一薙ぎするだけで得る戦果を、弱者が得ようとするのならば入念な下準備を重ねなければならないのだ。
そして今。冥馬とキャスターは教会を背にして、じっとここに来る二人を待ち構えている。
教会側のフォローで教会の敷地から半径100mには、人っ子一人近づけぬよう人払いが施されており、聖杯戦争の決勝戦をするには申し分ない戦場が出来上がっていた。
しかしそれだけではない。聖杯の降霊に足るだけの歪みが、この土地に生まれつつあるのを良い事に、キャスターはその力の一部を己の強化に充てている。この土地内部で戦う限りにおいて、キャスターは円卓最弱の汚名を返上するくらいのスペックを発揮することが可能になるだろう。
敷地のあちこちにはキャスターと冥馬が共同で作り上げた罠の数々。
この戦いまでに冥馬とキャスターは、自分達のやるべきことは全てやり終えた。だからもし負ける時になっても言えるだろう。仕方ない、と。
そして〝それ〟はやってきた。
「俺の後ろに隠れろ!」
キャスターの鋭い指示と同時に、地平の果てにまで届きそうな音が鳴り響く。それはこれから起こる災害を伝える警報でもあった。
張り巡らせた罠を容赦なく蹂躙し、キャスターの作り上げた陣地を犯し尽くすものの正体は暴風。空間そのものを極限にまで圧縮し、それを一気呵成に解き放ったならばこうなるだろう、と感じさせる日輪の如き熱をもった大熱風だ。
古来よりの条理に外れることなく、自然の猛威を具現化した破壊の塊は、人の手による防波堤を破壊し尽くした。
「やってくれる……。セイバーめ!」
剣を盾のように突き出して、自分と冥馬を守る結界を張ったキャスターが舌打ちする。キャスターの背にあり、どうにか暴力的な熱風から逃れた冥馬もキャスターと寸分違わずに同じ気持ちだった。
対セイバー戦のために冥馬たちが張り巡らせた罠の、実に九割が息を止めている。〝歪み〟を利用した、キャスターへのバックアップが活きていることが不幸中の幸いだが、そんなものは気休めにもならない。
明らかに人間の為せる次元ではない破壊。だとすればこれをやったのはサーヴァント以外には有り得ない。セイバーの聖剣には熱風を放つような能力はないので、この熱風を生み出したのはセイバーの第三の宝具によるものと判断して良いだろう。
息をつく間もなく、破壊を生み出したであろう張本人を伴って、リリアリンダ・エーデルフェルトは優雅に戦場へやって来る。
「ハァイ。フライトの見送り以来ね、冥馬。元気で生き残っているようでなによりだわ」
余裕をもって優雅たれ、は遠坂の家訓だというのに。リリアは遠坂顔負けの見事なまでの余裕と優雅さを醸し出す笑みを浮かべていた。
隣には熱風で冥馬たちの陣地を破壊した張本人ことセイバーが、鞘から抜かれた剣のような気配で立っている。その顔立ちはとても教会でひょうきんなやり取りをした男と同一人物には見えない。さしもの剣の英霊も、己が悲願の成就を目の前にすれば神妙にもなるのだろう。
「いきなり熱風で人を殺しかけて言う台詞がそれか。元気に生き残っていた命を、いきなり消し飛ばそうとして良く言うな」
「あんな力をセーブしたそよ風で、貴方達が死ぬなんて思ってないわよ。仮にもルネスを倒した相手なのに、この程度でやられて貰っても興ざめだし。あれはほんの挨拶代わりよ」
「挨拶? あれが?」
エーデルフェルト家では挨拶の度に、家屋を消し飛ばす熱風を放つというのなら、とっくにフィンランドは焦土と化していることだろう。
「あんまり怒らないで欲しいわね。貴方だってこれからお邪魔する家の前に、露骨に落とし穴が掘ってあったら、先ずは穴を埋めてからお邪魔するでしょう? 私はちょっと強引だけど同じことをしたまでよ」
「……成程」
リリアも冥馬とキャスターが教会中に罠を張り巡らして、虎視眈々と待ち構えていることくらいはお見通しだった。普段のリリアなら最優のサーヴァントを味方にしている余裕故に、そんな罠など力で踏みつぶして進軍していたかもしれない。だが冥馬は運の悪いことにリリアの姉のルネスティーネを倒している。
ルネスティーネ・エーデルフェルトは最強のセイバーを有しながら、自ら遠坂冥馬の陣地に乗り込んだことで真っ先に敗北するという恥辱を受けた。普段は険悪ながら誰よりもルネスティーネの実力を知っているリリアは、姉を倒した遠坂冥馬を誰よりも警戒し、冥馬に対して姉の犯した過ちはするまいと心に決めたのだ。
だからこそこれまで温存してきた奥の手を使ってまで、事前に教会の罠を熱風で吹き飛ばすという強引な、しかし慎重な一手をうったのである。
つくづく敵にすると厭な相手だった。
「キャスター、やれるか?」
「その問いは無意味だな。やれるか、だと? やるしかないんだろうに」
「ふっ。そうだったな。じゃあ、やれ」
罠の九割が吹っ飛ばされたが、取り敢えず罠を張り巡らせた価値はあった。
確かに罠は本来の機能を発揮する事なく沈黙してしまったが、セイバーはそれをやるのに己の奥の手を遂に解放したのである。リリアとセイバーは遠くにいたので、どんな形状の宝具を使ったのかも宝具の真名も分からなかった。しかし破壊痕や実際に見た光景から、ある程度の想像はつく。
セイバーの奥の手は熱風により城壁をも破壊する対城宝具。呪いや防御ではなく純然たる破壊兵器だ。しかも最初の一撃は罠を破壊するに留めた威力を抑えたもので、本気で力を解き放った時の威力は未知数。
あらゆるものを切る剣に対城宝具など、もはや反則と叫びたくなるような装備といえる。だが相手の奥の手が対城宝具と分かったのは大きい。一度きりの殺し合いにおいては目に見えている拳銃よりも、懐に隠した正体不明の武器の方が恐ろしいものだ。
マスターの命令を受けた蒼い騎士は、己のものではない黄金の剣を手から出現させて白銀の騎士と対峙する。その背中には自分より格上の騎士を前にする緊張感はなく、ただ勝とうとする意志が滲んでいた。
「セイバー。泣いても笑ってもこれが最後の戦いよ」
「おう」
「相手は貴方より格下のサーヴァント。だけど油断しないこと。いいわね?」
「おう、任せておきな。俺は今も昔も戦う時は、目の前の敵を全力で切り伏せることしか考えてない。あれこれ考えては剣が鈍ると我が友に教わったんでね。
一万九千九百九十九の無念を味わうために迷い出た戦い。最後の戦いの相手がオリヴィエにちょっと似た雰囲気がある奴だっていうのが、少し運命みたいなのを感じるが」
「ふん。俺はお前の友ほど優しくはないぞ。俺がお前の友なら、お前の無思慮さに我慢の限界がきているさ」
「だろうな。だが俺はその為に来たんだ。お互い望みはあるだろうし恨みっこなしともいかないかもしれないが――――精々死力を尽くせ」
「無論」
十二勇士最強の騎士と円卓最弱の騎士。互いが握るは不滅の聖剣と黄金の選定剣。
異なる時代、異なる騎士道物語において対極の称号を得た騎士が激突する。
「ゆくぞっ――――っ!」
「ふんっ!」
堂々と進み出るセイバーを、鼻を鳴らし迎え撃つキャスター。戦いの趨勢を決するといっても過言ではない初撃、白銀と黄金の刃が鍔迫り合い大輪の火花を咲かせた。二発、三発、四発と炸裂する鮮烈な火花は、さながら小さな花火のよう。戦いを見守る冥馬とリリアは共にその美しさに息を飲んだ。
拮抗状態は永久には続かない。膂力で押し負けたキャスターが弾き飛ばされる。くるりと空中で回転しながら着地したキャスターは、掌を突き出してそこから炎を噴出した。
「それは前に見せて貰ったぜ」
してやったり、とセイバーは口端を持ち上げた。セイバーは頭こそ残念であるが、騎士としての実力は折り紙付きだ。誰かから教えられずとも騎士としての立ち回りを、感覚で理解している天然の戦士である。
キャスターのように相手の動きを事細かに記憶した上で、その情報を下に修練で鍛え上げた心眼で受ける――――なんてことはセイバーには出来ない。されどセイバーは頭ではなく肉体全てで一度見たキャスターの戦い方を覚えとり、それの対処法もなんとなく見出す。
「そらぁああッ!」
対魔力をもってしても無力化できぬ火炎。セイバーがそれを攻略するためにとった事は至極単純なことだった。
即ち斬る。万物を切り伏せる絶世の名剣は、例え真名解放による奇跡を発揮せずとも、その切断力は並み外れている。デュランダルの刃は形なき炎ですらも両断してみせた。
これこそがセイバーの剣だ。
キャスターのように修得した多くの技能の一つなどではない。天賦の才と心眼を駆使し、幾度もの戦いの中で研ぎ澄ませてきた剣技。天才の中にあって天才と称される神童が、果てしない研鑽の果てに到達する究極の一だ。
剣術、魔術、数多くの特殊能力。こと手数の多さでいえばキャスターは此度のサーヴァントたちの中でも随一であろう。逆にセイバーにあるのは剣だけだ。魔術を弾く肉体があろうとも魔術は使えず、特殊能力ともいえた不死性は半身にとられ失ってしまっている。
されどセイバーのたった一振りの剣は、キャスターのあらゆる手数を真っ向から両断する。
キャスターはセイバーの〝剣〟を見つめ、一瞬懐かしむように目を細めた。瞳の奥に映る人影は果たして誰であったか。セイバーが踏み込むと同時に、元の険しい顔に戻りセイバーと打ち合う。
「くっ……。やはり強いな」
大方の予想通り、やはり真っ向勝負では圧倒的にキャスターが不利だ。否、勝ち目などないとすら言っていい。
持ち前の生き汚さと、格上ばかりと戦ってきた経験則、土地のバックアップ、そしてセイバーの能力値の全体的な低下。これらの要素があるからこそ、キャスターはどうにかセイバーと切り結んでいられる。もしもこのうち一つが欠けていれば、今頃キャスターは真っ二つに両断されていたことだろう。それほど両者の実力には開きがある。
ただ見ているしか出来ぬ己が不甲斐ない。だが遠坂冥馬程度の実力であの場に割って入れば、一呼吸のうちにセイバーの刃に両断されるのは目に見えている。だから口惜しくとも、今はキャスターの援護に徹するしかないのだ。
――――いや出来ることはある。
聖杯戦争で戦力になるのはサーヴァントだけではない。サーヴァントと比べれば劣るにしても、魔術師であるマスター自身もまた一つの戦力なのだ。
キャスターがセイバーと切り結んでいるならば、マスターである冥馬はリリアと戦えばいい。キャスターとセイバーとは違い、冥馬とリリアの実力はそう離れてはいない。寧ろ戦闘能力では冥馬の方が勝っているだろう。
そのことを承知しつつも冥馬は戦わない。いや戦えなかった。
リリアはセイバーとキャスターの戦う場所を中心に、冥馬の反対側の位置に立ったまま一向に動く気配がない。
姉のルネスティーネなら今頃颯爽と手袋を投げつけてきたであろうに。この静けさが不気味だった。
「リリア。サーヴァントたちだけ戦わせていないで、こっちもこっちで雌雄を決しようじゃないか」
探りを入れる為にも冥馬は不敵に挑発する。
「その誘い承りましたわ――――と、返答したいところだけど今日はパスしておくわ」
「地上で最も優美なハイエナともあろう者が戦いを避けるのか?」
「そうよ、その通り」
あっさりと恥じる様子もなくリリアは返答した。
「貴方は強いわ。だってあのルネスを倒したんだもの。ルネス以上ということは、私と同じくらい貴方は強いんでしょうね。いいえ、もしかしたら私より強いかも。
私もエーデルフェルトの当主として、遠坂家当主の遠坂冥馬を倒すことに興味がないわけじゃないけれど、貴方と戦うとなると勝算は多く見積もっても五分五分。ちょっと分が悪い選択よね。
けど私と貴方が五分五分でも、お互いのサーヴァントはそうじゃないでしょう? キャスターを馬鹿にするわけじゃないけど、こと強さに限ってセイバーはキャスターを完全に凌駕している。
だったら五分五分の戦いをするよりも、サーヴァント中心の戦術で戦った方が効果的よ。この戦い、絶対に私は貴方に近付かないし戦わない。
賞品も栄誉も直接掻っ攫うのが私の趣味だけど、偶には自分では手を下さず敵を倒すっていうシチュエーションもエレガントで良いと思わない?」
「………………」
近接戦に持ち込むために殴りにいけば、どうあっても中心にいるセイバーの近くを通る必要がある。そしてセイバーとキャスターが剣を交えるそこを、ただの魔術師が通ろうとすればどうなるかは語るまでもないことだ。
冥馬も魔術師。宝石を用いた魔術で大火力をリリアにぶつけるという方法もあるにはある。しかしそこで問題となるのはリリアが持ってきている『聖杯の器』だ。
小聖杯の強度がどれほどのものかは知らないが、ランクA相当の魔力が込められた宝石が炸裂すれば壊れるのは確実だろう。聖杯が壊れるということは聖杯戦争の瓦解をも意味している。かといって聖杯を壊さぬよう威力を調整した魔術では、リリアほどの魔術師を倒すことなど不可能。
完全にお手上げだ。これでは遠坂冥馬はリリアリンダ・エーデルフェルトと戦えない。
(やはり聖杯戦争のフィナーレを飾るのはサーヴァント同士の戦いというわけか)
お世辞にも強力とはいえないキャスターだが、聖杯を求める心の強さならば決して負けはしないはずだ。思いの強さがあれば戦力差など幾らでも引っ繰り返せるなどという根性論を信じているわけではないが、聖杯を手に入れる事に執念を燃やすキャスターが、ただセイバーに嬲られるだけなんて無様を晒す筈がない。
故に冥馬は戦いを己のサーヴァントに任せ、無理にリリアに攻撃を仕掛けるということはしなかった。
マスターの信頼を背中で感じたのかキャスターは苦笑すると、あろうことか目を瞑った。
「目を瞑った? なにしてるか良く分からないが……喰らえ!」
「待ちなさい、セイバー! もっと冷静に!」
「へ?」
リリアの制止は遅かった。セイバーは既にキャスターに切りかかっている。今更後退しても間に合いはしない。キャスターは目を瞑ったままニヤリと笑うと、至近距離で光を炸裂させた。
「うおっ! 眩しっ!」
キャスターの使ったのは光を灯すという、何の変哲もないただそれだけの魔術である。だがその変哲もない魔術はしかし、最優のセイバーには効果的だった。
光は程度によれば闇を照らす導となるが、度を越せば目を焼く灼熱にもなる。対魔力がどれだけ高かろうと目がある以上、眩しさを防ぐことなどできはしない。
目を瞑っていたキャスターは兎も角、戦いの中で目を見開いていたセイバーはこの不意打ちに完全にやられた。とはいえセイバーも並はずれた回復力をもつサーヴァント。光による目潰しなど数秒もあれば元通りに回復するだろうし、目が見えなくともキャスター程度の刃を凌ぐのはどうということはないだろう。
しかしその数秒間はキャスターが後方に飛び退くには十分すぎる隙だった。
「待てッ!」
視力の回復したセイバーが猛然とキャスターを追撃する。その行動がキャスターの予想通りだと気付かずに。
「かかったな」
瞬間、セイバーの立っていた地面が陥没する。
「なっ! お、落とし穴……ですって!?」
リリアが吃驚した。
これこそがキャスターがセイバーを倒すために張り巡らした罠の一つにして生き残り。子供の喧嘩に狩猟、果ては戦争にまで古来より用いられてきた由緒正しいトラップである。
落とし穴といっても、キャスターの落とし穴は通常のそれとは訳が違う。穴の面積だけでも小さな池ほどあり、その深さたるや底なし沼の如しだ。サーヴァントという怪物を拘束するために呪縛という呪縛を投入したそれに、人間が落ちるような事があれば、確実にその人間は永久に這い出ることは叶わないだろう。
穴に落下するまで一秒、呪縛を振りほどくのに一秒、飛び出してくるのに0.5秒、そこから対応するのに0.5秒として三秒間セイバーを封じる事に成功した。
たった三秒間、されど三秒間。三秒間の拘束など普通の戦いではまるで意味を為さないが、これが聖杯戦争であれば話は変わる。
三秒間あればサーヴァントがマスターを殺害するのには十分な時間だ。
「冥馬!」
「分かっている!」
この絶好の好機を逃す冥馬とキャスターではない。キャスターはリリアリンダ・エーデルフェルトの喉元に刃を突き立て戦いを終える為、強烈な踏込で跳躍する。冥馬もそれをアシストしようとして、
「――――マスターは、やらせん!」
冥馬とキャスターの好機は、封じられているはずの白銀の騎士により打ち砕かれた。
セイバーが落とし穴に落ちてからまだ一秒しか経っていない。これはキャスターが計算を違えたわけでは断じてなかった。セイバーが一瞬にして落とし穴から抜け出し、マスターを守れた理由。それはリリアの腕から失われた奇跡の一画にあった。
「令呪か……!」
なんのことはない。リリアは未だ二画残る令呪の一画を使用したのだ。自分を守れ、と。
令呪を使うにしてはシンプルな命令だが、それは正しい判断によるものだったと言えるだろう。リリアが令呪さえ発動しなければ、今頃キャスターの刃はリリアにチェックメイトをかけていたのだから。
「やっぱり油断ならないわね……。完全に圧倒されているようでいて、心の中で虎視眈々とこっちの命を刈り取るチャンスを伺っている。あの高慢ちきのルネスが負けるわけだわ」
落とし穴に自身のサーヴァントを嵌められ、キャスターに殺されながらもリリアは狼狽することなく冷静さを保っていた。
これでは令呪を一画消費させたことを喜ぶこともできない。実力で完全に上回れば大抵油断や隙を見せてくれるものだが、セイバーは兎も角、リリアは淡々と詰将棋のように戦いを進めるため文字通り油断も隙もありはしなかった。
「急いては事を仕損じるものだけど、貴方達を相手に戦いを長引かせるのは逆に危ないわね。セイバー、宝具を使って。これで仕留めなさい」
「――――承った、マスター」
そしてリリアは王手をかけるため遂に切り札を切ってきた。
大気中の魔力がセイバーの手にある『絶世の名剣』に吸いこまれていく。あの相馬戎次とライダーを一刀のもとに撃滅した聖剣が、再びその真価を解き放とうとしているのだ。
不味いことになった。
神秘を打ち破るのはそれに勝る神秘のみ。デュランダルの防御不可能の斬撃を防御するにはデュランダルを超えるだけの神秘が必要だ。
だがキャスターは聖剣デュランダルを上回る神秘を何一つとして保有していない。強いて言えば黄金の選定剣はデュランダルに匹敵する宝具だが、本来の担い手としての権利を喪失したキャスターではカリバーンの力を発揮しきれないし、発揮できたとしても防げるかどうかは微妙なところだ。
そうなると躱すしかないわけだが、セイバーの斬撃を回避する能力も、キャスターにはありはしない。
(少し勿体ないが、止むを得ない)
令呪の使用。令呪をもって〝躱せ〟と命じれば、例え防御不可能の斬撃であろうと回避することはできるだろう。
しかし令呪に魔力を送ろうとした冥馬を止めるように、キャスターがチラリと振り返る。
「キャスター……?」
これまで共に戦い、共に語らっていたからキャスターの言わんとすることは分かる。なにか考えがあるのか、キャスターは冥馬に令呪を使うなと言っていた。
キャスターが無策でこんなことを目で伝えるはずがない。とすればキャスターにはなんらかの策があると見た。
(分かった、キャスター。お前の判断を信じる)
ただでさえ不利なのに、己のサーヴァントに疑問を持っては、ただでさえ低い勝率が限りなくゼロへと近づく。ならば冥馬はリスクを承知で全身全霊をもってキャスターを信じるだけだ。
コクリと頷き「分かった」という意を伝えると、キャスターは足の裏で魔力を爆発させ、さながら飛行機のような速度でセイバーに突貫していった。
それを見たリリアの顔には明らかな戸惑いが浮かぶ。防御不可能の必殺剣の攻略法は、ただ一つ回避のみ。なのにデュランダルから逃れるどころか、逆に自分から向かってきたキャスターの行動は想定外の極みだったことだろう。しかし想定外なのはリリアだけではない。
「ま、まさか! デュランダルが振り落される前にセイバーを仕留める気か!? む、無茶だ! やめろ、キャスター!」
冥馬が叫ぶも、キャスターは止まらない。冥馬の制止を無視して、ひたすらに突っ込んでいった。
「――――」
だがリリアと違い、セイバーは予想外の行動に戸惑うなんてことはなかった。否、そもそもセイバーは戦いにおいて予想などたてはしない。
相手はこういう行動に出るからこうしよう、こうやった方が上手く戦いを運べる――――熟練した戦士なら当たり前にする駆け引きを、セイバーは一度もやったことがないのだ。そのようなこと一々考えずとも天稟が授けた本能が、勝手にとるべき行いをセイバーにとらせるのだから。
「しっ!」
キャスターが自分本来の剣をセイバーに投げつけるも、白銀の騎士はそれを軽く手で払い、聖剣を1㎜も動かすことはなかった。
もはや駄目だ。制止したところで、あそこまで勢いがついてしまえば止まることは不可能。さりとて令呪も間に合わない。
セイバーはキャスターの動きを完全に補足し、不滅の刃をもってこれを迎撃する。
「ゆくぞ……。斬り屠る不滅の剣(デュランダル)!」
天使から授けられた三つの奇跡をもつ聖剣は、ありとゆらゆるものを〝斬る〟という奇跡を正しく実現した。並みの剣を弾く鎧甲冑、サーヴァントの霊格。そのようなものなどデュランダルの前には紙同然。
白銀の騎士はその一斬で、蒼い騎士の右半身と左半身を真っ二つに両断した。
どしゃ、と厭な音をたててキャスターの亡骸が左右に崩れ落ちる。
「終わったぞ」
セイバーらしからぬ簡素な声。白銀の騎士は聖剣を消して、マスターへ振り返る。
それは戦いの終わりを告げる合図でもあった。