日は完全に落ち、月明かりだけが地表を照らしている。泣いても笑ってもこれが最後の戦いだ。
冥馬はゆっくりと柳洞寺の石段を見上げる。聖杯戦争は終わったといいうのに、柳洞寺には蒸せるほどの魔力が沈殿していた。
これだけ魔力が集中していれば空気が淀み、悪い気が漂うのが当たり前だというのに、柳洞寺にはそのような気配はない。むしろその逆。不自然なまでの静謐さがあの寺から匂ってくる。
聖槍ロンギヌス、聖杯と並ぶほどの聖遺物がそうさせているのかもしれない。
この先で〝敵〟は待っている。聖杯戦争をぶち壊した元凶たる存在が、己の願いを遂げようと準備をしている。
聖杯戦争のマスターとして以上に、冥馬は管理者としてその暴挙を止めなければならない。
「行こうか」
「ええ」
冥馬は気を入れ直して言うと、リリアと共に石段に足を掛けた。
「待て」
と、同時に背後から聞きなれた声に呼び止められた。振り返るまでもなく、冥馬はその声の正体が分かっていた。なにせ聖杯戦争中ずっと隣で共に戦った騎士の声である。聞き間違えるはずがない。
冥馬は少しだけ愉快そうに笑いながら、むすっと腕を組んでいる蒼い騎士に振り返った。
「キャスター、来てくれたのか?」
「勘違いするな。お前の為に来たわけじゃない。ただ俺も聖杯戦争を横からぶち壊してくれた奴には腹が立っている。生産的行為とは言えんが、奴をこのまま放置していては俺の収まりがつかん」
「…………」
なんとなく冥馬はキャスターのことだからなんだかんだ言いつつ加勢に来てくれるかも、と予感はしていた。だからキャスターが「自分は戦わない」と発言した時も、自分から契約を打ち切ることも、戦いへの同道を令呪で強制することもしなかった。
しかしキャスターは口調こそ天邪鬼だが、根は面倒見の良い人間である。あの場で強く頼み込んでいれば渋々といった具合に首を縦に振ってくれていただろう。でありながらあの時にそうしなかったのは、心のどこかでキャスターに対し申し訳なさを感じていたからかもしれない。
魔術師として誉められたことではないかもしれないが、自分という人間は、どうもキャスターに対して友情を感じていたらしい。そして夢を通してキャスターの過去を知り、聖杯にかける願いの強さを知った。
だからこそ冥馬は戦いに勝利して聖杯を手に入れることこそが、一緒に戦ってくれたキャスターへの最大の対価になると思っていた。しかし聖杯戦争が崩壊した以上、もはや聖杯を手に入れることは叶わない。キャスターへ対価(恩)を返すことはもう出来ないのだ。
キャスターへの対価を返せない自分に、もはやキャスターのマスターである資格はない。その思いは、こうしてキャスターが来てくれても消えなかった。
「いいのか? お前が手を貸してくれるのは本当に嬉しいが、ここからはもう何にもならないんだぞ」
ロディウスを倒し野望を打ち砕いたところで、キャスターに返るものはなにもありはしない。ただ単に冬木市に住む人々の命が救われるだけだ。遥かな過去の人物であるキャスターにとって、こんな極東の地方都市の人々の命など限りなくどうでもいいものだろう。はっきりいってキャスターにとってこの戦いは、自分になんら利益のない無駄な戦いなのだ。
キャスターは「ふん」と鼻を鳴らす。
「なんの益にもならん戦い……確かにそうだ。報復なんて何の利益にもならんこと、その理屈には一部の誤りもない。だがそもそも利益を求める復讐などありはしないだろう。それに戦っても戦わなくても、俺が願いを叶えられずに消えることに変わりはない。だったら聖杯戦争をぶち壊した奴を不利益にさせてから死んだほうがマシだ」
「……感謝する」
キャスターはその程度のことで激怒し復讐を誓うほど狭い男ではない。口ではそう言っているが、きっとキャスターは純粋に遠坂冥馬を助けるために戦うことを選んでくれたのだろう。
故に冥馬は飾りない感謝を告げた。
これからの戦いはもう冥馬とキャスターはマスターとサーヴァントではない。その関係は聖杯戦争が崩壊したのと同時に同じく消滅した。
これからは冬木市のセカンドオーナーと、その責務を手伝ってくれる頼れる協力者だ。
「話は済んだようね。なら早く行きましょう。二分もロスしたわ」
急かすリリアに頷いて応じる。二分……非常に短い時間だが、一分一秒を争う現在においては多大なロスと言えなくもない。
気分を改めて冥馬たちは石段を登り始めた。
「いや~。しかしセイバーが加勢に来てくれて良かった良かった。俺一人じゃ不味い気もしていたし」
石段を登る途中、実体化したセイバーがらしくない弱気を吐いた。
「シャルルマーニュ十二勇士最強がなに言ってるのよ。相手は聖槍を持ってるだけのただの魔術師じゃない。貴方の敵じゃないでしょう」
聖槍ロンギヌスは最高位の宝具だ。そのランクは確実に規格外の領域にある。だが最強の聖槍を握るは古今無双の英雄ではなく、現代に生きる一介の魔術師。
リリアはそんな人間などサーヴァントの敵ではないと思っているのだろう。
「うんにゃ。俺も生前に聖槍を見た事があるが、正しい担い手が持ってるわけじゃないのに途轍もないヤバさだった。その聖槍が完全に力を引き出すんだろう。俺も弱まってるし、きついかもしれない」
「俺もセイバーに同感だな」
セイバーと同様、生前から〝ロンギヌス〟を知る一人であるキャスターが言った。
「そもサーヴァントの戦いとは宝具の競い合いに等しい。ロディウスの持つ聖槍はほぼ確実に規格外のランクEX。それだけの宝具であれば、担い手がただの魔術師という不利なんて覆して余りあるぞ」
二騎のサーヴァントから続けて厳しい事を言われ、リリアの表情は否応なく硬くなる。
それに二人の言葉だけではない。冥馬もリリアも一度見ているのだ。聖槍ロンギヌスの力を。
――――光あれ。
それは祈りであり、懺悔であり、命令であり、なによりも言葉だった。
ロディウスの言葉は正しく叶えられ、教会には光が満ち溢れ、冥馬とリリアは気を失うほどの衝撃を浴びた。もしサーヴァントがいなければ二人ともあそこで冷たい躯を晒していたことだろう。
仮にあれだけの力を自在に引き出せるとしたら、使う人間がただの魔術師でもサーヴァントに対抗しうるだけの強さを発揮する。決して人間だからと舐めてかかっていい相手ではないのだ。
「――――――」
隣を歩くリリアが何を考えているのかは分からない。いつもと同じ凛とした目つきで真っ直ぐ前を――――いや、上を見上げていた。
ふとどうしてリリアがここでこうしているのか疑問に思う。人間を守るのが英霊だというのならば、騎士であるセイバーはその見本ともいうべき存在だ。だから彼が無辜の命を守るため剣をとるのは自然なことだ。
しかしリリアは魔術師。自分の領地の人間でもない一般人を守るため命を賭ける理由なんてないはずだ。
そこまで考えて、己の思考の無意味さを悟る。
熟考する必要などない。リリアはきっとそういう女なのだろう。ならば仕方ない。彼女の参戦理由を言葉で言い表すなどそれこそ無粋。遠坂冥馬は最高の援軍を得られたことを感謝していれば良いだけだ。
この場にいる全ての人間に感謝を。悲しいかな、感謝くらいしか益なき戦いに返せるものがなかった。
もはや余計な感傷はなかった。頂上に到達し山門を潜る。
「――――!」
刹那、神々の住まう天界へ足を踏み入れたと錯覚する。
夜の帳が落ちたはずの世界は、この場所のみ純白の空気が蔓延していた。魔は呼吸できず悶え苦しみ、救いを求める者は歓喜の涙をもって安住の地と定める聖域。
そんな場所に踏み入ったというのに、冥馬が抱くのは感動ではなく戦慄だけ。或いは人間でありながら、人道から背を向け魔道を行く魔術師だから気付けたのだろうか。
魔術師としての根源を揺さぶる、なにか良くないことがここで起きようとしているのを嗅ぎ取った。
「早かったね、遠坂冥馬。リリアリンダ・エーデルフェルト。来なければ嬉しかったが、そうはいかないか」
静謐過ぎる聖域に、漆黒の軍服に身を包んだ場違いな男がいる。その手に握られているのはこの聖域の柱たる聖槍。
ロディウス・ファーレンブルクは全ての中心で『その時』を待っていた。
「大人しく降参しろ。此方にはサーヴァントが二騎いる。降伏すれば命まではとらん」
無意味なことと知りつつも、形式のため冥馬はロディウスに言った。
「ふっ、ははははははははははははははは」
冥馬の降伏勧告、最後通牒に返ってきたのは脳天気な笑い声。
「何が可笑しい?」
「相手が受けないと確信している降伏通牒。その裏の意味は一つ、宣戦布告だ。君達は決して退いてはくれないだろうし、私の方もそれは同じでね。ま、君達の宣戦布告に倣って私からも返答しよう。
あの日以来、ずぅっとやろうとしたことがやれる日なんだ。あともう少しで『』への道が開かれるのだから、私の邪魔をしないでくれるかな」
刹那、空気が凍りついた。冥馬もリリアも、ロディウスの語った目的に思考を奪われた。
「『』だと? 貴様、正気か?」
「その為の聖杯、その為の聖槍だ。冬木という霊地にて地の利を得て、神の子を引き摺り下ろし人の利を得て、神殺しの聖槍により天の利を得る。天地人の全ての利と理により私はあちら側の世界への扉を開く」
魔術師が誰もが探す最終目標たる『』。全ての原因、真理、『根源』。だがそのどれもが『』を現しきれるものではない。
人間が生まれ魔術師という概念が発祥し、幾百幾千年が経ったか。その間にどれほどの魔術師が世界の外側にある『』を目指しては死んでいったか。
「馬鹿なことを……! 『』への道を開くなど、世界が許すと思うのか? 世界に、抑止力に消されるぞ」
「なら『世界』を倒すまでだ」
「ッ!」
冗談などではなかった。信じがたいことだが信じる他ない。ロディウス・ファーレンブルクは本気で世界そのものと戦い勝とうとしている。いや或いは彼は既に世界と戦って、勝利を重ねてきたのではないか。
そしてロディウス・ファーレンブルクの宣言は揺るぎのない意志力にのみ裏づけされるものではない。
――――伝承曰く、その槍の持ち主には世界を制する力が与えられる。
裏技を用いたとはいえ、有史以来初めて聖槍ロンギヌスを担うことに成功したロディウスは、間違いなく伝承通りの『世界を制する力』を得ていることだろう。
更に言えばロディウスは封印指定されるほどの〝魔術師〟として、抑止力を撥ね退ける自信をもってこの儀式に挑んでいるはずだ。
「魔術師ならば魔術師を志した瞬間に追い求め、己では到達できないと挫折する『』への探求。あちら側への到達。それを求める気持ちは痛いほど分かるが、冬木の管理者としてこの儀式を成就させるわけにはいかん」
「……ふ、ははははははははははははははは! さっきから君は的外れなことばかり言うね遠坂冥馬。視野が狭いぞ」
「なに?」
「いや。確かに私は『』への道を開くと言った。だが誰が『』への探求のために『』への道を開くなんて言ったんだい。君は非常に頭も良く判断力も優れているが、だからこそ足元を見落としがしだね。そんなんだからむざむざ幼馴染の恋慕にすら気付けず見殺しにするんだよ」
「っ!」
反射的にロディウスの頭を吹き飛ばしそうになるが、咄嗟に自制できたのは前半の言葉が引っ掛かった故だ。
封印指定になるほどの魔術師であれば自分の魔術を高めること、『』への探究心は並外れているといっていい。だからてっきり『』と聞いて、ロディウスの行動は魔術師故の探求行動だと半ば以上に決め付けていた。
だが魔術師ならば誰もが『理解』できる動機は、ロディウス自身によってあっさり否定された。
「……どういうことだ? 『』が目的でないなら、どうして『』を目指す!?」
「男が命を賭ける理由なんて過去も未来も現在も三つだけだ。夢のため、友のため、そして女のため」
ロディウスは前だけを向いてひたすらに生きる少年のように、涼やかな表情で言う。
「私の戦う理由は一番最後だ……〝女〟のためだ」
「女?」
この場にいる唯一の女性、リリアがか細く反芻する。
だがロディウスの目はリリアを見ていない。ロディウスの瞳は遥か彼方、或は遥か以前。もうこの世界にいない誰かを見ていた。
「私にとっての女とは私の妻のことだよ。のろけ話に聞こえるかもしれないが、私には勿体無いほどの妻だった。
容姿はこの上なく私好みだったし、朝昼晩の三食出される食事はどれも絶品。私の我侭も笑顔で聞いてくれたし、我侭が過ぎればやんわりと嗜めてくれた。なにより彼女といると、なんというかね。説明はできないんだが、胸に幸福の感情が満ち溢れたんだ。いやプロポーズが成功したときには、周りが恥かしがるくらい喜んだものさ」
冥馬はロディウスの妻の名前も知らなければ、性格も知らない。しかしロディウスの言葉の節々から素晴らしい妻なのだということは伝わってきた。
「だけど人間の生き死には分からないものでね」
ロディウスの声色が変わる。昼の日差しのような暖かさから一転、冬の如き冷たさへと。
「十年前、妻が死んだんだ。不幸な事故でね。私が駆けつけた時には、現代の医術でも魔術でも取り返しのつかない状態だった。だが不幸中の幸いか一言、言葉を残すくらいの力は残っていた。彼女は私にこう言ったよ」
〝死にたくない〟
死に直面すれば、誰もが抱くであろう願望。
遺言が人が最後に残せる願いだというのならば、それは紛れも無くロディウスの妻がロディウスへ向けた願いの形だった。
「なら、お前の目的は――――」
最愛の妻の死。在り来たりといえば在り来たり。珍しいどころか、既婚者の半分は経験することであろう。
だが世界という全体にとって有り触れた一つの不幸に過ぎなくても、ロディウス・ファーレンブルクという個人にとっては大きすぎる悲劇だ。それこそ死者蘇生という『魔法』の領域にある奇跡を求めるほどに。
一瞬、冥馬の脳裏に母の葬式で涙を流す父の姿が過ぎった。
「だが死者を蘇らせるなら、どうしてここまでまどろっこしいことをする。ここまで聖杯戦争を掌で動かしたお前だ。上手く立ち回れば『聖杯』を手に入れることもできただろうに」
冬木の聖杯では『』へ行けるかどうかは怪しい。しかし聖杯の力をもってすれば死者を蘇らせることくらいは訳のないことだ。
だというのにロディウスは聖杯ではなく、敢えて聖槍なんてものを使い『』への道を開こうとしている。それが冥馬には分からない。
「何度も同じことを言わせるな。早合点し過ぎだよ……君は」
「なんだと?」
「私の妻は〝死にたくない〟と言ったんだ。〝生きたい〟でも〝死にたい〟でもない」
人がこの世に残す最期の言葉、遺言。
彼は彼女を愛していた。彼女も彼を愛していた。故に彼は彼女が残した最期の願いを受諾した。してしまった。愛した女性の最期の願いを叶えてあげようと。
「死にたくない……その意味を何度も何度も頭で繰り返した。妻を生き返らせるだけじゃ妻の願いを叶えたことにはならない。人の命は脆く儚い。生き返らせたところで、病気や事故や或いは戦争で、またいつか妻は死んでしまうかもしれない。その度に妻は私に願うだろう。死にたくない、と。
だとすれば『死』という生きる者であれば誰もがもつ約束された終末を打破しなければならない。『死』を打倒し『死』を克服し死を無くす。ほら、人間を永久に死から遠ざけるなんてこと。もう『』へ行って魔法の一つでも取ってこなければ叶えられないだろう」
「――――――」
魔術師、悪魔、吸血鬼、英雄。不老不死と呼ばれ事実それに限りなく近付いた存在は数多い。しかしこの地上に完全なる不老不死が現れたことはただの一度もありはしない。
この星や、星々を内包する宇宙ですらいずれは死ぬ。その死を永遠に打倒する――――確かにそれは〝魔法〟でなければ叶えられぬことだった。
「ただそれだけを求めてお前は『』を目指してきたのか?」
「そうだ。そのために魔術協会を利用し、聖堂教会を利用し、大英帝国を利用し、合衆国を利用し、ロシアを利用し、大日本帝国を利用しナチス・ドイツを利用してきた」
ロディウス・ファーレンブルクは断じて狂ってなどいないし壊れてなどいない。
彼の願いは酷く純粋無垢だ。
〝愛した妻の最期の願いを叶えたい〟
ただそれだけのために、ロディウスは世界の理を捻じ曲げようとしている。ただそれだけのために世界そのものと戦おうとしている。
その覚悟、そこまで一人の女性を愛した純真さに〝魔術師〟としてではなく一人の男として圧倒された。
「承知した。では戦おう」
もはや語るべきことはなにもない。百万の言葉を重ねようと、ロディウス・ファーレンブルクの意志を変えることはできないだろう。
そしてロディウスを止められないように、冥馬もロディウスの願いを叶えさせる訳にはいかない。
冥馬の敗北は即ち冬木にいる全ての命の死である。冬木の管理者として、遠坂冥馬にはロディウス・ファーレンブルクを止める義務がある。
いつの時代も変わりはしない。どちらにも譲れぬものがあるのであれば、戦いとなるは必然。
「やれやれ。話をもっと長引かせたかったのに、やっぱり私はダーニックほど口が巧みじゃないなぁ。あと三十分もたせれば私の勝ちだったのに」
「三十分ですって?」
リリアが自分の腕時計に視線を落とす。
現時刻は丁度11時30分、その30分後というのだからロディウスが待つのは午前0時。今日と明日の狭間、時間が最も曖昧となる瞬間。この世の外側にある『』への道を開く儀式をするには最適な時間だろう。
儀式の開始が午前0時ジャストならば、冥馬たちの制限時間は30分。30分の間にロディウス・ファーレンブルクを倒し聖槍を奪取せねばならない。
「キャスター!」
「セイバー!」
「OKだ」
「御意」
命令はなく、名を呼んだだけで二騎のサーヴァントはマスターの心を察する。
円卓の騎士と十二勇士。共に最も誉れ高い騎士道物語に名を連ねる騎士同士は、今再び同じ陣営に立って同じ敵へと挑んでいった。