白銀の騎士と蒼い騎士が大地を滑るように動く。サーヴァントの埒外の脚力により齎された『踏み込み』はそれ一つとって超人業というべきもの。
当然の社会に背を向けて『』を追い求めた魔術師といえど、人々が憧憬の念をもって信仰する英雄達に及ぶべくもない。
サーヴァントと戦うことができるのはサーヴァントのみ。現代を生きる『人間』でありながら英霊の領域まで己の武を高めた常識外に、最古の鍛冶師の錬鉄と最新の科学の改造により生まれたサイボーグという想定外を除けば、その真理が動くことなどない。
だからロディウス・ファーレンブルクはセイバーとキャスターによって、一合も刃を交えることも叶わず破れ散るはずだった。
しかしそうはならなかったということは、例外に一つ加わるものがあったのだろう。
「なっ!」
冥馬が絶句する。
あろうことかロディウスは、人間には視認することなど出来る筈のない高速の斬撃を平然と槍で受け止めたのだ。まるで槍の英霊がそうするかのように。
「……ッ!」
セイバーとキャスターが歯軋りする。より強烈なセイバーの刃は聖槍で、セイバーと比べれば劣るキャスターの一太刀は腰に差した刀で、ロディウスは完全に防ぎきっていた。
聖杯戦争に最後まで勝ち残った二人の英霊は、負けるものかと全力と全体重をのせて刃を押し込もうとする。幾ら防がれようと単純な腕力であれば、英霊が人間を下回るなんてことはない。馬鹿正直な力技といえばそれまでだが、だからこそ効果的な戦法だった。
「ふ、英霊だけあって凄まじい力だ。昨日までの私じゃ到底勝てないな。だが今の私は前の私とは全然違うぞ」
ロディウスが目を細めると腕に力を入れ、逆にセイバーとキャスターを押し返していく。
有り得てはならない光景だった。こんなこと相馬戎次にもできはしない。サーヴァント二人を相手に力勝負を挑んで押すなど絶対にあってはならないことだ。
だがそのあってはならないことが起きようとしている。初めて聖槍を担うことに成功した『人間』によって。
やがて鍔迫り合うは不利と悟り、セイバーとキャスターが飛び退く。
瞬間、まるで見えない誰かに突き動かされるようにロディウスが動いていた。
剣の英霊たるセイバーをもってしても絶妙なタイミングでの追撃。聖なる槍の一突きがキャスターの左肩を穿ち貫いた。
「ぐっ……! 不甲斐ないっ!」
人間に一撃を受けた自分を呪いつつも、キャスターは頭に血が上ってロディウスに無謀な白兵戦を挑むほど馬鹿ではなかった。
手から火炎を放ちロディウスに喰らわせつつ、僅かに怯んだ隙をついてキャスターは後方に飛び退いた。
「大丈夫か?」
「ああ。大した傷ではない」
冥馬は素早くキャスターに魔力を送る。アルラスフィールが仕込みをしてくれた甲斐もあって、キャスターの左肩の傷は直ぐに塞がった。
聖槍ロンギヌス、またの名を神殺しの槍。キャスターが神の血をひいた混血であったり、魔物としての属性をもつ英霊であれば、ただの一突きでさえ深刻なダメージを齎しただろう。しかしキャスターは特異な能力を持ち合わせてはいるものの、神や魔物の混血というわけではない。
セイバーもそれは同じだ。天使の加護を受けてはいるが、その程度のことで神殺しの属性は効果を発揮したりはしない。
残った二人がロンギヌスが天敵となりうるサーヴァントでなかったのは不幸中の幸いといえるだろう。
「熱いじゃないか。火傷するかと思った」
「普通ならば死ぬはずなんだがな。サーヴァントの炎が直撃したら」
キャスターの放った炎を、槍を無造作に一振りするだけで鎮火させたロディウスを苦々しく見据えながら冥馬は言った。
全身を炎で炙られたというのに肉体は元より軍服までもが無傷。聖槍ロンギヌスはその名に相応しいだけの加護をロディウスに与えているようだ。
恐らく今のロディウスの生命力は下手なサーヴァントを遥かに凌ぐだろう。
「―――――ふうむ」
そしてそのことを『理解』したのは冥馬やキャスターたちばかりではない。聖槍を振るうロディウスもまた、自分自身について起きていることを理解する。
聖槍を担うため入念に入念を重ねた下準備をしてきたロディウス。だがそのロディウスにしても聖槍の担い手になった者が過去にいないため『聖槍』の力を完全に引き出した時、具体的に担い手がどれほどの力を得るかまでは分かる筈がなかった。
だからこうして戦いの中で聖槍を持つ自分の強さを確かめていっているのだ。さながら剣豪が新たな刀の調子を確かめるように。
「これならば、うん。いけるかもしれないな」
暫し聖槍を眺め、その力を確認したロディウスは防御から攻撃に転じる。
ロディウスが繰り出すのは〝突き〟だ。単純故に最強。長らく数多の武器の中にあって槍こそが『兵器の王』と称された真価がここにある。
――――疾い。
人の身であるはずなのに、槍を突く速さと、踏み込みの疾さ。どれをとっても此度の聖杯戦争で招かれたランサーを上回っていた。
最速のサーヴァントを超える速度で突かれた神速の突き。更にこれがセイバーとキャスターと鍔迫り合うほどの膂力をもって放たれるのだ。
しかもただ単に速いだけではない。血飛沫が飛び散る戦場を潜り抜けてきたサーヴァントからすれば、ロディウスの槍捌きなど素人に毛が生えただけのものに過ぎない。如何に速かろうと、技術がまるで伴っていなければ幾らでも対処のしようがある。
だがロディウスの槍捌きお粗末なものなのに、槍はまるで吸い込まれるように最も防御の弱い場所や、回避する地点を先回りするように飛んでいくのだ。
「ちっ!」
「うおっ!」
されど強敵たちが参戦する聖杯戦争で、最後の二人まで生き残ったセイバーとキャスターの回避力も相当のものだ。
セイバーは天性の心眼で、キャスターは修練によって体得した心眼によって。紙一重で槍の回避に成功する。
「どういうこと……! セイバーは最優の剣士なのよ! 幾ら槍のお陰で身体能力が馬鹿みたいに上がってても、魔術師相手に遅れをとるだなんて」
「それが槍の真の力なんだろう。世界を制する力、か」
焦るリリアに表面上は冷静に冥馬が応えた。
この世界を制するのになにが必要か、と問われたとしたら自分はどう答えるだろうか。
運と答えるかもしれないし、武力と答えるかもしれないし、カリスマと答えるかもしれないし、それこそ天啓の閃きと答えるかもしれない。
そして聖槍ロンギヌスはその全てを与える。
担い手に加護を与え死なぬようにし、宇宙を創造する神霊を殺すだけの権利を与え。
大勢を魅了するだけの魅力、行動を導く天啓、幸運を手繰り寄せる天運、そしてそれにより生まれる武力。
ロディウス・ファーレンブルクはその全てを備えている。聖槍による借り物の力と言ってしまえばそれまで。だが人から借りた銃でも、人は殺せるのだ。
誰がなんと言おうと、今この場における戦いにおいて借り物かそうでないかなどまるで意味をなさないこと。
唯一つ確かなことは、
(ロディウス・ファーレンブルク。今の奴の力は最上級の英霊にも匹敵する)
英霊も最上級となれば、限りなく神霊に近い力をもつ存在となる。そして神に限りなく近い彼等と同じように、ロディウス・ファーレンブルクも神に近い所に君臨している。
否、或いは一部においては既に神を超えているといって良いかもしれない。それだけの規格外を前にすれば、もはやこちらも最大の一撃で一息に粉砕する他ないだろう。
常であれば慎重にいきたいが、午前0時は刻一刻と迫っている。危険でもここは賭けに出るべき時だった。
「準備はいいか?」
代表して冥馬が全員に確認すると、無言の首肯が返ってきた。
セイバーが出現させるのは白亜の角笛、キャスターがカリバーンのかわりに出現させるは嘗て最強の魔術師から譲り受けた無骨な剣。
「もうリミッターをかける必要なんてないわ。〝本気〟で吹きなさい」
リリアの命がセイバーに伝わった瞬間、二騎のサーヴァントは全く同時に動いた。
周囲の空気どころか空間そのものがセイバーの角笛に吸い込まれていく。
周囲に飛び交う火炎がキャスターを中心に複雑な魔法陣を描いていく。
「奥の手を使うのかい。であれば私も――――君達に合わせてみようか」
角笛が空間を吸い込み圧縮するのであれば、聖槍はこの世に降り注ぐ〝光〟を集めていく。白銀の聖槍が太陽のように眩しく輝いた。
聖杯ほどではないが、聖杯の機能により修復された聖槍は願望器としての性質をもつ。
であれば担い手の〝願い〟に応じてその在り方を対人にも対軍にも―――対城、対界、対神にも変化させる。
「聖覇すべし神滅の明星」
嘗て無銘だった頃の聖槍によって、神の子を殺した男の真名。それを唱えることによって、聖なる槍は破壊の槍となる。
誰よりも強く美しかったが故に『傲慢』となり、遂には神へと反逆した堕天使。その堕天使と同質の極光が二騎の英霊に牙をむいた。
しかしセイバーとキャスターはその極光を甘んじて受けるほど往生際が悪くない。
例えその極光が神の裁きに等しくとも、神に挑む打ち倒すのは英雄の特権。であれば彼等が臆するはずがない。
二騎のサーヴァントは呼吸を合わせ、己の必殺を聖槍の担い手に繰り出した。
「儚く遠き勝利の音色」
「儚く燃ゆる勝利の剣」
あらゆるものを蹂躙する熱風に、星の輝きの模倣が加わる。
セイバーとキャスターの最強の一撃の同時攻撃。如何な英霊であろうとこれを打ち破ることができようはずがない。
ましてや今回セイバーはリミッターを外している。
セイバーの最終宝具である『儚く遠き勝利の音色』は吹く強さによって威力を変化させる対城宝具。その最大出力は規格外といっていい。だが規格外の力は諸刃の剣。最大出力を出そうとすれば、セイバー自身にも相応の反動がくるのだ。事実伝承においてセイバーは、角笛を強く吹きすぎたせいで命を落としている。
そのためこれまでの戦いでセイバーが『儚く遠き勝利の音色』を使用する際は、常に反動で致命傷を負わない限界のラインに出力を抑えてきた。
しかしリリアはそのリミッターをセイバーに解除させた。それは即ちこの一撃で勝負を決めるという覚悟の現われ。
必勝の覚悟をもって解放された熱風は、キャスターが決して届かぬ真なる星の輝きに並ぶだろう。
「―――――んっ! これは……」
聖なる極光が熱風と星の模倣により払われる。
もはやどうすることもできるはずがない。ロディウス・ファーレンブルクは回避などできるはずもなく、天の裁きを打ち払った熱風に呑みこまれた。
あの直撃を喰らっては、もはや生きていることなどできない。不死身と呼ばれる生命体とて完全に死を克服しているわけではないのだ。この世の全てには等しく『死』があり、セイバーとキャスターの放った必殺はあらゆる命を死へ追放するに足るものだった。
「フフフフフ。痛い痛い、全身が消し飛ぶ痛みは初めてだ」
故に――――その男は正真正銘の『不死』だった。
「嘘、でしょ……っ」
リリアが顔を真っ青にするのも無理はない。冥馬やセイバー、キャスターですら唖然としているのだ。
地面を溶解させ、大地をひっぺり返す天災。その中からロディウス・ファーレンブルクはなんでもないように平然と歩いてくる。
散歩するような足取り。だがなんでもない筈がないのだ。
頭部は半分が消滅している。右肩は跡形もなくなっている。五臓は灰となり、六腑は燃え尽きた。なにより肉体のみならず、霊体すらも完膚なきまでに引き裂かれている。
死んでいないはずがないのだ。死んでいないのは摂理に反しているのだ。だというのにソレは生きている。
「そういう、ことか」
遠坂冥馬は確信する。絶対に死んでいるはずなのに死なない理由。それを冥馬は理解した。
なんていうことはない。ロディウス・ファーレンブルクには死が〝無い〟のだ。形あるものなら必ずある死という概念そのものが〝無い〟ならば死な無いのは当然のこと。
「不死という概念に守られた、死という概念のない怪物。それがお前か、ロディウス・ファーレンブルク」
「怪物とは酷い言い方だね。これは神聖なる力だというのに」
全身が傷ついたロディウス・ファーレンブルクの肉体が『元の形』へと戻っていく。
だがこれは回復でもなければ、ましてや時間の逆行でもない。最も近い表現を探すのであれば『修正』だろうか。
不死不滅である槍の担い手は完全な姿でなくてはならない。故に完全ではない姿になった時、槍は自動的に不完全から完全へと修正するのだ。
そしてそのことが示す残酷なる現実。必殺を繰り出して満身創痍なセイバーとキャスターに対して、未だに万全なロディウス・ファーレンブルクという構図。
「お返しだ。聖覇すべし神滅の明星」
再び地上に顕現する原初の輝き。
流石にあれほどの破壊力を連続で引き出すのは難しかったからか、その用途はより範囲の絞られた対城ではなく対人。されどその光の閃光はセイバーとキャスターを打ち倒すには十分すぎた。
「ぐっ……!」
「おおっ!」
声を張り上げる間すらない。原初の輝きはあっさりとセイバーとキャスターを呑みこんだ。
二騎のサーヴァントはその場に踏みとどまることもできず、柳洞寺の端まで弾き飛ばされる。マスターとしての契約が残る冥馬とリリアには、確認するまでもなくセイバーとキャスターが致命傷を負ったことが分かった。
「さて。まだやるかい? お二人さん。私はどちらでも構わんよ。なぁに、もののついでというやつさ」
頼りの綱のサーヴァントはやられた。まったくロディウスにどうすることもできず敗れ去った。残る戦力はただの魔術師でしかない遠坂冥馬とリリアリンダ・エーデルフェルト。
サーヴァント二体を圧倒する怪物に二人の魔術師が挑んで勝てるかと問われればNOだ。サーヴァントが勝てない相手に魔術師が勝てる筈がない。
「おや」
「冥馬……?」
しかし遠坂冥馬はロディウス・ファーレンブルクの前へ出た。
「まさか特攻でも仕掛ける気? 止めなさい。気持ちは分かるけど無駄死によ」
「それこそまさかだよ。生憎、勝算が皆無な勝負に挑むほど俺は人間らしくはない」
冥馬はちらりと背後を見る。セイバーとキャスターはかろうじて消滅はしていないものの、それも時間の問題だろう。やはりサーヴァントの助力は期待できそうにない。
だからやはり最後は自分の力のみが頼りになる。
「リリア、バックアップを頼む。これは俺のモノ(魔力)じゃないから少しばかりジャジャウマでね」
「その宝石、ルネスの?」
「戦利品だよ」
ルネスティーネを倒した冥馬が彼女から分捕った魔力が込められた宝石、総数40個。正真正銘、これが遠坂冥馬の奥の手だ。
「無茶よ! 宝石が幾つあったって、あんな怪物に勝てるわけないじゃない! さっきの見ていなかったの!? セイバーとキャスターの必殺が直撃しても、あいつを殺すことは出来なかったのよ!」
「承知している」
「仮に棒立ちしたアイツに40の宝石全ての魔力を叩き込んだとしても、あいつは即座に復活するわよ。いいえ、40個の宝石程度の神秘じゃ聖槍で『不死』の概念を与えられたあいつを傷つけることすら出来ないわ」
「承知している!」
ロディウス・ファーレンブルクに傷を負わせられるとしたら、人の意志により生まれながら人とは関係なく生まれるもの。星の鍛えた神造兵器くらいだ。
宝石40どころか1000の宝石があろうとロディウス・ファーレンブルクを殺すことはできやしないだろう。だが、
「心配するな。策はある」
そう、策だ。たった一つだけ見出した突破口。
(ロディウスの強さは聖槍の強さ。ロディウスの不死性は聖槍の加護。……そもそも前提からして間違っていたんだ。ロディウスを倒そうとしても槍がある以上、ロディウスは不死身。ならば槍をどうにかするしかない)
無論、ロディウスが倒せないから槍を破壊するなど更に無理難題だ。それこそ百万の宝石が手元にあったところで不可能だろう。
しかし槍を破壊することはできずとも、槍を『奪う』ことはできるかもしれない。ロディウスの腕を断つことはできなくとも、その手から槍をすっぽぬかせることは出来るかもしれない。
槍さえあればこちらのものだ。聖槍は決してロディウス・ファーレンブルクを唯一人の主と認めたわけではない。トバルカインによって『誰でも担える』ように改良されただけだ。
ならば冥馬があの槍を奪ってしまえば、槍の担い手は遠坂冥馬となり、残ったロディウス・ファーレンブルクはただの魔術師に戻る。
「Anfang」
20の宝石を全て身体能力の強化へ注ぎ込み、残りの20を過剰強化で自壊する肉体の維持に注ぐ。包丁で肉体を細切れにされる苦痛を下唇を噛む事で凌ぎ、冥馬は敵を睥睨する。
総数40の宝石、これにより遠坂冥馬は五分のみサーヴァントに比肩しうるだけの肉体ポテンシャルを獲得した。
「ゆくぞ!」
そして聖杯戦争改め聖槍戦争、最後の五分間が始まった。
星を見上げる。
傷ついた体は鉛のようだ。背を起こすどころか指を動かすことすら億劫で、こうして大の字に倒れたまま空を眺めるしかない。微かな星明りは霧に覆われた聖域を僅かに照らす。
いつか見た星の輝きを忘れはすまい。このような様になってもこの身は全てを覚えている。
彼女が家に来た時の無垢な顔を覚えている。彼女が教えを請いにきた初々しい姿を覚えている。彼女が運命を抜いたときの尊さを覚えている。
だがそれも遠い過去の記憶の断片だ。
彼は戻りたかったのかもしれない。
まだ彼女が己の運命を知らず、彼も妹の運命を知らず、無邪気にただの兄妹として笑い合えたあの頃。
彼女が王の責務をやり遂げれば、きっとあの頃に戻れると信じて、彼は彼女の側で『一介の騎士』として剣を振るい続けた。
しかし結果は残酷に。魔術師の予言は外れることなく、彼女と彼女の国を無残にも切り裂いた。
皆に裏切られた王は、それでも皆を恨むことはなく、最期に己の身を生け贄とすることで、皆を救おうとした。
――――認められるものか。
そんなものが認められるはずがなかった。
己の幸などはどうでもいい。あの頃に戻りたいという過ぎた願望も要らない。
だが彼女が幸福でないのが許せなかった。少女はみんなの笑顔のためにみんなから恨まれる道を歩んだ。ならばせめてその最期は笑顔でなければならない。そうでなければ誰が許しても自分が許せない。
つまりなんということはないのだ。彼にとって彼女の幸福がそのまま自分の幸福だったというだけ。
だから彼は奇蹟を求めた。彼女よりも先に奇蹟を手にする、ただ一度だけの機会を手に入れたのだ。
「なんと情け無い有様だ」
自嘲の声が響く。
聖槍に傷つけられた体は半死半生。こうしてしぶとく形を保っているが、このまま暫く野に晒されていれば、やがて雲散し死者の残滓は泡沫の幻と消えるだろう。
自分の身が滅びた後、自分がどうなるかは分からない。もしかしたら他の英霊たちと同じように『英霊の座』とやらに招かれるのかもしれないし、またどこかの聖杯を得る機会を得るのかもしれない。それとも誰に知られることもなく完全に消え去るか。
どちらにせよもう自分は終わりだ。
誰よりも近くにいたにも拘わらず、結局妹一人すら幸せにすることもできず死んだ騎士は、こうして時空の果てに馳せ参じても何にもできずに滅んだ。これはただそれだけのことだ。
どうしようもない無力感が圧し掛かる。いっそそれに押し潰されてしまいたい気分だったが、自分の体はしぶとくまだ終わりを許してはくれなかった。
「まぁ義理は果たしたさ」
自分をサーヴァントとして召喚し、共に戦い抜いてきたマスターである遠坂冥馬。
思い返せば思い返すほど遠坂冥馬という男は訳の分からない人物であった。魔術師としての冷酷さを垣間見せたかと思えば、三流もしないような下らないミスで足元を掬われ、計算高いようでいてまったく打算的ではない行動原理で戦う。これまでの生涯で出会うことのなかった人間だ。
素直に認めるのは癪なことだが、自分は彼にそれなりに恩がある。だがその恩も、自分にとって全く何にもならない戦いに手を貸すことで返したはずだ。
故にもう役目は終わり。サーヴァントとしても騎士としてもやるべきことはやりきった。
兄としてやるべきことだけは終ぞ出来なかったのが心残りだが。
「――――――――――――あ。ああ」
暗転する視界。流転する時。光が満ち、光が消える。
朝焼けの陽射しが零れる。静かに佇む森で、眠る偉大なる王がいた。手を伸ばす。しかしどれだけ手を伸ばしても、手が彼の者に届くことはない。
当然だ。これは今の彼にとっては過去であり未来の光景。通り過ぎた事も経験したことのない景色だ。
彼女を看取るのはたった一人の騎士。彼がなによりも幸せを願った大好きな妹。
だが――――その顔は、彼が望んでやまなかったものだった。
穏やかな眠り。
妹は最期に、今まで得られなかった安らぎを得たのだ。
「は、はははは」
知らず知らず嬉しさから涙と笑顔とが溢れる。
なんということだろうか。自分が誰よりも救いたかった妹は、自分が救わずともどこかの誰かが救ってくれたらしい。
妹を救ったのが自分でないことが少しだけ悔しかったが、それ以上に彼女の笑顔が嬉しかった。
妹に安らぎを与えてくれた顔も知らない誰か、貴公に心からの感謝を。自分が終ぞできなかったことをやってくれてありがとう。
「……よう。無事か?」
過去と未来の景色は終わり、現在へと戻ってくる。
キャスターは閉じていた目蓋を開き、もう一度だけ空を眺めた。
星はもう見えない。ただ不気味なほどに静謐な雲だけが空を覆っている。
「これが……無事に見えるのか?」
聖槍にやられた傷は深い。皮肉るようにキャスターは言う。だが、
「さぁ。でも俺よりはマシだろう」
隣で倒れていたセイバーを見て、キャスターは目を見開いた。
体の下半分は跡形も無く消し飛び、左腕も原型を留めていない。サーヴァントだろうと人間だろうと、死んでいなければおかしい状態だった。
いや実際セイバーは死んでいた。気力で現世にしがみ付いているが、もう一分と保たずセイバーは幻と消えるだろう。
「なんだか吹っ切れたような顔をしているな。キャスター」
「……夢を、見ていた。未来の夢を」
「そうか。良い夢を見ていたんだな。俺はただひたすら苦しい思いをしていただけだった。たぶん優しい神の子が節介をやいてくれたんだろう」
お互いに体はボロボロ、セイバーに到っては死んでいる状態だったが、それでも二人の表情は晴れ晴れとしていた。
心に溜まっていた『願い』が綺麗さっぱり飛んでいったからだろう。
「……俺はたぶんもう直ぐ消えるが、その前に頼みがある」
ふとセイバーが懇願するように切り出す。
「なんだ?」
「戦ってくれ」
誰と、などと聞き返す必要もない。
こうしてキャスターとセイバーが話している間も、柳洞寺では遠坂冥馬とロディウス・ファーレンブルクが戦っていた。冥馬は聖槍という究極の反則をもつ相手に、よくも喰らい付いているがあれも長くは保たない。いずれ聖槍に穿たれ殺されるだろう。そして遠坂冥馬が死ねば、次はリリアリンダ・エーデルフェルトの番だ。
だから戦ってくれ、と。セイバーはキャスターに頼む。今生にて忠誠を誓ったマスターを守る為に。
「いいだろう。だが一つ条件がある」
「条件?」
「魔術師の原則は等価交換。あいつをぶった切るために、お前は俺の言うことを聞いてもらう」
「分かった」
「随分とあっさりと応じるんだな。俺がお前を裏切ったら、とかは考えないのか?」
「そんな難しいこと俺が考えられるわけないだろう。お頭の足りない馬鹿な俺は『こいつは信頼できる』って思った奴を最後の最期まで信じることしかできん」
「ふ、そうか」
というとセイバーの信頼できると思った相手には、もしかしなくてもこのサー・ケイも含まれているのだろう。
一人の男にここまで捻りのない信頼を向けられては、騎士としてそれに応えないわけにもいかない。
今こそ再点火の時。力を失った五体に活を入れ、再び生命力を漲らせてゆく。
「お、おおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!」
キャスターらしからぬ獣染みた咆哮。
銀の騎士の想いを託され、蒼い騎士は戦場に舞い戻った。
ルネスティーネから奪った宝石により、一時的にサーヴァント――――それも三騎士に匹敵しうるだけのスペックを獲得した冥馬だったが、どうにも攻めあぐねていた。
人間、過ぎたる力をもてば往々にして力に溺れ、己の強さを過信しそこに油断が生まれるものだ。だが聖槍ロンギヌスにより圧倒的な身体能力と不死性をもちながら、ロディウス・ファーレンブルクにはそういった油断が一切ない。恐らくは聖槍により自身の目的を達成するその瞬間まで、ロディウスが気を抜くということはないだろう。
そして冥馬はサーヴァント〝並み〟の身体能力を獲得しただけであって、別にサーヴァントを凌駕するほどの強さを得たわけではない。サーヴァントを二騎同時に相手して圧倒してみせたロディウスにとって、冥馬の猛攻をいなすなど難しいことではなかった。
(不味い……っ! このままだと限界が来る……!)
ロディウスは冥馬の攻め手を避けながらも、自分から攻撃に転じることはない。
冥馬が仮にもこうしてロディウスと戦えているのは、何年何十年かけて魔力を溜めた宝石があるが故。逆に言えば宝石がなければロディウスと戦うことなどできないのだ。
ならばリスクを犯して攻勢に出る必要などない。何故ならたった五分間凌ぐだけで冥馬は宝石を失い継戦能力を喪失するのだから。
冥馬も馬鹿ではない。ロディウスの魂胆などとうに気付いている。出来ればここで一旦攻撃を止めて、戦術を立て直したいところでもある。
しかし今度ばかりは時間がない。儀式が行われるタイムリミットの午前0時は刻一刻と迫っている。
戦術を立て直している時間などない。例え可能性が少なかろうと、このまま攻め続けロディウスから聖槍を奪うというか細い勝利の糸を手繰り寄せようともがくことしか冥馬には出来ないのだ。
その時。
「――――、――――ッ!!」
獣のような雄叫びを聞いた。
心の器を引っくり返し満ちていたものをぶちまけたような、剥き出しの感情の放出。
その猛々しさに冥馬どころか、あのロディウスですら一瞬気を取られた。その刹那、
「はぁぁああああッ!」
雷光の如く速度で突っ込んできた蒼い騎士が、その手に握られた〝絶世の名剣〟でロディウスを切り裂いた。
刃は不死の概念に守られたロディウスの体を断つことが叶わず、その肌で停止するも、その剣とそれを振った人物の組み合わせに瞠目する。
「それはセイバーの聖剣じゃないか。驚いたね、それをまさか君が振るうだなんて。キャスター!」
ロディウスの言う通り聖剣デュランダルを握るのは、いと名高き白銀の騎士ではなく、玲瓏な雰囲気の蒼い騎士――――キャスターだ。
その体は聖槍によるダメージで明らかな満身創痍。されど内包する戦気は寧ろ初めて刃を交えた時よりも増している。
キャスターは〝絶世の名剣〟でロディウスの体を切れないことを理解すると、片方の手に握った黄金の剣で思いっきり殴りつけた。不死性をもちダメージをも通さないだけの加護をもっていようと、衝撃までが皆無になるわけではない。顔面を殴りつけられて体制を崩したロディウスを、追い討ちをかけるようにキャスターは蹴り飛ばした。
左手には〝絶世の名剣〟。右手には〝黄金の選定剣〟。
この世で最も高名な二人の騎士の愛剣を握った蒼い騎士は、堂々と冥馬の前に立つ。まるでそこが自分の場所とでもいうように。
「動けるのかキャスター? 傷の方は――――」
「ふん。お前がなにやらモタモタしているようだったんでな。放っておいても良かったんだが、仮にも今生で主君と仰いだ男が情けない負け方をしたら、そのサーヴァントだった俺まで物笑いだ。だから黄泉路に引きずり込もうとする死神を蹴り飛ばして戻ってきてやった。精々感謝しろ」
いつも通りの嫌味な言い方で、けれど表情は晴れ晴れとキャスターは言う。
だがその口ほどキャスターの体は無事ではないだろう。普通なら立っていることすらきついはずだ。なのにこうして地に両足をつけて刃を振っていられるのは、キャスターの並外れた意志力ゆえだ。
「そ、それよりその剣どうしたのよ! それはセイバーのものでしょう。なんでアンタが」
「人を盗人のように言うな、リリアリンダ・エーデルフェルト。この剣はお前の騎士から託されたものだ。あの男を倒すようにな」
二つの刃を十字架のように交差させて、キャスターはロディウスを睥睨する。
「聖槍、神の子の力だったか。だが我が手には最も誉れ高き二人の騎士の魂がある。神の子であろうと恐れるものではないと知れ」
「――――は、はははははは。こいつぁ驚いた。これは予想できなかったなぁ。宝具の譲渡! 己の半身を他人の手に委ねる英霊がいるだなんてなぁ! こいつぁ想定外だ!
それにアレを喰らってまだ立つなんて、これも世界の〝抑止力〟かな。世界そのものが私を阻もうとしているのか?
だがそんなことは知ったことじゃない。世界が私を滅ぼそうとするのならば、私はお前達を倒してその背後にある世界を倒す。
今を生きる人間が、死んだ人間に負けてやる道理はないぞ。来たまえ英霊。〝人間〟の強さを教えてやる」
騎士王と聖騎士の刃、二つを向けられてもロディウスの意志は一切挫けない。
キャスターの視線をロディウスは平然と睨み返して、己の手の中にある槍を構えた。
「今を生きる人間である以上、死んだ人間に負ける道理はないか。成る程、頷ける主張だな。英霊だのなんだのと言えど所詮我等は過去の人物の再生に過ぎない。
例え受肉し仮初の肉をもとうとそれは変わらない。どれほどの強さを誇ろうと生者は最終的に死者を乗り越えるだろう。人間とはそういうものだ。
だがお前こそ理解しているのか? 俺たちはただの英霊じゃない、サーヴァントだ。マスターの、今を生きる者の剣だ。剣に宿るのは剣の魂のみではない。それを振る担い手の魂を剣は宿すものだ。
俺と義弟にローラン、そして我がマスターたる遠坂冥馬。俺の中には生者も死者も合わせて魂四つ分だ」
キャスターの言葉にロディウスは面食らい、やがて大笑いし始めた。ロディウスの笑い声が柳洞寺に反響する。
「四つ分の魂かぁ。実に恐ろしいな、それは。私にはもう私しかいないからね。魂の量で負けてしまった」
「覚悟はいいか? 冥馬、行くぞ。決着をつける」
「無論だ!」
呼吸を合わせる必要はもうない。自分が動いた瞬間に相手も動いているという核心が冥馬とキャスターにはあった。
だからその動きは全くの同時。遠坂冥馬とキャスターは真っ直ぐに最後の敵へと向かってひた走る。
「させるか――――!」
聖槍ロンギヌスがまた光を集め始める。
これまでひたすらにこの儀式の完了だけを目指してきたというのに、最後の一歩で頓挫してたまるものか。
言葉にせずとも、ロディウスの表情がその心を雄弁に語っていた。
「聖覇すべし神滅の――――ぬっ!」
真名の解放により蹂躙はしかし、槍をもつ手に絡みついた鎖により妨害される。
鉄ではなく宝石により作り出された拘束魔術。今この瞬間にこんなことが出来るのはこの場に一人しかいない。
「リリアリンダ、エーデルフェルト……!」
「レディを忘れるだなんて酷い殿方ですこと。ざまぁみなさい! 例えアンタの体をぶっ潰せなくてもやりようはあるのよ!」
リリアはロディウスが遠坂冥馬とキャスターに注意を傾けたその一瞬をついた。
鎖を破壊するロディウスだが、もはや真名解放をしている暇はない。敵はもう目の前に迫っていた。
「令呪にて命ず! 剣を担え!」
遠坂冥馬に残された最後の命令が、キャスターに二振りの剣の担い手としての力を与える。ロディウスの目にはキャスターに『金砂の髪の少女』と『銀色の髪の青年』の姿が重なったように見えた。
しかしそのせいでキャスターよりも早く自分の間合いに踏み込んだ遠坂冥馬への対応が遅れる。
「ぶっ飛べぇッ!」
なんの虚飾もない無骨なまでの正拳突きはそれ故に最強の一撃だった。顔面に衝撃を受けたロディウスは崩れかかり、そこをキャスターが切りかかった。
キャスターが狙うはロディウスの命ではない。聖槍を握るその右腕。
聖槍をもつロディウスの肉体に死という概念はなく、その肉体には不死の概念が宿っている。だからその体に傷を与えることはできないし、腕を切断するなど論外だ。
しかしセイバーの担う聖剣デュランダル、この剣のみは例外が適用される。
「斬り屠る不滅の剣――――!」
何故ならばこの剣はひたすらに〝斬る〟ことに特化された対人聖剣。
故にその剣に斬れぬものなどはない。それが例え聖槍の加護を得た肉体だったとしても。
「貴様――――!」
ロディウスが手を伸ばす。しかしそれよりも早く、キャスターは最後の一振りを掲げた。
「勝利すべき――――」
「チェックメイトだ、ロディウス・ファーレンブルク」
黄金の選定剣は星々の光を浴びて黄金色に輝き、
「――――勝利の剣!!」
ロディウス・ファーレンブルクという一人の男の道程にピリオドをうった。
聖槍を腕ごと喪失したことで加護を失い、黄金の剣により命運を断たれたロディウスは糸の切れた人形のように地面に崩れ落ちる。
自分の返り血の血溜まりに大の字に倒れると、ロディウスは満天の星空を目の当たりにした。
「は、はは。なんだ、後一歩だったのに……負けたのかぁ、私は」
最愛の妻を永遠に喪失した時から、ロディウス・ファーレンブルクは妻の最後の願いを叶えるためにあった。そのためだけにこれまで生きてきた。
だというのに後一歩でその人生を打ち砕かれたロディウスには悔しそうな表情はない。寧ろ心の底からの安らぎをやっと手に入れたような満ち足りた笑みを浮かべていた。
「あちらに逝ったら自慢できるぞ。ロディウス・ファーレンブルクは、最期まで君の願いを……叶えようとしたんだって。これで胸を張って会いに逝ける。ああ、なんて満ち足りた人生……満足満足」
そうしてロディウス・ファーレンブルクは眠るように息を引き取った。
彼の人生が正しかったのかは分からない。彼が幸福だったのかも彼自身にしか決められないだろう。だが唯一つ言えるのは、この男は自分の愛を貫き通したのだ。
「……ロディウス、お前は最期まで知らなかったみたいだな」
安らかに眠るロディウスを見下ろして、冥馬は最後の令呪を喪なった手の甲を撫でる。
「男は夢や女や友のために命を賭けるとお前は言ったな。確かにそうだろう。だがな、人間は心の底から嫌で辛くても己の義務のために命を賭けることができるんだ」
人によっては義務のために命を賭けるなどつまらない、と一蹴するかもしれない。
しかし人がつまらないことを歯を食いしばってこなす――――その姿にこそ、人間の素晴らしさの一端があると冥馬は信じている。
時刻が午前0時を刻む。どこか遠くで鐘の音が聞こえたような気がした。
新たな日の訪れを告げたそれは、同時に冥馬とキャスターの戦いの終わりを告げていた。
戦いがないのであれば、もうマスターとサーヴァントという関係もない。己の務めをやり遂げ、そしてお節介までやいてくれたキャスター。
その別れの刻限がやってきたのだ。
キャスターがセイバーの聖剣を、キャスターが倒れていた場所に突き刺す。地面に墓標のように刺さった聖剣は、主の後を追うように消滅した。
セイバーが消え残るサーヴァントはキャスターだけ。そしてキャスターも、もうここに留まる理由はない。
「すまなかった。お前の願いは叶えられなかったのに、俺のやるべきことばかり助けてもらった。なんと礼を言ったらいいか分からない」
心からの感謝と申し訳なさをキャスターに告げる。
キャスターは聖杯を得る為に、妹を救いたいというたった一つの願いのためにサーヴァントとして冬木市に召喚された。
ならばそのマスターである冥馬は、聖杯を勝ち取ることこそがキャスターに対する最大の報酬だったというのに、自分にはその正当な報酬を払うことができない。
「――――良い」
背中を向けたまま、そっけなくキャスターは言った。
「俺の願いはどうやら俺が果たすまでもなく叶っていたらしい」
「叶っていた? それは、どういう――――」
「さぁ。理由の当てがないわけじゃないが、奇跡に理由をつけるのも野暮だろう。ああそうだ、奇跡だったんだよ全て。俺がここでこうしている事も、俺がお前というマスターと巡り合えたことも」
奇跡とは万能の願望器たる聖杯にこそ相応しい言葉。しかしキャスターは寧ろこれまでの全てが奇跡だったと言う。
「正直、俺も自分が勝ち抜ける自信なんてなかった。知っての通り俺は他の騎士ほど戦いが得意じゃない。きっと戦術どうこうじゃどうしようもない奴と遭遇して負けるんだろうと薄々と思っていた。
だがその運命を変えてくれたのはお前だ。お前というマスターがいたから、俺はここまで戦ってくれた。お前がいたから俺はこうして最後まで立っていられた。感謝するのは俺の方だな。お前が俺をこの場所に連れてきてくれなければ、俺は奇跡を目の当たりにすることは出来なかったんだから。お前がマスターで良かったよ」
これまで本心をひた隠しにしてきたキャスターは、この時のみは偽りない本心をそのまま語る。
それはきっと――――これが遠坂冥馬とキャスターの最後の会話だからだろう。
「俺は幸運な男だ。生前と今生で二度も命を賭して仕える主君に巡り合ったのだからな」
キャスターが頭上に浮かぶ星々を眺める。
懐かしむように星空を見上げるキャスターに、自然と冥馬は口を開いていた。
「いくのか?」
「ああ。死にきる前に良い夢を見させて貰った。もう十分だ、これ以上など望むべくもない」
キャスターが振り返る。そこにいつもの仏頂面はなく、清清しい微笑みが浮かんでいた。
心の底からの安堵に満ちた表情。過去/未来で彼の妹が救われたように、彼もまた救いを得たのだ。
「良い生涯だった」
一際強い風が吹き目蓋を閉ざす。柳洞寺に立ち込めていた静謐な空気が雲散していった。
次に目を開いた時、そこにもう蒼い騎士の姿はなくなっていた。
「まったく。なにが俺がマスターで良かっただ。それは俺のセリフだろうに」
冥馬は無意識に夜空に浮かぶ星に手を伸ばす。まるでそこにキャスターがいるかのように。
今日までのことを決して忘れぬように、冥馬は暫く果てなく広がる星空に手を伸ばし続けていた。