「――やっと一段落つけるな」
自分のやらなければならない仕事を漸く終わらせた璃正は、言い様のない開放感を味わいながら脱力する。
十日前に終結した第三回聖杯戦争、ヘブンズフィール3。参加したマスターたちは、戦いが終われば自分の家に戻ってめでたしめでたしだが、運営者側である監督役はそういうわけにはいかない。
聖杯戦争が終わったことについての報告を聖堂教会にしなければならないし、これまでの戦いの事後処理だってある。特に此度の戦いはナチスドイツに帝国陸軍という表側に強い影響力のある組織まで絡んできたせいで、事態をより複雑で面倒なものとしていた。
ナチスと帝国陸軍には初っ端から散々苦しめられてきたが、戦いが終わってからも苦しめられるとは流石に予想外である。連中のお陰でこの十日間は目が回り過ぎて飛び出るほどの忙しさであった。
「ご苦労さん。紅茶でも淹れるか?」
「む? 紅茶か……ありがたい。お願いしよう」
「任された」
労わりの言葉をかけてきた冥馬に、璃正は二つ返事で頷く。英国暮らしが長く本場の味を知っているだけあって、冥馬の紅茶を淹れる腕は確かなものだ。仕事終わりの疲れを癒すにこれ以上のものはないだろう。
常人であれば一ヶ月はかかったであろう仕事量。それを僅か十日たらずで大半を片づけることができたのは、一つにはこの土地の管理者である冥馬が協力してくれたからである。
冬木市に土地勘があり、人脈も豊富で、優れた事務能力をもっていた冥馬の協力は、璃正たちにとって非常に有難いもので、千の援軍を得た心地だった。もし彼が協力してくれていなければ一ヶ月は教会に缶詰だったことだろう。
「ところで」
紅茶をコトン、とテーブルに置きながら冥馬が深刻な目で璃正を見る。
「ロディウスの奴が持っていた聖槍の方はどうにか穏便にいけそうか?」
「ああ。どうにか、だが」
ナチスと帝国陸軍の介入以外に監督役の仕事が増えた原因、それこそがロディウス・ファーレンブルクの行おうとしていた『儀式』と『聖槍』だった。
なんといっても聖槍ロンギヌスは聖杯に並ぶ最大級の聖遺物。それが見付かったともなれば十字軍が起こっても不思議ではない大事件である。
不幸中の幸いというべきかロディウスのやろうとしていた『儀式』の方は魔術協会や聖堂教会に気付かれずに済んだものの、聖槍の方はそうはいかなかった。聖槍ほどの聖遺物のことを隠し通せるはずがないし、監督役以前に一人の信徒として隠せるはずがない。
「やはり聖槍の方がロディウス死後、直ぐに機能停止して崩壊していたのが幸いした。もしもあの聖槍が『誰でも担い手になれる』なんて状態のままだったら、それこそこの冬木市に埋葬機関の怪物達に代行者の軍団が大挙して押し寄せてきただろう」
「おお恐い恐い」
原初の錬鉄者トバルカインによって修復され、更にその改良(改悪)によって担い手を選ばなくなっていた聖槍。だがそれは午前0時を過ぎて暫くすると元の『選ばれた担い手しか使えない』平常な状態へと戻っていた。
本来選ばれた一人しか担えない聖槍を万人が扱えるようにするという無茶、さしものトバルカインでも一時的にしか出来なかったのか。
(それとも敢えてそういう風にしておいたのか)
どちらなのかは璃正にも冥馬にも分からない。ロディウスとトバルカインが二人ともこの世にいない以上、真相は闇の中だ。
「ともあれヴァチカンとしては散逸して行方知らずになっていた聖槍を取り戻すことができて万々歳だろう。そのお陰かどうか知らないが、私も正式にこの教会を任せられることになったし、聖杯戦争の今後の運営についても援助を惜しまないと確約してもらえた」
「じゃあ結果オーライということかい?」
「うむ。一時はどうなることかと思ったがな」
埋葬機関の重鎮と一対一で対面したことは一生忘れないだろう。あの交渉をしくじっていれば、今頃この冬木市は焦土と化していたかもしれない。
謂わば冬木に住む全市民の命が言峰璃正の両肩にかかっていたわけで、その時の緊張感たるや巨岩が圧し掛かっていたようだった。
全身に溜まりに溜まった疲労感を吐き出しながら、璃正は紅茶に手をつける。ほんのりとした甘味が喉を通っていくと、これまでの緊張が薄らいでいるようだった。
ここ最近は忙しかったのであるし、暫くは落ち着いて静かに過ごしても罰は当たらないだろう。
「――――冥馬! いる!?」
だが璃正の静かな時間は一瞬で打ち砕かれた。
教会にやって来た突然の来訪者に璃正と冥馬は揃って目を丸くする。
金髪をツインテールにした髪形、猫みたいに勝ち気な瞳、それに真っ赤なドレス。これまで多くの人間と出会ってきた璃正だが、これら全ての特徴を満たす人間は一人しか知らない。その人物と親しくしていた冥馬は驚き半分嬉しさ半分で目を見開いた。
「リリア! リリアじゃないか! フィンランドへ帰ったんじゃないのか? まさか姉のルネスティーネとまた喧嘩でも」
「あんな奴、もう姉なんかじゃないわ!」
冥馬の何気ない問いかけにリリアは顔を真っ赤にして怒りを露にする。
話を聞くとこういうことだった。
フィンランドのエーデルフェルト家に戻ったリリアは『聖杯』を手に入れることこそ叶わなかったものの上機嫌だったらしい。というのも一緒に参加した姉のルネスティーネは冥馬にやられあっさりと早期敗退。対するリリアは紆余曲折あったものの蓋を開ければ聖杯戦争に最後まで生き残ったという好成績。ロディウスの暗躍で聖杯戦争はうやむやのうちに終わってしまったが、仮に順位をつけるなら冥馬とリリアが同率一位なのは疑いようがないだろう。
そんなリリアはフィンランドに戻るや否や当然の如く自慢した。誰かなど言うまでもない。姉のルネスティーネにだ。
早期敗退したという無様な戦績による恥辱もあってか最初はリリアの自慢にも耐えていたルネスティーネ。しかしリリアの自慢にルネスティーネが敗退した原因である冥馬が絡みだすと、遂にルネスティーネの怒りが爆発した。
フィンランドに巻き起こるは内乱の旋風。姉妹同士による仁義なき戦い。エーデルフェルトの領民たちは、あれに比べたら二度目の世界大戦なんてそよ風のようなものだったと後に述懐したそうな。
七日七晩に渡る死闘を制したのはルネスティーネ。お家騒動に勝利したルネスティーネはリリアを放逐、エーデルフェルトの家系からリリアを抹消した。
帰る場所を失ったリリアは姉への当て付けこみで、冥馬のいる日本へと舞い戻ったというわけである。
「なんというか……君達姉妹はお互いを協調しあうことはできないのかね?」
「失礼ね! 私は精一杯協調しているのに、ルネスが全然譲らないから争いになるのよ! 私のせいじゃないわ!」
「…………」
「たぶんルネスティーネも同じ事を言うんだろうな」
冥馬のコメントに全力で同意見だった。
本人達は絶対に認めないだろうが、ルネスティーネとリリアリンダは似た者姉妹なのだろう。だが似た者同士が仲良くなるという法則は残念ながらなく、互いに似ているが故に同族嫌悪に陥ってしまうと。そんなところだろう。
「なによ! 二人して溜息ついちゃって! ともかく、私も暫くこっちにいるから冬木の管理者である貴方に挨拶しておかなきゃと思ってね」
「やれやれ。これから騒がしくなりそうだな」
冥馬は苦笑しながらも、リリアのことを受け入れる。
ロディウスの件でリリアに借りのある冥馬にこの頼みを断れるはずがないし、そもそも冥馬もリリアが戻ってきた事を喜んでいるのは表情からして明らかだった。
璃正は嘆息しつつも、自分の親友とその親友の良き好敵手であった少女を微笑ましく見ていた。
●ルネスティーネ・エーデルフェルト
妹のリリアリンダとの戦いに勝利して、名実ともに唯一無二のエーデルフェルト家当主となる。
自分に手酷い敗北を味わわせた遠坂冥馬を恨み、自分の娘や孫に「日本の地は踏まない」よう言いつける。
結局姉妹が仲直りする日は来なかったが、妹の葬儀に変装して参列している姿を目撃されている。
●リリアリンダ・エーデルフェルト
姉のルネスティーネとの戦いに敗北したことでエーデルフェルト家から勘当され、公的には第三次聖杯戦争にて死亡した扱いとなる。
帰る家を失い一時的に冬木市へと舞い戻るが、最終的にエーデルフェルトの親戚筋であるテルヴァハルティラ家の養女となる形で落ち着く。
その後は遠坂冥馬と背中を預けあう仲となり、やがては親密な関係となる。彼との間に子をもうけるも出産の七年後に父子に見守られる中、病でこの世を去る。
一年ぶりに踏み入れた街はがらりと様変わりしていた。街並みが、ではない。街に漂う雰囲気がどことなく緊張したものとなっているのだ。
つい少し前まで七人の英雄が集い殺し合うという『戦争』に身を投じてきたエルマには、これが戦争前の緊迫感とだと分かった。
余り良い思い出のない祖国フランスであるが、これからここも戦争に巻き込まれるのだと思うと妙な寂しさを覚える。もしかしたら数年後にはフランスという国そのものが地図上から消えているかもしれないのだ。
「心配していたけど無事なようで良かったよ……聖杯は手に入れられたのかい?」
街の景色を眺めていると、後ろから声をかけられる。
色素の薄い金髪に病的なほどに白い肌、体は花の茎のように細く華奢だ。浮世離れした大学生……そんなイメージを彼のことを知らない人間は抱くかもしれない。
彼はガブリエル・ローファス。フランスに本拠地を置く人形師の名門ローファス家の現当主だ。同時にエルマ・ローファスの腹違いの弟でもある。
失敗作だったエルマと違い、ガブリエルは優れた魔術回路と才能――――見た目は不健康そうだが――――健康な肉体をもって生まれたローファス家始まって以来の奇才だ。時計塔でも遠坂冥馬を始め若き才能たちと友誼を結び、ローファス家の名を『色んな意味で』知らしめた。
そんなわけでエルマとガブリエルには普通の姉弟にはない確執のようなものがあるわけだが、二人とも互いのことを90%の無関心と10%の肉親の情をもって接してきたため、エーデルフェルトの双子姉妹と違い仲はそれほど悪くはない。
「いえ。惜しい所まではいったんですが、運に恵まれず聖杯を手に入れることはできませんでした」
弟の問いかけに、エルマはさらりと答える。
「…………そうか。それは残念だね」
「だけど人並みの命は貰えましたよ」
「……? 聖杯は手に入らなかったんだろう?」
「お節介なサーヴァントが治してくれたんです。私の体に巣食う病魔を」
余命一年。あと一年しか生きられぬ命。それをどうにかしたくて、藁にも縋る思いで参戦した聖杯戦争。
聖杯を得ることは叶わなかったが、アサシンがエルマの病を治してくれたお陰で完全に他の人と同じとはいかないまでも、普通の人と同じ『時間』を掴むことができた。
アサシンのことを聞いたガブリエルは感心した様子で、
「良いサーヴァントを召喚したんだね」
「ええ。自慢の」
「上々。ローザ、エルマの荷物を持ってあげて」
「はい、旦那様」
エルマに向けるものの百倍の親愛をこめて、ガブリエルが自分の隣に控えていた女性に促す。女性は恭しくほんのりと頬を赤らめて頷くと、淑やかにエルマの荷物を代わりに持った。
風に流れるように靡く水晶のような髪。空を閉じ込めたような双眸。完璧なる均整のとれた体つきと、艶やかでありながら慈愛すら感じさせる美しい顔立ち。そして水を弾くような肌。現実離れした人形のような美しさをもつ女性だった。
いや実のところ『人形のような』という表現は適切ではない。
「すまないね、僕のローザ。僕の世界一可憐な妻、僕のお人形。僕がひ弱なばかりに、こんな労働をさせてしまって」
「よいのです。私の命も体も旦那様のためにあるのですから。旦那様の仰ることであれば、私はなんでも致します」
「ああ。素敵だよ、僕のローザ……」
「…………」
エルマを放っておいて完全に二人の世界に入るガブリエルとローザ。そんな二人をエルマは疲れ切った目で見つめる。
そう、実はこのローザは人間ではない。ローファス家の生んだ奇才ガブリエル・ローファスが己の魂をかけて作り上げた『人形』なのだ。
エルマの使役していた自律人形などとは格が違う。人間と全く同じような機能をもち、独自の意志と判断力、喜怒哀楽といった感情までも備えた最高峰の自律人形。人形作りもここまでくれば、もはや新たな生命の創造に近い。
そしてあろうことかガブリエルは当主としての権力を最大限に活用し、生み出した人形に戸籍を与え、ローザ・ローファスという名で自分の妻としているのだ。
「相変わらず仲が良いんですね。これなら老後も幸せそうでなによりです」
「僕らに老後なんてないよ。僕とローザは永久に一緒なんだから。愛しているよ、ローザ」
「旦那様……」
皮肉すら通じない。
天は二物を与えずとは言ったものだ。父の施した調整はガブリエル・ローファスに優れた才能を与えはしたが、真っ当な精神までは与えなかったのだろう。
しかし真っ当な精神をもたないからこそ、魔術の奥深くにまで足を踏み入れられるのだと思えば、逆に真っ当な精神を持たずして生まれたのは正解だったのだろうか。
「そういえば冥馬はどうしたか分かるかい?」
ふと思い出したように自分の世界から戻ってきたガブリエルが訊いてきた。
「彼なら無事だと思いますよ。なにやら聖杯戦争終了後にまたなにかイレギュラーな事件が起きたようですけど、しぶとく生き残ったみたいですし」
「それじゃ次に会った時、冥馬は僕がエルマに聖杯戦争のことを教えちゃってカンカンだろうな。仕方ない、ほとぼりが冷めるまで二人で旅行へ行こう。付いてきてくれるかい、ローザ」
「旦那様の行く場所であればどこまでも」
「……はぁ。この数分で聖杯戦争やってるより疲れてしまいました」
肩を降ろすも、エルマの顔には笑みがあった。
自分を縛ってきた魔術の家の呪いも、一年しか生きられぬという負債ももはやどこにもありはしない。これからはエルマ・ローファスが思うがままに思うように生きることができるのだ。
弟がこんな性格なのは少し不安だが、これまでも生きてこられたのだ。これからも生きていけるだろう。
フランスの空はどこまでも遠くまで広がっていた。
●エルマ・ローファス
アサシンに治療されたことで、余命一年というハンデを克服。
弟の繋がりもあり聖杯戦争では敵同士だった遠坂冥馬やリリアリンダの友人になった。
調整の失敗による障害が完全に消えることはなかったが、弟の援助もあり一人の人間として自由な生涯を送る。
ルーマニアがトゥリファスにあるミレニア城塞でダーニックは体を休めていた。
地獄の巨大釜を連想させる城塞は人口が二万人にも満たない街には不釣合いな雄壮さであるが、街の住民たちがここを観光名所にしようなどと欠片も思わないのは、この城塞がダーニック・プレストーン・ユグドミレニアという男の私有地であるが故である。
このトゥリファスを一望できる丘で、ユグドミレニアはこの地のセカンドオーナーとして街の住民に畏怖の感情を与え続けてきた。
畏怖といっても別にユグドミレニアが街の住民に暴虐を働いているというわけではない。だが城塞の物々しい雰囲気に『魔術師』が住んでいるとなれば、なにもしなくても常人はプレッシャーを感じるだろう。
「ふ、ふふ」
十日ほど前を思い出すと、自虐の笑みが浮かぶ。
周到に準備を進めた大奪取計画は失敗し、己の聖杯戦争への参戦すらもロディウス・ファーレンブルクという手の内だった。絵に描いたような敗北者。言い訳のしようもない。ダーニック・プレストーン・ユグドミレニアは完膚なきまでに敗退し、その野心を打ち砕かれたのだ。
だが決して悲嘆することばかりではない。
ダーニックにとって最悪の結末とは自分が死ぬことだ。親戚筋がいないわけではないが、ユグドミレニアに自分ほどの指導力と能力がある者は他にはいない。
この幾重もの魔術防御が施された城塞が陥落しようと、一族が百人死のうと、ダーニックが生きていればユグドミレニアは何度でも蘇ることができる。しかし逆を言えばダーニックというカリスマを喪えば、ユグドミレニアの繁栄という野心は泡沫の夢と消えるだろう。
「ダーニック様、お呼びでしょうか?」
老齢の執事が部屋に入ってくる。この男は魔術回路を一本も持たないただの人間でありながら、ユグドミレニアの裏の事情を知りながら何十年もユグドミレニアに仕えてきた男でダーニックからの信用も篤い。
大聖杯奪取が成功していれば今頃は大聖杯をこの城塞地下に隠す作業の指揮をとっていただろう。
「ギルベルト、時計塔のファレイブル卿に連絡をとれ」
「ファレイブル卿ですか? しかし彼は処分する予定では?」
「事情が変わった。大聖杯奪取が失敗に終わった故に計画を修正する必要がある。ファレイブル卿は利益を貪ることしか能のない小物だが、奴の財力と家柄はそれなりに利用価値がある。
大聖杯という旗印があれば用済みだったが、大聖杯がないため私にはあの男に用が出来てしまった」
「承りました。直ぐに」
ラーナベルトが早足で退室していく。それを見送ってからダーニックは椅子に背を預け天井を仰ぎ見た。
満を持して望んだ計画が失敗した以上、もう冬木の聖杯は諦めるしかないだろう。六十年後にある四回目の聖杯戦争に備える、という道もあるにはあるが現実的とはいえない。
心配せずともこの世は広いのだ。聖杯ばかりが術ではない。聖杯が駄目ならば、他の方法を模索するだけだ。
聖杯戦争の敗北者ダーニック。しかしその瞳には野心の火が未だ消えず爛々と輝いていた。
●ダーニック・プレストーン・ユグドミレニア
戦いを生き延び自分の領地であるトゥリファスに帰還を果たす。
聖杯戦争で手酷い敗北を喫するも野心は消えず、並外れた政治手腕を駆使して、衰退が始まり魔術回路が枯渇しかけている一族や権力闘争に敗北し没落した一族などをユグドミレニアに吸収。魔術師連合というべきものを築き上げた。
その後、魔術協会からの独立という野心のために半世紀以上に渡って暗躍することとなる。
「まったく。少し散歩しに行くと言ってどこへ行ったんだ?」
璃正は教会周辺を歩き回り、遠坂冥馬の姿を探す。聖杯戦争の事後処理は終わったのだが、ついさっきセカンドオーナーのサインが必要な書類が回されてきたのである。
言うまでもなく冬木のセカンドオーナーは現遠坂家当主である遠坂冥馬。他の仕事は兎も角こればっかりは冥馬がいなければ片付けることはできない。
だが敷地中探しても冥馬の姿はどこにもなかった。ここまで探して見付からないとなると、散歩に出ていったまま家に帰ってしまったのかもしれない。
諦めて教会へ戻ろうとすると、珍しい人物と鉢合わせした。
「あら、言峰神父。いないと思ったらこんな所にいたんですか」
「これは……ミス・アインツベルン」
気品ある微笑みをかけてくる貴婦人は、アインツベルンのマスターだったアルラスフィールである。
アインツベルン家は当主アハト翁の大失策のせいで、御三家に名を連ねる一族でありながら真っ先に脱落するという散々な結果に終わった。
こんな無様な結果に終わってしまったのは言うまでもなくアハト翁のせいだが、実際にマスターとして矢面にたったのはアルラスフィールである。こんな最低最悪の結果でのこのことアインツベルンに帰還すればどんなことになるかは想像に難しくない。
そのためアルラスフィールは本国にあるアインツベルンの領地へは戻らず、帝国陸軍の襲撃で破壊されたアインツベルン城の修復と、結界の張り直しという名目でここ冬木市に留まっているのである。
最初は目的を果たすための人形然とした彼女が自分の保身を考えるほどの人間味を獲得したのは、自分の負の側面を現出したような存在と一緒にいたからか、それとも別の理由があるのか。
「教会になんの御用ですかな? ここには貴婦人を楽しませるようなものはなにもありませんぞ」
「アインツベルン当主アハトの手紙を届けに参っただけです。手紙は机の上に置いておきましたので暇な時にでも読んで下さい」
「御三家が一角、アインツベルン当主の手紙でしょう。今直ぐに拝見させて頂きます」
「いえ、そんなに真面目にされないで結構です。単なる愚痴がぐだぐだと書き連ねられているだけでしょうから。流し見した後は暖炉にでもくべて下さい」
「……はぁ。分かりました」
自分が敗北した元凶だけあって、アルラスフィールのアハト翁に対する言動は辛辣だ。
しかしアルラスフィールは無責任な女性ではない。大事な手紙なら大事なものと言うであろうし、彼女が単なる愚痴と言うからには本当に単なる愚痴なのだ。
大方聖杯戦争に軍隊が介入するのはどういうことだ、だとかいう怒りのメッセージが書かれているのだろう。確かにそういう内容ならば気分が落ち着いている暇な時に見た方が良さそうだ。
「それでは私はこれで。ごきげんよう」
「ごきげんよう……あいや待った。ミス・アインツベルン、この辺りで冥馬を見ませんでしたか? 探しているのに見つからないのですよ」
「冥馬? ああ、遠坂の。彼なら教会の屋根の上で寝転がってましたけど」
「な、なんですと!? なにをしているんだ、冥馬は。……教えてくださりありがとうございました、ミス・アインツベルン。では」
アルラスフィールに礼を言うと、璃正は急いで教会へ戻った。
どうして冥馬がそんな場所にいるのか知らないが、本当なら直ぐに降ろさなければならない。
●アルラスフィール・フォン・アインツベルン
帝国陸軍により散々に破壊されたアインツベルン城を元の状態に戻し、次のアインツベルンのマスターが戦うための環境を整える。
結局アインツベルンの領地へ戻ることはなかったが、聖杯戦争のあらましなどはしっかりと報告した。
遊び心で「日本人は首狩り賊」という真っ赤な嘘を伝えたが、アハト翁はそれを本気に受け取ってしまい、愉快な日本観に拍車がかかる。
「……本当にいたな」
教会の屋根を見上げると、そこにはアルラスフィールの言った通り冥馬がゴロンと寝転がっていた。
灯台下暗しならぬ灯台上暗しである。璃正が教会の敷地中を探し回っている間、冥馬はここでのんびりと空を見上げていたらしい。
そう考えると少しだけ苛立ってきた。
「冥馬ーっ! そんなところで何をやっている! 早く降りてこないかっ!」
苛立ちのせいか若干棘がある語彙で叫ぶと、冥馬はむくりと背を起こして手を振る。
「けち臭いことを言うなよ。減るものじゃあるまいし」
「減らなければ何をしてもいいと思ったら大間違いだぞ」
冥馬の気の抜けた言い分を、璃正は断固とした正論で押し返す。飾り気の無いストレートな正論を返された冥馬は、苦笑しながらも屋根から降りはしなかった。
そんな冥馬を見ていると真面目に反論している自分が馬鹿らしくなってくる。結局最初に折れたのは璃正だった。
「で。どうしてそんな場所にいるんだ? 理由は聞かせてくれるのだろうな」
「なに。珍しく良い天気だったから日光浴を。璃正も上がってきたらどうだ? 日の光がきもちいいぞ。冬の寒さも吹っ飛ぶ」
「遠慮する。神聖な神の家の屋根に土足で登るわけにはいかん」
「それって遠まわしに土足で屋根に上がるなって説教しているのか?」
「その通りだ」
「…………ふぅ。お前の真面目さには負けたよ」
屋根の上から身を投じると、綺麗に地面に着地する冥馬。
御三家当主として最大の仕事、聖杯戦争が終わったからか、冥馬は以前とは違いラフな服を着ていた。だがラフでありながらも、さりげなく高級レストランに紛れ込めそうな品があるあたり実に冥馬らしい。
璃正は懐から今日届いた書類を冥馬に手渡す。
「これは?」
「セカンドオーナーのサインが必要な書類だ。頼む」
頷くと冥馬は注意深く書類を最初から最後まで読んでから、すらすらとサインをした。
友人から渡された書類にも気を抜かないところは、豪気に見えて用心深くもある冥馬の気性を如実に表しているだろう。
「これでいいのか?」
「確かに」
冥馬からセカンドオーナーのサインの入った書類を受け取った璃正だが、なんとなく直ぐにはそこを離れずぼんやりと空を見上げた。
どこまでも果てしなく青々と続く蒼天。蒼天の中心には暖かな光で地平を照らす日輪。
成る程、と思う。こんなにも美しい空があるのならば、屋根の上で寝転びたくもなる。
「なぁ」
冥馬がポツリと言う。
「なんだね?」
「俺の父は第二次聖杯戦争の頃はまだ子供で、戦いに参加することはなかったらしい。だがそれから六十年して次の第三次聖杯戦争で令呪を宿した」
「聞いている。ずっと前……あの日、私が君と初めて時に。それがどうしたのだ?」
「なに。人生五十年は昔の話。これから人の技術が進歩すれば人間の寿命はどんどん延びるだろう。もし六十年先にも俺が生きていたら、また聖杯戦争に参戦する可能性もゼロじゃないと思ってね」
「それは……」
ない、とは言い切れなかった。
六十年という期間は人間にとって長い。六十年あれば人間は成長し子供を育み死んで、一つの世代が終わることも当たり前だ。
そんなこともあって聖杯戦争の歴史において二回連続マスターとなった者は存在しない。だがこれまでに前例がないから有り得ないなんていうのは狭い視野の物の考え方だ。現に第三次聖杯戦争では軍隊が介入するという前例のない出来事が起きたのだから。
だから璃正もこう答えた。
「なら次の聖杯戦争の監督役もこの私だな」
「――おや。これは一本とられた」
マスターと監督役で立場は異なれど、六十年後に年老いた自分と冥馬で再び聖杯戦争に挑む。それはなんと胸躍る未来であろうか。
神父が戦争を望むなどあってはならぬことであるが、冥馬の隣にいるとそんな気がしないのだから不思議だ。
「じゃあ六十年後のマスターと監督役を目指して頑張って長生きするか」
「ああ」
人間の一生など分からないもの。約束が果たせるかどうかは分からないし、果たせるかどうかなど関係ない。
六十年という月日があれば人も社会も世界だって幾らだって変わる。しかし変わらないものだって世界にはあるのだ。
璃正は未来を掴むように、空に手を伸ばす。
旧い〝運命〟の物語はこうして幕を閉じた。
●言峰璃正
聖杯戦争中に育まれた冥馬との友情は切れることはなく、魔術師と聖職者という垣根を越えて無二の親友となる。
遠坂冥馬の死後も彼の息子と遠坂家を見守り続けた。
ヘブンズフィール3の運営手腕が認められ、第四次聖杯戦争においても監督役に就任。相応しい者に聖杯が委ねられるよう、という遠坂静重の遺言のため冥馬の息子を勝利者とするべく協力するが、戦いの最中アクシデントにより命を落とす。
●遠坂冥馬
世界で二度目の大戦が起こると、リリアリンダと共に放浪の旅に出かける。旅先で何度か死線を潜り抜けるも、戦争終結から一年後に日本へ帰国。それから紆余曲折あってリリアリンダとの間に子をなした。
時計塔においては優れた論文や魔術式を数多く発表し、資金源と幅広い人脈を得て次の世代のための確固たる地盤を作る。
自分の息子に家督を譲って二年後、魔術実験中の事故により帰らぬ人となった。遺体は発見されていない。
もはや気の遠くなるほどに過去の話である。
歴史に記されることもなく、時代の流れに消えていった村落に一人の英雄が出現した。
その村落の教義がどう歪んでいたかは知らない。だが彼らは清く正しくあろうとした。村落という小さな世界ではなく、この世全ての人々が善であり、誰もが正しくあれる世を望んでいた。
けれどそんなものは叶わぬ願いである。
人間というものはどれほど清く生きようとしても、時に妬み苦しみ恨み――――悪を冒す。善性なき人間がいないように、悪性なき人間などなく、善悪両方を兼ね備えてこその人間である。
だが彼等はそれでも『この世全てが善』である世を欲してやまなかった。その彼等の馬鹿げた願いは遂に一つの解決策を思いつく。
この世全ての人間に善行を成させるのは難しい。かといって悪行を一度も犯さずに生きることも不可能。であればたった一人の人間に〝この世のすべての悪〟を押し付けてしまえばいい。この世のすべての悪をたった一人のモノにしてしまえば、それ以外の人間はどうあっても悪いことができない。
愚かな考えであるが彼等はそれを信じていた。
彼等は一人の青年を捕え、彼に人のなしうるあらゆる悪を刻み込み、彼を憎み、恨み、侮蔑し、奉った。
自分達全員が善であるために、たった一人の青年が崩壊するまで彼を殺し続けた。
この世全ての悪を許す免罪符。一人で黒を独占することで、他の全てを白くする救世者。たった一人で世界の全ての悪を押し付けられた哀れな生贄。
そう、形は違えど彼は確かに人々を救った。
――――故に彼の真名は〝この世全ての悪〟
拝火教における60億の悪性を容認する悪魔の王。
なんの力も持たない、この世のすべての悪を押し付けられただけの一般人。
二百年前の話である。
永遠の雪に晒される常冬の地に〝アインツベルン〟という錬金の大家はあった。
世に潜む数多の魔術師が他の魔術師の家と交わりながら脈々続いている中、アインツベルンは千年間――――十世紀もの間、純血を保ち外との交流を阻んだ一族である。
その一族がただの一度、他の家と交わった。
彼等は自らの悲願を叶える方法を見出すことはできたのだが、それを実行する術がなかったのである。
自分たちに術がないのならば、千年の純血を破っても余所へ術を求めるしかない。
アインツベルンはまず〝遠坂〟に声を掛けた。
失った〝法〟を取り戻す大儀礼には適した土地が必要である。けれど地上のあらゆる土地は〝魔術協会〟と〝聖堂教会〟に暴かれており、彼等の目を掻い潜ることは不可能といって良かった。
故に〝魔術〟という神秘から遠く離れた極東の島国、その霊地の管理者たる遠坂に目をつけたのである。
次に〝マキリ〟に声を掛けた。
アインツベルンと遠坂にはない〝呪い〟や〝契約〟が大儀礼のシステムには不可欠だった。
「――――始めよう」
かくして宝石翁の立会いのもと大聖杯は起動する。
アインツベルンは失った魔法を取り戻すために。
遠坂は大師父の与えた命題へと辿りつくために。
マキリはこの世全ての悪の根絶のために。
三人の賢者が集い起動された大聖杯、七人の魔術師と七人の英雄が集いし大儀礼を――――聖杯戦争と呼んだ。
七十年前の話である。
一度目はそもそも戦いにもならず終わった。二度目なマスターの脆弱さ故に早々に敗退した。
焦ったアインツベルンは三度目の戦いにおいて最悪の決断を下す。マスターが脆弱なのであれば、それを補って余りあるほど最強の駒を使えばいい。他の六人の魔術師と六人の英霊たちを問答無用に殺戮する最悪の魔をサーヴァントとすれば、必ずやアインツベルンの手は聖杯に届く。
そうしてアインツベルンの呼び出したのは英霊アンリ・マユ。この世全ての悪を押し付けられただけの、なんの力もないただの青年。
この世全ての悪を背負わされただけの人間に過ぎない彼は、英霊としての宝具も何も持たない最弱のサーヴァントだった。
最弱のサーヴァントが目論見通り他のマスター達を殺しつくせる道理もなく、アインツベルンは戦いが始まった四日目にして無様な敗北を喫した。
聖杯戦争は聖槍を掲げた聖なる怪物により崩壊し、三度目の儀式もまた消滅する。
されどそれだけでは終わらない。
聖杯とはこれ万能の願望器。あらゆる願いを汲む天の杯。この世全ての悪とは人々の想念がサーヴァントとして形を成したモノ。
――――受諾する。
この世全ての悪であれ、という人々の願いは聖杯へ届く。
大聖杯は黒く汚染され、聖杯戦争は決定的に歪み始めた。
十年前の話である。
三度に渡って無様を晒したアインツベルンは、とうとう形振り構わなくなった。
十世紀に渡る純血を破り、外部から対魔術師に特化した魔術師を呼び寄せ、自分たちの血族と交わらせた。
駒として招聘するは彼の騎士王。過去三度の戦いにおいて常に最後まで勝ち抜いた最優のセイバーに、剣の英霊として最上位に君臨する英傑を招く。その騎士王を使役するは魔術師を殺すことに特化した魔術師。
アインツベルンが必勝の確信と共に送り出した主従は、目論見通り他のマスターとサーヴァントたちを悉く仕留め聖杯を掴む。だが聖杯の中にいるモノを識った魔術師殺しは、己のサーヴァントに聖杯を破壊させた。
聖杯を破壊した英雄は、七十年前に聖なる怪物を打ち破った英雄の妹だった。
そして現代の話である。
監督役の任についた言峰綺礼は、口元を綻ばせ七枚のカードを床に落とす。
剣の騎士、槍の騎士、弓の騎士、騎乗兵、狂戦士、魔術師、暗殺者。この冬木の地に七騎の英霊たちが再び集う。
神父の傍らに立つは十年前に〝この世の全ての悪〟をたいらげて見せた黄金の英雄王。
最後の大儀礼に招かれしは十年前に聖杯を壊した男の息子と娘、七十年前に聖なる怪物を打ち破った者の末裔達、十年前に聖杯を破壊した英雄。
監督役に着いた彼は、七十年前と十年前に監督役を務めた男の息子だった。
「――――始めよう」
百五十年前に大聖杯の起動を唱えた賢者のように、七十年前に悪神を招いた老人のように。
言峰綺礼は両腕を羽ばたかせるように広げ宣言する。
全ての運命が決着する〝運命の夜〟が始まった。