初夏の陽光が、木々の葉と幕布を抜け、瞼を透かし、少年の目に入り込んでくる。
「……っ」
差し込む鈍い痛みにゆっくりと意識と頭をもたげさせていき、鐘山環は覚醒した。
「……良かった……」
無意識のうち、安堵の言葉が漏れた。
――今度は、闇夜に目覚めるのではなく、ちゃんと朝に起きられた。
ただ、こうして寝起きを繰り返す度、こうして見るものが移り変わり、自分さえ、別の何かに変わりつつある。そんな恐怖が、夏を間近に控えた時節に、彼の肌を薄ら寒くさせる。
枝に幕を引っかけただけの、陣幕というにはほど遠いものをかいくぐる。
笹ヶ岳(ささがたけ)。
笹とは言っても竹が生えているわけではない。
朝廷に従属していた頃、竹の子をもらったことがある。
それを植えたが竹は生えず、結局伸びきる前にそれが枯れた。
よほど環境条件に恵まれなかったのか、あるいは主人同様、土地もヘソ曲がりなのか。
とは言え、府国の中央に位置するこの小高い土地に、四十人近い男女が仮に、三日近く居住している。
家屋らしいものはないが、そこだけがまるで大きな匙でくり抜いたように、開けた場所になっている。
元は朝廷との最初の戦いの際、補給基地として木々を切り倒して陣を張っていた場所である。
一時は敵将、上社信守らの夜襲により陥落し、焼き払われたがその後の停戦の条件により土地ごと奪還した。
その古戦場は一定期間、集団が身を隠すには最適だった。
――とは言え、長期間にわたって逗留できる避暑地でもない。
幸いにして川水は豊富だが、火を焚けば煙が昇るし周囲は照らされ、居場所は露見する。すなわち調理が出来ない。
今は持ってきた干し魚や麓の町に下りて小銭で調理済みのものを買っているが、いつまでも出来ることでもない。日を追うにつれ出入りも厳しくなっていると聞く。
ついで言えば、敵を退けたといえ追撃任務を引き継いだ者らはその逃げ場所にあたりをつけてくるはずだ。
現に、海上封鎖が諸処で行われつつあると聞く。港から国を出る、という一団の発想は水泡に帰したと言って良い。
既にこんな状況に、またそれを率いる環の将来に見切りをつけて、密に逃走をはかる者も多い。
それを止めることもなかったが、四十人。
その数を保っているのが不思議なほどだった。脱走した者たちも行く当てもなくトンボ帰りに戻ってきたり、あるいは新たに流れ着いた者もいる。
密告者が出ないのは、行った大州の兄の末路を知っているからか。
いや、それも時間の問題だろう。
衣食住すべてが不足している。そろそろ限界だろう。
「しっかし……」
周囲を見渡す。
ある者は食料を賭けに博打に励み、ある者は息をするのも労力の無駄と言わんばかりに木陰で熟睡している。そしてその無秩序な集団を守るのが、流天組、魁組らの武装集団だった。
「鞍(くら)、車屋(くるまや)、哨戒に回れ。北には作った鳴子を設置、かつ麓の川には空になった壺を設置し、その旨を中にいる連中に知らせ、決して中瀬に踏み入らないように気をつけろ。ガキが間違いを起こす可能性だってある。念のため、流天のバカどもから二人ほど出せ。幡豆のに直接言うんじゃねぇ。ちゃんと大将を通せ。……ウチのは何故だか嫌われてるみたいでな」
「へい! あの、ですが何でツボなんて?」
「バカか。浅瀬なんて兵が攻め来りゃ簡単に渡れる。そういうのに足取らせて躓かせて、少しでも時間を稼ぐんだよ」
「……普段の素行不良ぶりがウソみたいに働くな、あいつら」
指示を各所に飛ばす大州始め魁組の活躍を見ながら、樹の枝に引っかけていた帽子をかぶり直す。
「あぁ」と彼の呟きに応じたのは、地田豊房だった。
角張った頬を撫でながら、毒もない言葉使いで、ゆったりと続ける。
「それに、鉄砲だって扱いに慣れてた。最初はどう共存すべきか心を砕いたが、まぁなんとかなってるじゃないか。大将殿」
「……『駆けて良し、組ませて良し、撃たせてよしの順門兵』……てな。そういう器用さは、むしろ俺たちみたいなボンボンより、足軽たちの方に分があるんだろうよ」
「それに亥改大州、あの男にも驚かされる。魁組の副長に収まっていた時はいまいち精彩を欠く男だったが、いざ自分が頭になると、一介の部将もかくやという活躍ぶりではないか」
「ま、やる気と能があるのなら、やらせときゃ良い」
「しかし頭領がなんて思うか……」
「あのジャジャ馬の気性は、俺らがなんとかするしかない」
あるいは、と思う。
自分と大州の立場が逆で、向こうが順門府の後嗣として生まれ、自分が名もない足軽の子だったらと想像する。
今回のような反乱にあっても後嗣大州は見事に混乱を収拾して、宗善や銀夜と対等に渡り合っていたかもしれないし、自分は大渡瀬のような騒動に巻き込まれて雑兵として死んでいたかもしれない。
そして何より、大渡瀬は誰も殺されることなく……
――いや、こういうのは良くないな。
過ぎてしまったことは過ぎたこと。こぼれた水は椀には戻らない。
それに、自分にしかできないこと、成せないことが、亥改大州、幡豆由基のような曲者、異才を使う己にしか出来ないことが、あるはずだった。
もう、決断を、してしまったのだ。
「おい、寝坊助大将」
ぶしつけな物言いに、環は顔を上げた。
しぼんだ枇杷をまずそうにかじりながら、ダンビラを担いで、件の魁組の主が大股で歩み寄ってきた。
「聞いてただろ。そこの四角いのでも良いから、人数貸してくれるよう頼んでくれ」
「悪かったな。酷使させて」
「出世払いで頼むぜ。あの幡豆の下風に立たされてとやかく言われるのは、シャクでな」
その幡豆の下にいる環と地田は顔を見合わせた。
本人が聞いたら矢の三本でも飛んでくるところだが、温厚な二人の間で、苦笑を交えて肩をすくめるだけだった。
「それより、大将のとこの黒いのが呼んでいた」
「黒いの……あぁ舞鶴な。何の用だって?」
「知らねぇ。ただあんたにしか頼めない、重要な任務だそうだ」
~~~
「さぁさぁ鈴鹿殿ー、ちゃんと髪も洗いましょうねー」
「洗ったよー」
「いーえー、まだまだ。土がついてますよ。また野山を駆け回って遊んでたんですか?」
下流に近い川瀬。
ばちゃばちゃと、
色気も節操もなく聞こえてくる水音を背に、あぐらをかいて環は、ぶすっと頬杖をついていた。
他にも、色鮮やかな女たちのはしゃぐ声が、幕の奥から聞こえてくる。
「……で、女の行水の見張りの、どこが俺にしか頼めない重要な任務なんだ?」
「まぁ、殿は私ども乙女の柔肌が、性欲をもてあます益荒男たちの目に触れても良いとお考えですか?」
ことさら驚くような舞鶴の声が、なおのこと腹立たしかった。
「乙女って、どの口が言いやがる!? じゃあ俺なら良いのかよ?」
「仮に殿がそうした劣情を催されたとして、女たちをお手つきになられたとしても、それはそれでよろしいでしょう。将来の公子殿が、この場で誕生するのですから!」
「……主の理性をまるで信用してないな、お前」
環とて、そうした生理的欲求がないわけでもないし、女を知らないわけでもない。
まして舞鶴は美形だし、他の女たちも色々とため込んだこの若き公子にとっては魅力的に映った。
――にしたって、どうにもあの女が絡むとそう言った欲がどこかへ失せる。あざといも度を越すと、始末に負えない。
と、失礼なこと考える環の心を読んだかの如く、
「余計なことは考えず、監視に専念してくださいな」
と幕内から当人の声がかかる。
「……はいはい悪うござんした」
一体自分は偉くなったのか、卑しくなったのか、時折環には分からなくなってくる。
不満顔で風呂番を買って出ている環のところに、
「殿」
と、耳打ちされる。
「だぁっ!?」
思わぬ不意打ちにのけぞる彼の間近には、舞鶴の配下、緋鶴党とおぼしき男が控えていた。
「おい、殿、呼んでるぞ!?」
「環様、殿は貴方です」
「あ、あぁそうだった」
差し出された文を呆然としたままに受け取り、
「見ても良いのか」
と、舞鶴に許可を求める。
「まぁ! 浮気を疑われるとは心外ですっ。どうぞ中をご覧になってくださいな。もちろん中というのは幕の中の花園ではなく、文の内の字ですよ」
……もはや、そこに突っ込む努力すら惜しまれた。
言われるがまま、文面を読み進める。だがその内容は、環の心に霜を降らせるのに十分な情報だった。
――朝廷が叔父御を順門府公に!?
これで、環達は名実ともに、朝廷の意に逆らう立派な逆賊になってしまったということになる。
――いやまぁ、元から逆賊なんだけどな。
だが手を打つのが早すぎる。
それを様子見もせずあっさり決めた帝や重臣らもそうだが、宗善の節操のなさ……いや転じて決断の早さも並ではない。
さらにその文面には使者としてつかわされた銀夜が目通りを許され、かつ大層気に入られた旨がある。
――あの銀夜が、ねぇ。
自分が幼い頃より天才よ、神童よと褒め称えられた秀才である。
それと同じに容姿も兼ね備え、舞鶴を除けば今まで会った誰よりも美しい女だったが、いまいち面白みがなかった。薄い一枚の紙に描いた典型的な美人絵のよう、という奇妙な印象が、歳を重ねる度に強くなっていった。
「まずはユキに一番に相談だな。これで奴の機嫌も治るだろう」
その伝令を下がらせて、帽子を強く押さえつけながら立ち上がる。
「舞鶴、この場は任せて良いよな? お前なら暴漢の五人ぐらい殴り殺せるだろ」
「……そのおっしゃりようはあまりに心外ですが、幡豆殿に報せるのなれば早い方が良いでしょう」
「で、あいつはどこにいるんだ?」
「さらにこの上流で、私たちとは別に行水しているようです」
「あいつもかよ……仕方ない。行ってくる」
「よろしいのですか?」
「何が?」
と返した環に、幕内の女達の嬌声は一瞬、消えた。
その溜めの後、どっと笑い声となって波のように押し寄せる。
笑いの意図がくみ取れず、環は首を傾げて幡豆由基の下へと向かう。
~~~
「おーい、ユキー。タイヘンだー」
のんびりゆったり、鐘山本家の公子は友人の名を呼ばわった。
別に状況を楽観視しているわけではない。もはや驚きもしないほどに、自ら置かれた状況が最悪だからだ。
「ユキー、聞こえてるかー? 入るぞー」
「ちょっ!? おまっ……」
何をうろたえるのか。
女たちは自分の何を笑ったのか。
……自分が忘れていたのは、なんだったのか。
麻布の裏に踏み込んだとき、ようやく環は全てを悟り、思い出した。
幕の内には、一人の乙女がいた。
下半身は川水に浸かったまま、白い裸身をさらしている。突然の乱入者にさして大きくもない乳房を掻き集めるように抱いて隠して、谷間を作る。おびえではなく、怒りによって身を震わせている。目を白黒、顔を朱色に変じさせて。
そして川の中から隆起した大岩の上に、自慢の合成弓と矢があった。
「……あー……」
意外に綺麗な肌をしている。
……などと、呑気なことを思いつつ彼は自らの迂闊さを嘆き、次に来るであろう復讐を予期する。
それでもせめて、言うべきことぐらいは言ってやろうと開き直り、帽子を強く押さえつける。
「生娘は生娘らしく普段からそうやって慎ましくしてろって。だから時々俺はお前が女であることを忘れ……だぁっ!?」
鼻先に飛んできた矢をかわしたが、二撃目の石つぶては避けそこねた。
側頭部に結構大きめな一石を喰らい、この集団の名目上の総大将は、地面に昏倒した。