名月というにはいささか色も淡い、そして小さい。
それでも、満月だった。
酔い潰れた民たちが大広間に寝転ぶのを背に、環は一人遅れて酒を飲んでいた。
都で流行しているという濃いめの焼酎。仏僧がこんなものを秘薬と称して蔵しているのだから、まったく度し難い。
ちびちびと、一口一口、慎重に運びながら、若き公子は考える。
――銀夜は和睦を受け入れるだろう。
秩序秩序と唱える彼女の根底には、いつだって父に対する畏敬があった。
失敗する。父から失望の目を向けられる。それを恐れて彼女は、無難な道を選ぶだろう。
――そうやって失敗をしないうちに、いや失敗を失敗と思わないうちに、やがて取り返しのつかないことになるんだろう。そしてその引導を渡すのは、おそらく俺になる。
自らが圧倒的な敗者であるという立場をあえて無視して、環は神童の従姉妹を評した。
立ち上がると彼は、盃を手にしたまま墓場へと歩き出した。
物言わぬ『人質』たちは、今自分たたちの目前で行われている事態を、どう思っているのか。
自分たちの尽力をふいにした宗善に対する怒りか。
あるいは、私的に国を二分する環への憎悪か。
いずれにせよ、客観視しても面白い事態ではない。
――あれは、通るだろうか?
環が直筆で足した、和睦の条件の一つ。
上手いこと紛れ込ませたはずのそれが、相手に承諾してもらえるかは、五分五分といったところだ。
――銀夜があれを受けないならそれでも良い。だけど、通って欲しいな。
帽子を深くかぶり直した環は、中でも一際大きな墓石に行き当たった。
祖父、宗円の墓標であった。
他は知らず、ここだけはとりわけ手入れが行き届いていた。供えられた花も、まだ新しい。
乱世の呼び水、梟雄、大悪党、大逆の徒。
内外で轟く悪名と反する、故人の実像が浮かんでくるようだった。
「よう、じじ様」
気安く呼びかけるも返事はない。
環は苦笑し、酒盃を故人に捧げた。
「ごめんな。こんな形で利用してさ」
だが、あの祖父ならば「自分の墓石まで余さず使い尽くせ!」とでも言うだろうか?
――いや、それは己に都合の良い妄想だ。
仮にそうだとしても、そこに甘えることは許されない。
――この行いも、これから行っていくことも、みんな生涯許されることのない、俺だけの罪だ。俺が『これ』になるまで、背負い続ける。
かつて祖父が、そうであったように。
きびすを返した環は、一人の少女が立っていたことにようやく気がついた。
鈴鹿である。
闇の中、ぼんやりと浮かび上がる痩躯が、環の胸に飛び込んできた。
ぎゅうっと抱きしめられる強さに思わず、笑みがこぼれる。
「おいおい。どうした? 迷ったのか?」
「環がお墓に行くのが見えた」
だから、追いかけてきたのだという。
少女らしい繊細さについ微笑ましさを覚えて、公子は少女の頭に手を添えた。
「バカだな。怖がるぐらいならわざわざ追いかけてこなきゃ良いのに」
「んーん」
と、少女は恐怖など微塵も感じさせない笑みを向けて言った。
「環が怖くないように、一緒にいたげるの!」
「…………あ、そうっすか」
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「今、なんと申された?」
いつもは常人の倍以上の声量を発する新組が、この時ばかりは感情を押し殺したような、低い声だった。
それがかえって、場の緊迫感を高めた。
「連中の提案を受け入れる、とそう言ったのだ。奴らの邪道は先人たちを踏みにじった先にしかないが、我らの正道はその先にはない。わざわざ奴らと同じ次元まで自ら貶めることもあるまい」
「承服いたしかねるッッッ!」
溜めに溜めた怒りが、日頃の三倍する大音声が、銀夜の陣営内に響く。
顔をしかめた彼女に対して、さらに詰め寄った。
「何の面目あって、奸賊どもと和解し、あまつさえ国外に出すと言われるのか!?」
彼ほどに激してはいなかったが、他の者も、その勇に励まされるかの如く同調した。
普段は新組と反目している亀山でさえ、この時ばかりは、
「奴らの提案を受け入れる体を示すのはまだ良いでしょう。ですが、奴らの条件を素直に受け入れることもありますまい。受けたと見せかけ奴らがのこのこと寺を出たら、一網打尽にする。これが上策かと」
と、全面的な受け入れに難色を示した。
「無論、その可能性も踏まえての受け入れだ。隙あらば環や舞鶴を討つ。だが、例え討てずとも、我らが手を汚す必要もあるまい」
「何を言われるか!?」
舞鶴が出した和議状、そこに記された文字は、その文面は、癖こそあるが、流麗そのものだった。
だが、内容自体はあまりに図々しく、大胆不敵、傍若無人。
一、包囲側はこちらが国外まで退去するまでの間、身の安全を保障すること。
一、包囲側はそれまでに必要な食料を提供すること。
一、また各豪族、海賊衆等に、退去の道中、手出ししないように通達を出しておくこと。
……等々、怒りを通り越して呆れるほどの恥知らずな厚遇を、寺に籠った連中は要求しているのだ。
これを受け入れることは恥辱以外の何者でもなく、明らかな利敵行為であり、後日の災いとなることは明白。
そう、諸将は危惧し、訴えているのだ。
――貴殿らを暴走させぬよう決断を急がねばならなかったというのに、なんだその言い草は?
と、銀夜はそこで初めて反感を覚えた。
だが、それを表出させるほど、彼女の人格は未熟ではない。
城内と同じく、片手で騒ぎを制した領主は、床几に腰掛けたまま深々と頷いた。
「皆の不審はもっともだ。そう、私自身も、つい先刻まで考えていなかった。まさか、環を逃すことが我らにとって得かもしれぬ、とはな」
……一体、それはどういうことか?
口にはしないまでも、皆困惑した顔つきで、その意の説明を求めていた。
恥知らずの和議状を指で叩きながら、
「視野を広く持つことだ」
と銀夜は前置きした。
「いかに環と残党が騒いだとしても、既に国内の暴動は終息に向かっている。内憂を取り払った後は、外患に当たらねばならん。とすれば、当面の敵は誰か」
「……それは……隣国、桃李府、桜尾家……」
後ろを西盤海さいばんかいに守られている順門府にとって、もはや敵らしい敵と言えば、武の名門、桜尾家ぐらいなものだ。
順門が逆賊であるということを大義名分とし、今まで大小の侵攻を行ってきた。今その汚名が晴れたとして、今まで殺し合いを続けてきた相手同士が、仲良く手を携えることができるだろうか。
まして、桜尾家は財政難を理由に、朝廷への献金も滞らせ、あまつさえその東方で風祭(かざまつり)家の風祭(ふうさい)府、すなわち皇族とも戦端を開いているのだから。
「だが今この場合、我らにとって都合が良い。先刻、勝川舞鶴は退去先の候補としていくつかの寄港地を挙げた。すなわてち同じ逆賊である任海らの領地に当たる中水(ちゅうすい)府内の港と、西方随一の商業都市、名津(なつ)だ。そこで私は中水府案は、その道程の長さ、物資提供をする我らの負担を理由に却下し、名津案を勧めた」
「し、しかし名津は我々と桜尾家への国境にある中立都市! かの地の商家に借財している者は我が陣営にも多く、うかつに攻め入ることは出来ませぬ! そのようなところに環を置くのは……」
その懸念も少女は、楚々とした挙手と、理路整然とした論説で封じた。
「だが形式上、あの地は桃李府の領地。環自身は小者だが、順門府『元』公子という肩書きは大きい。桜尾家としては、そのまま捨て置くこともできまい」
「……っでは! 桜尾家に攻め込む名分を与えることになるではないかッ! 環を擁した桜尾の大軍が攻め込んできたらなんとされる!?」
「果たしてそう上手くゆくかな?」
未だ大将の本意をはかりかねる諸将が、皆顔を見合わせた。
その互いに向き合った顔が、少女のかんばせに一気に集中し、そしてそれから、彼女はその答えを出した。
「環という不純物を桜尾家に食い込ませることで、かの府の国論を二分させる。すなわち、環派、反環派とにだ」
ざわめく諸将に聞かせるように大きめに、順門最強と舞鶴に言わしめた名将は、言葉を継ぎ足した。
「現状でも、桜尾家には我らが府への侵攻に反対する者は多いと聞く。ましてこの度、逆賊の汚名が晴れたのだ。その声はさらに大きなものとなろう。その者らが環らを捕らえ処断するも良し。あるいは環の出現により息を吹き返す順門侵攻派に対抗すべく、我らに助力を求める者が出るかもしれぬ。それこそ我らが好機。桃李府内部、風祭、朝廷、そして我らとで連携し、一気に桃李を攻め取ることもかなおう」
無論、銀夜としてもそれほど上手い具合に事が運ぶとは信じていなかった。
――だが……
諸勢力による大規模包囲殲滅作戦。
それに心躍らぬ武人はあるまい。
事実、今まで暗闇に沈んでいた益荒男たちの瞳は、爛々とその輝きを取り戻していた。
「姫様の深謀、とても拙者らの及ぶところではございませぬ!」
「古今東西、銀夜殿の才覚を超える者は現れますまい!」
まず声をあげたのは、亀山だった。
憎き彼に対抗するかのように、あるいは先の不用意な発言を挽回するかのような大声で、新組も同調と賞賛を唱えた。
それをさほどの喜びもなく、淡々と受けた銀夜はふと表情を曇らせた。
――だが、なんだこれは。
他とは明らかに自体が違う、独特な筆字が和議の条件最後尾に付け足されている。
――それ自体は難しい話ではないが、このようなものに何の意味がある?
困惑する銀夜の真紅の輝きは、その一文にのみ釘付けになる。
「我が弟妹の遺骸を要求する」
少女の頭上、その陣営の真上には、彼女の名に相応しい、銀色の月が輝いている。
しかしその輝きの一部を、黒々とした雲が、覆おうとしていた。