……和は、成った。
鐘山環らの脱出団の食糧は城の備蓄から供出されることとなり、その輸送隊の物々しい行軍風景を、周囲の民衆はこぞって見にきていた。
だが、その最後尾で一際異彩と異臭を放つ一団が、何より衆目を集めていた。
それは、首桶の列であった。
決して清潔とは言えない人足たちに担がれて揺られ、運ばれて行くそれを見て、人々は囁き合った。
ただでさえ、長話、深夜の徘徊、深酒、色街、華美な衣装や祭りが禁じられている町である。娯楽に餓えた人々にとっては、一見おぞましそれでさえ、好奇の対象となった。
「なんなんじゃろう、あれは」
「米櫃、ではないなぁ」
「もしや誰ぞ、人死にが出たか?」
「あの寺で?」
「いや、だとしても出てくるのではなく、食いもんと一緒に入っていくのは妙な話ではないか。その、『中身』も入っているようだし」
上下の身分関係なく囁き合っているところに、「いやいや」と割って入る者がいた。
この頃、六番屋という商家に奉公している太兵衛(たへえ)という若い男だった。
口さがない男で、嘘か真かという噂をどこからともなく拾ってきては、得意げに披歴するのが常であった。
ニヤニヤとだらしなく顔を歪めて、揉み手で近寄った。
そして唇をすぼめるようにして、普段どおり、噂話を披露する。
「別に、おかしな話じゃございませんよ。仏さまがお寺に入っていくのは」
「ということは、葬式でもするってのかい!? あのたま、い、いや逆賊が立てこもる方略寺で?」
「へへっ、だからこその方略寺、ってね。何せ喪主ってのが、その環様なんですから」
「公子様が!?」
「へい。なんでもあの首桶の中身は、そこの外れの辻で晒されていた弟君妹君って話で」
なんとも荒唐無稽な話で、常ならば
「また太兵衛のホラが始まった」
と衆人は鼻白んだことだろう。
だが、彼の勤める六番屋こそ、名津に本店を構える大店にして、環が退去するための船舶を銀夜の依頼で用意したのだから、そうした話が彼の耳に入るのも、ありえる話だ。
人々の興味を煽るだけ煽った彼だが、ヒョイと己の頭のてっぺんに手を載せた。
「そいじゃ、あたしは他の方にこの話をしに行きますので、これにて失礼」
足早に去って行く彼に取り残されて、人々は、互いに顔を見合わせた。
それからぞろぞろと、事の真偽を確かめるために移動を始めた。
~~~
太兵衛というその男は、首桶の由来と正体を方々に触れ回った後、路地の裏手で待ち合わせていた。
黒衣をまとったその女の前で膝を屈した彼は、前とは一転して無機質な声と表情とで、
「頭領」
と彼女を呼んだ。
「町での喧伝、大方終えました。既に一部の民が、方略寺に向け移動を開始しています」
「ご苦労様」
緋鶴党首勝川舞鶴は、太兵衛と名乗ったその党員を短くねぎらい、
「では次は別働隊と合流、町の内外に潜伏する刺客の洗い出しをお願いします」
と次なる指示を下した。
承知、と小さく首肯した彼が去っていくのを、
「呆れたな」
と少女が見届けながら呟いた。
「どっからどこまで貴女の掌の上なんスかね」
幡豆由基だった。そしてこの巫女の傍らには、流天組最年少の良吉の姿もあった。
その二人の女と一人の少年は、寺僧の手引きにより、密かに寺を抜け出ていたのである。
彼女らだけではなかった。
緋鶴党の人数も既に多くがこの町とその周囲の軍に潜入し、情報収拾や警護に当たっている。
やや皮肉の混じる由基の言葉に、尼僧は、その輝くばかりの魅力をたっぷり含ませた極上の笑みで応じた。
「兵も物もない我々にとって、風聞と情報こそ最大の武器。と思うからこそ、要所に既に人数を配置していただけですよ」
最初は生ける伝説として尊敬の念を抱いていた由基だったが、いい加減、この女の実像に見るにつれ、おぞましささえ感じるようになっていた。
――いったいこいつは、オレたちをどこに引き込もうとしているのか……
神仏の違いこそあれ、宗教家である二人だったが、その性質はまるで対照的なものだった。
「……で、この宣伝活動を環のバカ殿は知ってるんスか?」
「さて、感づいてはいると思いますが、それをあえて問い質そうとはしないでしょう。……ですが、まさかあんな条件を書き足されていたとは、この舞鶴も存じ上げませんでした。おかげで殿を守るために、こうして日陰で、貴女の忌み嫌う姑息な策を練らねばならない始末です。そうして苦心する舞鶴の心中も、どうかお察し頂けないでしょうか」
「ふん、どーだかな」
合成弓を担ぎ直し、良吉の背を叩いて出発を促す。
歩き出した彼女の背に、「幡豆殿」と声がかかる。
それに振り返らず、
「分かっていますよ。守りゃ良いんでしょ守りゃ。ったく世話の焼ける」
遠のきつつある黒衣の尼僧は「この計画を環は知っている」と言った。
そして、あえてそれを言わないのだと。
空の上は、いつの間にかどんよりとした雲に覆われていた。
じき、雨も降り出すことだろう。
雨は、彼女と、その実家が信奉する神によってもたらされる恩寵だとされてきたが、この場合、この巫女の心を陰鬱にさせた。
環、とちいさく口にしてみる。
「弟妹の死体の返還を要求する」
それがあの総大将の提示した条件だ。
「あいつらを、ちゃんと墓に入れてやりたいんだ」
と言った公子は、帽子を強く握りしめながら、ほんの少しだけ顔を歪めた。
――けどお前……それだけじゃないんだろ?
弔いたいという思いは本心かもしれない。
だがそこに、必ず打算があるのは明らかだった。
でなければ、あえて取引相手を刺激し、周囲を危険にさらすような真似はすまい。
その弔いが後日、自分たちのためになることを知っているのだ。
だがそんな己を誰よりも軽蔑しているのが、鐘山環という男だった。
立ち止まり、方略寺のある方角を振り返る。
――そしてお前の行いが結局のところ、オレたちを救うんだろう。
だが、と。
心中での言の葉を継いだ形で、思わず口から突いて出た。
「……そうして擦りきれるお前の魂は、一体誰が救うんだろうな……?」
そして、そんな心の闇を想える人間が少なからずいることを、環自身は知っているのだろうか……?
~~~
長谷部(はせべ)平歳(ひらとし)という男がいる。
新組旗下の侍大将、というのがこの荒武者の肩書きだったが、
「拷問官」
「処刑人」
「殺し屋」
と言うのが、その陰口で囁かれる真の二つ名だった。
新組勇蔵の下で血が流れるとすれば、そのほとんどがこの男の手によって引き起こされたものだったと言って良い。
そして今、この男が方略寺の周辺で人知れず暗躍していたのである。
「おい、鉄砲隊の配置はどうなっている?」
「……は。突然の雨で火薬や火縄がしけってしまった銃が何丁かありましたが、ほとんどが屋内に配置しておりましたので、大した問題にはなりませぬ」
そろそろと小雨が降り始めた午後のことだった。
人知れず占拠した宿にて、彼の組頭がそう報告し、長谷部は大きく頷いた。
「しかしながら」
と、その組頭は表情を曇らせた。
「よろしいのですか? ご重臣の方々の許しもなく、このような」
「構わん! 確かに軍議では受諾と決まったようだが、それも『隙あらば殺しても良い』という話だったそうだからな。よって我らがその任に就くだけのことよ。……奴らめ、あれだけの暴言を好き放題吐きおって……ただで国から出られると思うなよ……っ!」
苦々しげに低い声を絞り出すその背後で、部下が慌ただしく音を立てて宿に転がり込んできた。
「もも、申し上げます!」
「何だ!?」
「環が、環が寺を出ました!」
その報せは、その場にいた将兵に余さず衝撃を与え、
「何ィ!? 奴ら、何を企んでいる!?」
と、狙撃集団を率いる長谷部は烈火の如く激した。
「それで率いている兵の数は!? 舞鶴はいるのか!? どこを目指している!?」
二階へ続く階段を踏み鳴らし、長谷部は仔細を尋ねる。急報を告げたその斥候は少し口ごもった後、呼気を震わせて一言だけ告げた。
「一人、です……」
「は!? たわけたことを申すな! 仮にも大将たる男が単身で出てきたというのか!?」
「その通りです!」
やや捨て鉢気味に伝令は言い返した。
「お疑いならばご自分の目でご覧ください!」
と、大通り全体を見渡せる部屋、その小窓から身を乗り出して、それが誤報ではないのだと訴えた。
だがかえって彼自身の身体が視界を遮り、
「どけっ!」
焦れた長谷部は伝令を突き飛ばした。
だが真実、部下の言うとおりの光景が、半身を外に出した長谷部の目には映っていた。
環は単騎、大通りを駆けていた。
刀も佩かず、配下も従えず、馬にも乗らず。
和睦したとは言え、敵であるはずの銀夜の領地、兵がひしめくただ中を、一人、雨に肩を濡らしながら駆けて抜けていた。
「弟は!? 妹の首が届いたというのは本当か!? どこだ!? どこにある!?」
と、気が触れたかの如く、声高に叫びながら
正気の沙汰とは思えぬ蛮行に、屋内にいる長谷部と、その兵でさえ一瞬、呑まれかけた。
だが、そこは長谷部も歴戦の人であった。
すぐさま我を取り戻すと、
――だがこれこそ討ち取る好機ではないか!
と、思い始めた。
「鉄砲と兵を二階に! ここから奴めを狙い撃つ!」
その猛者の下知に従い、すぐさま兵は配置についた。長谷部自身も、自ら火縄に点火した銃を手にした。
窓の格子を鉄砲狭間代わりに、その銃身だけを雨天へと突き出した。
まさしくそれは、首を長くして機を待つ亀そのものであった。
じりじりと、五名ばかりの名手たちが、各々、敵大将へと狙いを定め始めた。
まさに、その時だった。
「さぁさぁ! 民の皆さま、環さまはこちらですよー」
……まるで旅の案内人かのように、あの舞鶴の、気の抜けた声が聞こえてきたのは。
それに続くように、ぞろぞろと、不揃いな足音も、長谷部らの耳に届いた。
「な、なんだ!?」
「民です! 領民が、どうやら環の姿を見物しにやって来たようです」
確かに、行列と環の両脇を挟み込むように、商人や諸分野の職人、農民、あるいはそれに準ずる足軽たちまでもが、ひしめいていた。
「舞鶴殿!? これは一体……っ!」
階下より、行列を取り仕切っていたらしい武士の声が聞こえてきた。
それに応じたのは、いつになく間延びした、あの黒衣の女の声だった。
「えーと、ですねぇ。皆さんが見たいとおっしゃるので、それならばと連れてきてしまいましたー」
「……俺は何も聞いてないがな」
と、非難がましく言ったのは、おそらく環だろう。
「こ、困る。これでは行列の邪魔になる!」
「そうですか? 一見して難なく通ることできると思いますが。それにこれは殿と銀夜殿の和平の証。そして、銀夜殿の『度量がどれほどか』、皆さんに知らしめる良い機会かと思いまして」
「……仕方ないな。奉行殿、面倒をかけるが、彼らと俺の同行を許してもらえないだろうか」
「し、しかし……」
「頼む。一時でも早く、俺は楓たちに逢いたい……」
「殿、ご姉弟の御首はこの最後尾です」
「そうか! では、頼むぞ!」
……と、半ば強引なやり口で、環自身は行列の中に飛び込んでいった。
「い、如何いたしましょう!? この衆人環視の中、狙撃されるのですか!?」
「構わん! 後で殿が如何様にも揉み消してくださるわ!」
――だが、
狙撃しようにも、さらに別の問題が彼らを妨害していた。
傘。
雨が本格的に降り始め、民がそれぞれ傘、あるいは笠を用い始めたのだ。
環の周囲でも、地味な色をしたそれらがぱっと広がり、射手たちの視界を塞いでいく。
――こ、これでは環自身を狙うことなど到底できぬではないかッ!
それどころか、味方に当たる危険まである。
焦れる長谷部に「やはり中止すべきです!」との声がどこからともなくあがった。
「黙れ! こうなれば何人死のうと構わん! 全ては大義と秩序のための犠牲だっ! 弾尽きるまで撃ち尽くせ!」
そう命じ、大仰に振りかざされた彼の手が、
ひゅっ
一筋の風により、格子に縫い付けられた。
「は……っ?」
瞬時にして矢に貫かれた手の甲は、痛痒すら忘れてしまったようだった。
「な、なっ!?」
ばたりとこぼれ落ちる鉄砲。
他の兵も、二の矢、三の矢、そして次いでやってきた少年の、投擲された小刀によって、無力化されていった。
「き、貴様、ら……っ」
その若者らに続き十名弱の増援が足音なく現れた。瞬く間に取りこぼされた銃を持参してきた水桶の中に放り込み、そして負傷した長谷部たちを拘束した。
長谷部は、その指揮者らしき、細身の弓手を見た。
見覚えはあった。
包囲していた方略寺に、一歩たりとも自分たちを突入させなかった、あの番人の片割れだ。
「今から上がる舞台は、とんでもない茶番だが。バカが命と魂を賭けた茶番だ。上がる前に台無しにする裏方があるか」
確かその名を、幡豆、と言った。