寺の門前、銀夜がそのに呼び出したのは、行列の責任者たる奉行、そして環本人だった。
「……一体、これは何の真似か」
方略寺の前には既に百名近い見物客が来ており、それが宿や家屋を借りて二階からこちらの様子を窺っていたり、あるいは警備する雑兵らから仔細を聞き出そうと躍起になっていたりする。
――これが秩序を旨とする順門の民か!? 兵か!? この中に他国の草の者がいたらなんとする!?
銀夜はそう怒鳴りたい思いに駆られたが、そうした無秩序さこそ今までの順門の性質であったのだと、すぐに思い直した。
そして彼らを正しく教導することこそ、自分たちに課さられた使命なのだ、と。
彼女は次に、環を見た。
かれこれ数年来会っていなかった。が、変わらない。
以前と同じく、凡庸で鈍重な男だった。
従容として首桶を抱えている従兄弟には、王者の風格とか、覇気というものは感じられず、悪童たちの後ろをついて回っていた頃となんら変わりはない。
佐咲らを討ち、先祖を質に悪辣な駆け引きを持ちかけた集団の頭目とは、どう見ても分からない。
――なんのことはない。この男自身に意志などなく、所詮舞鶴の傀儡でしかないのだ。
銀夜はそう安堵した。
いや、そう安堵せよと、自分に言い聞かせた。
「……」
その油断ゆえか、ぼそぼそと独り言のように呟いた言葉を、彼女は聞き漏らした。
「? 何か言ったか」
「胴体が、ないんだが」
「? あぁ。見せしめに首は必要だったが、そこから下は必要あるまい。適当に埋めさせたから、掘り出そうにも掘り出せるわけがないだろう」
「たわけ者め! 命だけは助けてやろうというのに、その上重ねて温情をかけてやるというのだ! 厚かましいにもほどがある!」
「まったく親も親なら子も子よな!」
ここぞとばかりに、鬱憤を溜め込んでいた諸将が反撃に出る。
そう面罵されても、反論せずにじっと岩のように黙っている環はいかにも気弱げで、やはり王者の器とはなり得ない。
「……そうだな。……そうだよな」
少しだけ寂しげに笑った青年は、「じゃあ」と言葉を継いで、
「首の確認を、してもらえるかな」
と、その蓋を開いた。
瞬間、場の嘲笑は一瞬で凍りついた。
そして銀髪の少女は、それを直視してしまった。
幼い娘、だったものの、一片の肉塊。
ところどころの肉は鴉に剥ぎ取られたらしく、乱暴に引きちぎられていた。その傷口からは蛆が湧いているうえに、一部白骨が覗き見えた。
その表情は泣いたままに硬直し、
昔日の愛らしさはもはやなく、腐肉と、生乾きの腐汁と腐臭のみで形作られた、世のありとあらゆる醜悪さの凝縮物さった。
普段自他の死を厭わぬ、と本人たちは謳っている武士たちが、口を手を覆い、あるいは顔を背けたりするほどに、その死体は見るに堪えないものであった。
銀夜は、それと、目が合ってしまった。
いや、目が合う、という表現は妥当ではない。そもそもそれには、眼球はない。
それと繋がっていたらしい肉の糸が、その空洞からダラリと垂れている。
さながら、血の涙のようだった。
ぽっかりと空いた眼窩の中に、銀夜は吸い込まれていきそうな恐怖に囚われた。
「……どうしたお前ら……見慣れているはずだろう?」
「ど、ど、どうしただと!? 貴様のほうがどうかしている!? そのようなおぞましいものを……うぷっ……我々に見せつけて、なんとするッ!?」
まず亀山が悲鳴のような声をあげた。
対して環は、やはり寂しげな笑みを称えたまま、言った。
「不甲斐ないことに、俺にはもうこれが楓だったかどうか、区別がつかないんだ。だが、当時の様子を知るお前たちならば、少しは見覚えがあるはずだ」
ざり、と。
首を抱えた環は、半歩、銀夜へとにじり寄った。
びくり、と反射的に銀夜は一歩下がった。
「なぁ、教えてくれよ。楓は、虎千代は、有千代は、どんな服を着て死んだ? どんな言葉を遺して死んだ? どんな顔をして、死んだ?」
ざり、ざり、ざり。
一歩寄られれば二本下がり、二歩寄られれば三歩下がる。
皆、誰もが、動けずにいた。
青年の淡々とした狂気に、誰もが呑まれていた。
誰か止めろと銀夜も念じたが、わななく唇からその命令が出てこない。
「なぁ、そうだろう? ……銀夜」
銀夜は更に、更にと下がろうとして、石に蹴躓いた。尻餅をついた少女の前で、環は身を屈め、
「どうした、銀夜殿。何故逃げる?」
青年は、低く耳元で囁いた。
銀夜の視界からは、桶の中の首が見えた。
自らの義戦の、副産物。
そして、彼女らの怨念を吸い上げたかの如く燃え上がる、青い双眸があった。
「まさかお前、殺しておいて、覚えがないわけじゃあるまい」
……それらを受け止める精神的な強度と容量を、鐘山銀夜は持ち合わせていなかった。
「うあああああああああああぁぁぁぁぁッッ!?」
力任せに振った腕が、環の手の桶に当たった。
大きく揺れた桶から、鞠ほどの大きさの塊が、こぼれ落ちた。
ぐちゃり、と音を立てて転がり、同時に近くの観衆から甲高い悲鳴が漏れた。
それをきっかけにして銀夜は我に返る。
雨の音、濡れる泥土の冷たさ、感覚が蘇ってくると同時に、違和感を覚えた。
……彼女の見ている世界は、一変していた。
――なんだ? なんだ、これは?
領民が、将兵が、今まで見たこともないような目つきで彼女を見下ろしていた。
雨音の間隙を縫うようにして、
「……なんだよ、あれ……」
「お姫様が、尻餅ついてる……」
「……別になにかされたわけでもないよなぁ……?」
「しかも、あんな赤ん坊の首をはじき飛ばすなんて……」
「……あの方がほんとに順門の麒麟児なのかよ……?」
ひそひそとした囁きが漏れてくる。民の話題に上がっているのが自分だと、銀夜は最初、気がつかなかった。
――なんなんだこれは!? これでは、まるで……っ!
自分が、死体と環に恐怖したようではないか。
だが直面していない輩に、何が分かるのか。
「……っ! 散れっ! 貴様ら、なにを見ているのだ!? 散れっ、散れぇっ!」
感情を爆発させた銀夜は、そうわめき立てたが、もはやその命に従う者は、いなかった。
その脇を、しずしずと環が横切った。
桶を置き、転がった首の前に両膝をつく。
睫を震わせながら目を伏せ、首をじっと見つめていた。
――何を賢しげに……貴様とて、本心では触れたくもないと思っているのだろう!?
だが、銀夜の思惑、期待とは裏腹に、
彼は、ためらいなく両腕を妹に伸ばした。
雨に打たれてふやけて、どろどろとドス黒い液を垂れ流すそれを、己の胸に、形を崩さぬよう慎重に、ぎゅっと、抱え込む。
「……ごめんな……」
背後でへたり込む敵将に対する恨み言ではなく、呟いた言葉は、ただそれだけ。
そのまま立ち上がると、
「舞鶴、他の子も頼む……」
と、消え入るような声で言った。
のろのろと歩き出した元公子が、寺の中に入ろうとすると、自然と人垣が割れて道が開いた。
彼らの表情に忌避感はなく、本来敵であるはずの青年に対する、同情と畏敬の念が、はっきりと見て取れた。
「姫将さま」
「月夜の戦乙女」
「順門の麒麟児」
「神の寵児」
「聖騎士」
「救世の天女」
「永遠の神童」
「天道の女神」
彼女は、己の春秋をかけて積み上げてきたその名声が、足下から崩れ去る音を聞いた。
一人で立ち上がろうとしてくずおれる小娘に、天は手を差し伸べることはなかった。
~~~
寺に戻った環はそのまま首を僧侶に預け、自らは葬儀を仕切るべく用意をしていた。
清水の入った桶で手を浸していると、すかさず鈴鹿が進み出てきた。爪の間まで清めるような細やかさで、洗ってくれる。
紫色の汚物が剥がれ落ち、溶けて汚し、汚しては水を替え、新しくなった水にさえ、生死不明の蛆が三匹ほど、ぷかぷかと浮かぶ。
それでも、目の前の気丈な少女の瞳に、嫌悪はなかった。
「……確かに多くに見せびらかしたな……『銀夜殿の器量』を、な」
皮肉以外何者でもない言葉を、大黒柱を背に負った幡豆が吐き捨てた。
弔文の筆を走らせながら、色市は調子を合わせた。
「これで、鐘山銀夜の声望は地に堕ちた。……よりにもよって自領で。大した名演だ」
「だがなぁ……生者も、死者も、ここまで貶める必要があったのか? 大将……」
普段は穏健派の地田から、消極的にではあるものの、批判的な問いが投げつけられる。
だがそれに応じたのは、環本人ではなく、その傍らに腰を下ろした亥改大州だった。
「じゃあ、あんたらに大将と同じことが出来たか?」
「……出来るかどうかの問題ではない」
「だが、実際あの小娘にはそれができなかった。銀夜に出来ないことを、そこのお人はしてのけたのさ。多くの証人の目の前でな。人物の優劣は自ずと明らかになった。文字通りに『役者が違う』」
この時、擁護者である大州の方に、環は軽い反感を覚えた。
覚えつつも、そうした自分の心理が滑稽で、つい歪な笑みが漏れた。
長年下っ端の労苦を舐めさせられたせいか、銀夜と違い彼は、自らの感情の抑圧の方法ではなく、受け流すコツに長けていた。
「そして今日得た人心の推移は、我らの明日に大いに役立つはず」
舞鶴が大州の言葉を当然のように受け継いで、主君の肩に手を置いて、主君の頭頂に顎を置く。
それにこそ環は顔をしかめたが、当の軍師からは見えない表情だ。
「さぁ殿。喪服のお支度ができました。どうぞ奥間でお着替えを」
と、手を取られそうになるのを環は振り払った。
「良いよ。ガキじゃあるまいし、それぐらいは自分で出来る」
環はそう断っておいて自分が、まるで母親の世話を拒む息子のように思えて、なんだか情けなくなってきた。
「あと、しばらく人払いを頼む。俺の部屋に、しばらく近づくなよ」
~~~
……そう、断って、物音も人の気配もしなくなった後、
きっちりと折りたたまれた純白の喪服を前にぼんやりと環は立っていた。
軽く肩を上下させる。
……感情を、受け流すことは出来る。
だが、押し殺すにせよ、受け流すにせよ、その時の感情はどこへ行くのか? 消えるのか?
否。
巡り巡って、最終的には、自分の胸中へと帰ってくる。
「う……っ! お……え……っ」
途端にこみ上げる吐瀉物。
這うようにして庭に出て、縁側に倒れ込むようにして苔にぶちまける。
「あぁ……うあぁぁ……あぁぁぁぁ……っ!」
顔のありとあらゆる穴から体液が溢れて止まることをしらない。
――畜生。
ちくしょう、ちくしょう、ちくしょう。
腹を裂かれた猫のように、背を丸める。
左手で板縁を、右手で落ちた帽子を、それぞれ引きちぎらんばかりに強く握りしめた。
歯を食いしばり、必要以上に声が漏れないよう、嗚咽を噛み殺す。
むき出しの口腔に容赦なく涙が浸入し、呼吸をできなくする。
狂わんばかりに心が高ぶっていたし、荒んでいた。憤っていた。嘆いていた。悲しんでいた。
運命に、境遇に。それ以上に、自分自身に、腹を立てていた。
彼は自分に許される限り、泣き続けた。
それでも、環は日が昇れば己が立ち上がれることを知っていた。
彼が立ち上がらなければ、誰も立ち上がれなくなるのだから。