由基は冷ややかな目で、慌てふためく男たち、環と色市の二人を眺めていた。
と言うか、そんな予備知識がなくても、武人ならば自分たちを囲む敵意と殺気で分かるようなものだが、とかく危機回避に欠如している。
ため息を露骨についた由基とて、明確な打開策が存在するわけではなかった。
「どうしてそういうことを早く言わないんだよっ!?」
とにじり寄る環を、由基は冷たくあしらった。
「六番屋に圭馬が来た時点で詰んでる。それより前にとっとと退散すべきだったな、舞鶴殿」
そうですねぇ、と。
黒衣の軍師は緊張感に欠けるあどけない声で同調した。
「しかし桜尾家の力を借りるためには、あの方々の協力は不可欠。何しろ器所殿も羽黒殿も、この家きっての封地、兵力、そして能の持ち主ですから。……とはいえ、面白くありませんねぇ」
と、この悪辣な尼僧にしては珍しい反応を見せたことが、環には少しだけ意外だった。
「あんたの予測が外れたんだから、そりゃ面白くないでしょうよ、舞鶴殿」
由基は彼女の方を振り向かず、番兵を窓越しに睨んでいた。
彼女の視覚には、無数の曲線が飛び交っている。
だが一人に狙いを絞ろうとすると、他の線はたちまちに消えた。
それは彼女の腕をもってしても、一人以上は殺せないことを示していた。
――佐咲らの隊伍とはまるで違う。圭輔本人の馬廻り衆(親衛隊)は彼と共に前線に在るだろうに、留守役でこの強さか……矢を放ったところで巨龍のウロコを一枚剥ぎ取るようなもんだな。
「私も人間ですから。百年以上生きていると、しくじることもありますよ」
「……それは果たして人間なんだろうかね」
「およよ。殿ぉ~、幡豆殿が舞鶴をイジメますぅ」
舞鶴はわざとらしく主にもたれかかって、その胸に顔を埋めた。
環自身はそのぶしつけな仕草に対して、迷惑そうにしながらも拒絶はしなかった。
「……やっぱり女には甘いんだな」
「ウソ泣きだぞ、それ」
地田の揶揄と色市の断言に、その御輿男は緩やかに首を振った。
「分かりきったことを言うな。いちいち追っ払うのもバカらしいだけだ」
と言いつつ彼は、どこか久方ぶりに触れる女の感触に、少しだけ目尻が下がっていた。
なんとなくそれが気に食わず、後ろ足で環の腰を蹴った。
「だあっ!」
と、自らを抱きすくめる舞鶴もろとも崩れる環に、その彼女がのしかかるような形になる。顔を間近に近づけたまま、舞鶴は甘く舌っ足らずな声音で囁くように言い放った。
「ですが舞鶴の失策も無理らしからぬこと。何しろ相手は『天下五弓』の一人、器所実氏殿と、そしてその弟子ともっぱらの噂の羽黒圭輔殿。出し抜かれることもありましょう」
その上からさらに、
「どーん」
と、鈴鹿が飛び乗り、
「ぐえぇ!?」
と、増加した重みに環が悲鳴をあげた。
「ね、ごきゅう? って、なに?」
「す、鈴鹿!? お前こっちに来てたのか?」
幹部以外の随伴者は別の兵舎か離れに押し込まれたはずだが、どこからか猫のように紛れ込んだらしい。
顔を青くさせる環に、
「ね、ね」
と、珍しい好奇心を見せた。
呼吸困難に陥っている彼の代わりに答えたのは、元朝廷の役人の一族という出自柄、諸国の事情に通じている地田豊房だった。
一度咳払いし、
「天下五弓、というのは当代において五指に入るすぐれた弓取りのことだ」
と答えた。
少女はあどけなく首を傾げ、
「弓? ユキも弓、得意だよ?」
環を真似て愛称で呼び捨てにされ、由基は露骨に眉をひそめた。
だがこの巫女は乱暴ではあっても狭量ではない。
幼子一人の失言など、水に流すことはできたし、弓が上手いと言われて嫌な気分ではない。
だがここで言う弓取りというのは、そのまま射手を意味する言葉ではない。
「あー、弓取りというのは、だ。将器……武士としての器量を意味するもので、弓等の武芸の他にも、軍略、機知に長け、政務の処理能力、構想力、それらを実行に移す実行力と統率能力、それらの要素を全て兼ね備えた人物のことを指す」
「……? ? ?」
豊房としては言葉を選んだつもりなのだろうが、それでもやはり十代に入ったばかりの少女に説明するには、堅苦しいし、難解すぎる。
「……つまり、力や戦が強いのはもちろんだけど、頭も良くて、みんなから慕われてて、みんなを幸せに出来る人のことだ」
息を吹き返した環が噛み砕いて、というよりはざっくばらんに説明する。
「ふーん。で、その五人は誰が決めたの?」
「誰でもない。勝手に、いつの間にかみんなが決めてるんだ。その五人にしても、場所によって二、三人食い違ってることあるしな」
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……だが、一般的にはこの五人のことを言う。
一人は鐘山宗円。すなわち環の祖父である。
大局と現実を見据えた政戦の柔軟さが評価されている、樹治王朝の開闢以前からの名将である。
いや、名将と言うよりは名君という向きが強く、とくに内治の才においては五人の中でも白眉とされており、朝廷と争った後も、彼の在位中は米の相場が朝廷よりも順門府内の方が安定していたとされているほどだ。
一人は上社信守。
わずか十八歳で順門府での初陣を経験し、負傷した父の代わりに自ら殿を務めて味方の軍を撤退させている。
それ以降滅多に戦線に赴くことはなくなったが、中水府での反乱、天童(てんどう)雪新(せっしん)の乱など、あわや朝廷の存亡の秋か、という際になって起用される。
そのほとんどは圧倒的多数の敵勢に奇策でもって勝利する、というものであるが、それは単に彼がそうした策を好むのではなく、朝廷が彼を冷遇するが故に、頼らざるを得ない状況に追い込まれるせいだ、と風聞が立っている。
だが今のところ、圧倒的優勢をもって彼に勝利を収めた者は、いない。
一人は風祭康徒(やすと)。
現風祭府公の叔父にあたる人物で、外交の達者とされる。
ありとあらゆる手管を遣い、桜尾家を後方からかき回し、自身は万全の戦略でもって前面から押し出す、という方策を得意とする。
羽黒圭輔に至っては討ち死に、落城寸前まで追い込まれたことさえあった。
また芸や美、音曲にも精通しており、彼が自ら設計した城や庭園は、雄大にして華麗。都人でさえ感銘を受けて模倣するとも言われている。
そして一人は……
「ちらっ、ちらっ」
環にのしかかったまましきりに由基の横顔を覗き見る女、勝川舞鶴。
この女が何をしたか、それは人の噂を聞くよりは、史書をひもといた方が早い。
彼女の名は、突然にして年表上に現れる。
ある時は五ヶ国五万の軍を統率する総大将として軍馬を駆り、あるときは諸国間で盟約を締結させ、十年の平和を築き上げた。その後、その盟を自ら破った。
ある府国の正史では名宰相として褒め称えられ、またある国では傾国の魔女として、名を持ち出すことさえ忌避される。
評価は二極化する。
かつての由基ならば前者を信じただろう。
今の由基は、後者を推したい気持ちだった。
そして当の器所実氏。
好敵手である風祭康徒と共に、五人の中では智勇と政戦の均衡がとれた人物として知られている。戦略では康徒に分があり、戦術では実氏に分があるという。
足軽身分の卑賤の出自。
でありながら君主にその才を見出され、よくその信頼に応えた。
言わば叩き上げの人物で、康徒戦における敗戦処理を任されることが多かった。
彼はその敵手と十度交戦し、ただ一度のみしか勝利できなかった。
だがそのただ一勝で、風祭康徒を討死せしめていることが、彼が天下五弓に選ばれた所以だろう。
だがその内の二名が現在鬼籍に入っている。
宗円は周知の通り天寿を全うし、風祭康徒は実氏との戦で敗死。
その空席に座る資格がある者は誰か、巷では口さがなく物議されている。
羽黒圭輔と言う者もいる。
響庭村忠が面会しに行った水樹陶次とも。
康徒の子の武徒は、一戦場における駆け引きは父にも勝ると評され、甥の親永は、抜きん出た部分はないものの、地田が言った条件を十分に満たしていると言えた。
いずれも一方ならぬ英傑たちである。
――それに比べて、うちの大将は……
女子どもに潰されている。
由基は呆れた。その場にいた皆の胸中にも、同様の感想が過ぎったことだろう。
だが当人は、まるで他人事のようにふるまっている。
へろへろと手を伸ばして帽子を掴み、自分の顔に押し当てる。
「まぁ弓だけじゃどうにもならないことが、あるってことだ」
環があてつけがましい呟きは、正論だ。
正論だからこそ、腹が立った。
舌打ちし、窓の方へと向き直った由基だったが、次に放たれた幼なじみの言が、彼女の心の緒を引いた。
「だけど天下五弓でも、この乱世はどうしようもなかったんだよな」