「なるほど。水樹という人はそういう人か」
「はい。名将と言っても差し支えないですが、盟主がアレじゃ、そう永くはないでしょうよ」
ぱちん
その水樹からの贈り物の一つ。
特産のカヤで作られた蒔絵の碁盤で、友人であり、主従である二人は対局していた。
逆賊となった今、例え一級の木材であっても容易に売り捌くことはできないだろうし、容易に流通もしないだろう。
そうしたモノの上で碁石を打つのは、持ってきた当事者としても何だか贅沢な気分になった。
「だがな、水樹陶次殿の人生にとって、その是正殿の愚直さは恩人とも呼べるのかもな」
ぱちん
村忠が蒔いた餌に環は食いつき、まっすぐそれを取りにかかる。
「ほう、それは?」
「是正が反旗を翻さなければ、そういう人物は反乱などしないで社稷の内より改革を目指しただろうさ。そして、朝廷にその才を見出す力量があれば、今の衰退はない。自他ともにその秘めたる将略に気づかず、凡百の官吏の中に埋れていて、今こうして俺たちの話題にあがることもなかったはずだ」
――おや?
今までの攻勢から一転、村忠の一手で覆されつつある盤上。
しかし、環の空色の両眼は、そんな苦境をまるで意介さないほどに涼やかなものだ。
――しばらく見ないうちに、この人は、変わったか?
昔はもう少し、ねじけていじけていたし、自分の言葉で語ることは少なく、今のように鋭い見識を、持つことも、持っていてもそれを見せることもなかった。
――父御の死が、あるいは舞鶴殿との出会いが、あるいは大渡瀬の惨状が、今まで赤児同然に流され続けた環殿に、自我を確立させたのか。
意識がそれそうになるのに気がついて、村忠は慌てて自分の手を打った。
「それはそれとして、試し合戦という目前の課題があるでしょ。『羽黒圭馬に勝つには、彼以上の世界を見るしかない』、でしたか。軍師の言葉の通り、広き視野は持てましたか?」
「腹案がないわけじゃない」
無茶な攻めのうえで、ようやく村忠方の一石の奪取に成功した環は、トンと、碁盤の脇にそれを置いた。
そして何を思ったか。手元の碁器を逆さまにし、その上から自らの黒石をぶちまける。
「なるほど」
村忠は腕を組んで嘆息した。
自らが主君と仰ぐ青年、その策戦、その狙い、それを汲んだがゆえに。
「……で、どうかな。この策は」
「成ることは成るでしょうな。ですが、夜道は気をつけた方がよろしいでしょう。さぞ、恨まれることでしょうよ。敵にも、味方にも」
村忠は鬼の形相を浮かべる幡豆由基を想像し、引きつった微苦笑を絞り出した。
「分かっている。これはあくまで陽動。戦場できっちりケリつけるさ」
「それでも卑怯だなんだのとのたまう輩は出ますよ」
「それも織り込み済みだ。そもそも俺は人に好かれたいなんて思っちゃいない。ただ何かと都合が良いからそういう振る舞いをしているだけだ。俺は」
続けようとしたその口が、歪に止まる。
「ちっ」
苦虫を三、四匹まとめて口中に放り込んで噛み潰したような、渋面を作った。
俺はみんなの命を助けられれば、それで良いんだ。
おそらく環はこう続けよう、あるいはこれに類することを言おうとしたのだろう。
そして、
――どの口が、
それを言うのか。
皆を蔑ろにし、欺くその身で。
そう、思ったのだろう。
彼自身の呵責が、そういう薄ら寒い言葉を紡ぐことをためらわせたのだろう。
帽子を目深にかぶり直した主君は心を閉ざし、口をも閉ざす。
――まったくこの方は、
放っておけぬ御仁だ、と村忠は苦笑した。
陰気な冷血漢と自他ともに認める己でさえこう思うのだから、いわんや余人は、言ったところである。
「よろしい。ではこの策は、僕の発案ということにしましょう。軍議の場で、僕が名乗り出て献策する。そうすれば、対外的にはともかく、内部においては多少風当たりが弱まるでしょうから」
環はその青い瞳を丸くさせた。
しばらく、じっと時間をかけた見つめ合いが続いた。
「助かる」
ようやく続いた言葉は、わずか一言だけだった。
悪い、とか、言い訳じみた弁解や、わざとらしいためらいは一切なく。
ただ村忠の忠節に対する感謝を、まっすぐ向けてきたのだった。
「ですから、環殿はいつもの通り阿呆でいてくださいね」
およそ臣下の口から出るはずがない暴言。だがその侮辱の中に、村忠は「これで貸し借りはなしですよ」という念を込めていた。
環もまた、そうした彼の意図を汲んで、苦笑して聞き流した。
「でもな、村忠」
と、次に主君から発せられた疑問は、村忠にとって予想し得ないものであった。
「この戦、勝つべきだと思うか?」
~~~
策、定まれり。
翌日、大三原に出張った環は覚王にまたがって周囲を駆けていた。
だが、
「お、お、おぉ!?」
環はそのじゃじゃ馬に揺さぶられて、御するどころではない。
今まで主人を乗せる機会が巡ってこなかった覚王は、いよいよ巡ってきたその時に心身を躍らせたようだった。
環とて武家の子である。
多少の馬術の心得はあったが、目を爛々と輝かせてはしゃぐ悍馬は「多少」では御しきれぬ。
猛進する覚王の前に、張られた綱があった。
それも目に入らないのか、彼はその蹄を留まらせない。
「うおぃ!? 待った、止まれっ!」
環は手綱を引き、制止をかける。
だが、その手綱を引かれるよりも早く、覚王は自らの肉体をくんっと曲げて急停止した。
しかし主は、
「だぁっ!?」
大きく揺さぶられ、振り落とされた。
虚空を回転し、背中をしたたかに打つ。
「こンの……駄馬っ!」
環の罵声もどこ吹く風、文字通りの馬耳東風。満足したかのように、覚王は生い茂った草を食む。
そんな人馬のやりとりは、羽黒兵からは嘲笑を、鐘山陣営からは呆れと落胆を買った。
「ちょっとはしっかりしろよ」
通りがかりの由基の、冷たい視線と言葉が、なんともこたえる。
そんな彼らは、一つところで調練している。
「次っ! 弓勢前へ!」
馬上の羽黒圭馬には、普段兄に振り回される情けない様子はなく、羽黒の副将に相応しい、堂々たる貫禄があった。
彼が指揮する将兵は、もっぱら彼と共に留守を預かっており、戦陣に加われない鬱屈を払うかのごとく、熱意に溢れ、かつ苦楽を共にした彼の言うことによく従った。
一方で、鐘山軍はと言うと、魁組はまともに参加していないわ、借り受けた一部の羽黒家の兵と緋鶴党連携は上手く行っておらず、由基はそれを意にもかけずに率先して突っ込んだりしている。
そも、戦に勝つためには五つの要素が求められる。
君臣いずれが密なるや。
現場を見れば羽黒と分かる。
天の利いずれにあるや。
それは羽黒の決めたこと。
地の利はいずれにあるや。
言わずもがな、ここは彼らの国である。
士卒いずれが精強なるや。
見るまでもなく羽黒である。
由基ならば羽黒の精兵とも渡り合うだろうが、それは彼女個人の力量であって、突出した武をちゃんと運用できなければ、それはかえって足手まといになる。
軍令いずれが明らかなるや。
これも羽黒。
「百戦して百勝は最善にあらず、とは言うものの、これだけ差がありゃ正攻法で勝ちようもないだろ」
流天組も、そこを理解してくれれば動かしようがあるものを。
だが、既に大州と魁組の理解は得られた。俺の策なら、五の内の三は得られる。
すなわち、天の利、地の利と、軍令。
羽黒圭輔のいる時に、羽黒圭輔の観戦する戦場であるからこそ、己の策謀は意味があるのだ。
そして水樹陶次よりの金品の一部を魁組に分け与え、水面下で兵を増やし、士気を高め、かつ諸所に金を配り、当日の席の配置も知れた。
……策の成否はともかく、準備に怠りはない。
規則の上で、兵数に上限はない、そもそも相手からそれを借り受けるほど貧窮した者らに、大した兵力が集められるとも考えてもいないだろう。
むしろ、羽黒圭馬の方がそれを慮り、人数を合わせてくれている。
「今回ばかりは、その人の好さに突け込むしかない」
「ほう?」
己の独語に背後から反応した男へと、環は反射的に振り向いた。
見れば、痩身の中年、もとい筆頭家老器所実氏が「や」とにこやかに手を挙げている。
「こ、これは実氏様!」
「ははっ、様付けなどご無用。公子と卒族、世が平時であればこちらが平伏しなければならん身分だ」
底抜けに明るい声で言うので、環も釣られて、口の端に笑みを浮かべる。
その実氏の手が、馬の背に伸びた。
この暴れ馬が大人しく撫でられている、という一事だけで、実氏という人物の偉大さもわかるというものだ。
「ははぁ、これが宗善公が町一つ焼き尽くしても欲したという名馬、覚王かな」
「なんでそんな話になってるんですか!?」
噂に尾ひれどころか背びれまで生えている。
「あぁ、貴公を擁しようと言う方々が、そのように吹聴して回っておられてな」
「……主人ともども、過大評価されているんですよ」
環は起き上がり、土のついた帽子を払って拾い上げた。
「そうかね? オレが見立てでは、いずれの武家のそれに劣らぬ駿馬だと思うが」
「脚が速いだけですよ」
「だが、この馬はよくその脚を止めた。あの速度では本来ならば横転し、貴公はその馬体に潰されていただろう。何より、繋がれていないにも関わらず、主人から離れようともしない。……何故かな?」
「……さぁ。心底俺をナメてるんじゃないですか」
と、なおざりな反応をしてみせる一方で、環は背に冷汗をかく。
――どうにもこの御仁には全てを見透かされていそうだ。
今更ながらに、羽黒圭輔とは別種の危機感を痛感するとともに、あの峻厳な才人が、冷徹さを見せない男の下風に立っている理由を実感した。
「ところで、実氏殿はどうしてこちらに?」
と、笑みを取り繕って、話題を切り替える。
「いやなに、舞鶴殿が張り切りすぎるゆえにオレの出る幕がなくてな。政務も一区切りついて、こうしてブラリと見物しているというわけだ」
「ともかく良かった。実氏殿にお尋ねしたいことがありましたので」
「何かな?」
「この戦場、どこまでが戦場でしょうか?」
ためらわずに発せられた問いが、軽く実氏の瞳を開いた。
彼は深々と俯いたかと思えば、肩を揺らし、いつものような呵々大笑で環を怯ませた。
だが、その後の実氏の返答は、環の問いに対する答えではなく、質問の核心を突くが如き答えだった。
「心配されるな。圭輔殿は好悪は激しいが、公明正大。圭馬殿もご承知どおり貴公には好意的だ。オレから言質をとらずとも、よもや事が終わった後に貴公らに『不正あり』とは訴えまい」
環は、思わず声が出そうになるのを押し殺した。
――この人は、見抜いている
ただ三、四言、会話しただけだというのに。
戦の強さではない。
智略政略でもない。
この洞察力と、相手にそれを不快と思わせぬ配慮と人柄こそが、この男を草莽の身よりかくの如き大身にまで引き上げたのだ。
――できることなら、この人のようになりたい。
環は畏敬をもって天下の五指に入る男を仰ぎ見た。
――だが、
同時に、一抹の不安が脳裏をよぎった。
この人は、臣下のその身で、あまりに聡すぎた。