「なんとも情けないこと」
「死者を前にして、怖気づくとは」
「腰を抜かすとは」
「それが順門の姫の姿か?」
「秩序をもたらす者の姿か?」
「帝より玉衣を下賜された者か?」
「宗善の娘か?」
「……あぁぁぁぁぁァァァァッ!!」
頭の中で永劫続くかと思われる呪詛は、彼女の悲鳴と覚醒によって途切れた。
「はっ……、はぁっ……、はぁ」
もはや日常茶飯事となったその一連の流れに、慌てて駆けてくる家臣はいない。
彼女、鐘山銀夜自身がそう望んだことであったが、これでは真に危機が迫った時でさえ誰も来てくれないのではないか。
あの雨の日、従兄弟である環との対峙以来、どことなくよそよそしい家臣たちの態度もまた、一層孤独感を強くさせた。
父以外に唯一態度を変えぬ者がいるとすれば、それは……
「誰かっ、誰かいるか!? ……朝心斎(ちょうしんさい)っ!」
呼び声に応じて襖を開けた、老臣である。
「はっ! 朝心斎これに。やはり、お休みになられませぬか?」
「あぁ、まただ! また誰かが城下で私を嘲弄している! 秩序を乱しているのだ! 至急 巡察に赴き、見つけ次第誅殺して来いッ! 新たな法度も設けなければならぬ!」
かつては美貌の一翼を担っていた銀髪は、不眠と神経の衰弱によって輝きを喪い、老人の白髪の如く痩せ衰えている。
目の下にどす黒いクマを作った少女には、幽鬼にも似た気迫、死相さえ見える。
だがこの老臣は、それに対して何の異も唱えることなく、
「かしこまりました」
と、頭を垂れた。
~~~
夜の市中に繰り出した朝心斎は、供回りを連れて無明の闇の中に身を任せ、酔いしれた。
――この静寂さこそ真の調和。
夜遊びに興じることさえなければ、町の明かりも、室内の光さえ必要がなく、我らが巡察の灯のみが闇を払う。
世とは、かくあるべきなのだ。
帝が、藤丘朝のみが、我らを導く輝きなのだ。
……だが、そんな美しさに水を差す、無粋な輩もいた。
曲がり角の辻。
そこにたむろしていた男たちを、目にした瞬間、朝心斎は二歩で接近して、無言で斬り捨てた。
彼らの足元には、今まで飲んでいたと思われる酒の徳利が転がっていて、清浄な空気を乱す発酵臭に彼は顔をしかめた。
「またぞろ、禁酒令を破る輩が増えましたな」
と言う家臣に頷き、
「この者らの親類縁者もひっ捕らえ、明朝までに共に梟首と処せ」
命じる。
「し、しかしそれはあまりに酷では?」
「構わん。それぐらいしなければ順門の民は真の正義に目覚めぬ」
朝心斎は、普段は表には現れることのない鐘山家臣である。
その存在は家中においても知る者は少なく、その主な任は、
「頭領」
暗躍。
この男は宗善の中に眠っていた叛意に気づいた瞬間より接近を開始。
巧みに彼を煽りながら、朝廷と宗善の橋渡しとなっていたのである。
そして見事反乱へと導き、今は銀夜の近臣となっている。
音もなく現れた忍に、老人は振り返り、尋ねた。
「『あやつ』はいかがしておる?」
「は。無事環の陣営に紛れ込み、疑いを抱かれずその信任を得ているとか」
「その割りには、報告が遅れたな」
「はい。魁組、緋鶴党、それと桃李の羽黒衆の警戒が厳しく、流天組の保護下でしか自由に動き回れない模様」
そうか、と主人は呟く。
しかし、と家来は付け足した。
「お喜び下さい。我らの正義に同調し、組員より一人味方につけたとのこと。すぐにでも環の寝首をかくこともできましょう」
――いや、と。
その案に対して老臣は否定を示す。
「奴は銀夜殿の前に引っ立てなければならぬ。雪辱を果たさなければ、姫の汚名は晴らせまい」
「承知。ではかの御仁には桜尾家に開戦をさせるようにとお伝えいたします。それと、こちらは御仁より、経緯の報告です」
と、その密偵は矢を取り出した。
やや黒味を帯びた鉄の鏃は、提灯のわずかな灯りさえも、飲んでしまうそうであった。