「ああ、あぁ、あぁ! 綴り紐がほどけておりますよ、殿」
「髪も整ってない」
「それに、色合いもよろしくありませんわ。桜尾公とその群臣にお会いするのですから、同心を示唆するためにも、桜色にした方が良いのでは?」
「いえいえ、むしろ葉桜を思わせる萌黄が」
「だぁぁ! うっさい! 節句の人形か俺は!?」
控えの間にて。
環は舞鶴、鈴鹿らといった女性に囲まれ、着飾られていた。
キャーキャーとつんざく声に辟易しながら、部屋の片隅に鎮座する幡豆由基に
「おい、お前が見立ててくれよー」
と助け舟を求めるも、ジロリ、凄まじい形相で睨み返され、空気が凍る。
やがて無言で立ち上がると、警護役の任を放棄するかのように、部屋を出て行った。
不機嫌さも、不遜さも、彼女を彼女たらしめる要素ではあったが、そこに言い知れない違和感があるのは、環も感づいていた。
「最近のユキ、怖いね」
「えぇ。なんだか近寄りがたい雰囲気になってしまって」
「ここのところずっと夜抜け出して、出歩いているみたいだわ」
そしてそれは今日ばかりのことではない。
彼女の変質の契機となったのは、大三原での試し合戦。
そこから彼女の心境にどんな変化が起こったのか。
察することはできたが、完全に把握できるはずがない。あるいは本人とて、言葉で言い表せない感情なのかもしれない。
「そんなことより、そろそろ刻限ですよ。この度は今まで以上の真剣さで挑まねば」
舞鶴の促しの言葉に「真剣さなんてどの口が言うんだ」と思いつつ、素直に頷く。
確かに今この場においては、悪友の心よりも、ようやく面会のかなう桜尾府公の心根こそを知りたいものだ。
そして友人よりも己の都合を優先する己を、環は嫌悪するのだった。
~~~
「鐘山殿、参られましたーァ」
やや間延びした声に導かれて、 侍烏帽子に直垂姿の環は大評定の間に参上した。
所定の座につくや、数夜かけて舞鶴に教え込まれた礼儀にのっとり、頭を下げる。
「環公子、面を上げられよ」
声が、頭の上に降ってきた。
つい、聞き漏らしそうになるほどに、弱い。
府公は長く病臥していたというから、その声こそが桃李府公桜尾典種のものであろう。
とは言え、祖父や父の他に初めて見る、大国の王である。
相応の緊張感に身を強張らせながら、環は恐る恐る首を上げた。
今環の視界に広がった光景にこそ、桜尾家百二十万石の、真の姿があった。
主君を護るかの如き群臣は、環から見て左手に器所実氏、羽黒圭輔ほか、釜口、本林、相沢。
対する方面には嫡子義種、次男重種(しげたね)、三男西種(にしたね)、野波(のなみ)、千田(せんた)、曲輪道(くるわみち)などがいる。
この対峙がどういう関係を示しているのか、ほとんどが初対面の環にも分かりきったことであった。
転じて、目の前に腰を下ろす老人を環は熟々と見つめた。
かつて、帝と宗円との戦い……いわゆる『順門崩れ』において官軍に身を置いた府公。脱落者相次ぐなか最後まで戦場に身を留め置いた猛将。自分の父や祖父、そして叔父と戦ったという、不屈の宿敵。
だが……
――あれ?
それが、恐ろしいとは感じられなかったのだ。
年老いてなお肌には白く光輝が残っている。眼光は鋭く、重ねた戦いと経験の数を知らしめるに十分。
にも関わらず、環の心には覚悟していた衝撃はなく、恐怖心さえ感じない。
その白い肌には、人を惹き付ける神秘性が存在したのだろう。だが今は、黄斑とシワに侵されている。
鋭い眼には、周囲に威武を与える力があったのだろう。だが、白濁した黒目の周囲には、紫がかったクマができていた。
枯渇した川底から川の水量を読むように、あるいは根本から折れた樹木の太さから、大木であることを推測するように、往年「あった」ものを「あった」と示すだけの記号でしかない。
脇息にもたれ、座るのもやっとというその老公よりもむしろ、環は……
と、そこで何気なく視線を向けた先、羽黒圭輔の茶色の方の目と目が合った。
慌てて面を伏せる環は、我に返って口上を述べた。
「ご尊顔拝し恐悦至極。順門公子、鐘山環にございます。この度は我らのような寄る辺も持たぬ者を受け入れていただき、感謝に堪えません」
「気になさるな。遠路はるばる、よう参られた。……余はもう目が利かなくなってしまってな。どれ、も少し近くに寄って、お顔を見せていただけぬか」
そう言って手招きする典種に応じ、環は膝を進めようとした。
だが、そこにすかさず派手なしわぶきが座に響いた。
「あ、失礼」
詫びたのは、器所実氏である。
一瞬、群臣同様訝しんだ環だったが、彼の意を理解するのは誰よりも早かった。
すぐさま脇差しを外し、丸腰となってから身を近づける。
同じく脇差しに指をかけていた圭輔は軽く実氏を睨み、実氏は笑って肩をすぼませた。
そのやりとりを見て、確信に至った環は背を凍らせた。
自分は今、死ぬところだったのだ、と。
――ホント怖いな……この人。
あのまま武器を携帯したまま自らの父に接近していれば、その非を鳴らして圭輔に斬られていたに相違ない。
強ばる笑顔を近づける。
また近くに来るよう招かれて、さらに前進する。
やがて互いの息遣いが聞こえるまでの間合いに達し、外野にいる桜尾家臣団がざわめいた。
だが間近でよく見ても、桜尾典種は老将ではなく、ただの老人であった。
祖父宗円や、あるいは三戸野の翁が持つ何かが足りない。何かが抜けてしまった。誰のせいでもなく。何が原因というわけでもなく。
あるいはそれを覇気と言う。あるいはそれを、天命と言うのかもしれない。
――ならば、その天命はどこに消えたのか?
「余より圭輔が恐ろしいか?」
声が、ふいに聞こえた。
息を呑んで、環は老君を見返した。
他の誰も聞こえてはいない。自分にだけ、桜尾典種は囁いたのだった。
以前その瞳は濁っていたが、大国の君主たる風格を、環は感じることができた。
「もう良い。下がられよ。環公子」
そう言ったのは、嫡男義種である。
慌てて引き下がり、再礼する。
ゆっくりと、時間をかけて頷いた典種は、自らの配下をぐるりと見渡した。
「さて……環公子が加わったところで、先日の議にて余の決心は既に固まっておる」
最終的な決定権を持つこの男がそう宣言したため、環は固唾を呑んで見守った。
「……我らは、かつて順門府において散々に苦杯を舐めさせられながらも、最後まで朝廷に付き従った。この中には釜口、器所をはじめ、余と共にその戦陣におった者もおろう」
何故、突然昔語りをするのか?
――それは未だ、『我の心は朝廷にあり』と示しているのか?
環はそう感じたが、それにしては妙だとも思う。
当の圭輔が、喜色を発していない。
むしろ即座に斬りかかろうとしたほどの不機嫌さから察するに、むしろ、それは……
「我らは、環公子を順門府へ送り返すべく、近日中に西進する」
羽黒圭輔と鐘山環の息を飲む音は、ピッタリと重なった。
顔を上げる順門公子に、老君は体力の許す限りの、最上の笑みを見せて言った。
「敵味方を入れ替えることとなるが、桜尾は共に轡を並べる者を最後まで見捨てぬ。無論、全面的な援助はできぬが、どうか環公子も、出陣までに準備していただくよう……」
余りある温情に、環は喜びを露わにした。
「あ、ありがとうございます!」
圭輔の無言の圧力をいなし、環は再び額を木床につける。
誰からも顔が見られなくなったと察した時から、環の顔から表情は消えていた。
~~~
「桜尾家が開戦を決めた経緯を調べろ!」
略礼服を荒々しく脱ぎ捨てる環に、
「かしこまりました」と舞鶴が応じる。
一方で、響庭村忠はいまいち容量を得ない様子だった。
「環殿の案の通りとなったじゃないですか。いったい何が不満なんです?」
烏帽子を剥ぎ、いつもの朱羽織にその身を包んでから、環は村忠を顧みた。
「だからなんの悶着も起きずそうなったのがおかしいんだ!」
……そもそも鐘山家はこの数十年、桜尾家と一進一退の戦闘を繰り広げてきた。
鐘山家にとって桃李府は朝廷に通じる唯一の陸路であるがゆえ。桜尾家は勅命に強制されて。
道義的に見ても、その不倶戴天の両者が朝廷の意向に背いてまで手を結ぶわけがなく、実際は反戦を唱える圭輔が正論なのである。
考えるまでもないはずの国論が二つに割れているのは、圭輔の躍進を快く思わぬ一派がこれ幸いと乗じただけに過ぎない。
さらにそこにつけ込んだ環に言えた義理ではないが、圭輔に正当性があった。
老いたといえその父典種も、そのことが分からないはずがない。
そもそもここまで早期の出兵は、環の望むところではない。
兵も装備も未だに不足。それに桜尾家を完全に後ろ盾とするには、圭輔の了承が不可欠だ。
彼の意思を無視した出陣は、危険をともなう。
「……必ず理由があるはずだ。桜尾家だけじゃない。圭輔でさえ予想できなかった方面からの介入があったはず。おそらくそこには叔父御の息のかかったヤツがいる。そいつを炙り出せ。舞鶴は圭馬殿との面会を取り付けてくれ。彼を通じて圭輔に釈明する」
「承知」と、村忠が理解と納得、両方を示した。
「ですが、良いんですか?」
「何が?」
「これが出過ぎた忠心ゆえのただの愚行か、あるいは貴方の言うとおり内通者の謀略か。どちらにせよ、こちらの準備が整わない出陣を誘導するからには、こちらの準備不足を知っている人間。つまり……」
……環陣営の事情に精通した、ごく身近な人間、ということになる。
そんなことは、村忠に指摘されるまでもなく分かっている。
彼はあえて口にすることで、自らの主に喚起を促していた。
「篩に揺さぶられた砂利どもが、うるさく鳴り始めたようですな」
環は答えず、いつもの帽子を目深に被り直した。
~~~
結局羽黒圭馬との面会がかなったのは、親環派、もとい反羽黒派への挨拶回りが済んだ五日後のことだった。
会見の場所は城下の外れ。舞鶴と所縁がある小さな山寺。人目を避けて行われることとなった。
「本当に護衛もつけず、お一人で大丈夫でしょうか?」
山門まで見送りに来た舞鶴は、そう言って懸念してみせた。
いつになく不安げな尼僧に対して首を振り、
「かえって兵を増やせば疑われるだろ。羽黒にも、『敵』にも」
耳慣れぬ『敵』なる語句を、環は苦味とともに噛み潰した。
その可能性はある、という覚悟はずっとしてきた。己自身でそれを煽った自覚もある。
それでも実際に数年来の友人の中に潜在的な危機、己より宗善を選んだ者がいるという事実には、軽い衝撃と脱力感を覚える。
環が首を振ったのは、そういう雑念を振り払うためでもあった。
逆に、舞鶴へ問い返した。
「と言うか、お前らしくないな? 羽黒方に何か動きでもあるのか?」
「うーん、動きと言いますか、なんと言いますか?」
持ち前の緊張感のなさを存分に発揮しながら、舞鶴は胸の盛り上がりの下で腕組み、うにゃうにゃと唸る。
と、思いきや、
「ま、いっか」
アッサリその懸念を放棄した。
……時として、このあっけらかんとした雑さが、怖い。
そんな不老生物の言動に首をひねった環であったが、何はともあれ、会談である。
羽黒屋敷から義種の居館に身を移し移て以来の顔合わせだった。
「……にしても」
二畳ほどの小部屋の中、特に暇を潰せる娯楽も友人もなく、時間が経つのが遅く感じるということもあるが、それでも圭馬が来るのは遅いとも思う。
もう黄昏時で、小腹も空いてきた。
我慢しきれず、足を投げ出した時だった。部屋の外から足音が聞こえて、慌てて姿勢を正す。
木戸が開けられるのと同時に、満面の笑顔を作って
「やぁどうも圭馬ど」
その笑顔が、固まった。
「やぁどうも環殿。羽黒圭輔です」
羽黒圭輔と名乗って現れたその男は、枯れ草色の髪を、金銀両眼を持っている。
何故か右手でキジの首根っこを引っつかんでいるが、どこからどう見ても羽黒圭輔だった。
環は視線を正面に戻した。
わずかに間を置いて後、改めて戸の方を向き直る。
どう見ても、羽黒圭輔である。
次に、環は自分の気のせいだと思うことにした。
目をこすったり、タップリ時間をかけて瞑目したりして、とかくソレが視界に入らないようにした。
そして改めて戸を見た。
何度見ても、羽黒圭輔である。
次にこれは白昼夢だと信じることにした。
木戸を閉じてばたんと倒れ、ほんの少しの間、突っ伏せて、心が落ち着きを取り戻すのを待つ。
やがて不自然な動悸が治まって後、一気に戸を引くと、やっぱりそこには羽黒圭輔。
多分ここまで来たら、何百回見てもソレは羽黒圭輔なのだろう。
「…………あれーぇ?」
「弟の名代としてやって来ました、羽黒圭輔です。どうもよろしく」
聞き慣れた声で男がそう名乗った時、ようやく環はソレが羽黒圭輔だと認めた。