「圭輔殿と公子殿はいったい今、どうしているでしょうな?」
「さぁ? まぁ、上手くやってるんじゃないでしょうか?」
「ハッハ、『あとは若い二人同士』というやつですか」
器所実氏は、勝川舞鶴の盃に酒を注いだ。
それを受け取る白い指先が、器を弾いて鳴らす所作が、夜光に照らされ艶めかしい。
蓮花城下の器所邸は、我ながら無骨の極みともいうべき構えだが、今の時期は庭先の虫が美しい音色を奏でてその無粋さを和らげる。
「……こうして、向かい合って酒を酌み交わすのは、初めてですな。舞鶴殿」
「えぇ、『順門崩れ』で出会って以来」
「覚えておいででしたか」
三十年近くも前の、和議での話である。
その頃実氏は未だ二十歳、新進気鋭の小物で、舞鶴とは確かに言葉を交わしたことがあるが、それもわずかな会話とわずかな時間でのことである。
軽く驚きを込める実氏に、舞鶴はニッコリと頷いた。
「……なにやら、気恥ずかしいですなぁ。ははは」
まるで童に帰るような心地がして、実氏は頭を掻いた。
対して無言で笑みを向けるだけの美女に、つい世辞なども言ってみたくなった。
「にしても相変わらずお美しい。あの頃のオレなど、貴方が勝川舞鶴でなければつい求婚していたやもしれませんな」
「まぁ、では今は?」
「ハッハハ、家内がおそろしゅうておそろしゅうて、とても言えません」
「あらあらあら」
口元に手を当て、童女のように笑みを弾けさせる。
だが、その笑顔はどこか遠いもののように、遠くへと向けられるような感じさえした。
「ですが」と。
わずかな衣擦れの音と共に、舞鶴は裾を払い膝を揃え直す。
「奥向きのことはともかく、かつての貴方であれば、仕えても良かったと思いましたよ」
まるで初恋の相手にかつての慕情を告白するように、はにかみながら舞鶴は言った。
だがそんな表情とは裏腹に、その言葉はよく考えずとも辛辣だ。
「……では、今は?」
「ダメですねぇ。いかんせん、歳をとりすぎています」
「はっはっは、これは手厳しい!」
おのれの髪の生え際をぴしゃりとはたきながら、実氏は快笑する。
「まっ、家臣としては望み以上の地位をいただいておりますからな。舞鶴殿がおらねども、良い人生と言えましょう」
「そ、最大の原因は、それ」
舞鶴は男の着物の袷、実氏の胸板に指をやる。
間合いか開いているというのに、それだけで直接撫でられているような微妙な気分に陥らされる。
「だって貴方、才能はあるのに天下に望みなどないでしょう」
「…………酔っておいでかな、舞鶴殿」
「病弱な典種公を除いてでも先へ進もうという意志がない」
「酔っておいでだ。舞鶴殿、でなければそのような戯れ言、吐けようはずがない」
軽く怒気を発する実氏にも、舞鶴は動じた様子はない。
一人酒のように手酌で酒を汲み、濁酒を喉へと嚥下していく。
「まったく、困ったものですね。貴方にせよ、信守卿にせよ、残りの『天下五弓』ことごとくが、天下を求めていない。典種坊やの尽きかけた天命など、軽く超える大才を持っているというのに。風祭康徒にはその野心があったようですが、最期の最期で策を弄したツケが回ってきましたねぇ」
「……では、貴方は? 残りの一人たる貴方には、それがあると?」
「私は、ダメですねぇ。いかんせん、この手を汚しすぎました」
「ゆえに、公子殿を担がれたのかな? 貴殿であれば、主が誰であれ容易く天下をとれそうなものだがね」
勝川舞鶴は、うっすらとその目を細めた。
人の無知を嘲笑うようであり、余人の知り得ぬ遠き時代に、想いを馳せているようにも見える。
「若気の至りですね。そう考えていた時期もありました。主を必要としない国づくり、それを目指したことが」
「ほう?」
「そう……例えば仏陀という『この世界には』いない聖人をでっち上げ、君主ではなく仏法にて世を支配しようともしましたよ」
…………何か、とんでもないことを、サラリと言われた気がする。
「……は?」
世の根底を覆す発言を己では気に留めず、目の前のおぞましき尼僧はしみじみと酒を呷る。
「ですが、ダメでしたねぇ。諸王に弾圧されて、一部の文化と風俗が定着したぐらい。全ての人に信仰を植え付けるどころか、一国さえ保てませんでした。いやぁ、蓮如上人がどれほど苦心し、どれほどの僥倖に恵まれていたか、骨身に染みましたよ」
いけませんね。
自分で信じていない教えを他人に押し付けては。
ソレは、おおよそ僧形の身とは思えないような大暴言を、酩酊の呼気と共に吐きだした。
「ただまぁアレはアレで面白かったですよ。会えるはずもないのにその直弟子が現れたり、格言が作られ法が作られ、経典が作られ寺が作られ……宗派には微妙な異なりを見せども、みるみるうちに、私の知る形へと変わっていったのは」
――何を……言っているのだ。この、女は……
悪い酒でも飲んでいるようだ。
実氏とて、自身の功名が神仏のご加護と感じたことはいくらでもある。
それに縋り、それを心の助けとして日々邁進する者も、貴賤を問わず、少なからずいる。
それが全部、この女の作り話と?
奇跡や瑞兆、天命が全て……己らの気のせいだと?
都の門跡あたりが聞けば、狂死しかねない。
そしておそらくそれは真実だろう。
皮肉にも今まで経験で培ってきた洞察力が、この女が虚言を吐いているわけがないと、本能的に認めているのだった。
舞鶴はそれを、宴の戯れとして暴露したのだった。
――こんな恐ろしい女を、
今の順門府は敵に回してしまった。
その不幸を当面の敵ながら哀れんだ。
「で、悟ったのですが」
聞くに堪えぬ話。こちらの気分が分からぬでもないだろうに、舞鶴はニコニコしながら続けた。
「結局のところ、国家も、秩序も、所詮は人を容れる器でしかなく、人がその盛衰を決める、ということです。名君が運用すれば国は富み、悪臣があい諮れば妙法も悪法へと変わる。藤丘朝がその好例でしょう。永遠は国家にも人にもない。絶対の秩序などない。一株の樹に付けられる花実など、数が知れています」
ならば、何故人は国など作る?
何故この人は、無意味と知りつつ鐘山環を主と仰ぐ?
暗黙の問いに対する、舞鶴の解答はと言えば、
「かくれんぼ」
という、五字だった。
「彼の祖父、宗円公が亡くなられた時、戯れに隠形の術にて忍び歩いたことがありましてね。誰もが私を見ても認識できない中、あの幼い君だけが、私を見つめていた。見つかった鬼は、見つけた彼のモノになるのが道理、というわけです」
「ただ、それだけの理由で……?」
それだけの理由で仕えたというのか。
それだけの理由で、あの少年を修羅道に招き入れたというのか。
「あぁもろろん、私の術を破った眼力を見込み、主を仰ぐことに決めたのですが。でも……まぁ全ては戯れ。私が見つけたその種子が根を張り、育つさまを観察して愛でたいのです。実をつけぬ徒花であるかもしれませんが、それも一興、一興……長生きついでのヒマ潰しですよ」
ほぼ、悪夢でも見ているような気分で、不老の女を実氏は見つめる。
――何故オレはこんな女を招いたのか……?
と、今さらながらに後悔する。
だが、酔いにうるむ客人の黒目に、雨下の野良犬の如き自身を見た時、実氏は苦笑と共に頬を叩いた。
――いかんいかん。
『天下五弓』の五将のうち、自分が他の四名より劣っている、言わば『後付けの一将』であるという自覚はある。
その四名に負けないものがあるとすれば、笑顔の出来であり、それこそが実氏の最大の武器であったと言って良い。
今までも、これからも。
舞鶴に酒の徳利を突き出すと、彼女もニッコリ笑って杯を差し出した。
「貴殿が環公子に仕える理由は分かりました。ですが、仕え続ける理由は?」
「ん?」
「先ほど言ったではありませんか? 天下への望みがないのが、オレたちの欠点である、と。ならば公子殿には、それがあると?」
くすり、と。
舞鶴は、さも面白げに顔をほころばせた。
実氏もややぎこちなく笑み返し、「何か?」と問い返す。
「いえねぇ……だって、先ほどから実氏殿はまるで子どものように、どうして? 何故? などと問うばかり。……この世に解のある問いなど、ほとんどないというのに」
「それでもなお、答えを求めて問わねばならぬのもまた、人情というものでしょう」
結局、勝川舞鶴は酒を一口飲んだきり答えてはくれなかった。
二人の沈黙をコオロギの澄んだ音色が癒しながら、夜は穏やかに過ぎていく。
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男は、羽黒圭輔と主鐘山環が密会していることを知っている。
器所実氏と、勝川舞鶴が酒を飲み交わしていることを知っている。
――だが連中は、おれがこうして暗躍していることは知るまい!
男はそう誇りたくなった。
碁石金の前にてだらしなく頬を緩める桜尾義種に、叫んでやりたくなった。
城下の料亭、公子なじみという芸妓が奏でる琴の音と自らの功績に、しばし酔いしれた。
「……確かに、受け取った。六番屋殿にも確かにお伝えしよう」
「ははっ」
「この金さえあれば今後の展開もやりやすくなる。特にあの口うるさい愚弟がおっては、貴殿らもやりにくいだろう」
「はい。ですがそれにつきましては我らに秘策がございます。義種様にはご懸念なきよう、軍備に励んでいただきたいと思います」
「期待しよう」
悠然と、泰然と、かつ気品に満ちたそぶりで、公子は頷いた。その辺りを見ると、最低限とは言え、大国の主の息子としての所作は持ち合わせているように見える。環にはないものである。
だが酒によってたるんだ顔の肌膚と、腹周りの贅肉は怠惰で凡愚な正体を透かして見せているようだった。
――それでも、この男には利用価値がある。
舌先によって貴種が意のままに動く快感を味わえるのは、天下広しと言えど自分ぐらいだろう、という自負さえも生まれた。
もはや何も怖くないというような気さえする。
「ところで……これは環殿もご承知のことであったかな? 軍議の場で妙な顔をされていたが」
「ご安心を。承知のうえでございます」
「そうか。いやそうであったか……ま、どちらでもいいことだがな」
――知るわけがない。
男はひそやかに二人の公子を嗤った。
そもそも己がこうして活動していることも、その才も見抜けないような愚物である。この旅の中で、小才らしきものは見えたがそれだけのことだった。
圭輔には良いようにやられ、実氏には翻弄され、模擬戦では家臣団に恥をかかせた。
――自らの命運をあのような愚将に託すのは危うい。
そう察したのはまず自分が一番早かったはずだ。
同じ流天組内にて同志を得た男は、すぐさま行動を開始する。
こうして根回しはもちろんのこと、雑多な任務に東奔西走した。
それがいよいよ形になりつつある。
――順門に帰れる日は近い。
立ち上がり、夜風に我が身を当てながら、義種は謀主の名を呼んだ。
「では、今後もよしなにな。……色市始殿」
「お任せ下さい」
弁士は不敵な笑みを見せた。