環、舞鶴がそれぞれの相手と相伴していた頃、響庭村忠もまた、ひそかに行動を起こしていた。
城の郊外にある桃の木。花見の時期も過ぎ、虫が湧くゆえ誰も近寄らなくなったそこで、村忠は、その根本を睨んでいた。
「……やはりな」
膝をつき、掘り起こされた土の痕を見、一人呟く。
以前、ここに主君、鐘山環と協議のうえであるものを埋めていた。
彼が正使として訪問した中水府、その副盟主である水樹陶次からの手土産の一部。
亥改大州の策と褒賞として使い切れなかった金穀の残り。
浪人衆を再び集める、軍備を整える、その一助とするために、蓄えていたはずのものがない。
土の色は濃く、新しく、誰かが立ち寄って盗みとったことは明白だった。
――犯人が単なる野党の群れであればまだ良いけどな……
時機からして見ても、内通者が桜尾義種らの手に賄賂として渡し、ひそかにその謀略の後援をしていた可能性が高い。
――そしてこの隠し場所は環殿、僕ら流天組や魁組の幹部連中、それと舞鶴殿でしか知らなかったことだ。
と言うことは盗人はやはり、この中にいる。
「……ともかく、この辺で良いかな」
立ち上がろうとした、まさにその刹那だった。
……殺意が、矢の形をして彼の肩口に飛来してきたのは。
「ぐっ……っ!?」
鉄の鏃は彼の肩ではなく、それを庇おうとした左腕に食い込んだ。
その柄を腕から生やしたまま立ち上がると、周囲を黒覆面で隠した男たちが、十数人、音もなく歩み寄った。
木々の間の月光に、彼らの手にある白刃が凶暴なきらめきを見せる。
――いつの間に……
その気配の消しよう、直前まで気づけなかった足の運びに、相当の修練を感じさせる。
流天組、魁組にはない、陰々滅々とした独特の雰囲気。
強いて言うなれば、舞鶴の緋鶴党や忍びに近い。
だがその質はどうも違うような気がする。
覆面越しにしかその顔が窺えないが、もはや彼らは老兵の域に差しかかっている。
「大義のため……」
「朝廷の御為……」
「帝のご恩に報いるため……死すべし」
木石の如く冷淡な緋鶴党員と違う。強烈な個の意志、くぐもった低音にはそれを感じさせられる。
「きエェェエい!」
猿のような叫び声を張り上げて、そのうちの一人が飛びかかった。
村忠は刀を右手一本で抜くと、そのまま敵の胴を払う。振り抜きざま蹴り飛ばし、その勢いを借りて大きく転身した。逆方向から二番手の肩口に返した刀を押し当て、一気に切り下ろす。
だが、己の身がどうにも重いことに気がついた。
決して負傷の痛みのみが原因とも思えない、身体の鈍さ。
一刀、一刀と撃ち合うごとに、妙な疲労感が蓄積していった。
矢傷が、不自然なまでに熱を帯びている。
――毒か。
その傷口に気をとられた一瞬、鈍麻した彼の感覚が、別方向から飛んでくる矢を見逃した。
正確無比とも言えるその一射に気がついた時には、手遅れ。
睫に触れるのではないかという、至近にあった。
かつ、と。
乾いた音を立てて、矢は落ちた。
片目の一個は覚悟していた村忠であったが、その彼を、一本の小太刀と一人の少年によって救われた。
「良吉……ッ!」
思わず少年の名を呼んだ瞬間、外野より
パン、パン
という破裂音が聞こえてくる。
動揺を見せる刺客の一人の胸から、
「ぐぅ……おッ!?」
と、大太刀の刃が生えてくる。
半ば死体を背後から蹴り、姿を見せたのは亥改大州であった。
不敵な笑みを見せる悪相の青年に、誰かが甲高く叫んだ。
「気にかけるな! どうせ舞鶴の百雷筒だ!」
大州は己の小細工が露見したにも関わらず、なお嘲笑を保つ。
葡萄のように吊し出したそれを見せびらかしながら「そうとも」と頷いてみせた。
「だが武門でなる桜尾家のご城下でこんなもん鳴らしゃ、すぐ誰か駆けつけてくるぜ? あんたらにしても、桜尾家中にバレるとマズイんじゃねぇのか?」
対する答えは、言葉としてはなかった。
だが、村忠たちの間合いの外、赤い火矢が矢天へ向けて飛翔した瞬間、男達は四散した。
後に残った三名の死体が放置されている。良吉が後へ追おうとするのを、
「追わなくて良い……っ」
と制止する。
だが、その大声が決定的だった。
今まで緊張と戦意でなんとか保っていた体勢は大きく崩れ、刀が手からこぼれ落ちた。
「お前ら……なんで……」
「俺は黒いのから。そいつは大将から指示されて、あんたの護衛に来たってところだ。て言うか、一人で出歩くなって通達あったはずだがね」
「それは」
「まぁその矢傷は、勉強代だと思っておけよ」
大州は負傷者を労る様子もなく、嘲るように見下ろしている。
草に頬をつけながら、村忠は苦い唇を噛みしめる。
確かに、この負傷は自分の手落ちだ。
おそらく連中はこの掘り起こした後を餌に、環派の誰かを討つべく潜伏していたのだろう。
そうとは知らず、うかうかと近寄ったせいで、こんなハメにも陥ったというわけだ。
――まさか内通者がこんな兵力を隠し持っていたとも思えなかったし。
知恵者を気取りながら、敵の力量も読み間違えるとはなんとも間の抜けた話だ。
――だが、このままでは終わらせない。毒には毒でもって罪をあがなわせてやる……
そう決意し、毒が脳内に回るよりも先に、策を講じる。
村忠は、辛うじて動く指で以て、近くの二人を招き寄せる。
近づいてきた二人に耳打ちし、村忠は達成感と安心感により、力尽きて倒れた。
~~~
村忠が運ばれた、城下の薬師宅。
その奥の間で眠る村忠は、大州により担ぎ込まれ、良吉によってそれぞれに伝えられた。
幸いにして彼は一命をとりとめることができた。それは、良吉の応急処置が的確であったからで、
「やれやれ。わたくしにこれ以上できることなど、ほとんどありませんぞ」
「いつもはそうは見えんが、流石は医師の息子だな」
と、本業と豊房に言わしめるだけの手腕であったという。
今は薬の効力により眠っているが、しばらく後を引きそうというのが良吉と、その薬師の一致した見立てであった。
その薬師が看病をしている間、その玄関口にて一同は立ち往生しているしかなかった。
「『村忠が矢で射られた』。そう俺たちに伝えるよう言われたんだな?」
どことなく誇らしげな良吉は、環の質問に顎を引いた。
彼が切開して取り出した矢は、欠損することなくほぼそのままの状態で摘出されていた。
「はあ、ハアッ……村忠が死んだってのはほんとなのか!?」
色市始が息を弾ませてやってきたのは、環から遅れること半刻。
途端、その不謹慎な発言に、その場にいた全員の険しい視線を浴びる。
――ハイ。バカ一人発見。
わずか一言で己が内通者だと告白してくれるとは、なんとも気の利いたことだ。
こんな口の軽い輩が今まで秘密を隠しおおせていたというのは信じがたい。
何より、色市の弓の技能は知っている。能ある鷹は云々という例えもあるが、自分の見込み違いでさえなければその可能性も低い。
――もう一人、この中にいる。
「まだ生きてるっつーの」
「あ、え、と……」
不謹慎を咎めるその険しい視線のうちの一つが、おそらくは彼の不用心をたしなめるものであったのだろう。
各人の目、戸惑う始の視線を環は順に追っていったが、流石に内通者両名とも、この時視線を交わらせるまで迂闊ではないようだった。
「あぁ。こいつで射られたが、なんとか助かったみたいだ」
と、環が鏃の方を向けて手渡す。つい反射的に手を伸ばした色市を、豊房が
「おい!」
と制して止めた。
「言ったはずだぞ。それは毒矢だって」
「げっ!?」
と。
慌てて取り落としそうとなる始から矢を取り戻し、由基を見た。
彼女の表情が、わずかに、だが確実に歪んだことを、彼女の幼なじみとして見逃さない。
「冗談だって。ちゃんと洗い流してあるよ」
と環は笑いながら、内心鋭く矢を観察する。
毒の種類までは不明だが、スズランの毒の症状に似ている、というのが薬師の見解であった。
そして『順門崩れ』の際、そうした毒矢を順門の土豪らが好んで用い、官軍を大いに苦しめたとも伝えられている。
――それにこの鏃の返し……魚骨にも似た独特の形状は、順門府、南沿岸部特有の……
と、思考するうちに、少女の手が環の手から凶器を奪い取った。
環には断ることも、拒むこともできなかった。
「誰だか知らねーが、ナメたマネしやがる」
と、由基は口では言いつつ悔しさのようなものは見せない。
逆に、敵の正体に至るための貴重な証拠を、か細いその手で叩き折ってしまった。
「だが、自業自得でもあるんじゃねーか?」
「なんだと?」
「村忠は、あんな場所で何してた? お前、何をあいつに吹き込んだんだ? 何で襲われた?」
「そ、そうだっ! 妙ではないか!?」
由基の質問攻めに、劣勢であった始も便乗した。
どちらを嗤ったものか。時折大州の喉奥から忍び笑いが漏れ聞こえ、それがますます少女の怒りの炎を盛んにさせた。
「だから、それは」
説明しかけて、環は止めた。
この幡豆由基が、環の弁解を求めているわけではないと察したからだった。
「そうか……そうだったな。俺のことが信じられないんだったよな? お前」
意図して険しく言ったわけではなかった。
だがこの言いぐさこそが、今の二人の、冷え切った関係を象徴するものだった。
「やめろ。死地を脱した同朋の前だぞ」
豊房のたしなめによって、その場は事なきを得たが、由基の両目には不満の残り火がくすぶっている。
鼻を鳴らすと、弓を担ぎ直して踵を返す。
その後ろに色市がすがさず従い、豊房も遠慮がちについていく。
彼らにかける言葉を、今の環は持ち合わせてはいなかった。
~~~
響庭村忠は、三日三晩眠り続けた。
意識を取り戻したと聞いて、薬師宅へ単身駆けつけた環を出迎えたのは、
「……ヒマな人だなぁ」
布団に潜り込んだ村忠本人と、普段どおりの彼の悪態だった。
「お前な。ふつうは主の見舞いに対する礼とか、独断専行の詫びとか、そういうのを口にするもんじゃないのか?」
「まぁ確かに。今回ばかりは才走り過ぎましたね」
等と、悪びれもせず平然と言って、主の頭を悩ませた。
薬草の帳をくぐった環はその傍らに腰掛け、ふっとため息をつく。
濃厚な草花の香りが、容赦なく辺りを侵している。
挨拶にやってきた薬師に対し、相応の謝礼に上乗せ分を足して、しばしの人払いを依頼した。
邸宅から、自分たち以外の気配が消えたのを確認してから、問う。
「で、どうだ経過は?」
「んー、舞鶴殿の薬酒のおかげもあって、だいぶ楽になりましたよ」
「あれをか!?」
薬酒と聞くと、滋養が舌と口と胃の腑で大暴れした苦い経験しかない。
「ただ戦に出られるかどうかは、微妙ですね」
己の副将を自負する青年は、そう言ってほんの少し悔しげに顔をしかめた。
傷に障らないよう、優しくその手を村忠に添えた。
「気にするな。まぁ今回お前は鈴鹿と同様、桃李府に対する人質だ。その中でできることをすれば良い」
それに、と居住まいを正し村忠に口を近づけて、低く囁いた。
「お前の策は、もう既に役に立った」
村忠は、大州を想起させる悪漢の笑みを浮かべた。
ただ小動物的な顔の作りからすれば、それは賊と言うよりかは民話や戯画のタヌキや狐に近い。
「僕の毒が効きましたか?」
「一人は色市のバカタレ。もう一人はまだ確証が持てないが、あいつ一人に諜報を絞れば、遠からずその素性もハッキリしてくるはずだ。お前には出陣中、緋鶴党十名ばかり預ける。上手いこと使ってそれを洗い出して欲しい」
「分かりました。あぁ、それと進言を」
「ん?」
「色市も、そいつも、しばらく踊らせておきましょう。ヘタに動けば気取られます。色市の粗忽者は自信過剰。放っておいても、協力者を巻き込んで自滅しますよ」
「俺もそう思う。舞鶴も同意見だった」
くすくすと、二人して笑い合った。
その笑いの切れ目、環の胸にふと、暗い影が過ぎった。
「どうしました?」
「村忠。少し気になることがある」
「それは?」
「お前の貌が見えない」
「はぁ?」
「村忠はどうしてこんな死にかけてまで俺と共に在ろうとする? さっきにしてもそうだ。お前の物言いは、俺から憎悪をそらすために振る舞っている部分もあるんだろ? どうしてそこまでする?」
帽子を深くかぶり直して、いつぞや、圭輔に問われた時と同様の問いを、改めてぶつけた。
それに対する返答と言えば。
一、冷視。
二、露骨なため息。
三、「貴方ほんと残念な人ですね」
「……また、残念て言われた」
主君に向けられたと思えない悪口に、環が気落ちしなかったと言えばウソになる。
「それ、どこぞの二枚目の受け売りでしょ。どうせ。そういうことは言ってみる前にまず自分に合うか考えてからにしてくださいよ」
どうせ自分でも分かってないくせに、と、陰険な副将は締めくくり、環の頭を限界まで落ち込ませた。
「だいたい、僕は貴方のために戦ってるわけじゃない。自分のためですよ。何を勘違いしたのやら」
他人を必要以上に煽るその言動、おおよその者は逆上したり、刀を抜いたりしただろう。
だが環は付き合い始めた頃から、それほど腹を立てたおぼえはない。
公子と言うだけでもてはやされ、おべんちゃらを言われ、そして薄っぺらい笑いの裏にある打算を本質的に見抜いてしまう。
そんな環にとって、歯に衣着せぬ男の物言いは、むしろ親しみさえ感じられたのだ。
由基とは違う。彼女は必要以上に他者に噛みつきすぎる。尊大で、偏見に満ちている。
貴きも卑しきも、強きも弱きも平等に貶め、自分さえも上には置かない。
そんな姿は、呆れを通り越して尊敬に値する。
「て言うか、誰だってそうでしょ。よく真っ当な家臣が口にする忠義のため、大義のためだとか、そんなことを口にする自分に喜びを見出してるんです」
「ずいぶんな言いぐさだが、お前は違うと?」
当たり前でしょう、と不本意げに口を尖らせて村忠は答えた。
「知ってるでしょうが響庭家は祖父の代、戦で大失態やらかしましてね。戦には勝ったことですし、移封され加増されたんですが、実態は僻地へ左遷ですよ。そんな没落武家の次男坊として生まれたところで、将来は決まり切っている。だから僕は変化を求めたんですよ」
語ると熱が入るのだろう。寝巻きの袷をしきりと指でもてあそんでいる。
「賭けに勝って栄達を手にしても良い。負けて急転直下の地獄を味わっても良い。善悪は言うに及ばず。何であれ、知れきった末よりも、心躍る冒険が欲しかった。生きるにせよ死ぬにせよ、己の才知で決定づけたかった」
「だけど、変化と言うなら叔父御もそうだろ。あの人も、改革を求めて謀反に及んだはずだ」
「宗善公が求めたのは改革じゃない。現在、そして先々まで決まり切った永久の秩序。……順門の民は、なんの面白みもない一生を終えるでしょうよ。居残った彼らも、そして天下の民も、僕と同じ思いを少なからず望んでいるんじゃないですかね」
どことなく挑発的な物言いに、環は帽子を目深にかぶり直し、舌を鳴らした。
「僕にさえ分かるんです。大渡瀬を見た貴方なら、それが分かると思いましたが?」
――知っている。決まっている。
かつて、黒衣の尼僧にも、似たようなことを尋ねられたことがある。
――その時の俺は、なんと答えたっけか?