「こうして挨拶するのは初めてでしたかな。桜尾義種と申す。後の桃李府公である」
――あ、これ桃李府終わったわ。
名津。
六番屋の屋敷で肥満な公子と面会した時、環が第一に浮かべた言葉が、それだった。
少なくとも、桜尾家としての桃李府は終わる、と予感した。
彼が酒屋の一店主であれば、まぁ子に継がせる程度の才覚はあるだろう。
だが、百万の民と、羽黒圭輔という最大の政敵を抱え、天下に名だたる大国を相手どるには、器量が及ばない。
所作にせよ雰囲気にせよ、それを物語っている。
初見でそこまで見下すのはどうかとは思うが、舞鶴、実氏、圭輔など多くの人物と比べれば、見劣りしてしまう。
――目が肥えてきたな。良くも悪くも。
だが、そうした軽侮を表に出すわけにもいかない。
「はは。義種様のお口添え、感謝のきわみ」
世辞を言って頭を下げて、恐懼を示す。
義種の許しを得てから顔を上げると「ついては」と彼が顔を近づけ、耳打ちする。
だらしなく緩んだ口元から、酒の発酵臭が漂ってきた。
やや距離を置いて座る由基でさえ顔をしかめたのだから、客人を待つ間に相当な酒量を飲んだことがうかがえる。
「順門府討伐において、我に秘策がある。是非ともお聞きいただきたい」
こんな場で素面でもなく語る計画など、秘策もへったくれもないだろう。
そう思わないでもないが、環は表面だけはニッコリ笑い「拝聴いたします」と、聞きたくもない続きを促す。
「うむ。かつて朝廷が順門を攻めた際のことだ。貴殿の祖父は国境ではなく、御槍城を起点に防衛線を築いた。
これは官軍の兵站線を伸びきったところを叩くためであった。だが、今回敵と我々の戦力差はさほどないであろう。ゆえに、今回も例年どおり国境を挟んでの戦いとなるだろう」
その予測は正しい、と思うし常識はずれなことは、この公子は言っていない。
問題があるとすれば、常識的な意見をさも得意げに誇るあたりだろう。
「だが正攻法で争っても、貴殿を祖国にお送りすることはできぬと思う」
「それで、先ほどの奇策ということでしょうか」
「そう。そこで、貴殿の助力を頼みたい」
膝をにじり寄せた義種は、手を畳の上にさまよわせた。
おそらくは仮想する戦場を図示しているのだと思われるが、興奮と酔いとで小刻みに震えるそれでは、理解するには難がある。
環は彼の言わんとしているところを断片的に拾い上げ、己のうちで整理するしかなかった。
曰く、敵はどうしても環を討ちたいはずであり、戦場ともなれば真っ先に環目がけて攻めくるだろう。
そこであえて環が前線に出ることで敵の攻勢と布陣の綻びを誘う。
その間に、自ら率いる本隊は一挙に敵の側背を叩き、周辺の城を制圧しつつ、敵の本拠板方を落とすというものだった。
「まさに! 往年の典種公を思わせる豪胆にして勇壮、かつ完璧な作戦ですな!」
示し合わせたように、色市始がおべっかを使う。
――俺らが死ぬことに目を瞑ればな。
と、環は心の中で密かに言い足した。
「なに、環公子が崩れるより先に、空城など瞬く間に落とし、返す刀で敵軍の後背を突いてみせるぞ!」
と、義種は豪語するが、桃李府公子が順門府公子を見る眼差しは、囮か捨て駒に対するそれだった。
この男の狙いとしては、環たちが敵を引き受けている間に城や領地をできるだけ切り取り、やがて来るであろう環の討ち死に、あるいは自刃を落とし所に宗善方に矢留め(停戦)を求める。
――そうまでして、弟に勝ちたいか。
環とて木石ではない。
己はともかく、己に付き従う者たちを危地に陥れる策に、無心でいられるはずがない。
だが正面からそれを突っぱねるほどの力がないのが、我が身の悲しさだ。
「で、どうであろうか」
「まことに壮大な軍略。しかし私のごとき愚鈍なものでは、公子様の策の成否など分かるはずもございません。つきましては後日、舞鶴をともない、然るべき密議を重ねるべきかと」
と遁辞をかまえるほかない。
「いや。それには及ばん」
「は?」
しかし、環の予想し得ない答えが返ってきた。
「舞鶴殿は環殿のご家中ではあるが、天下に名高き『五弓』の一人。それを他の家臣と同列に扱えば、桜尾家は礼儀を知らぬと他家より謗られよう。羽黒家がどうしたかはともかく、な。ともあれ舞鶴殿のお知恵を借りるまでもない戦となろう。名津にゆっくりくつろいでもらおうと思う」
「…………承知しました」
なるほどそういうことか、と環は小さく呟いた。
だがその呟きは、目の前の公子にではなく、背後の家臣たちへと向けられていた。
村忠の抜けた今、こうした宴に同席できるのは由基、始を始め、居並ぶ家臣は皆反環派といったところだろうか。
義種としては、環を見殺しにすること前提なのだから、自らの奸計を見抜くような人物が環の側にいてもらっては困るのだろう。
……もっとも、彼の計は舞鶴どころか、環にさえ看破されているのだが。
そして、背後の色市と例の一人が反論しない辺り、これは義種の発想ではなく、彼らから為された違いない。
自分たちを桜尾家臣にしろ、とでも要求したのだろうか。
だが彼らが本心から桃李府に腰を落ち着けるつもりとは思えない。
そう見返りを要求しつつこの桜尾府公子の警戒を解きつつ、実際は宗善のために働いているに相違ない。
――となれば、こいつの戦略なんぞとうに筒抜けだろうよ。
そのことに対しては、憐憫を覚える。
だが、それを義種に告げ口する気は毛頭ない。
もし義種が己が謀られたことを知れば、内通者のみならず無関係の人間にまで害を及ぼしかねない。
順門出兵自体が取りやめになっても困る。
――何より。
騙せていると思い込んだ人間ほど、騙しやすい人間はいない。
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「本当に、鳩ですね」
「はい。鳩が来ましたな」
皆鳥なすび斎こと羽黒圭馬は、普段は他の者らとは顔を合わせない。
由基たちには面が割れているというのもある。
戦になるまで存在を明かせないこの客将には、別に頼みたいこともあった。
軍師、勝川舞鶴へのつなぎである。
準備もへったくれもなく、有無を言わさず強引に連れて行かれた舞鶴は、今は六番屋の本店にて厄介になっているらしい。
女店主の史は環らとは顔見知りだが、彼女は宗善についた可能性がある。油断はできない。
舞鶴本人は連れ去られる間際もニコニコしていた。
それらしいことを伝えなくとも、この女はこちらの事情を正しく理解し、それを打開す る腹案を持っている。
そう直感したからこそ、環は圭馬をそれとなく遣わしたのだが、
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「危ういですねぇ」
「は?」
「むやみに人を遣わすことが、です。秋茄子殿もふふ……武人ならば……ぷっひ! ククク、周りの、気配にお気づきでしょうに! ファー!」
「秋茄子ではなくなすび斎です! あと話の途中で吹き出さないでいただきたい!」
とまれ、店にも監視の目があるのは確かである。
舞鶴の笑いが必要以上に注意を引き寄せたのは否めないが、勝手知ったる店である。山伏姿に変装こそしているが、いずれその正体も割れるだろう。
それを承知で、圭馬は舞鶴と一度会わなければならなかった。
「何しろ私は蛇蝎のようにしつこい年増の未亡人に見張られている身。うかうか秘策を話すことなどできませんね」
聞こえよがしに煽りに煽る舞鶴を、圭馬は慌てて止めた。
下手をすれば己まで出入り禁止にされかねない。
「『鳩』」
そのどさくさに紛れて呟いたのが、その一言だった。
「! ……それは」
「殿にはそれだけお伝えすれば分かります」
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そう言われ、勇んで報告してきた圭馬に対する環の答えは、
「……知らんよ、そんなもん」
というものだった。
「いや、知らぬと言われた時にはいささか戸惑いましたが、まさか本当に鳩が使者として来るとは。盗み聞きしていた連中は、隠語と勘違いしておりましょう」
苦笑を浮かべた環の脳裏には、正体不明の密偵や、鳩にまつわる土地を探し回る内通者の姿が、見て取れるようだった。
「随分人懐こい鳩ですな。鷹はともかく、訓練された鳩というのは聞いたことがない」
「まぁそれはそれとして、圭馬殿」
「はい」
「なんでこいつは俺の帽子から離れないのか」
帽子ぐるみ頭を掴む鳩を指差し、環は尋ねた。
この鳩は羽黒屋敷、圭馬との密談中に唐突に屋外から飛び込み、環の頭上に留まったのだ。
圭馬は曖昧な笑みを浮かべて首を傾げ、
「フン落とされるよりは、マシではありませんか?」
と、毒にも薬にもならない慰め方をする。
「ご主人ともども……ったく、俺ナメられてるよな」
深々と嘆息した環は、圭馬に鳩を引き剥がすのを手伝ってくれるよう依頼した。
「いだだだだだだ! 食い込んでる! 爪食い込んでる!」
「あーあーあー、これ出血もやむなしかもしれません」
二人で四苦八苦してなんとか鳩を取り外そうとしたが、この鳥は置物にでもすり替わったかのように微動だにしない。
小動物とも言え、禽獣の力強さを思い知らされた気分だった。
仕方なく帽子ごと離すと、その足首に小さな筒がくくりつけられているのを発見する。
蓋を外すと小さな紙片が出てきた。細かい文字でびっしりと書かれたその内容を、肩をぶつけ額を突き合わせながら、二人は苦心して読んでいく。
そしてその内容に一通り目を通した二人は、微妙な顔を突き合わせた。
「……どう思います? コレ」
「さて、あまりに大がかりな戦略に過ぎ、にわかには判断できませぬが」
「が?」
「その成否を分けるのは、環殿ご自身。この策が成るまでの間、義種様の無謀な目論見に沿って、前線で持ちこたえねばなりません」
環は圭馬の意見に頷いた。
少年らしい快活さと、武家の御曹司としての気品あるこの若武者とは、身内を含めても最も気が合うであろう、と環は思う。
由基がこの男を超えたいと真に望むのであれば、まずこういう素直さや実直さを見習うべきではないのか、とも。
ふと、その男の視線が東の側へと逸れたのを見、環は苦笑を滲ませた。
「……やはり、東の戦線が気になりますか」
羽黒圭輔率いる三千が、前線の番場城の守備についたという報がもたらされたのは、つい数日前。と、同時に風祭家の大軍が国境を侵し、城への攻撃を開始したとも聞く。
予想を超える敵の兵数を危惧し、器所実氏がさらなる増援を率いて東進すべきと説いているという。
家臣の中には、戦力の逐次投入を嗤う声もあった。
おそらくそれも背後で手を回しているのは、内通者と鐘山宗善だろう。器所実氏、羽黒圭輔という桜尾家の双璧を、環から引き離すために。
「あ、いえいえ」
相手に気遣わせてしまったか、と圭馬は表情を曇らせた。
「敵の総大将は風祭親永。あの者も大した人物ではあるそうですが、兄者はこの程度の危機、何度も乗り越えております。……ただ、問題は後詰めを率いている風祭武徒」
その名は環でも知っている。
康徒亡き今、外交の手腕はともかくとして、戦であればその父をも凌ぐとされる名手。
羽黒圭輔とて、何度苦杯を舐めさせられたか知れない男。
不安を拭えない様子のその義弟に、環はふと思ったことを率直に尋ねてみることにした。
「しかし、圭馬殿」
「はい?」
「今更こう踏み入ったことを聞くのもあれなんですが、どうしてそこまで圭輔殿のことを信頼なさるんで?」
家督まで奪われたどころか、そんなヘンテコな偽名まで与えられて。
という言葉を環は辛うじて飲み込んだが、圭馬にはその言わんとしていることが伝わったようだ。
ほろ苦く笑う若武者を、帽子に留まったままの鳩が赤い瞳で見つめている。
「では逆にお尋ねしますが、環殿は何故、そこまで俺を信用するのですか?」
「信じろ、と言ったのはそちらですよ」
「ですが、バカ正直に、あいえ褒め言葉です。こうして秘策までご披瀝いただけるとは、並の信じ方ではありますまい」
随分失礼な物言いだが、圭馬は正しいことを言っている。
頭に手をやってから、帽子が奪われていることを思い出す。
代わり黒髪を手で押さえつけて、圭馬の疑問に答えた。
「そりゃあ、圭馬殿もバカ正直だからですよ。あいえ褒め言葉でね。実直で気遣いもできるし、つまらない拘りも見せない。だからです」
圭馬は自分の納得のいく答えを得た、とばかりに強く頷いた。
「俺も、それが理由です」
どういうことか、と眉をひそめる環に、圭馬は言った。
「確かに、桜尾家からの養子が家督を継ぐことに、多くの家臣が反対したことは確か。俺の妬みも否定しません。ですが、そうした反発を丸め込み、結果桜尾晋輔が羽黒家に隆盛をもたらしたこともまた、事実。己よりもあの方が当主に相応しいと悟った瞬間、心のゴタゴタがすいりと片付きました」
すなわち、と一度句を切って圭馬は兄の如き優しい眼差しを環へ向けた。
「信頼とは、相手を認め、頼ってこそはじめて生まれるもの……などと、俺の如き小者は思うのですが」
「……頼るべきところは頼っている、つもりなんですがねぇ」
「一部の方は、でしょう? ……貴殿の言葉を、待っている方もいるかと思いますが」
もうお前のことが、わからない。
由基にそう言われてから、関係に深い溝ができてから、どれぐらいの月日が経っただろうか?
「舞鶴にも同じことを言われました。今さら声をかけたところで、理解されるとは思えませんが」
「別に理解してもらう必要などないのではありませんか? 意味は分からずとも、本音であることを示す」
「あのひねくれ者がそれを受け止めてくれるかなぁ」
「むしろまっすぐぶつけた方が、ひねくれ者には効くことがありますから」
「……それは」
貴方の兄のことですか、と。
ついつい尋ねたくなるが、聞かぬが華、ということもあるだろう。
なんだか恋の相談でもしているかのような気恥ずかしさに頭を掻いて
「ご忠告、痛み入る」
と頭を下げる。
それは、感謝のものであるとの同時に、もう一つの願いに対する低頭だった。
「……あと一人、俺の言葉が必要な人間がいる気がします。そのために、圭馬殿にお借りしたいものがあります」
鳩がようやく帽子を解放し、天空へと舞い上がる。
環は帽子をかぶり直し、じっと相手を見据える。