御槍城東、乃木先(のぎさき)という場所にて駐留した順門府軍一万八千は、この時点で既に彼らは、内通者と斥候からもたらされた情報によって、桜尾義種軍の進路を割り出している。
囮である環を差し置き、一挙にこれを討つことが、当面の目標と決められた。
また、その環側にしても、普請作業に潜伏していた密偵から、彼らの所在は伝え聞いている。
「大方、緑岳に籠もり防戦し、その隙に本隊に背後を突かせる胆でしょう」
「かと言って捨て置いて、砦を完成させられても、後日の掃討戦において面倒にはなりますまいか」
「懸念には及ばない」
その一将の異見を否定したのは、銀夜の近臣である朝心斎である。
今日に至るまで日陰者で居続けた老人にとっては、順門府の将としての初めての出陣である。
それは、この老人の、この戦いに対する意気込み、表舞台に戻る意志の強さを物語っていた。
だが、長年鐘山家仕えた家臣らでも、老人の存在を知る者は少ない。
そのため彼らの中では
「突然降って湧いた謎の老人が我が物顔で軍議に口を出してきた」
という思いが強かった。
だが彼らの警戒や不信感など意にも介さず、むしろ読み取ることさえできないのは、一種の才能と言えるだろう。
久々の戦場に興奮した様子で、老臣は続けた。
「また、既に我が手勢の者が環の郎党を籠絡している。労せずして攻め取れるものを、あえて攻める必要などあるまい」
名のとおりの白銀の髪を持つ姫将は、その意見に頷いてみせ、その句を補填した。
「それに縄張りも把握している。この者らが、その縄張りも写し終えた。万一力攻めと相成っても、数と地の利はこちらにある。容易に落とせよう」
だが、皆にその証左として見せた件の地図が、一部の将に波紋を呼んだ。
殊に反応を示したのは、陣中でも年長者である響庭宗忠である。
「笹ヶ岳……」
そろそろ六十になるかというこの老人の呟きが、他の老将の呻きを招いた。
「そうかこの作り、どこかで見たと思ったら……」
「笹ヶ岳じゃ……」
それがさらに若い将の動揺を招き、やがて陣中全体が騒然となった。
環らが建設しているという砦の設計図は、かつての朝廷との戦いの際、要所となり、かつ今の府公である宗善が死守していた砦と酷似していたのである。
だが、その要害を設けたのは当時の宗善ではなく、その父、宗円である。
それが、攻守を入れ替え再現されてようとしている。
ゆえに、陣中の将の中には、
「宗円公が、帰って来られた……?」
「あるいは、自らこそが順門府の正当な後継だという意思表示では?」
と呟く者さえ現れる始末だった。
それに厳しく反論したのは、大将鐘山銀夜である。
「うろたえるな! 守りに徹しようと企図するならば、砦などおのずとこのような形になる!」
「し、しかし敵の禁制の数、近隣の村では我らのそれより勝るとの報せがあり……」
「なにっ?」
「何か勝算あってのことやもしれぬ、と……」
亀山柔の懸念は、銀夜の冷静さを取り戻すことはなかった。
むしろ気遣いのない事実は、彼女の矜持を傷つけ、火に油を注ぐ結果となった。
「愚民どもはこの私より、あの男の方が優れているとでも考えたのか!? 良かろうっ! それならば進路変更! 環を先に叩き潰し、連中の幻惑を払ってくれようッ」
だがそれに、諸将が慌てて待ったをかけた。
「お待ちくださいませ!」
「この砦を攻めるは、三十年前、足止めを食らった官軍の二の轍を踏むこととなりまする!」
「それに、禁制のことにせよ、砦にせよ、敵にも何らかの備えがあっての挑発と存ずる」
「むざむざ相手の都合の良い戦略転換をなさいますな!」
「また、方略寺でのように相手に乗せられ失敗しては」
「…………失敗だとッッッ!?」
長髪を振り乱した姫将は、写しの紙を拳で叩き、諸将を一喝する。
「いつ私が失敗した!? いつ奴に謀られた!? いつあの男に負けたと言うのだ!? そもそも方略寺など、貴様らが幾度もわめき散らして私を阻害しなければ……っ」
そこで常勝の姫将、順門の麒麟児は、口を閉ざした。
場が、シンと静まりかえっていた。
秩序や冷静さではない。むしろそれとは無縁の、白けた雰囲気が充満していたのだった。
「……議論が白熱したようだ……わかった。当初の予定どおり、また貴殿らの希望どおり、まず義種勢に当たる。それで良いな?」
と、一方的に言い渡した総大将は、そのまま陣幕から引き払った。
だが、依然として彼女のはらわたは煮えくりかえったままだった。
――臆病者どもがッ
落ち着きを欠いた銀夜にも、しきりに義種勢への攻撃を示唆する諸将の魂胆は理解できる。
要するに、この将たちはそれぞれの兵の損傷を恐れ、怪しげな行動をしている環一党よりも、確実に勝算がある義種と当たりたいのだ。
だが、思惑はどうあれ、味方の意志を無視するわけにはいかなかった。
それこそ、順門府での二の舞となるし、何より諸将の了解を得られないままの独断専行は、彼女と尊父が掲げる秩序と規律に反することだ。憎むべき伯父宗流の行いそのままではないか。
「ですが父上……上がここまで譲歩しなければならない秩序とは、規律とは……いったい何なのでしょうか?」
その問いに答えられる者は、苦悩する彼女を救える者は、その場にはいなかった。
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「伏兵? 奇襲? そんなものしないですよ」
掘り出した大岩の上、弁当を食べながらしれっとそう言う環の反応は、圭馬にとっても少し意外だった。
「ここまで挑発するからには、何か備えあってのことかと思いましたが」
「ないない。ただの見せかけですよ」
「……しかし、ここまでやるとあるいは、本当に敵の侵攻を招くおそれがあるのでは?」
率直にぶつけた圭馬の懸念は、環の口端に、笑みを浮かべさせた。
「それは、ないです」
――義兄が環殿を語る時と、同じ笑みだ。
ぞっとするもどこか魅力ある、悪党の微笑。
戦国武将としての、業の象徴。
「銀夜は知らず、他の諸将にはためらいと後ろめたさがある。彼らをそうさせるのは、兵の損傷だけじゃない。かつての主が考案し、若かりし頃の今の主が守った笹ヶ岳。それとそっくりの場所を攻めるということに」
「なるほど」
「ただ心情としての話じゃない。もし攻め落としたとして、心証はどうなるか? 不興を買わないか? そうした打算が彼らを縛る」
まして、と。
そこで一息吐いて、環は圭馬に振り返った。
「今回は義種公という格好の相手がいる。人間、易い方へと流れたがる。よくわからない相手より、単純な相手をこそ狙うはず」
「それでも」
「ん?」
「銀夜姫があえてそれを無視した強行に及んだ場合は?」
「アレは既に、順門府での失敗と失態で、臣民からの信を失っている。そんな輩に、ハイそーですがと将が従うはずもない。是非はともかく銀夜の即決と翻意に嫌悪感と危機感を抱くはず」
「俺が問題にしているのは、銀夜殿です」
「そう。あいつもバカじゃない。だからこそ、そんな状況下で独断専行なんてできないことは、自分で知ってるはずです。何より『環も義種も自分にとっては小事。問題は次のこと』と、内心はともかくそういう姿勢を見せたいはず。だから独断での勝利より、諸将を結束させたうえでの勝利を選ぶはず」
鐘山環は百里向こうの敵将の心の動きを読み切り、かつ意のままに操縦している。
そのことに、羽黒圭馬は人知れず肌を粟立たせた。
――しかし。
と、圭馬は思う。
何故そこまで敵を知りながら、貴殿は味方の想いを掴むことができないのですか、と。
気がつけば、相手をじっと見ている己がいて、それを微苦笑混じりで見返す環がいた。
まぁ言わんとしていることは分かります、と。
そこに、人足が慌てて近づいてくるのが見えた。
「大将、まァた吉次のヤツ、桜尾の連中とケンカですっ」
「なにぃ? 今度は何が原因だ!?」
「飯の量が向こうの方が多いとかで」
「だぁぁ! もうっ!」
彼のそれは少数とも言え、自分たちを率いる御大将に接する態度でも、また頼むようなことでもない。
大変ですな、と圭馬は彼を慰めた。
「どんなに虚勢を張ったところで、俺の実態なんてこんなもんですよ」
と、帽子を目深にかぶり直し、彼は肩をすくめた。
「ははっ、お惚けを。今はともかくですが、いずれは皆、貴殿の器の大きさを知るでしょう」
「『三年鳴かず飛ばず』ってヤツですかね」
環は架空の故事を引き合いに出し、人足に引きずられる形で、環は先へと進む。
「環公子殿」と名を呼び止める。振り返る主将に、圭馬は目を細めた。
「その大鵬の鳴き声、知りたいと願う者は数多くいる。恥じることなく、卑下することなく、彼らのみならず、天下に向けてその音声を発されますよう」