「殿、敵領内に難なく入ることができましたなぁ」
「うむうむ」
――どうやら、主人の人格とは家臣にも伝播するものらしい。
順門府進行軍の主力部隊、副将格に当たる相沢(あいざわ)城申(じょうしん)は、険しい目で主将を見ていた。
策の成否、是非はともかく、彼らの語るとおりにすでに戦地だった。
――にも関わらず、この悠長さと楽観はなんだ?
相沢は釜口と同い年となる老将である。羽黒圭輔の義父、圭道(けいどう)存命時は桜尾の三宿将と呼ばれた存在でもあった。その経験の豊かさを買われ、今回義種の補佐と当てられたのだが、その彼が重用しているのは、自らの近臣である賀来(かく)洞包(ほらかね)であった。
年長者としての余裕で不平を覆い隠し、やんわりと懸念を発した。
「しかし、早うこの戦に目処をつけなければ、環公子の御身が危ういかと」
「ふん、環など……」
皮肉げに鼻を鳴らし、目の形を歪め、公子は公子を嘲笑う。
「これから順門の東半分は我らの領土となる。統治もわし自らが執り行う約定を父上よりいただいておる。となればあの公子の存在は邪魔となろう」
「さよう。此度の戦であの御仁に死んでいただければ、我らにとっても好都合。悲運の公子殿の敵討ちという大義名分を持ち、兵達の士気も高まる」
「それでは……っ、公子殿とのお約束はなんだったのでございますか!? いくらなんでも不義の限りではございませぬかッ」
「黙らっしゃい相沢殿! 総大将になんたる口の利き方!」
「そうじゃそうじゃっ!」
賀来の糾弾に、義種自身が同調した。
「だいたい公子公子と言うが、わしが貴様の仕える国の公子よ! 環でもなければ圭輔でもないわっ」
「桜尾家の公子たろうとされるのであれば、それに相応のお振る舞いをなされよ……このような罪に手を染めることは」
「では貴様も同罪よな! これが罪だと申すのならば、その軍に属す貴様は!」
「それは……」
相沢は言葉に窮した。
武人ならば、武家の臣ならば、当然その意に沿わぬことも手がけねばならない。
今回のことも、桜尾のためを思えばこそ、東に行きたいのを堪えてこちらに参陣したのだ。
そも、武士とは修羅の道である。
士道とは、非道、畜生道に通ずる。
それを糾弾されては、己らは返す辞を持たぬのだ。
……たとえ、それが誰の発言であったとしても。
――だが、そうして他者の揚げ足取りで得意げになっておられるのも今のうちですぞ。
大言壮語を吐きながら、義種はやはり周辺の敵の動向が気にかかるらしい。偵騎を一里進むごとに放っている。
数多くの情報を取り入れるため、と言えば聞こえは良い。だが、そうして斥候の数を増やせば増やすほど、彼らが接敵して本隊の位置が割り出される可能性も高くなるのである。
――斥候とは、情報とは、自らを安心させるためにあるのではない。
正確に敵味方を把握し、確たる対策を立てるための手段である。
……そして一日と待たずして、
老将の諦観と憶測は現実のものとなる。
度重なる諌言は無為に終わる。
桃李府公子桜尾義種は敗残者となり、
彼に付き従ってきた賀来以下一万超の将兵は、急行してきた順門府の大軍の贄となった。
~~~
――なんたる神速、なんたる采配ッ!
疲れて汗さえ出尽くした馬の上、歯がみしながら相沢城申は呻いた。
わずか二十歳足らずと大将と言うが、あれほど無作為に放っていたいずれの偵察にも引っかかることなく、監視の目をかいくぐってこちらの側背を突いてくるその手腕は、天下五弓にさえ劣らぬものではないのか。
四散した桜尾軍の一部を預かり、まとめあげた副将は、深夜の林を駆けていた。
そのうちに、頼りとしていた愛馬の四脚ももつれ、ついには道半ばで横転した。
「……ぐっ……!」
「父上、やむを得ませぬ。馬は捨て置いてでも、義種様との合流を急ぎましょう」
そう献言したのは、嫡子、相沢城建(じょうけん)である。
息子の言葉に対し知らず漏れたのは、自虐と嘲笑の混ざり合ったものであった。
「ふっ、ふふふ……兵を見捨て真っ先に逃げ出す大将など、一緒になったところで末は見えていよう。あの愚将にはせいぜい遠くまで逃げおおせてもらい、一人でも多く追っ手を引きつけてもらおうではないか」
「……さすれば、我らはいずれに落ち延びれば」
ぬかるみより助け起こしてもらい、老人は首を振った。
「孤立無援ではない。一方の軍が敗れたのであれば、もう一方に赴くまでよ」
「で、では環殿の囮部隊へ!? 危険です、追撃に区切りをつけて、敵は返す刀であの御仁を狙いましょう」
「ゆえにこそだ。あの公子殿に危機をお伝えし、しかる後退避してもらわねば」
「……それでは、我らが彼らを捨て駒としようとしたことも露見するのではっ?」
「覚悟のうえよ」
痛々しい吐息をこぼし、相沢は四十になる息子を見返した。
「この老いぼれの首一つ、代償に捧げる覚悟はできておる」
と、悲痛な覚悟を示した。
その直後だった。
前方で、数人の、草木を踏み分ける音が聞こえた。
驚き前方を見つめ直す彼らの前、ぼんやりと無数の炬火が浮かび上がる。
――すわ、敵か。
と、一同に緊張が奔る。城建が刀に手をかけた。
もはや武器を手にする体力気力があるのは、彼だけであった。
「……何者か」
と、誰何の声をあげる城建に「いやいやいや」と、あっけらかんとした声が聞こえてきた。
「俺は味方ですよ。そうですよね、相沢殿」
闇の中、浮かび上がる黒髪と、空色の瞳。
顔合わせはしたことがある。当初は風聞どおりのその奇異なる容姿に、いささか驚いたものだった。だが、その顔見知りの登場は、当時よりもさらに、相沢老人を驚愕させた。
「た、環公子……? それに羽黒の……」
東へ赴いているはずの男の義弟を伴って、この国の公子が現れたのだった。
薄青色の瞳を活力の輝きで満たして、彼はまっすぐ、
「よくぞ我らを頼ってくれました。……ご無事で何よりです」
と言った。
~~~
帰陣する環に伴われた相沢親子以下桜尾兵三千は、目の前に広がる光景にしばし絶句した。
――なんだ? この賑わいようは?
と、当惑する。
緑岳の砦を基点として広がる陣屋は、さながら市のようであり、行きかう人々はせわしなく往来を繰り返す。その様は兵や人足というよりも、飛脚や馬借にも似ている。
何よりその陣屋の数は、環に与えられた五百の兵を容れるには多すぎる。あらかじめ自分たちの割り当て分まで用意されていたのではないかと勘ぐりたくなるほどだった。
自分たち本隊が時間差をつけて出陣し、敗走してここに至るまで十数日。
その期間で、まるで何もなかった干原という平野に、これほどの規模の陣地を形成するとは、老将の思いもよらぬことだった。
――これではまるで
一つの村、一つの城とその城下町ではないか、と。
活気に溢れた彼らからしてみれば、沈痛な面持ちの自分たちの姿は奇異に映ったことだろう。
不審な目で見られて恥じて、顔を伏せる彼らの前に、環とその愛馬、覚王が庇うように立った。
鞍から腰を離した環は、エヘンと咳払いを一つ。
それだけで、周囲一帯の注目を惹きつけた。
――しかし
敗残兵を迎え入れて、こちらの隊の士気に関わるのではないだろうか?
そもそも環自身、自分たちが敗北した経緯とその秘められた思惑を知っているのだろうか?
だが、相沢城申の懸念と不安は、次の瞬間には吹き飛んでいた。
「皆、喜べ! 桜尾からの増援がやってこられた!」
……などと言う、衝撃的な発言によって、思考もろともに。
絶句する親子の手前で「あぁ」と、環は一度大きく頷き、
「彼らは道中、敵の別働隊と遭遇した。この相沢殿の自らの馬を喪うほどの奮戦の末、なんとか突破されてここまでやってこられたというわけだ」
おおっ、と。
疑惑の視線は一転して尊敬のものへと変わり、ヘタに邪険に扱われるよりも、居心地を悪くさせた。
当事者からしてみれば、なんとも荒唐無稽な虚言だが、この公子の口は、それを真実として言いくるめることのできる不思議な魔力があるようだった。
「なッ、違っ……我らは」
誤解を晴らそうと前に出ようとした息子の足を、環の手が制した。
その手が、ちらりと向けられた目が「分かっています」と語っていた。
自分たちの企みも、その経過も。
軽い悪寒を覚える相沢老人に振り返り、
「さて、お疲れでしょう。どうぞ熱い粥でもすすっておくつろぎを」
と、あどけない笑貌を見せた。
もっとも、と面はゆげに頬を掻き、
「砦の建設は未だ遅々として進まない有様で。申し訳ないのですが、仮の営所でお休みください」
土地の者も雇い入れてはいるのですが……
言い訳のようにそう足した環の顔を、老人はじっと見つめた。
――近隣の村人を取り込んだか。
かつての領民であるが、今や彼は桜尾の客将であり、侵略者である。
その彼が、いかなる手管か、金銭によるものか。村々と共存し、徐々にその生活に浸食していき、かつ彼らにそうと思わせないうちに協力を強いている。
――だが、気になるのは……
鐘山環は桜尾義種の動きを看破していたとするならば、なにゆえ先に退避しない?
何故、この場にて留まる?
これではまるで、長期戦の構え……いやまるでここに己の国でも作ろうというような挙動ではないか?
「鐘山殿」
「はい」
――まさか今さら、言えまい。
衆人環視の中、自分たちが負け犬だ、お前達を騙した、だから共に退いてくれ、とは公言できまい。
ゆえに城建は言葉を濁し、
「お気持ちはありがたい。しかし、我らは貴殿の家臣ではなく、貴殿は客分。進むにせよ退くにせよ、我らの庇護下に入って行動されたし」
と、言った。
つまり従うのはお前の方だ、我々ではないと。我が子のなけなしの矜持が、そう言わせたのだろう。
対する環の返答は、承諾でも拒絶でもない。
彼の少年従者が持ってきた、一通の書簡だった。
それを相沢の手に直接手渡し、ご覧あれと手で促す。
言われたとおりに開いた書状に目を通した瞬間、老いたその手は震えた。
「こ、これはっ……」
言葉を喪失した相沢老人に、奇怪な帽子を目深にかぶりながら曖昧に笑み返し、
「……そういうわけですので、しばらくは」
と、これまた曖昧な言い方をする。
呆然とする父からもぎ取るように書を受け取った城建も、内容を一読するなり大きく両目を見開いた。
しばらくは、ご内密に。
しばらくは、こちらの指示に従ってもらう。
しばらくは、という青年の言葉には、二重の意味が込められている。
「……っ、承知した。この『策』が成るまでは、我らの身柄、環公子にお預けいたす」
相沢は、奇妙な敗北感と共に頭を下げた。
――これでは、いかな大軍を擁していようと義種に勝ち目などなかったのだ。
自らよりも勝る兵力と将才を持つ鐘山銀夜にも。
自らよりも劣る兵力と、自らよりも遙かに勝る器量を持つ鐘山環にも。
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「なに? 計画を早める?」
『提案者』からの申し出に、その宿舎の主、色々始は振り返った訝しんだ。
すぐに、その怯懦を嘲笑った。
「おいおい……組の中でも勇敢だったあんたが、弱気になってるんだ?」
確かに、相沢の三千が加わったことは脅威だが、それでも彼から真実を告げられたとは色市には思えなかった。
でなければ、なおここに留まり続ける理由がない。
ここに銀夜の軍が急行していることにも、気づいてはいない。
「それに、見たかよ? あの連中の無様な姿を」
環は何を勘違いしたかはしらないが、どう見てもあれは、敗残兵の寄せ集めではないか?
いずれ流れくるであろう風聞は、環の戯れ言を払い、その実態を白日の下に晒すだろう。
つまり、放っておいてもいずれ瓦解する連中だ。
「それに砦の建築もまったく手つかず。完成したのは正面、搦め手の壁二層ぐらいなもんだ。なのに当の環は方々を出歩き、やってることと言えば書類の整理とおしゃべりだけ。あれはやはり君主の器じゃなかった。……俺たちのお飾りで居続ければ良かったものを」
と、得意げに語るその最後、色市の表情が一瞬苦み走ったのを見逃さなかった。
やはり口でどれほど言っても、こうした計画に賛同していたとしても、旧友としての情は残っているらしい。
だが『提案者』は気がかりがあった。
――この異様なまでの人の広がりはなんだ?
理ではなく、利のみではなく。
善悪も仁も徳も差別もなく。
環が人を呼び、その人のつながりがさらに人を呼び寄せていき、さらに広がっていく。
――あの大渡瀬での競り市でも、そうだった。
鐘山環が何かを持っているのは間違いない。
宗善、朝心斎、そして銀夜が本能的に、あるいは無自覚に危機を感じ、こうして手段を選ばず排除に乗り出るほどに。
「まぁ良い。俺の才は時を選ばない」
墨を、筆を白紙の上に走らせながら、弁の才子は得意げに笑った。
「俺の千言万字は、一朝一夕にして環の虚像を引っぺがす! 大衆の心を、大いに動かすだろうッ!」