『六番屋の史』は空となった城の御殿、大きく伸びをした。
天守から見える景色はさらに絶景だろう。だが御槍城自体が小高い丘の上にそびえ立っているので、そこからでも城下の、秋の燃えるような樹々の赤さは言葉にはし尽くせぬほどに美しい。
「というわけで、この城は私たちがいただいちゃいました、とよろしく宗善公なり銀夜姫なりにお伝えください」
極上の笑顔で振り返った彼女の視線の先、畳に転がされている人間大の芋虫が、一匹。
否、芋虫の如き扱いを受ける虜将、熊井が、唯一自由に動かせる胴を揺らしていた。
憤怒と苦しみにジタンバタンと身体を跳ねさせる彼は、虫と言うよりは陸に上がった小魚であった。
「そうですかそうですか。私も銀夜どのへお返しするのが一番だと思います。彼女の硬くて鋭い心はポッキリ折っちゃいましょう! ……ね」
などと、適当な解釈をつけると、
「では、丁重にお送りしますねー」
緋鶴党員扮する六番屋の人足へと命じて、外へと担ぎ出した。
さて、と『六番屋の史』は、向き直る。
「どうにも動向が怪しいと思えば、まさか本当に宗善公と通じているとはねぇ……お史どの」
『六番屋の史』は水飴のような、舌ったらずの甘やかな声音で、そう言った。
彼女の足元には、彼女と同じ顔の……否、彼女がその顔を真似た、本物の女主人が転がっていた。
~~~
その『六番屋の史』を本物と信じて、意気揚々と拉致した熊井は、そのまま城へと入れてしまった。
それが、彼にとっての驚天動地の始まりだった。
牢に至る前、人ならざる力を突如として発揮した彼女は、瞬く間に一転攻勢。
緊縛を破って熊井を打ち倒すと、彼を人質にとった。
突然の出来事に、彼の郎党が呆然としているうちに、どこからともなく侵入した人足、および荷に潜んでいた草の者、合計十六名がなだれ込んだ。
三戸野翁がその経験と戦歴を総動員して苦心して作り上げた防御施設、御槍城。
その陥落は呆気なく、寡兵にて、ほぼ無血にて行われた。
~~~
『六番屋の史』はその小袖の口で、顔を拭う。
袷にほっそりとした白い手を差し入れて、身体につけた詰め物をはたり、またはたりと落としていく。
部下の差し出した着物を手に取ると、帯を解いて豊満な裸身をさらし、改めてその黒衣を身につける。
カツラを外し、中にまとめるように結っていた髪を、一度バサリと広げ散らして整える。
そこに金の錫杖が加われば、他の誰でもない、勝川舞鶴。
不老の尼僧が、そこにいた。
「……しくじりましたわ。まさか、うちの番頭以下、ことごとく貴女に与していたとは」
薄い唇を噛んで悔しがる女主人に、ニコニコと舞鶴は笑っている。
「そもそも、商人を規制しようという宗善に従う者こそ異常でしょう。そのカラクリを曝露すれば、それは誰だって裏切りたくなりますよ。……器量もないのに、本心を偽り他人を欺くから、そういう歪みも生じるんですよ。そういうお史どのこそ、何故宗善と通じて、昵懇であった我が殿を除こうと?」
女神の笑みを称えながらもなお、軍師舞鶴の追及は辛辣であった。
口は固く閉じたままに俯いた史は、環らを饗した時とは打って変わり、般若の如き形相で美しい尼僧を睨んでいた。
牙でも突き出るのではないか、というほどに激しく歪んだ口端より、呪詛が漏れ出るのに、さほど時は必要としなかった。
「昔から、嫌いでしたわ……」
彼女の呟きに、舞鶴は微妙な笑みを浮かべたまま小首を傾けた。
「女を道具として扱う卑しい商いも、それにうつつを抜かす愚かな公子も……けれども、もし宗善公が府内を平定し、新たな法度にてそれを規制してくだされば、六番屋も含め、商人たちは皆それに納得して従う。せめて順門府一国でも清潔となるのであれば、遊女と蔑まれる彼女たちが地獄の苦しみより解放されるのであれば、あたしは手を汚すことだって厭いませんよ!」
思いの丈を高らかと宣言する史の両目には、決意の輝きが宿っていた。
しゃがみ込み、鼻先まで顔を近づけた舞鶴は、その輝きの価値でも値踏みするかのごとく、じぃっと見つめていた。
やがて、
「ふ、ふふふふはははは……」
けたたましく、鶴は鳴いた。
おかしむが如く、嘲るが如く、憐れむが如く……あどけなく。
化粧を落とし、少女の姿そのままの勝川舞鶴は、嗤った。
「……なにが、おかしいのですか」
「いえいえ、いかにも貴女らしい。衣食住不自由せず今日まで至る、良家の子女らしい、甘ったれた発想。いや理想、イヤ妄想? でしょうか」
「旦那に先立たれ、今まで大商をきりもりしてきたあたしが、苦労知らずと?」
「その旦那様だって、潔癖な貴女が事故と偽り謀殺したんでしょうが!」
まるで子どもが他人の恋慕をその相手に暴露する残酷さと無邪気さで、舞鶴は史が秘中の秘としていた真実を、あっさりと言い当てた。
「人間の欲求には需要があり、それを売り物としたものを、法外ともいえ商人たちが手放すはずがない。それは闇に紛れるだけで、決して消え去ることがない。水面下で、したたかに生きていくもの。宗善公も貴女も、それが分かっていない」
「……貴女、本当に尼僧なのですか?」
黒衣を身に纏った軍師は、くるりくるりと辺りを巡る。
「そもそも、歌を詠み、身体を売ることしかできない遊女たちに、身銭を渡して解放するだけで、貴女が願う清く正しくまっとうな職につけるとでも? ……いずれ、今と同じ、いやおそらくは今以下の生活が待っている」
「田畑を耕し、米や野菜を育てれば良い! 地獄に戻ることなど、誰が望むものですかっ」
「く! ふふふふふ……あぁ、お史殿! なんというかお史殿……! 本当に、貴女という人は」
舞鶴はくるりくるり、身悶えしながら舞っている。
言い尽くせぬ罵声を笑いに溶かして含む。
「恥を知れ。血泥の味さえ知らぬ者が、僧侶相手に地獄を語るとはおこがましいわ」
刹那に発せられた女の言葉は、人の声ではなかった。
世を統べるのは、己の恥を恥と、罪を罪とも思わず、己の論の歪みと矛盾に気づかず、すべてを白日にさらけ出した愚者ではない。あってはならぬ。
照らし出された汚物になど人は惹かれない。
闇の底でわずかに光放つ宝玉にこそ、人は希望を求める。
世を統べるのは、自らがその光となって闇を照らしながらも、裏で世の闇と人の闇とを正しく理解し、それらに己の闇をねじ込み、取り込むことができる者。
そしてその矛盾を抱える己に苦しみ、喘ぎ苦しみ悶えながらもなお、前へと進まずにはいられないもの。
……永劫、その罪悪感を切り捨てることができない、弱いモノ。
彼自身の心の闇こそが、何より人を惹き付ける。
陰陽清濁ことごとく飲み込んだ、大徳の器。
さながらそれは、満ちることのない月のような……
――嗚呼それこそが、我が殿、慈しむべき我が君、鐘山環の才能!
~~~
恍惚の境地に至っていた舞鶴は、己の手と手の感触とぬくもりとで我に返った。
気がつけば、東の方角を向いて、手を合わせている自分がいる。
そのことを自覚し、
――この私が合掌だなんて……いつ以来でしょうか?
と苦笑する。
信じているのは神仏ではない。
鐘山環の大器。それが今、翼を伸ばして飛翔しようとしているのが分かる。
彼自身の武運と成功を、我自身が祈る。
それがための、一礼だった。
――殿、舞鶴の方は万端準備整っております。どうぞ天下を揺るがす第一声を、心置きなく解き放ちください。
「申し上げます」と。
持て余し気味の大広間。舞鶴一人が取り残されたそこに、緋鶴党員の太兵衛が音もなく忍びより、手を合わせて瞑目する彼女の耳元に、ある一事を囁いた。
「……おやおや、無粋なこと」
木張りの壁に立て掛けた黄金の杖を手に取る。
黒く艶めく僧衣を翻し、西へと顔を向ける。
「鐘山宗善率いる五千、一両日中にこちらへ到着。なお先鋒は……」
あまりに早すぎる宗善勢の出動と、あらかじめ読んでいたかのようなその動き。
そしておそらく舞鶴の動きを看破し、宗善に忠言したであろう、先鋒の将の名前。
それらは、彼女に軍師の目をさせるに十分過ぎる報せだった。
「さすが、幡豆由有(よしあり)殿」
先鋒を率いるのは、盤龍宮五ノ宮当主、幡豆由有。
幡豆由基の父であり、先代府公、鐘山宗流の直属であった。