秩序や静寂というよりも、それは完全な沈黙と言った方が正しかった。
その中で、かりかりかりかり、という異音とただ一人の独語が、粘性を持って陣中の誰もの耳に入っていた。
立てた片膝を右腕で抱えるようにし、逆の手の爪を口元に運び、小刻みに震える白い歯がそれと当たる音が、奇妙な音の正体であった。
……それが、居城陥落の方に消沈し、混乱する二万近い軍勢を、叱咤激励しなければならない姫将の、今の姿であった。
「……背後に回らせるか。いや罠だそうに違いない……ではどこに、どこが攻め口だ? どうすれば勝てる? いや、私は負けない。兵力でも統率力でも将器でも私は勝っている。環になど負けない。ずっとそうだった。これよりももっとすごいいくさばを、わたしはわたしはわたしは……」
誰に意見を求めるでもない、己の内に閉じこめるが如き独語が、いやでも諸将の耳に入ってくる。
そういう所作が許されていたのならば、彼らは迷わず耳を塞いだだろう。
その時、流れを傍観していた老人は、音なく起立した。
他の臣の注目を浴びる中で、ヒビ割れた唇を開いた。
「姫様、もうよろしいでしょう」
腰をゆっくりと伸ばしながら、ほんの少しだけ枯れた顔に申し訳なさそうな表情を宿し、老将は意見を述べる。
「もはや計は破れました。朝心斎殿の設けられた策はことごとく打破され、その彼も、戻っては参りません。当初の予定であった『環の打倒』など夢のまた夢。幾たびの失敗がそれを証明しております。それに大殿への連絡網も断絶され、背後の状態も定かならず。ここはある程度の犠牲を覚悟で退き、大殿に不首尾を報告して再度策を練るのが肝要かと思われます」
今まで沈黙と静観を貫いていた男から、意外な諌言であった。
唖然とする将士はもとより、一番の衝撃を受けたのは、鐘山銀夜であったように思われる。まるで父親に頬を打たれたような面を持ち上げ、紅の両目をいっぱいに開けて、
「…………なんだ、それは」
と、今まで誰も聞いたことのない、低い調子で聞き返した。
だが彼女の右半分の表情には、笑みさえ浮かんでいて、それがかえって諸将を不気味がらせた。
「わたしが、実氏に、環ごときに、負けるだと……?」
「すでに、負けておるのです、銀夜様」
「ふざけるなァァッ!!」
名将たる者の殺気と一喝とが、思わず他の家臣達を立ち上がらせた。
総毛立たせるばかりにわななく彼らとは対照的に、その咆吼をまともに浴びる響庭老人の顔は、巌のようにむっつり固まったまま動かない。
その彼に、鐘山銀夜は早口でまくし立てる。
「わたしがいつ負けた!? わたしは不敗だ! 不敗であり、常勝なのだ! 今までも、これからもッ! 実氏など、風祭康徒に負けに負けに負け……最後にまぐれ勝ちしただけで『天下五弓』などと大層に祭り上げられている男ではないか! 環など、どれ一つとして他人に勝ることのない屑ではないか!? そんな奴らに、一度も負けたことのないわたしが負けるはずがないッ!」
老人は、眠りにつくかのようにじっと瞑目していた。
むしろ責めていた姫の方こそが、その沈黙に気圧されるように、薄く呼吸を繰り返していた。
「……左様。貴女は勝ち続けた。だが、勝つべきではなかった」
「なんだとっ!?」
「最初の勝利は、まぎれもなく貴女の武功。だが、それ以降は小規模な一揆勢の鎮圧。今のように、少数の敵、愚かきわまりない敵将との戦いの繰り返し。……それで何が得られました?」
「宗忠殿っ」
隣席の位町京法が袖を引くのを振り払う。厳とした輝きを双眸に灯らせて、常日頃ない鋭い口調で、総大将を糾弾した。
「実氏、そして環は、強敵を相手に後手をとられ敗北を重ね、逃亡と敗走を繰り返した。だが生きている。故に痛みを、喪うことへの恐怖を、そして負け方、負けぬ方法を学び積み重ねていったのでしょう。……弱者相手に常勝を誇っていた鐘山銀夜は、負け方も退き際も学ばなかった。それどころか」
色を失った唇が、言葉を紡げずに蠢いている。
宗忠は、順門府の誰も慕ってやまない姫将の実態を正論にて暴く。滔々と説かれる事実が、彼女と、彼女の信奉者の心を苛んでいった。
「貴女は、勝ち方さえも知らない。戦う術さえも分からぬ」
やがて、陣中に底冷えするような狂声が響く。
秋風の流れを乱すその笑い声が、自分たちの大将から聞こえてきたものだと知った時、諸将は慄然とした。
老将はその中で、非礼と失言を頭一つ下げて詫びた。
陣羽織の端を踊らせて、踵を返し、その場を退出しようとした。
「あッ」
声が背後から漏れる。それに反応して振り返った彼のまなこは、大きく見開かれたが、全てを悟ってゆっくりと閉じられた。
響庭宗忠が最期に見た光景は、人物は。
……それは、叫声を放ち、おのれ目がけて凶器を掴んで振り上げる、白髪の鬼女の姿であった。
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鐘山環は遠く隔てた敵陣の変化を、肌に感じ取っていた。
彼のみならず、その場にいた歴戦の猛者ならば、もう間もなく日が傾きかける頃合いに、総力戦に入るだろうことは予想がついた。
敵陣の狂乱まじりの喧噪が、やたら捨て鉢気味な咆吼が、それを教えてくれる。
だが、そのきっかけを、かの敵将の心情までを察したのは、おのれだけだったのではないかとも思う。
「……焼き切れたか、鐘山銀夜」
彼の呟きに戸惑い、訝る圭馬と由基へと振り返る。
そして、彼らの背後に整列する千人もの将兵一人一人の顔を見た。
「間もなく、敵が来る」
彼は、短くそう前置きした。唇をうっすらと開き、深く風を吸った。
秋空の雲を仰いで目を閉じ、頭の中で散在する記憶を整理する。浮かぶ語の一句一句をつなぎ合わせ、とりまとめようと試みるが、いつものように上手くいかない。
だが、このまま心情を吐露するのも悪くない。いやむしろその方が自分らしいんじゃないか、などと。
――生きるにせよ、果てるにせよ。勝つにせよ負けるにせよ。
成すべきことはしてきた。打てる布石は全て打ってきた。負けるべくを負け、勝機を見出し、戦うべき潮はここと定めた。
後は、伝えるべきことを伝えるだけだ。
「壊れても、いや壊れているからこそ、銀夜は今までにない苛烈さでこちらへと攻めてくるだろう。おそらく、いやきっと、死人が出る」
それによって、命を落とすかもしれない者たちに。その瞬間に至る前に。
「それでも、もう俺たちが生き残るには勝つしかない。勝てば、順門府の者は念願の帰国がかなうだろう。それぞれの戦功、今に至るまでの働きにも、厚く報いる。桜尾家ご家中は、順門府は俺たちに任せて、風祭攻めに専念できることだろう」
いや、違うな、と。
環の本能が、伝えたかったことはこんな利害ではないと訴えている。
本当の答えを模索する環に、矢のような視線が飛んでくる。
その、幡豆由基の美しい獣の目に射貫かれたとき、彼女がかつて張り上げたその言葉が、耳に蘇る。
――そうだ。そうだったな。ここであの一言を言わなけりゃあ、それで鐘山環は終いだ。王だか君主だかという肩書きの、ただの『からくり』になってしまう。それでは駄目だ。
「……だから……この一戦だけは」
黒髪をばさばさと掻く。
帽子を置く。膝を折って土につけ、羽織を手で払って礼を正し、背を伸ばしきる。
そして環は、両手で大地を掴み、頭を倒した。
「俺を助けてくれ」
どよめきを頭の後ろで受け止めた。
「後で恨んでくれても、呪ってくれてもかまわない。だから、今この時だけは、損得をすべて忘れて、どうか俺に力を貸して欲しい。……それぞれが、生きるために。それぞれが、己の答えを見つけるために」
環がその姿勢で皆の動きを待った。
内心では怯えながら、どれほどが経っただろうか。
「おい、顔上げろ」
乱暴な由基の声が、その停止した時を再び進めた。
「顔上げて、オレらを見ろ」
促され、恐々として持ち上げたその視界に入るのは、自分と同じく地に手足をつけた多くの人々。
亥改大州、色市始、良吉はじめ、自らの組下ではない羽黒圭馬、相沢父子までもが、深く彼に礼をした。
あるいは忠と呼べるものを、あるいは敬意を、あるいは親愛を、環に表現してみせるために。
その先頭に立っていた幡豆由基もまた、上物の袴が汚れるのも厭わずに膝を屈し、弓を置く。細くしなやかな三つ指の先がそっと地に接し、切れるような所作で、環へと拝礼した。
「よく、打ち明けてくれました。……この人々の在りようが、己が心身の汚れを厭わず、ひとり心の鬼と戦い、我らに道を示したあなたの旅路の答えでございます。我が王、我が友、鐘山環殿」
由基の言葉は、いつになく改まった丁寧なものではあった。
だが、媚びるような甘さのない、凛と張った美しい声音だった。
その目に浮かべた女の微笑が、清風となって環の胸を通り過ぎて、一抹の曇りを払った。
樹治六十年、申の月二十四日。
干原の戦いは、黄昏より始まった。