ふむん? と、器所実氏は奇妙な唸り声を発した。
「奇襲でも夜駆けでもなく微妙な時節に、真っ向から仕掛けてくるか」
「名将鐘山銀夜らしからぬ、拙劣な攻め。あるいは何らかの奇策の前準備では?」
応じたのは相沢城申であるが、実氏はその意見を否とした。
「うーむ、あれはヤケではないですかな?」
とは言え、実氏には確証があるわけではない。
彼は長年の経験と、そこで養われた戦機における嗅覚で、罠がないことを察知していた。
戦はすべて理屈どおりに行われるわけではない。その不安定さを知っているが故に。
「ですが、未だ動かぬ敵の後ろ備えが気になりますぞ。あれは、響庭の旗印ですが……」
「だが、まるで葬式のような陰気をまとっている」
もしかしたら敵将に変事が起きた。
で、急な総攻めを余儀なくされた。
実情はそんな程度のものかもしれない。
「敵勢、我ら本隊を大きく迂回! 山岳の搦め手に一直線に向かっております!」
物見よりの報告に「おやおや」と実氏は目に微苦笑を浮かべ、口の右端を吊り上げた。
――オレたちには脇目もふらず、味方が死に絶えようとも、環殿お一人を討ち取ろうというのか? 戦略の負けに対する挽回を、一戦の中の、そのまた一縷の光明に託そうと言うのか。……かつては、それで通じていたのだろうが。
明らかに敵の攻撃は常軌を逸している。
だがそれゆえに、死兵と化しているだろう。
「その鋭鋒を真っ向から受けるのは、愚策だな。当初の予定通りの対応でお頼みします、相沢殿」
「……環公子に、銀夜の攻めが凌ぎ切れるでしょうか」
「なに、すでに対応は通達しています。圭馬殿もおられる。それに」
「それに?」
「この程度の危機を超えられるかどうか、それによって順門府の主として、桃李府の盟友としての器量が試される」
相沢城申は深刻な顔のままに頷き、視線を背後へと向けた。
それに倣って実氏も首を後ろへ翻す。
「気張れよ、若人」
という言葉をそっと風に乗せる。
それから背後に振り返り、『かの若者』に改まった顔つきで尋ねた。
「で、どうかね? 合戦の混乱に紛れれば……いけると思うが?」
具体性もなく、短く問われた彼は、
「やってみる価値はあるでしょう」
実氏の意を巧みに察し、低く答えた。
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目を閉じた環の、その瞼の裏には夜が訪れていた。
本物の夜ではない。過去の月夜だ。
傍らには祖父が一人でいて、その夜が、かの老公、鐘山宗円との今生の別れだった。
おのれの髪を撫でつけながら、老人は己の人生を振り返る。
「……ずいぶん、長引いてしもうたなぁ」
当時は何が? と、聞きたかった。
今となっては、わざわざ聞く必要もなかった、と思った。
「のう、坊よ。聞いとくれ。わしは、朝廷を討ち滅ぼす気など、もともとなかった。天下を取れたとして、治めるだけの器量がないことは、わしが一番良く知っておった。そして今では、周知の事実よ」
冬の澄んだ空を見上げる。
天に満ちる星々を統べるかのように、黄金色の満月がのぼっている。
そう、例えるならば己の描いた世界のありようとは、あれこそが理想であった。
老人は、想いの丈をそういう言葉から紡ぎ始めた。
「……わしは、順門一国の自治を認めていただければそれで良かったのじゃ。朝廷という目映い白日から逃げた先の受け皿。彼らの朝廷の、帝に対する怒り、不平不満を癒し、生産に昇華させるための、月の都。それこそが、順門府のあるべき姿だと、考えておった」
だが、夢は破れた。
「要するに、結局わしには人を受け入れる仕組みを作ることはできても、人の情を解し、欲をくみ取り、かつ受け流すだけの力さえ備わってはおらなかったのだ」
そう言って彼は、孫をかき抱く。
すまぬ、すまぬ……という呟きが、自然と、そして繰り返し、口から漏れていた。
「そなたらには、辛い道を歩ませる、苦しい時代を生きさせることとなってしまった」
――大丈夫だ、じじ様。
鐘山環は閉じた瞳で、過去の自分と祖父との抱擁の様を、じっと見つめていた。
――人が必要とするならば、その受け皿はおのずと生まれる。その人の想いを継ぎたい者があれば、いつかは……それは実現される。
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土のめくれ上がる臭いが、風に運ばれて環の鼻腔に届く。
地を駆ける殺意の群れが、もう間もなく環たちに襲いかかるという、その兆しを嗅いだ。
環がうっすらと目を開け、深く呼吸した。
――こっちが風下……風向き悪し、か。
だが、いつか風向きが変わる。
その刹那、その潮目まで、手練手管を尽くして耐え忍べば、こちらの勝ちだった。
陣鉦が鳴り響く。それに突き飛ばされたかのような動作で、母衣武者が一騎、彼の足下に膝を屈した。
「ぜ、て……っ、敵のほぼ全軍が我らに向かってきております! 先鋒は熊手の紋!」
「新組勇蔵」
その第一報に、傍に控えていた良吉がぼそり呟き、
「やっぱ身内殺しはあいつの務めってか」
と由基が皮肉な笑みを目に浮かべて立ち上がった。
「環公子」
と客将羽黒圭馬。その眼差しを受け止め、床机から我が身を押し上げた。
「旗本含める隊の半数を、退却させる。下山の準備を」
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――ほら、見たことかッ!
鐘山軍一万八千の先鋒、新組勇蔵は自らの鬱屈した数々の感情を、疾駆によって振り払い、剛胆さによって振り切り、嘲笑を大にして吹き飛ばした。
「なんのことはないッ! 奴らの陣構えなど、環の器量など所詮幻影に過ぎん! 見よ、その証拠に奴らは狼狽し、裏崩れしているではないかッ、実氏も動かん!」
下山し、後退をしている備えは、何を偽ることができよう、鐘山家嫡流にのみ許された旗印。その人数の最後列に、伸ばし放題にした黒髪と、その背に打ちかけた朱の陣羽織のたなびく様子が見て取れる。
「ははっ、見ろ! 奴め、お好みの帽子を忘れるほどに狼狽しているではないか。それに、あれっ!」
陣立ては、煩雑。
本来ならば殿に大将など置くまい。騎馬武者に保護されることなく、弓鉄砲がいるのはともかく、後陣に長柄の足軽など障りになって、まず配置などしない。
進む方角には緑岳より派生するなだらかな丘。
慌てふためく彼らでは、高所にのぼるのに速度を落とさねばならないのだろう。
やがてその足並みは、みるみる内に停止していった。
「好機到来! 一気に距離を詰めるぞ!」
天を揺さぶるほどの彼の号令に各奉行、組頭が応じ、使い武者が馳せ巡る。
「なんたる無様な敵陣よ! これではまるで!」
あらかじめ、先陣と後陣とを、入れ替えた、ような……?
葦毛の馬に乗った敵将が、その朱羽織を翻す。
彼が手にした朱槍に促されるように、槍が立てられ、兵はその身を後ろから前へ方向を転じる。
それ以上の動作は、必要なかった。
前衛と後衛を入れ替える動作などは。
最初から、そのための陣立てであったのだから。
すぐに弓は引き絞られて、既に鉄砲には火縄がついていて。
真っ先に逃げていたはずの旗持ちが、丸めるように抱えていた軍旗を、高々と掲げる。環の本陣になびいていた波の旗ではなく、銀蜂の紋所。
「は、はぐろ……け……?」
……算を乱して逃げていたはずの敵備えは、正しく高所にてこちらを迎え撃つ構えを整えていた。
先頭にてそれを指揮するのは、鐘山環ではない。
緑の鉢金を額に巻いた、勇壮な若武者。
「指矢がかり!」
その彼の一喝の下で、鉄砲が火を吹いた。
矢が一方的に飛び、足並みが乱れたままの鐘山方の前衛を、瞬く間に制圧していく。
こちらが崩れるよりも先に、敵将が足軽を率いて坂落としを仕掛けてくる。
「今だ! 突入っ」
間に合わぬ。潰される。
鉄の衝突する音が、ぞわりと肌を粟立たせた。
桜尾家中、器所家と一、二を争う武力集団の名ぐらい、遠く領地を隔てた新組の耳にも入っている。
まずその風聞が、彼の戦意と覇気をたちまち叩き折ってしまった。
――は、羽黒家が奴らについただと!? あの朱槍、羽黒圭馬か! とすれば、かの羽黒圭輔が、すぐに、いやもうこの戦場に到着しているのか!? もしや、我らの背後に回り込んだのではないか!? いや別働隊として我らの領地が切り取られて……
我を見失った新組に、潰走する味方を押しとどめる術はない。
何度呼びかけられ、指示を求められようとも、血しぶきあげて味方が切り取られようとも、棒立ちに目の前の惨劇を眺めているほかなかった。
「貴殿は、武人にあらず」
若い男の声と共に繰り出された槍が、雑念まみれの彼の脳髄を眉間より射貫いた