鐘山宗善の許へ実際にその報告が届いたのは、決戦の三日後のことであった。
その日、順門府公は監禁した盤龍宮の支配者へ再度の説得を試みていた。
その幡豆由有への待遇は日に日に悪化しており、その時の段階では、近くの古くからある石牢に幽閉していた。
腐臭のする溜まり水に膝下の半ばを浸からせながらも、彼はさもそれが天罰であるかのように甘受をしていた。
その、最中のことであった。
遠慮がちに主君を呼ぶ伝令に、宗善は構わず近くまで来るように指示した。
その使者が顔をしかめているのは、漂う悪臭ゆえか、それとも……
「大殿……銀夜様と桜尾家との戦いの報告がその、入って、おりますが……」
使者はそう言ってためらいがちに格子の向こうの男を見遣った。
「構わん、この場で話せ」
「しかし」
「もう良い」
宗善は重い呼気と共に、繰り返し促した。
仮にそれが吉報であれば、聞こえよがし大声を放ち、自らの不利をこの謀反人に分からせたことであろう。
……そうではないことが、既にもたらされたものが凶報であることを、饒舌に物語っている。
「……鐘山銀夜様は敵勢の一点突破を図られました。そして、敵砦の中央の一角を占拠することには成功いたしました。しかし敵の防戦も激しく、乱戦の最中に勇戦していた新組様が武運つたなく討ち死にされました。それを契機に優勢は崩れ、姫様は自ら殿となって敵大軍に突入し……行方知れず。惜敗と相成りました」
宗善は低い岩肌を見上げた。
その額に露が落ちて、それを拭うと鈍い痛みが内よりこみ上げた。
「……使い番に、美辞麗句を並べて戦果をごまかす役目など、入っていなかったはずだが? 負けたのだろう。しかも、ひどく」
「大殿ッ!」
「知れきった大敗をひた隠せば、余は末代までの笑い者となろう。公正さなくして、秩序はあり得ぬ」
そう告げて使者を下がらせた宗善は、改めて由有と向き直った。
「……貴様の願いどおりとなったわけだ。さぞ痛快であろうな」
「これも、日々の信心の賜でしょうか」
相変わらずぬけぬけとうそぶける由有に、宗善は顔をしかめた。
だが、ここまで直言できる臣下は、彼の直属の配下にはいない。いわんや、外様や各領主などは。
「だが、余はまだ敗北したわけではない」
由有は顔を上げて背を可能な限り伸ばし、かつての共謀者を正視した。
「余の論は正しい。余の道は間違ってはおらぬ。正しい国の在りよう、その答えは既に出ており、余はそれに従ったに過ぎぬ。いずれ、この秩序の正しさを誰もが思い知ろう」
野太い声が滔々と語り、岩に張り付く水滴ひとつひとつに、染み渡るかのようだった。
「……たしかに、貴方の論には真理がある。それを貫けるだけの強さがある。いずれの時代にか、国家に奉仕し、規律の枠組みに従って生きることこそ、平等な幸福をもたらすのだという主義が通る世が、あるのかもしれませぬな」
由有は素直にそれを認め、しかしなお、彼を強く批判した。
「だが、それは今、ここではない」
鐘山宗善は鼻を鳴らす。
彼らを隔てる古木の格子に手をかけると、その錠前に鍵を差込み、解いた。
あっ、と思わず起ち上がろうとするが、長い間、まともに立てない環境下で拘束されていた由有の膝が、急な直立を許さなかった。
腐った水に両手をつく由有を見下ろしながら、
「行くが良い」
そう、吐き捨てた。
「環の下へ行き、無様に許しを乞え。そして死ね。怒りにまかせて環が貴様を殺せば、国元で騒ぐ貴様の愚息らは、仁君鐘山環など所詮は幻影だと知るであろう。冥府で盤龍神に喰われ、おのれの所業を後悔するが良い」
宗善が牢から出た時、旭日が目の前に輝いていた。
その覆いとなるように彼を待ち受けていた三戸野翁を伴い、山を下る。
「まずは国元の愚者どもを追い散らす。しかる後、体勢を整える。多少の出血はやむを得ぬし、それはそれで敵味方を、信の置ける者とそうでない者とを判別する分水嶺となるだろう」
はいはい、と唯々諾々従う老将は、相変わらず好々爺然とした、だらしない笑みでシワを作っている。
忠義を疑ったことは、一度もない。それでもふとこの老人の本心が知りたく思い、立ち止まり、横顔だけを向けた。
「無論、爺は最後まで供をしてくれるであろうな」
「はいな」
「それは、余が正しいゆえであろう」
彼が発した最後の問いに対しては、三戸野五郎光角は曖昧な表情のまま返答を控えた。
代わり、こう言った。
「……この固まった頭には、物事の是非はよう分かりませんわ。それでも、爺には殿が、不器用なれど良き世を目指そうとしていることが伝わります。爺は、殿が悩まれ、そして私心なく苦労を重ねられたことを、誰よりも知っております。それ故に、信と忠に足る御仁と思っており申す。それ故に……我が子同然に、愛しゅうございまする」
老人の答えは、決して宗善の望んだものではなかった。
だが、不思議と胸に染みる、解答ではあった。父存命時に、何度対話しても得られなかった想いが、そこにはあった。
だが、その念に染まりきらずに、血まみれの重荷を背負い、己の正義と秩序へ向けて邁進する。
それこそが、彼の選んだ道であり、天へと向けた答えであった。
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三割近い戦死者を出しながら敗走する銀夜の残党を実氏と赤池船団と、そして響庭村忠は追い立てた。
あるいは船からの攻撃で、あるいは陸上よりの猛追で、あるいは調略によって。
落ち武者狩りにより村の安全を確保した環らもまた、動く。
要所を点として占拠していた鐘山環派の勢力は活発化する。
盟友である大国、桃李府。
実は宗善派であった史を放逐し、その幼児を傀儡に要した六番屋が大勢を占める名津。
環勢の大勝と、その前後の穏健な振る舞いを間近で見た、緑岳周辺の諸氏。
宗忠の死とその顛末を知った響庭家の、正式な投降を受け入れ、笹ヶ岳古戦場周辺を取り込む。
軍師、勝川舞鶴が奪取し、その城代をつとめる御槍城。
宗善の来襲を受けて即座に撤退するも、幡豆家の盤龍宮はなお健在。
そして、大渡瀬近辺も彼らに同調の動きを見せる。
それらを線としてつなげると、順門府東南部一円を支配する大勢力と相成った。
自らが一朝一夕にして大勢力の主となったことに、未だ実感が持てないままに、その道中、環は珍客と出くわした。
それは偶然か、その客の意志か、笹ヶ岳南の狭い街道。
『順門崩れ』における父、宗流の陣所跡でのことだった。
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「……オヤジ」
最初にその客の正体に気がついたのは、目鼻がきくため先陣を任せられていた幡豆由基だった。
娘である彼女は、父と、その手勢との再会を喜ぶよりも先に、その奇異なる格好に顔をしかめた。
だがその姿、白装束は幡豆由有の肉体より発せられる神性には、合っていると言えば合っている。
手勢はそのまま待機させ、単身での面会を求める由基の父に、環は素直に応じた。
自らも由基をはじめわずかな気心の知れた友人たちのみを引き連れて。
「……大きゅう、なられましたな。若」
「いやー……つっても、半年も経ってないと思います」
開口一番成長を喜ぶ由有に、環ははにかみながら、彼なりに言葉を選んだ。
それでも、彼の善性は父の死より続く受難にも折れることも腐ることもなく、むしろそれを土壌として成長したように思える。由有の偽らざる本心からの感嘆だった。
沐浴により己の身の穢れを払い、清めた。由有はその自身をにじり寄らせ、深く頭を垂れた。額を土につけながら、自らの罪を詫びる。
「愚かにもこの由有、曲事に荷担いたしました。それが御身を危険に曝す結果となり申した。願わくば、これ以上は何も聞かずにこの場にて首を刎ねていただきたく存じます」
多くは語らない。意図的に伏せた詳細は、環一人に察して欲しかった。あの事件の真相を、自らが主君を弑したことを語れば、由基に類が及び、彼女自身も苦悶しかねないだろう。それは彼女自身が知り、悟り、かつ納得しなければならないものだ。
歯がゆくも、この一件に関しては父としてしてやれることは、何もない。
「オヤジ、あんた一体何を」
「何とぞ。麾下の兵や一門には『お恨み申すな』と言い聞かせてありまする。この娘も、いずれは理非を受け入れましょう。……どうか」
娘の言葉を遮り、一族の安泰を図るために盤龍宮の支配者は頭を下げた。
傾けられる痩身を前に、環はわずかに息を詰まらせたようだった。
「……環」
なんとかしてくれ、と。
面倒がるようで、縋るような響きで、由基は自らの友人に意見と決定を求めた。
環は帽子を目深にかぶり直すと、口の端から少しずつ息を吐き出していった。
そして、
「何を言ってるのかさっぱり分からない! よって罰しようがないっ! よってお咎めなしっ!」
……と、意図的に軽い態度を言ってのけた。
「若ッ、わたしは! 貴方のお父上をッ」
予想だにしていなかった返事が、由有の頭を弾かれるようにして持ち上げた。
気がつけば膝を屈した環の顔が間近にあって、その表情からは笑みは残っていても、軽さは消えていた。貴公子たりえる気品と、尊厳とがあった。
「だから、許す」
そして彼の双眸には、彼の言わんとしていることへの深い理解が込められているようだった。
――父を、宗流公を殺めたわたしを、許されると!?
いったい何故か、と問いたくなる己の口を封じ、その由有同様に少ない言葉の裏を探る。
宗善に与した諸将の間でも、 それなりに知れ渡ったことであった。
その己を、「だから、許す」という。
許せば、どうなるか? どういう効果を、生むか?
「下手人本人が許されたのだから、ひょっとしたら己らも許されるのではないか」
彼らはそう考えるのではないだろうか?
それすなわち、宗善から環へ鞍替えできない理由。罪の意識と罰されることへの恐怖というタガが外れることを示していた。
もし彼らが環派に転じた際は、その負い目が彼らを縛る鎖となるであろう。
そうした彼らを誘引するのは、当事者であり種を蒔いた己ではないのか。
――この方は……いったいどこまで……
清濁を併せ呑んで、大きくなった?
「とまぁ、建前はこんなところでさ」
え、と再び声が漏れる。
「俺は、貴方に生きて欲しいんです。もし『それ』に過ちを感じているのなら、どうか生まれ変わって欲しいと思うんです」
目の前の公子は由有の肩に両手を置いた。宗円に、宗流。二人にも同じような接し方をされたことを、由有は自らの春秋を回顧して思い出す。
この若者の手には祖父ほどの威も、父ほどの力強さも、まして叔父ほどの頼もしさもなかったが、それでも手を置かれるだけで安らぎを覚える、神通力にも似た魅力があった。
「国一つを変えようとした男が、自分一人変えられずに終わるなんて、そんなのイヤじゃないか」
何も言葉にできずに項垂れた男の胸に時間差をつけて去来したのは、予想以上の名君を新たに得られた喜び、そして、旧主に対する詫びであった。
――お許しください、宗流公貴方の後を追うのは、まだ先になりそうです。貴方の子らと、我らの国の行く末を、今しばらくはこの目で見届けたく存じます。……今度は決して、早まらぬように。
抜けるような青空に、幡豆由有は確かに豪放な笑声を聴いた。