――――――――――――アルビオン貴族、サー・ヘンリー・ボーウッドは眼下に展開する艦隊を眺めていた。
アルビオン侵攻を開始したトリステイン艦隊はいかにも寄せ集めと言った様相を呈していた。
眼下に展開する艦隊の先頭にはかねてからトリステイン艦隊旗艦を勤める『メルカトール』号。
続く数隻の艦は識別表で見慣れた『メルカトール』よりも若干小型の戦列艦群が続く――そこまではそれまでのトリステイン艦隊と同様だった。
しかし、その背後には多種多様な戦列艦が列を成していた。
ある艦は新造間もないためか、雲に溶け込むように塗られた塗装が逆に反射してその艦影を浮き上がらせていたかと思えば、その後ろに続く艦は見るからに老朽化した旧式艦だった。
「トリステインの連中、幾分に努力したと見える」
そう呟いた彼の隣に居た若い青年貴族が彼に向かって叫んだ。
「艦長、そんなことを言っている場合ですか! 早くあの始祖に背く連中を叩き落す命令を発するべきです!……それとも臆したとでも言うのですか?」
そうがなりたてる青年の顔には興奮と恐怖――そして狂信があった。
そう、ボーウッドの隣で先程から意味も無く好戦的な台詞を吐く青年はレコン・キスタ中央評議会から派遣された貴族議会議員、つまりクロムウェル議長のお気に入りだった。
それは政治的地位においてボーウッドよりも遥かに上位にある存在であることを意味する。
それに対して、上官がレコン・キスタに付いた結果として叛乱に加わらざるを得なくなったボーウッドの政治的地位や信頼性は低い。
政治が全てに優先するというレコン・キスタの下では能力よりもその政治的信頼性とやらが常に優先されるのだ。
だからこそ、彼は傍らで自らの地位の優越性と好戦性をわめき立て続けているこの青年の侮辱に耐え続けていた。
「まぁ、落ち着きたまえ。決戦を前に貴族たる君が常に冷静沈着に振舞うことを忘れる筈はないと私は信じているよ」
年長者として、そう言葉を返しながらボーウッドは『ロイヤル・サヴリン』があれば随分と頼りになっただろうに、とひっそりと一人ごちた。
――いや、今は『レキシントン』だったか?まぁどうでも良い事だ、と彼は自嘲した。
艦長としての経験よりも政治的信頼性を重視して任命された男に指揮された、あのアルビオン王権の象徴だった優美なフネはニューカッスル陥落の際に損害を省みず突撃してきた『イーグル』の体当たりを受けて失われていた。
彼はその瞬間を自らが指揮していた『レゾリューション』の最上甲板から目撃したのだった。
「――旗艦より信号! 全艦戦闘配置に就け! 旗艦の砲撃開始と同時に全砲門開けとのことです!」
そんな彼の思索を断ち切るかのように、前方を航行する旗艦を注視し続ける見張員から報告が届く。
その報告を聞いたボーウッドは長年空の上に居た人間しか発することの出来ないよく通る声で命令を発した。
「本艦はこれより戦闘に入る――総員戦闘配置ッ!」
ボーウッドの命令と共に、自身の持ち場に就くために周囲の兵員が駆け出していく。
同時に主メインマストに応答の信号旗がするすると登っていく。
彼の『レゾリューション』に続く後方の各艦も同様の動きと共に応答の信号旗を掲げる。
その応答を確認した、前方を行く旗艦『ノーザンバーランド』は降下しながら速度を増し、前下方のトリステイン艦隊に向かっていく。
――そして、トリステイン史上最大の艦隊戦が始まった。
衝撃とともに船体が揺れ――そして舷側の何かが破壊される音が響く。
彼のフネに命中した砲弾は舷側の木製装甲を突き破り内部の壁に当たってようやく勢いを失うが、高熱を持ったまま内部の可燃物を引火させる。
まだその直撃で押しつぶされた者は比較的幸運と言えるかもしれない。
着弾と同時に砲弾によって粉砕された甲板や船体の一部が即席の杭と化して周囲のあらゆるものに突き刺さる。
それは人間とて例外ではない。
不幸な水兵のうち、数人がその木片をまるでハリネズミのように全身に突き刺して断末魔の絶叫の声を上げていた。
「損害報告!」
「右舷第二砲甲板に被弾! 砲2門喪失! 兵員12名死傷!――戦闘航海支障なし!」
彼の求めに対して直に反応が返ってくる。
彼のフネは軽微な損傷を負ったものの、戦闘には支障が無いようだった。
そんな報告を聞いて、敵は寄せ集めにしては中々やるものだ――彼はそう思った。
本来、艦隊搭乗員というものは専門職の集まりのようなもので、艦は直に建造できても船員の急な養成は不可能であるというのが常識である。
現在彼の『レゾリューション』が相手する艦はトリステイン常備艦隊に属するフネだが、急遽集めた多くの艦を運用するために熟練船員を引き抜いたにしては練度が高く、数斉射で彼の乗艦に砲弾を叩き込んだのだった。
――無論、単なるラッキー・ヒットだったのかもしれないが。
まぁ良い、それも直にわかることだ……彼はそう思い直した。
相手の艦は74門装備の二等戦列艦、しかしこの『レゾリューション』も備砲数では若干劣るものの70門の砲を装備した同じ二等戦列艦だ―――そう簡単にやられはしない。
「砲撃を続けたまえ――」
そう命令する彼は、先程まで傍らでうるさく喚いていた青年貴族のことをすっかり忘れていた。
既に戦闘開始から10数分が経過し、数隻の敵艦が炎上、あるいは隊列から落伍して数を減らしていた。
そのうち2隻は彼の指揮する『レゾリューション』の戦果だった。
もう何度目になるかわからない斉射の轟音と反動による船体の揺れを感じながら、ボーウッドは一人思う。
――ふむ、我がアルビオン空軍もまだまだ大陸人に劣るものではないな。
その時、見張員の絶叫が響いた。
「艦長! 『ノーザンバーランド』が!」
その声にボーウッドは前方の旗艦のほうを振り向き、目撃した。
前方を航行する旗艦は多数の艦に標的にされたためか、炎上しながらさながら断末魔の状況を呈していた。
敵に向けられている右舷側は酷く破壊され、高度と速度も急速に低下していた。
さらに消火に当たる水メイジも戦死したのか、既に手が付けられないほどにまで燃え広がっていた。
そして次の瞬間、火薬庫に火が回ったらしい――大爆発と共に一瞬のうちに内部から風船のように膨れ上がり、直後に空中で爆散する。
バラバラになった船体、いや残骸があっという間に遥か下の大海へと落下していく。
そんな光景に誰もが呆然とするなかで、誰よりも早く自分を取り戻したボーウッドは傍らに立つ伝令員に告げた。
「後続各艦に伝達!――旗艦喪失につき、これより本官が艦隊の指揮を執る! 運動旗一旒!」
その信号を受けた各艦からは次々と応答が帰ってくる。
これで艦隊としての戦力は失われずに済んだ――当面の問題は去ったと彼は安堵した。
戦闘中にも関わらず、彼の思考からは常に余裕が失われることはない。
それがこのアルビオンの空で生きてきた彼の誇るべきものだった。
いや、真に誇るべきはこの状況でも粛々と自分の任務を果たし続ける水兵諸君だな、と彼は思う。
……しかし、彼のフネには異分子とでも言うべきその例外が一人居た。
「か、艦長! 直ちに艦を敵から離して私の安全を確保したまえ――! このままではわ、私の身が危険だ!」
戦闘開始前の強気から一転して弱気に転じた青年貴族がボーウッドに向かってわめき立てる。
しかし、彼の傍らにはその青年の姿はない。
彼はこの艦が初めて被弾してからというもの、共に上甲板に一人で立ち続けるボーウットから離れ、物陰に隠れた状態で縮こもっていたのだった。
そんな青年の姿に“貴族たるもの、勇敢であれ”と謳われたかつてのアルビオン貴族の栄光は全く見えない。
――祖国の防衛よりも自身の身の安全こそが大事か。
アルビオンの貴族とやらも落ちたものだ。
「艦長! 聞いてい――」
轟音とともに船体が揺れ、船体が破壊される音が響く。
と、先程から続いていたわめき声が突然途切れた。
同時に一瞬鼻を突く血のにおい――しかし、たちどころにその臭いは圧倒的な硝煙や木材の焦げる臭いに取って代わられた。
――ふむ、これで君も革命貴族とやらの意義を示したわけだ。
傍らで全身に無数の即席の木杭を突き立てた青年だったものを一瞥して彼は思った。
青年が遮蔽物としていた壁に砲弾が命中した結果だった。
と、同時に彼は自艦に対する被弾状況を確認する。
――むしろ最大の問題は数の差だろうな。
青年貴族に対するつかの間の哀れみ、という贅沢から思考を切り替えた彼は思った。
かつての強大なアルビオン空軍は内戦によって失われ、今あるのは彼の指揮する艦も含めて十数隻でしかない。
それに対してトリステイン側は寄せ集めとはいえ、ざっと見ただけで30隻を超える。
ある程度の損害は与えられるだろうが、マトモに戦っていれば何れは物量に押しつぶされてしまうだろう。
ならば、採るべき方策は一つしかない。
トリステイン艦隊が守るべきもの――すなわちアルビオン上陸部隊を搭載した輸送船団に出来るだけ損害を与え、地上部隊が有利になるように仕向けるしかない。
もちろん、輸送船団にも護衛は付いているだろうがその数は現在交戦中の主力艦隊よりは少なく、旧式である筈だった。
「全艦に伝達! これより本艦隊は敵輸送船団の襲撃を敢行し、可能な限りの損害を与えんとす――」
彼は命令を下した。
……当然そこには自身の帰還という考えは無い。
未だ敵艦隊が戦闘力を保持したまま(しかも自軍よりも優位な)の状態で敵の後方にいる輸送船団を攻撃するということは自分から挟み撃ちの状況を作り出すことに等しい。
戦術としては下策であり、無能と言われても仕方がないかもしれない。
仮に輸送船団に攻撃を掛けることができたとしても、追撃してくる敵主力艦隊によって自軍の大半が撃破されてしまうだろうということはボーウッドにもわかっていた。
それでも、敵が侵攻してくる本土を守る為にはやらなくてはならなかった。
彼はあまりレコン・キスタの事を好んでは居なかったが、彼は彼なりに自身の故郷であるアルビオンを愛していたのだから。
そして、彼の挙動を注意深く見つめていた水兵達に強く、そして何処か柔らかな声で言った。
「アルビオンは諸君の奮闘を期待する!」
アルビオン上空での勝報は直ちに王城にいるアンリエッタの元に届けられた。
トリステイン艦隊はレコン・キスタに支配されたアルビオン艦隊の多数を撃破、と言う知らせである。
アルビオン艦隊は一時トリステイン主力艦隊を突破して輸送船団に向かって突撃したが、最終的に数に勝るトリステイン艦隊に押しつぶされるようにして壊滅した。
――アルビオン空軍は主力艦7隻を失い、残りも大破という損害と引き換えにトリステイン側の主力艦12隻を撃沈、輸送船団に7隻の損害を与えて壊滅したのだった。
無論、不用意に王女や侵攻反対派に不安や休戦への願望を抱かせないように、味方に関する損害の部分は伏せられ、「これでアルビオン上陸の阻害要因となるものは無くなった」という戦略的状況のみが記されていたが。
しかし、その知らせを届けるために、長躯飛竜を駆ってきた伝令が見たものは、焼け落ちた貴族の館や後処理に追われる衛士と言った王都での巨大な騒乱の痕だった。
その事件はどんよりと曇ったある初夏の日に発生した。
直接的な原因は誰にもわからない。
あるものは先日まで行なわれていた貴族殺害の犯人捜索時の貴族の横柄なふるまいがそうだと言い、またあるものはアルビオン侵攻に伴う戦時課税や貴族の腐敗が原因だと言う。
戦時体制とそれによる食物価格の高騰が原因であると言う者も居れば、あるいはその日が休日である「虚無の日」であったことに原因を求める者も居る――平日であれば人々は自身の労働に精を出し、そんな騒乱に参加する余裕を持たなかっただろうと言うのだ。
いずれにせよ、貴族に対する平民の限界がある一線を越えたのは確かだった。
それは誰もが持つ横暴な貴族に対する不満という共通意識を土台として、さらにその周囲の人々から外周に向けて同種の影響を与え、その意識はまるで伝染病のようにして瞬く間に人口の密集したトリスタニアの街中に広がっていく。
誰かが今まで内心で圧殺していた不満意識の噴出をこらえきれなくなったのだ。
そうした意識がまるで連鎖反応でも起きたかのように、膨れ上がる。
集った人々は誰しもが貴族に対する不満を隠さない。
そんな場所を求めて多くの人々が集いはじめると、必然的に密集した人々はさらに広い場所を求めて動き出す。
さらに移動先の人々を流れに取り込んでさらに広い場所を求める。
その数はあっという間に1000人を突破し、直にその2倍、4倍と膨れ上がる。
そうして発生した群集は自然発生的な流れとなって貴族街へ――そして、王城の方向へと流れ出した。
王都トリスタニアは大きく分けて二つの町――いや、二種類の町から出来ている。
一つは当然のことながら、住民の住む平民街であり、経済の中心地として人口の大半はそちらに居住している。
しかし、その平民街の居住環境は劣悪であった。
代表的な大通りとて街路幅は数メイルの幅であり、当然舗装もされていないので雨が降ると泥水が溜まる。
おまけに出店用の資材が休日でも道の両端に置かれており、実際の広さはかなり狭いのが現実であった。
その街路の間を埋め尽くすかのように密集して建てられた木製の家々は風通しも悪く、まるで迷路のようなじめじめとしてかび臭い路地裏を構成していたのだった。
そして、もう一つは平民街と川を挟むようにして存在する貴族街である。
貴族街には当然、貴族の壮麗な館が立ち並び、王城といった官庁もこちら側に配置されている。
所領を持つ貴族はこの貴族街に大きな屋敷を持ち、事実上ここで暮らしているものも多かった。
そんな貴族街には彼らを快適に過ごさせるため、下水道を初めとした各種設備が整えられ、馬車が行き交うという理由で限定的ながら石畳による舗装も敷かれていた。
また、平民街と違って、大通りには出店が立ち並ぶことが許されていないため、書類の上では同じ道幅ながら実質的には遥かに広く整然とし、かつ庭付きの貴族の王都別邸によって広々とした全く別の町並みが形成されていたのだった。
そして、そんな平民街から貴族街の中心を貫き、王城へと至る大通りは数え切れないほどの人々で埋め尽くされつつあった。
「――ワシらの家を滅茶苦茶にした横暴な貴族様を処罰してくだせぇ」
「――戦争税をなんとかしてくださいませ。唯でさえ食べていくのがやっとなのに、これでは死ねというのも同然です」
人々は口々に現在の苦境を訴え、そして不満を表明しつつ、トリステイン一の大通りたるブルドンネ街からゆっくりと広いほう、広いほうへと進み、王宮へと繋がる貴族街を進み続ける。
いつしか、人々の目指す場所は王宮前広場となっていた。
彼らが目指すものは彼らが信じる始祖ブリミルの直系。
トリステイン……いや、ハルケギニアでは始祖ブリミルを崇拝することが定められていた。
それは、支配者たる国王が始祖の直系を自称しているという政治的事情もあったが、なにより始祖ブリミルは魔法を伝えることによって、人々を富まし、凶悪なオークと言った野獣から守ることを実現した存在であると信じられてきたのだった。
その直系――人々を守るとされた始祖の血を引き、『トリステインの花』と謳われたアンリエッタ王女なら、自分達平民の苦しみがわかってくれると誰もが信じていた。
故に、現在の生活に苦しむ人々は普段立ち入ることさえ憚られる石畳の道を進み続けた。
「下がりたまえ――!」
トリステイン王都警備隊の華美な制服に身を包んだ当直士官が叫んだ。
かつて優美な立ち振る舞いを常に心がけていた彼であったが、今はそんな片鱗も見えない。
彼は一月ほど前、可愛がっていた5つ年下の弟を失っていた。
魔法学院に在籍していた彼の弟は、彼が守る王都トリスタニアの平民によって殺されたという。
――弟は貴族としての誇りを守る為に戦った。
彼は父や兄からそう聞かされていた。
しかし、今はどうだ?
下賎なる身分にも関わらず、彼の弟を奪った平民共は、今度は王政府の権威までも犯そうとしている。
目前の光景は、少なくとも彼の眼にはそう写った。
決して許されることではない――今一度、この平民共に我々貴族の力と権威を示さなければならない。
……それこそが貴族としての誇りを守る為に死んでいった弟の名誉をも守ることになるだろう。
ゆっくりと迫り続けてくる困窮した人々を前に彼はそう決意した。
そんな当直士官の姿に最初に気付いたのは先頭近くにいた30代の女性だった。
彼女は「下がりたまえ――!」と警告する彼に向かって強い口調で請うように言った。
「貴族様……お願いします、そこを通して下さいませ。私達はあの美しい王女様にお話したいことがあるだけなんです」
しかし、そんな懇願をする女性の隣では60歳を遥かに超えるような老人が傍らの孫のような青年に支えられながらもあらん限りの大声で叫んでいた。
その願いの対象は貴族である当直士官ではなく、遥か彼方の王城に居るはずの王女に向けられていた。
「王女様……どうか無益な戦争など止めてくだされ」
さらにその背後に居た20代後半くらいの女性が大声を上げる。
しかし、その頬はげっそりとやせこけ、まるで50代のように見えるほどやつれていた。
「こんなに麦の値段が上がっては生きていけません! 子供たちも飢えております……王女様、どうか私達の生活をお守り下さい」
そんな彼女の叫びには、平民の生活に対する深刻な現状があった。
戦時体制に伴う兵員への食糧供給の為に主食である小麦の価格が上昇していたのだった。
特にそれは各家に一年分の備蓄のある農村部に比べて、基本的に自宅で食料を保存することの無い都市部で顕著だった。
そして、戦時体制に伴う物資不足はトリステインで一番物価が高く、最も人口密度の高い王都トリスタニアで最も深刻な状況を作り出していたのだった。
当直士官はそんな懇願をする人々に向かって大声で告げた。
「君達はよほど痛い目に遭いたいのか? 平民の分際で姫様に会えるわけが無かろう! それに王都を騒がすなど言語道断であるぞ!」
これでいつもどおり、平民どもは怯えながら解散するだろう――彼はそう思った。
それでも理解しないのなら彼の魔法を数発、空に向かって放つだけで蜘蛛の子を散らすように逃げ出すだろう。
しかし、そんな彼の予測は覆された。
「アンタみたいな下級貴族に用はねぇ! 俺達はアンリエッタ王女様にお願ぇをしにいくだけなんだ!」
何処からか聞こえたその叫びが彼の耳に届く。
さらに、彼がその声の主に反論する前に前方の群衆の中から同意の声が無数に上がる。
そしてその熱狂は人々を更なる批判へと駆り立てた。
「貴族の面子を守る為の戦争なんてやめちめぇ!」
「貴族どもは俺達を殺す気かっ!」
「アンタみたいな貴族が居るから私達はいつも苦しめられるんだ!」
そんな批判に対して、初めは彼らが何を言っているのか判らなかった。
――平民がここまで堂々と貴族や政治を批判することなどありえなかったからだ。
しかし、次第にその事実と意味を理解すると彼は顔を真っ赤にして怒鳴った。
「黙れッ!――貴様らッ!」
そう怒鳴り返しながらも、彼は困惑していた。
今までならこんなことは無かった筈だ。
そして自身はこの現状にどう対応すればいいのか。
しかし、彼が困惑するその間にも人々はまるで波打つようにして彼の立ちはだかる広場に向かってゆっくりと進み続ける。
そんな光景を眼にして彼に従う平民の衛士たちもこの状況の異常さに気付いた。
異変に気付き、怯えるような眼を向けてくる自身の部下の前で逃げ出すわけにはいかない――もし逃げ出してしまえば平民ごときに怯えて逃げ出した貴族という汚名を受けることになってしまう。
武名の誉れ高いグラモン家に連なる者としては、それだけは避けなくてはならない。
彼は混乱したまま、この場で唯一縋ることの出来る自らの職責の義務にしたがって叫び続けた。
「下がれと言っているのが聞こえないのかッ!」
しかし、群集は止まらない。
いや、仮に先頭が止まったとしても、後方の何も聞こえない群集は進み続ける。
そうした圧力に押される形で全体としての群集は決して止まることなく進み続ける。
数千……もしかすると万の単位にまで膨れ上がった人間の動き。
いままで一度に見たことも無い様な数の人間が正面に立つ自分に向かって進んで来る。
そんな光景を前にして彼はパニックに陥った。
どうしてこんなことになったのか。
何故彼らは止まらないのか。
――この状況から逃げ出したくても逃げ出せない現状。
ならばどうすればいいのか。
そもそも何故こんなことになったのか。
出口の無い堂々巡りの中で彼は弟のことを思い出した。
可愛い弟……あの優秀だったギーシュもまたこんな状況に直面したのだろうか。
だとするならば、同じような状況に置かれている自分の身は――
彼は背筋に寒気を覚えた。
先日、彼の弟を奪った平民。
その平民が大勢で、今も彼の元へと進んでくる。
徐々に彼には弟を殺したという平民と、押し寄せる非武装の群衆との区別がつかなくなっていった。
そして、弟を奪った憎悪と彼自身の生命の危機感は、彼に一つの行動を取らせる。
それは本能的な行動だった。
「――く、来るなぁ!」
その叫びと共に、彼は自身に向かって進み来る人々に向けて魔法を放った。
どんよりと曇った夜空を紅蓮の炎が赤く染めていた。
空を赤く染め上げていたのは数軒の貴族の邸宅や衛士詰め所等であり、その炎に照らされた石畳にはどす黒く変色した液体が染み付いていた。
半日をかけて、日が暮れた頃に騒乱は鎮圧された。
直接的な責任を負う王都警備隊だけでなく巨大化した騒乱を抑えるために、王城警備を担う3つの魔法衛士隊――グリフォン隊・ヒポグリフ隊・マンティコア隊までもが投入された結果だった。
王政府側の死者は27名に上り、負傷者も98名に達した。
うち、士官である貴族の死者は2名。
そこにはあのグラモン家の次男の名前もあった。
それに対して、この騒乱に加わった平民の犠牲者の正確な数は分からない。
確認できた遺体は300体以上、負傷者については見当もつかない。
発生原因もわからなければ、その正確な被害もわからないというこの事件。
しかし、一つだけ確かなことがあった。
――王家や王政府は平民を守らない。
ハルケギニア初と言ってもいい平民による大規模騒乱は、ハルケギニアの統治体制の根幹たる「王権神授説」を平民レベルとはいえ、否定した――いや、少なくともそう認識されるという結果をもたらしたのだった。
そうして、この事件は後にこう呼ばれることとなる。
『赤い虚無の日』事件、と。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
今回もトリ革をお読み頂いてありがとうございます。
作者のさとーです。
10/08/07
二回目の改定を実施