――――――――――――かつての「使い魔」の姿を見た瞬間、ルイズ・フランソワーズ・ル・ブラン・ド・ラ・ヴァリエールの思考は停止した。
いや、突如として沸き上がった心の奥底に秘めていた思いによって支配されたと言う方が正しい。
――取り戻せる。
――やり直せる。
――後悔させてやる。
――思い知らせてやる。
アルビオン大陸の端で雨に打たれながらもルイズの心の中は自らの「使い魔」のことで一杯だった。
その思いの前では滝のように降り注ぐ雨粒で全身が濡れそぼっていることすら気にならない。
かつて彼女自身の手から滑り落ちていったもの。
彼女自身を転落させたもの。
「使い魔」が居なくても自分を認めさせて見せる、と決意した彼女であったが、それでもその失ったものを再び目の前にして求めずにはいられなかった。
執着。
そう言われればまさにそうだろう。
彼女はこの期に至っても「使い魔」に執着していた――あるいは錯乱していたと言えるのかも知れない。
少し理性的に考えれば、彼女がもう戻ることの出来ない分岐点を越えていることははっきりわかる。
そしてその分岐点を踏み越えたのは彼女自身の意思だったのだ。
しかし、それでも彼女は縋らずには居られなかった。
「アイツは私の使い魔なの。だから、殺さずに私の所に連れてきて」
そうワルドに告げた彼女の心は目の前の「使い魔」のことで一杯だった。
ガンダールヴに限らず、「使い手」に刻まれたルーンは、その主人たる「担い手」への親愛を植え付ける。
担い手が使い手の事を思えば思うほどその信頼は高くなり、親愛もまた高まっていく。
そう、担い手が使い手のことを思っていれば。
才人が召喚され、契約をさせられた直後、彼女の心の中には才人に対しての関心は全く無かった。
――その時の彼女の心の中にあったのは、ただ使い魔を完璧に「使役」する自分の姿。
つまり、その時の彼女は彼女自身のことにしか興味が無かったのだ。
しかし、今は違う。
「いくわよ!」
そう言ってルイズはマチルダの方へと向き直り、杖を掲げる。
しかし、その目に映るのは目の前に立ち塞がるマチルダの姿ではなく、自らの「使い魔」だった黒髪の少年の姿。
そこには執着といえるまで才人に関心を示すルイズの姿があったのだ。
“愛”の対義は“無関心”ではない。
召喚当初のルイズは彼女の「使い魔」のことに無関心であったが、才人にとっては違っていた。
突然に彼を奴隷扱いして勝手に拉致した存在。
そこにあったのは、彼女やそれを是認する周囲の貴族という存在に対する“憎悪”。
――そう「憎悪」こそが「愛」の対極形なのだ。
そしてこの場で杖を掲げるルイズの心に存在するのもまた“憎悪”。
(…アレがちゃんと私に従っていたなら!)
彼女は、今の自分自身の現況を招いた才人を“憎悪”していたのだ。
だから、彼女は「魔法」を紡ぐ。
「ファイアー・ウォール!」
本来のファイアー・ウォールはライン級の「火」と「土」の属性を付加した防御系の魔法であるが、トライアングルになると、さらに「風」の属性を添加した攻勢防壁へと変化する。
しかし、彼女の魔法は違った。
まるでクラスター爆弾が降り注いだ様に無数の小爆発で形成された壁がマチルダに向かって迫る。
それはまるで小爆発による壁だった。
それを目にしたマチルダは辛うじて間に合った詠唱で土の防御壁を構築して防ぐ。
彼女は幸運だった。
彼女が防御魔法を紡ぐことが出来たのは、初手として彼女の放った『土の手』が目の前の少女に文字通り粉砕された光景を目にしていたため。
そして、もし彼女が「土」でなく、「風」や「火」系統のメイジであったとしても、とっくに彼女の命はなかっただろう。
「風」や「火」と言った実体の無いものでは目の前の少女の「魔法」――と呼べるのかどうかさえ判らないが――の攻撃をしのぐことすら出来ないと思わせるほどの威力を誇っていたのだから。
無論、彼女もまた防御一辺倒であったわけではない。
歴戦の彼女は「土」の系統という彼女の特性――その大質量という特性を生かして、目の前の少女が破壊しきれないほどの大量の土砂で反撃を試みる。
「これでどうだい!」
詠唱したのは彼女が得意とする巨大ゴーレムの魔法。
しかし、彼女は途中で意識的にゴーレムの形成を止めた。
その結果、ゴーレムになりきれなかった大量の土砂がルイズをめがけて降り注ぐ。
彼女にとってはそうした魔法の応用はお手の物だった――盗賊などという稼業をしていた彼女にとってはキチンと規則に基づいた魔法など不合理この上ないものだったのだから。
しかし、ルイズを生き埋めにしてしまおうとしたマチルダの攻撃はルイズの「爆発」によって周囲に吹き飛ばされ、お返しとばかりに紡がれたさらなるルイズの「爆発」を防ぐためにマチルダは防御の為の魔法詠唱を余儀なくされる。
そんな「魔法」の応酬が幾度と無く繰り広げられる。
しかし、戦闘の決着はつかない。
土の魔法で攻撃するマチルダの魔法は防御の時の魔法と異なって、土砂を遠くに飛ばすために離れた場所に居るルイズを攻撃する時には必然的に能力が落ちる。
ルイズもまたかつて戦場で敵の隊列を吹き飛ばした時とは異なって自身を守るものが無いため、あらゆるものを吹き飛ばす程の長い詠唱が必然的に出来ない――その結果、いまだマチルダ相手に決着をつけることが出来ないのだ。
広々とした草原だった筈の場所はマチルダの魔法によって吸い出された大量の土砂によって掘り返され――ルイズの「爆発」によって周囲に撒き散らされる。
そんな戦いが既に数十度も繰り返されている。
しかし、その光景を前にルイズの内心には焦りが生じていた。
どうして?
なぜ?
今までの彼女に倒せなかった相手は居ない。
メイジだろうと、「神の頭脳」だろうと――そして正規軍の一個大隊が相手だとしても。
しかし、目の前の女は防御不可能だったはずの彼女の攻撃を防ぐどころか反撃までしてくる。
そんな現実を前にして、傍らでワルドと命をかけた剣舞を繰り広げるあの「使い魔」への強い思いとともに、無意識のうちに彼女の攻撃はより単調になり、さらにそれがさらなる悪循環を生み出す。
「邪魔するんじゃないわよ!」
そんな叫びと共にルイズはさらに魔法を紡ぎ――さらに戦いは激しさを増していく。
ルイズとマチルダの争いが巨大な精神力によって争われる遠距離魔法戦闘であるとするなら、才人とワルドの間で繰り広げられる戦いは互いの身体能力をフルに生かした近接格闘戦だった。
「でやッ!」
「フッ!」
振りかぶられたデルフリンガーの一撃をワルドは『エア・ニードル』を纏わりつかせた鉄杖を斜に受けて逸らす。
そのまま鋭く才人の脇腹を狙って繰り出された刺突をデルフリンガーで払うことによって才人はなんとか回避することに成功した。
しかし、次の瞬間の才人はデルフリンガーを構えなおし、辛うじて攻撃をかわしたという事実を忘れさせるほど、力強く、大胆な攻撃を繰り出した。
そこには自身の生命の危機に対する恐れもなく、ただ目の前の「敵」を倒すという意思だけがあった。
そんな才人の心の中にあったのはあの桃色ブロンドの少女の姿だった。
唐突に目の前に姿を現した少女。
それは彼を『この世界』に放り込んだ元凶だった。
「憎しみ」という感情が才人の心の底からふつふつと沸き上がる。
その感情は巨大な心の震えとして左手に刻まれたルーンに流れこみ、輝きを増していく。
そして才人の心にあったのは、ルイズに対する憎しみだけではなかった。
タルブに腰を据えることとなったコルベールから彼は聞いていた。
――召喚する魔法はあっても、送還する魔法は無い。
すまない、と頭を下げるコルベールの姿を眺めながら、才人はしばらく呆然としていた。
もしかすれば、それは知られていないだけで、本当は存在するのかもしれないが、それを知る方法の無い状況では同じだった。
それに、仮に帰る方法があったとしても、才人はもはや全てを投げ出して帰るなんてことは出来なかった。
頭を下げ続けるコルベールを眺める才人の背後にはシエスタを初めとする彼を助けてくれた人々の姿があったのだ。
そんな彼らを放り出して、自分一人勝手に逃げ出すことなんて出来ない。
帰りたい。
帰れない。
そんな才人の行き場の無い思いがさらに心を震わせる。
そして、そんな心の震えは左手のルーンに流れ込み、さらに輝きを増すと共に、彼の身体能力を飛躍的に高めた。
「うおぉぉぉぉッ!」
金属が擦れ合う音と共に、ワルドは才人の気合と体重の乗った上段斬りを余裕のあるように見える仕草で受け流す。
一方で一撃をかわされた才人は隙だらけのその姿勢から片足一本の脚力で無理矢理にデルフリンガーを振って再びワルドに斬りかかる。
常人なら不可能な攻撃方法であっても、左手のルーンから溢れる力を供給されるガンダールヴだからこそ可能な強引な攻撃だった。
そんな一撃を杖で受け止めたワルドが才人を挑発した。
「ハッ! 所詮その程度なのかい?」
しかし、そんな言葉とは裏腹にまたワルドも焦っていた。
いや、本来なら魔法衛士である彼ならとっくに魔法によって決着をつけている筈なのだが――
彼の得意とする魔法は『遍在】。
それは精神力によって自身と同じ存在を作り上げるスクウェア級の魔法であり、こと近接戦闘においては圧倒的な威力を誇る魔法であった。
しかし、天候が災いした。
降り注ぎ続ける雨という存在は「風」系統の彼にとって天敵と呼べる存在だった。
一瞬だけ効力を発揮すれば良い『エア・ハンマー』や『エア・カッター』と異なり、比較的長時間維持し続けなければならない『遍在』は大量に降り注ぐ雨の中では使えない。
それは『遍在』を構成する空気が降り注ぐ大量の雨による衝撃を受けるためだ――それは晴天時に比べて数十倍以上の精神力を消耗してしまう。
それは同様に『ライトニング・クラウド』にも当てはまる。
伝導体である水滴が周囲に無数に降り注いでいる状態では目標に誘導することはおろか、雷を発生させる雷雲を生成することが出来ないのだ――そして、それ以前にルイズから「生かしておく」という依頼がある以上、殺傷能力の強すぎるライトニング・クラウドは使えないという事情もある。
そんな状況にワルドの焦りがさらに高まっていく。
何しろ、目の前の平民は素人にしか見えないその技量とは相反して、一太刀ごとにその速度と鋭さを増していくのだ。
ガンダールヴのルーンは「心を震わせる程、その力を増す」――つまり、才人が「心を震わせる」ほど、一撃当りの速さや重さが増すということでもある。
それに対して、普通の人間は戦闘によってその体力を徐々に失っていく。
それはつまり、魔法使いであっても「普通の人間」であるワルドの攻撃は戦闘が長引けば長引くほど徐々に鋭さを失っていくのに対して、才人の攻撃は戦闘中の興奮によって徐々に鋭さを増していくということである。
それを示すかのように、才人の攻撃はそろそろワルドの技量ですら交わし切れないほどの鋭さと威力を備えはじめ――そして、すぐに限界点を越えた。
ガキン!という鉄の砕ける音と共に才人の渾身の一撃がワルドの脇腹を抉ったのだ。
「ぐっ――!」
余りの激痛にワルドは苦痛の呻きを漏らす。
当然、ワルドとてとっさに鉄杖を盾にして防御した――いや、それで防げる筈だったのだが、ルーンの力によって人間の限界を超えた速度で叩き付けられたデルフリンガーが固定化のかけられた鉄の杖を叩き折ったのだ。
(クッ! この僕が平民相手にこんな――!)
そう内心では思っても、冷静に自身の不利を察したワルドは撤退することを決意する。
本来、エリート意識の高い彼のプライドは平民風情に対して逃げるということなど認めるはずもないのだが、メイジ唯一にして最強の武器たる杖を失ってはどうにもならない。
渾身の力を振り絞り、なんとかワルドは才人から距離を取る。
「ルイズ、引くぞ!」
脇腹を押さえながら、杖を失ったワルドが苦しそうにルイズに叫ぶ。
傷口を押さえるワルドの左手は徐々に自らの血液で赤く染まり、彼の傷が浅からぬことを示していた。
しかし、ルイズはワルドの申し出を拒絶する。
「嫌よ! 私はアイツを――」
そしてルイズは杖を振り下ろそうとして――
……突如として地面に罅が走っていくことに気付いた。
「え――?」
「な、何だ!?」
才人とルイズの驚きの声を他所に、罅はそのまま大きな亀裂となり、そして巨大な地割れと化していく。
その罅割れはちょうど彼女とマチルダ、そしてワルドと才人の居た場所の中間に開いていた。
「土」の魔法によって大量の土砂が地中から吸い出されるということは、当然として内部に空洞が生じるということでもある。
その結果、ルイズとマチルダの境界線上にある岩盤はまるでスポンジのようになっていた。
そして、ルイズの「爆発」による断続的な振動が決め手だった。
最初に結合のもろくなった岩盤がその重量を支えきれなくなる。
これが地上のど真ん中なら何の問題も無い――その下にある岩盤が崩壊しようとする岩盤を支え続けるからだ。
しかし、ここは浮遊大陸…それも岩盤が最も薄くなる大陸の末端だったのだ。
当然、彼らの下に岩盤を支えるさらに下の岩盤など存在しない。
支えを失い、崩れた岩盤は才人とルイズを乗せたままに遥か下の海面を目指して落下していく。
「――サイト!?」
「――ルイズ!?」
ワルドとマチルダが同時に叫ぶ。
しかし、それぞれの叫び声は漆黒の崖下に向かって消えていった。
「此度の不手際、誠に申し訳ありません」
そうシェフィールドは自らの主人に謝罪した。
ウエストウッドの森で4人目の担い手を見つけ出したのは良いものの、その直後のヴィンダールヴとの戦闘の間に担い手が姿を消してしまったのだ。
おまけに彼女は負傷してもいた。
如何に神の頭脳と呼ばれる力を持った彼女であっても、単独でハルケギニア最強の兵科である飛竜を思いのままに操るヴィンダールヴ相手では荷が重かったのだ。
無論、ただ一方的に負傷させられた訳ではない――相応の手傷をヴィンダールヴに負わせても居たが。
しかし、数ヶ月もの歳月をかけて彼女が見つけ出した筈の新たなる担い手――しかもエルフだった――を見失ったという事実の前には何の慰めにもならない。
「……ミューズ」
彼女の主人である王の姿を模った人形から彼女を呼ぶ声が聞こえる。
それは紛れも無く遥か遠くのヴェルサルティルに居を構える彼女の主人の声だった。
「はっ」
「申せ」
遥か彼方にいる彼女の主人――ガリア王ジョセフは面倒だとでも言うように、言葉を惜しんだ。
「トリステインの虚無の担い手の戦闘力は予想以上でした――おまけにアルビオンの「担い手」を一度確認しておきながら見失うという不手際、誠に…」
「よい、良いのだミューズ」
謝罪を続けようとするシェフィールドを制して、王の姿を模った人形の口を通したジョセフは何でもないかのようにして、言った。
「お前の手駒で足りないというならば、俺の手駒を使えばいいだけの話だ」
そう言って「……大臣を呼べ」と人形からかすかに聞こえるジョセフの声。
どうやら小姓に軍務大臣を呼び出させたようだった。
小姓が部屋を出て大臣を呼びにいく間、ジョセフのまるで悪戯をする子供のような呟きが人形越しに彼女に聞こえる。
「――王とやらの権威というものがどこまで通じるかを試してみようではないか」
次に気付いた時、ルイズは岩棚にいた――どうやら幸運にも彼女は大陸からそのまま海に落下する前にこの場所に引っかかってくれたらしい。
それでも全身を岩に叩き付けられた衝撃は計り知れない。
幸い、骨折などの大きな傷を負ってはいないようだったが、それでも全身のあちこちが疼くように痛む。
そんな状況で、彼女はすぐに傍らの人影に気付いた。
黒い髪に黄色い肌。
どこか冴えないが、整った顔立ちは彼女が先程まで追い求めてやまなかった、彼女の「使い魔」だった。
その事実に彼女は杖を振り上げ、「魔法」を唱えようとする。
そう、目の前の「使い魔」は先程まで彼女と戦っていた相手なのだ。
しかし、余りにも至近距離すぎた。
彼女の杖は振り下ろされることなく、握り止められる。
「やめろって。そんなことしたら俺たち、今度こそ海に吹っ飛ばされるだろ」
そんな状況で、ルイズはかけられた声にゆっくりと周囲を見回すことしか出来なかった。
彼女の目の前の「使い魔」の背後には彼女達が落下してきたらしい断崖絶壁。
そして彼女の背後にあるのは空の暗さとは異なった、どこまでも続く漆黒の大洋だった。
「ならどうしろって言うのよ?」
ルイズは不安だった。
周囲の光景は先程までの興奮状態から一気に冷や水を浴びせられたような衝撃を彼女に与えたのだ。
その上、唯一信じられると思ってきた自身の「力」が全く役に立たない状況。
あのヴェストリの中庭で、そしてロンディニウム郊外の戦場で、彼女を支え続けた彼女の「力」。
それこそが彼女にとって唯一信じられるもの。
……確かめなければ不安に押しつぶされてしまいそうだったもの。
――それが今、役に立たない。
自らの使い魔であった少年の言うように、今この場で彼女の「力」を使えば、二人もろとも今度こそこのアルビオン大陸塊から落下してしまうだろう。
隣の少年は使い魔であって、魔法の使えない平民。
そして、彼女もまた『飛行』などの魔法を使うことは出来ない。
そんな不安や孤独感に押しつぶされそうになった彼女は、これ以上雨に濡れない様にと身を寄せた岩陰の隣に座っていた「少年」に話しかけた。
「アンタ名前は?―――名前くらいあるんでしょ?」
それは彼女が初めて才人を「使い魔」としてではなく、「人間」として見た瞬間でもあった。
「才人……平賀才人、それが俺の名前」
そんな彼女の問いに帰ってきたのは余りにも聞きなれない名前。
だから、彼女は率直な気持ちを伝えた。
「変な名前」
「うっせ」
そう言って不貞腐れる才人。
崖から落ちたという衝撃は、興奮の極みにあった才人の心理状態を一転させて落ち着かせたらしい。
そんな才人にルイズは内心の不安をぶつけた。
「これからどうなるのかしら」
その言葉はルイズの不安の表れだった。
「そんなの知るかよ」
しかし、才人はルイズの言葉に取り合わず、そう言って傍らにある崖を見つめる。
そこは断崖絶壁になっていて、到底登れそうに無い――雨に濡れているならなおさら不可能に見えた。
「俺、寝るわ。――寝て誰かが助けに来てくれるのを待つ」
それは楽観的と評された彼があえて装った余裕だったのかもしれない。
しかし、その言葉を真に受けたルイズは悲観的な予測をした。
「無駄よ、今まで誰も助けに来ないことを見ると……みんな私達が大陸から落ちたと思っているんでしょうね」
そうぶつぶつと呟く様にしてルイズは言い放つ。
そんな言葉にそれまで大人しく黙っていた才人の怒りが爆発した。
「ああ! もううるせーよ!」
「うるさいとは何よ! 大体アンタが黙って私の所に戻ってこないからこんなことになったんでしょ!」
「ふざけんなよ! お前が勝手に人をこんな世界に連れて来たんだろ!」
売り言葉に買い言葉。
その言葉にぴったりと当てはまるように、二人の間に口論が始まる。
「知らないわよ! 召喚したら勝手にアンタが出てきたんじゃない!」
「はぁ? 少しは召喚されるほうのことも考えろよ! そのうえ人を奴隷みたいに扱いやがって!」
「当たり前じゃない! 召喚しないと留年なのよ?それに召喚された以上、アンタは私に従うのが当然じゃない!」
「なんでだよ!? 俺にも権利ってものがあるだろ?なら今すぐ俺を元の世界に返してくれよ!」
その才人の言葉にルイズは驚いた。
平民が自身の「権利」を主張する――それも以前と同じ『世界』に戻せという。
彼の言う『世界』とは何かはわからないが、彼がそれまでと同じ生活を過ごすという「権利」を奪われたのは彼女にも理解出来た。
それまでと同じ生活。
目の前の少年のそれまでの生活はわからないが、彼女にとってのそれまでの生活なら理解出来る。
それは『貴族』として生きること。
そして『貴族』として生きるために必要とされるのは、魔法学院で2年生への昇級の条件である『使い魔』の召喚と使役。
そして、彼女は気付いた。
そう、この少年は彼女と同じ境遇に居るということ。
ルイズ・フランソワーズ・ル・ブラン・ド・ラ・ヴァリエールは突然に目の前の少年から全てを奪い――
――平賀才人は突然に彼女から全てを奪ったのだ。
「大体、貴族なら他の魔法使いみたいに空飛べば良いじゃんかよ」
突然に沈黙したルイズの様子に驚きながらも才人は口論の内容を少し建設的な方向に向けた。
それは彼もまた、彼女が召喚を行なわなければならなかったという事実を理解したためでもあった。
しかし、その問いに帰ってきた回答は才人にとってさらに驚くべきものであった。
「無理よ……私、魔法なんて使えないもの」
その言葉に才人もまた困惑した。
目の前の少女は唯のわがままな『貴族』ではない――いや、『貴族』ですらないと言う。
それは才人が今まで出会った『貴族』=『メイジ』という印象的なものが原因であったが、それは彼にとって重大な意味を持っていた。
それは、自分をこんな世界に召喚した存在と、彼が許せないと決めた存在が別物だということを意味する……少なくとも彼はそう理解した。
マチルダと出会ったことによって、平民の中にもメイジはいると知っていた才人であったが、貴族の中にメイジでないものが居るということは知らなかった――メイジでない貴族など、伝統を重視するトリステインでは存在しない筈だったのだから。
つまり、才人の『貴族』=『メイジ』という理解に従えば、出来ないことを「貴族だから」という理由でさせられた目の前の少女もまた、“貴族主義”の被害者とすら言えたのかもしれないのだ。
唐突にそれまでの怒りのやり場を無くして沈黙する才人の傍らでルイズの言葉は続く。
「そうよ――魔法なんて……」
先ほどまでとは一転してルイズは消え入りそうな声で繰り返す。
そう。
彼女は「魔法」が使えない。
彼女が使えるのは「虚無」だけ――共通魔法である『飛行』や『浮遊』すら使えないのだ。
そして今の彼女は「虚無」を使う気はない。
『メイジでなければ貴族にあらず』
かつて彼女が否定した言葉が今、彼女に圧し掛かる。
だとするならば、目の前の平民の少年は魔法の使えない平民でありながらどうして悠然としていられるのだろうか。
その少年の姿は、まるで彼女がそうありたいと思った『敵に背を向けない者』そのものではないのか。
そう彼女はふと思った。
そんなルイズの思考は才人の直球のような質問によって中断を余儀なくされた。
「…じゃあ、何が使えるんだよ」
そのぶしつけな才人の声はルイズの心の傷をグサリと深く抉った。
そして、ルイズは苦虫をかんだような表情で、微かに呟くようにして答える。
「……爆発」
余りに小さすぎて聞こえなかった才人は思わず目の前の少女に尋ね返した。
「はぁ?」
「だから爆発よ! 爆発って言ってんでしょ!」
よほど腹に据えかねたらしい。
そう怒鳴りながらルイズは才人の首を絞め始める。
――しかし、ルイズに首を絞められながらも、才人の頭脳には一つ閃くものがあった。
嵐の一夜が過ぎ去り、ようやく朝を迎えたらしい。
しかし、明るさを取り戻したとは言っても、アルビオン大陸を常に取り囲む雲の中のこと。
周囲はもやに包まれ、視界は数十メイルがやっとと言ったところだった。
そんな二人は真っ白なもやに包まれた岩棚で才人は力強く尋ねた。
「良いか? いくぞ!」
「いつでも良いわ、それより失敗しないでよね!」
そう言ってルイズは杖を掲げる。
その言葉に才人は手にしたデルフリンガーを握り締めることで答えた。
才人の左手のルーンが輝く。
「行くわよ!」
ルイズがそう叫んで杖を振り下ろした直後、才人の後ろの“空間”が爆発した――
「うおぉぉぉッ!」
その衝撃に才人は痛みを食いしばって耐えながらも目の前の断崖絶壁を駆け上る。
才人が考えたのは、ルイズの「爆発」を利用して「崖を登る」ということだった。
当然、ただ吹き飛ばされるだけでは今度こそそのまま遥か下の海に落下してしまう。
――必要なのはその爆風のエネルギーを利用して「駆け上がる」ことだった。
「爆発」の勢いと、崖を「駆け上がる」ことの出来る身体能力。
その二つがそろえば、この窮地から脱せるかもしれない。
「いいぞ相棒!、あと少しだ!」
そしてその二つが此処に存在した。
ルイズのマントを裂いて作った紐で才人の体にルイズをくくりつける。
ルイズは才人の後方に魔法を放つ必要上、互いに抱き合ったような体の正面同士を向かい合わせる形で体を固定し、才人もまたデルフリンガーを握る必要性から両手を自由にする形でルイズの体を固定した。
その状態で断崖絶壁を駆け上る。
常人ならどう考えても不可能な状態を可能にする「力」がそこにあった。
アルビオンを取り巻く雲に覆われた部分を越え、二人はぐんぐんと崖を駆け上っていく。
しかし、崖の上まであと少し、という時、才人の駆け上る勢いが徐々に低下していく。
そして、その勢いの不足はそのまま二人の生還の可能性に反比例するのだ。
「やべ、少し足りねー!」
その才人の叫びにルイズが怒鳴り返す。
彼女としてもこの一度のチャンスに全てをかけているのだ、相手を気遣う余裕もない。
「なんとかしなさいよ!」
しかし、言葉だけで物理法則がなんとかなる筈もない。
ルイズの声とともに、ついに才人の体が前に進む勢いを失った、その時――
「嬢ちゃん、もう一発ぶっ放せ!」
――デルフリンガーの声に従う様にしてルイズは「魔法」を唱えた。
「うあっ!」
「きゃぁ!」
最後の爆発の勢いのまま、才人とルイズは地面に叩き付けられる。
そのままゴロゴロと草原を転がって、止まった。
体を重ねたままの二人の間に荒い息を吐く音が響く。
「……俺達――助かった、みたい、だな」
頬に触れる草、そして大地の感触を感じながら才人が呟いた。
同様に、いまだ才人と繋がったままの少女もまた荒い息を吐きながら答える。
「……そう、ね。…でも、こんな、こと、二度と…ゴメン、よ」
「……俺も、そう、思う、よ」
互いの息と鼓動を感じながら、二人は心底同意した。
そこからしばらく、才人とルイズは二人をしっかりと繋ぎ止める紐を外す力もないまま、抱き合ったようにして草原の上に横たわっていた。
数分もそうしていただろうか、ようやく先に息を整えたルイズの視線の先には昨夜の嵐はどこに行ったものか、見事に晴れ渡ったアルビオンの秋空が見えた。
「きれい――」
思わずルイズは呟いた。
今までほとんど気にしたことも無かった周囲の風景がすべて瑞々しく、青々として見えた。
しかし、彼女はそんな澄み切った空の一点に動くものに気付く。
徐々に大きくなっていくその点は徐々にフネの形をとり、そしてその帆には大きくトリステインの紋章が示されていた。
「……アンタのお迎えみたいね」
そう言ってルイズは才人の背後から徐々に近づいてくる船を示した。
しかし、紐で繋がった状態では才人は真後ろの光景を見ることは出来ない。
だから才人は二人を繋ぐ紐を解こうとした。
「ちょっと待てよ……解けないな」
しかし余りにも堅く縛られた紐は中々解くことが出来ない。
そう言って才人は諦めたのか、デルフリンガーの刃で彼とルイズを繋ぐ紐を一本一本と切っていく。
「――よし、切れた」
ようやくに二人を繋いでいた紐が切れると、ルイズの肌から才人の体の感覚が離れていく。
それは彼女にとって何かを失った様な、どこか空寂しいものを感じさせた。
そんな彼女の動向に気付かないまま、才人は厳しい目で近づいてくるフネを見つめ、その甲板にいたのが知り合いの少女達であることに気付いてようやく安堵したようだった。
しばらくそのフネのほうに手を振っていた才人だったが、ふと気付いたように、彼はルイズの方に向き直る。
そして、才人は短く、一言、彼女に言葉をかけた。
「行けよ」
それは昨日お互いの命をかけて戦った相手を見逃すということ。
しかし、その言葉を聞いたルイズは逆に自嘲気味に言い返した。
「良いの? 私をトリステインに連れて帰ればアンタは英雄よ」
――知ってる?私はこれでもレコン・キスタの英雄らしいのよ?と、皮肉げに呟く。
そこにはさらに、「私を連れて帰れば、帰れないとしてもアンタは死ぬまで楽に暮らせるのよ」と言った意味も含まれていた。
しかし、才人から帰ってきた答えはそんな提案を一蹴するものだった。
「知るかよ――大体あんな貴族なんかに誰が協力するかって」
そんなことには興味が無い、と言わんばかりの態度で服に付いた土を払い落としながらゆっくりと才人は立ち上がる。
いや、むしろ“貴族”という言葉を口にするのも嫌と言った口調だった。
「サイト――」
その時、初めて彼女はその少年を名前で呼んだ。
「何だよ?」
そう言いながらも才人の視線はゆっくりと着陸態勢を整え始めたフネに注がれている。
そんな彼の姿を眺める彼女の目には昨日まであった才人に対する執着や憎悪の色は無い。
「ううん、何でもないわ」
そう言って彼女は背を向け、ゆっくりと内陸に向かって一人歩き始める。
周囲の山林は先程と同じく輝いて見えた。
それまで自分を“貴族”と認めさせるために抗ってきた時には気にもしなかった美しさだった。
そして、その美しさに気付いたことと平行して新たに気付かされたこともあった。
そう、自分の目的の為に使えるものなら全て使う――たとえそれが自分の毛嫌いしているものでも。
現に、才人は自分自身の「力」で足りない所を彼女の「力」で補った。
彼女一人ならそこから脱することは不可能だっただろう。
それは才人にとっても同じだった。
しかし、そんな一人ひとりの「力」では不可能であった状況を、才人はゼロを二つ掛け合わせることによって解決して見せた。
つまり、有用ならたとえそれが平民だろうと何だろうとあらゆる手段を使うことが正しいのだ。
ふと彼女は紐を作るためにほとんど丈の無くなった彼女のマントを眺める。
それは既にマントの態をなしておらず、遠目に見れば彼女は平民のようにも見えるだろう。
「そうね――」
そう、それで良い。
誰しもが「力」を持ち、その力の強弱で個人の価値が評価される。
生まれや見かけ、あるいは礼儀作法なんてもので分ける階級の区別なんてものには何の価値も無い。
――つまり、メイジだろうと平民だろうと、そこには同じ「人間」が存在しているに過ぎないのだ。
そして、彼女の中でそれまでパズルのようだったピースが徐々に噛み合い始めた。
彼女の内心からは才人に対する憎悪は消えたかもしれないが、「貴族社会」に対する憎悪が消えたわけではない。
新たに組み合わされたピースが指し示すものとは、彼女の否定した現在のハルケギニアの貴族制度に代わる新しい社会制度の姿。
彼女があれほど憎み、そして憧れた“貴族”と“平民”と言った関係ではなく、全てが同じ人間というカテゴリで分類される社会制度。
そう、彼女が行なうべき行動はこれまでのように「貴族」と認められる範疇で抗うことではない――“貴族”や“平民”を超越した範囲という社会制度を創り出すということなのだ。
そのためにはあらゆる手段が正当化され、利用される。
貴族とかメイジだからと言ったそれまでの「区分」は意味を失わなければならない。
それが実現されて始めて、“貴族”でも“メイジ”でも“平民”でもない彼女は居場所を見つけることが出来る――いや、勝ち取ることが出来る。
再びその支配者をレコン・キスタへと代えたシティ・オブ・サウスゴーダにたどり着くまでの間に、彼女の考えは大きく転換を果たしていた。
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今回もトリ革をお読み頂いてありがとうございます。
作者のさとーです。
10/08/07
二回目の改定を実施