――――――――――――朝夕の寒さを増し始めたタルブ村。
その外れにある寺院の隣には新たに一軒の粗雑な建物が建てられている。
その中から顔を出した一人の中年男が声をかけた。
「やぁ! 久しぶりだね、サイト君!」
「お久しぶりです、コルベール先生」
そう才人も声を返す。
魔法学院を辞したコルベールはここで「エンジン」と名付けられた動力機械を初めとする“科学技術”の研究を行なうこととしたのだった。
古材を使って立てられた研究所の入り口にはこう看板が掲げられていた――『コルベールひみつ研究所』と。
なんでも『ひみつ』の部分にこだわりがあるらしいが、幸か不幸か未だハルケギニアの文字の読めない才人は気付かない。
そんな才人にコルベールは楽しそうに、頼まれていたものが完成したことを告げた。
「例のモノ、完成しましたぞ」
「本当ですか!?」
その声に才人は嬉しそうに反応する。
才人がコルベールに頼んでいたのはかつて襲撃された竜騎兵に対抗するための武器だった。
「正直言って私は自分の才能が恐ろしい! 前方に『ディテクト・マジック』を発信する魔法装置を取り付け、燃える火薬で推進する鉄の火矢を作り出してしまうとは!」
コルベールは饒舌に『空飛ぶヘビくん』と名づけた新発明について滔々と語り続ける。
既に魔法を利用して科学技術の応用や、役に立つ機械をいくつか発明していた彼だったが、どうもその発明のどこかに「ヘビくん」と付けなければ気がすまないらしい。
話が発射装置の所に入ったところで、なにやら思い出したらしい――ちなみにここまで20分以上が経過している。
「ああ、長くなってしまいましたな! そうそう、お預かりしていた『破壊の杖』……いや『ろけっとらんちゃあ』でしたかな? お返しいたしますぞ」
そう言ってコルベールは一度研究室の中に戻り、直に『M72ロケットランチャー』を抱えて出てくる。
と言っても大きさは全長で30サントに満たない筒状の物体でしかない。
そんな小さな筒を手渡しながら――いや、これも凄いものでしたぞ!とまた話し始めるコルベールに才人は少々うんざりした顔をした。
「やっとみつけたのね~!」
さらに15分ものコルベールの説明を受け続けた結果、少しやつれ気味の才人が受け取ったロケットランチャーを背中に背負った背嚢に仕舞った直後、彼の背後から妙に甲高い声が響いた。
そこに居たのはボロ布一枚を纏った20歳くらいの蒼髪の女性だった。
しかし、見た目の年齢に似合わず、どうも挙動や仕草が幼く感じたことを才人は不思議だな、と無意識に思った。
「…お知り合い、ですかな?」
努めて平静を保った表情でコルベールが尋ねる。
しかし、そこは教育者としての人格なのか、彼の視線は横にそらされ露出している女性のあられもない白い肌を出来るだけ見ないようにしていた。
そんなコルベールの気遣いを全く無視したまま――あるいは気にしていないのかも知れないが――蒼髪の女性はがっちりと才人の手を掴むと強引に引っ張っていく。
「いや、知りませんけど――っておいこらやめろ! ちょっと!」
「引っ張るなって! どこに行くんだよ!?」という才人の声が聞こえる。
そんな才人の質問を聞いているのか、いないのか、「こっちは急いでるのね~! もう、このまま連れて行っちゃうんだから!」と言った声も聞こえる。
「ちょっと! 当たってる、当たってるって!」
何が当たっているのかはともかく、そんな蒼髪の女性に才人は引っ張られ、コルベールの研究所の前にある開けた場所へと向かっていく。
徐々に遠ざかっている若干修羅場っぽい声を聞きながら、何処か遠い目でコルベールは思った。
(……私もそろそろ嫁を迎えたいものだが)
既に中年に達した彼もまた研究に残った生涯を捧げるつもりでいた。
しかし、実験に使う各種の薬品の異臭や騒音のせいか、未だに彼の生涯の伴侶は現れる気配は全く無い。
そうコルベールが周囲の喧騒を忘れて、自分の世界に閉じこもりそうになりながら思う――その直後、蒼髪の女性の姿は消え、「ぼぅん」という煙と音と共に10数メイルもの大きな風韻竜が姿を現した。
その瞬間、彼は嫁のなり手の居ない中年のおっさんから研究者へと変身を遂げる。
「なんと! 風竜だったとは――いや、先程言葉を話していたところからすると伝説の風韻竜ですかな? これは珍しい!」
コルベールはまずその大きさよりも風韻竜が未だに存在していたということに驚いたらしい。
彼が呆然と目の前の事態を眺めているうちに、変身した風韻竜は才人の服を咥えて飛び上がって東の空へと遠ざかっていく。
古い木材で作られた彼の研究室の前で一人取り残されたコルベール。
そんな彼は未だに事態を良く理解できないまま、ポツリと呟いた。
「……しかしあの風韻竜、ミス・タバサの使い魔にそっくりでしたな」
「おいっ! 降ろせってば!」
そう叫びながら才人は暴れた――と言っても彼の体は既に空中にある。
本来なら見知らぬ人間には警戒するようにしている才人であったが、当人の挙動や言葉遣いの幼さから警戒心が薄れていたらしい。
突如として現れた謎の蒼髪の女性? に引っ張られたかと思うと、次の瞬間には正体を現した飛竜に服を咥えられて空中へと連れ去られてしまっていた。
ちなみにある程度適合したものの、未だハルケギニアの常識に精通したとは言えない才人は竜がしゃべる光景を目にしても「しゃべる竜も居るんだな」くらいの認識で軽く受け止めていた。
「もう! 暴れないでほしいのね! ちょっと力を貸して欲しいだけなのね!」
手足をばたばたとさせて暴れながら怒鳴る才人にシルフィードもさすがに辟易したのか、少々怒り気味に答える。
――そして、シルフィードはその直後に気付いた。
彼の服を咥えて飛んでいる中で、言葉を発するとどうなるかということに。
「殺す気かよ!」
さすがに才人は本気で抗議の声をあげた。
事態に気付いたシルフィードが急降下して背中で受け止めたから良かったようなものの、数百メイルもの高さからパラシュートも無しでノーロープバンジーを強制的に決めさせられては堪らない。
「ちょっとした『うっかり』なのね! 細かいことは気にしないで欲しいのね!」
きゅい、きゅい! と鳴き声を上げるシルフィード。
……悪気はないのは判っているが、ちょっとした『うっかり』で人を殺しそうになるのもどうか、と才人は思った。
と、言っても今の彼に自力で地上に戻る術は無い。
仕方なく、才人は何か事情がありげな相手の話を聞いてみることにした。
「――で、どんな事情があるんだよ?」
そんな才人の言葉にようやく本題を思い出したかのように、シルフィードは一挙に騒ぎ出した。
「そうそう、大変なのね! 大変なのね! 大変なのね――!」
そこまで言ってシルフィードは言葉を一旦切った。
……どうやらそのあたりがシルフィードの肺活量の限界らしい。
そしてシルフィードは改めて息を吸い込み直すと懇願するように言葉を続けた。
「おねーさまが危ないのね! おねーさまを助けて欲しいのね!」
「おねーさまって誰だよ?」
そんなシルフィードの言葉に才人も誰かが危地にあるらしいことを理解したらしい。
まずは「誰が」どんな状況にあるのかを知ろうとして、先程までよりも真剣な表情で尋ね返す。
しかし、返ってきた答えは彼の知らない人物の名前だった。
「おねーさまってのは普段はタバサって呼ばれてるのね!」
「……だから、誰だよ?」
しかし、才人には「タバサ」と呼ばれる知り合いに心当たりは無い。
おまけにシルフィードはそんな才人の質問を聞く気は無いらしい。
「とにかく、相手はとっても強いのね! このシルフィやおねーさまが全く歯が立たないくらい強いのね!」
だから、と前置きしてシルフィードは自分の発想を誇らしげに答えた。
「おねーさまよりも強いヒトを連れてくればなんとかなると思ったのね!」
きゅい! きゅい! と再び自慢げに鳴き声を上げるシルフィード。
その言葉の意味を尋ね返した才人に返ってきた答えは、またもや彼にとって全くもって身に覚えの無い答えだった。
「もう! このまえおねーさまを組み敷いたことを忘れたとは言わせないのね! だいたいあの時――」
そう言いながら相変わらず遥か東のガリアを目指すシルフィード。
そんなシルフィードと背中に乗る才人の遥か下には王都トリスタニアの姿が見えた。
王都、トリスタニア――トリステイン王宮。
その中央部にある謁見の間では秋の収穫を祝うささやかな会食を兼ねた会合が開かれていた。
もちろん、「ささやかな」というのは言葉の比喩であり、テーブルの上には美食の極みに達した多くの料理が並んでいる。
しかし、広間に集まった貴族は誰もその料理に手を付けようとしない。
彼らの顔は皆一応に暗かった。
本来なら、領地持ちの貴族(すなわち有力諸侯)にとっては最大の収入となる出来事だけに賑やかな会合となるはずなったのだが――
「ことに今年の農産物の出来高は――」
淡々と担当官が読み上げる今年の収穫高はトリステイン史上過去最低を記録していた。
領地を持つ貴族にとって、所領での農産物の収穫の増減はそのまま彼らの収入の増減に直結する。
それは突き詰めれば巨大諸侯に過ぎないトリステイン王家にとっても同じだった。
ことに財務卿の顔は暗い。
彼にとって見ればこの結果はある程度予想していたものの、ここまで悪化するとは思っていなかったのだ。
……彼がこのアルビオン侵攻で計上した予算は約5500万エキュー。
うち、一戸あたり50エキューの戦時特別税で計上された総額が約3750万エキューであり、残りは今年度予算の流用や各諸侯などからの借財で賄っていた。
しかし、それだけの額をかき集めても賄えるのは決定された侵攻軍の規模に比べるなら僅か2ヶ月半に過ぎない。
――そして、戦争は既に4ヶ月目を迎えようとしていた。
「――誠に失礼ながら、貴族の方々にもさらなる負担をお願いしたい」
重苦しい雰囲気の中、決意したように重い声で財務卿が声を挙げた。
元々、トリステインでは人口比の中で貴族の数が多い。
その人口比は平民に対して1割以下、と言われているが、逆に言えば支配層だけで1割近くもいるということである。
つまり、トリステインは総人口に対して非常に高い比率の貴族を持つことによって、ガリアやゲルマニアと言った大国相手に対等に接することの出来る発言力を維持していたと言える。
そうした貴族や聖職者には免税特権が認められているから、もし貴族に追加で課税することが出来れば大きな収入となることは間違いない。
しかし、その免税特権こそ統治機構の上では貴族が貴族であるための統治権限に直結する最大の関心事の一つだった。
「財務卿! 何を言っておられるのか!」
予想通り、あちこちの領地持ちの諸侯達から彼の発言に対しての反発が挙がる。
中には、「貴公は初代国王陛下より認められた貴族の権利というものをなんと考えておられるのか!」とまで言い放つ者もいる。
貴族に認められた特権とは各領地の統治権(徴税権・裁判権・不介入権等)であり、王政府の命令に従い、一定額を納めている限り決して犯されるものではないとされていた。
いくら戦時中で財政難であるからとはいえ、その権利を一時的にでも破るとすれば、領地持ちの貴族にとって悪しき前例を作ることととなる。
そんなことを認めるわけにはいかない。
そんな事情によって、あまりにも加熱する財務卿への批難にあわてて軍務卿がとりなすようにして話題を変えた。
「そんなことよりも、艦隊の再建はどうなっているのか?」
財務卿と双璧を成す彼にとって大切なのはあくまで圧倒的な数によって自派の意見を通すことである――感情に任せて財務卿の失脚などという政変を起させては堪らない。
何よりも、統制の取れない烏合の衆など逆に不都合極まりない、と彼は軍人独自の感覚で捉えていた。
「――艦隊の補充については先に成立した戦列艦50隻分の予定のうち建造分の……」
攻め立てられる財務卿を庇う様にして彼の傍らにいた財務担当官が答える。
トリステインは先日、ラ・ローシェル及びロサイスで同時多発的に発生した輸送船舶襲撃によって使用可能な外洋船舶のおよそ半数を失っていた。
襲撃そのものはおそらく戦争中のアルビオンの手の者によって行なわれたと思われていたが、一部トリステインの平民が関与していたとの噂もあった。
しかし、実行犯達の国籍の真偽はともかく、その襲撃がもたらした結果は甚大だった。
戦闘が起こっていないとは言え、アルビオンにはレコン・キスタ討伐の為の侵攻軍が駐留している。
その数万に及ぶ戦力を維持するためだけでもかなりの量の物資を日々トリステインから遥かアルビオンにまで送り込まなければならず、今回の船舶大量喪失の結果としてその補給量すら満たせないという状態に陥ったのだ。
それでも必要な補給は続けなければならない。
でなければ数万人の兵たちが飢えてしまう――そうなればもはや戦争どころではない。
結果、艦隊の主力艦までもが急遽引き抜かれ、輸送任務に従事させられていた.。
そして戦争初期に受けた損害を未だ回復仕切れて居ない上に主力を引き抜かれた艦隊は事実上行動不能に陥ってしまったのだ。
そうした事実を職責上知らぬ筈のない軍務卿は苛立たしげに不運にも政争の犠牲者となることとなった財務担当官に噛み付いた。
「それも全部ガリアの艦隊再建とやらで持っていかれたそうではないか!」
その指摘は事実だった。
軍務卿が指摘していたのはアルビオン侵攻でかき集められる予定だった戦列艦50隻のうちの新規建造分の抱える問題についてだった。
確かに、トリステインは今回の戦役に当たってガリア国内の造船所に新規建造分の戦列艦として20隻近くの軍艦を発注し、そのうちの10数隻は建造が開始されていた。
しかし、その建造中だった艦艇は殆ど全てがアルビオンで壊滅した両用艦隊再建の為にガリアに抑えられてしまっていたのだ。
そもそもトリステイン国内に大型艦を建造する施設が無いため、戦争中のアルビオンや関係の悪化したゲルマニア以外で大型艦建造技術を持つのはガリア一国しか存在しなかったための結果だった。
「しかし、ガリアの付けたべらぼうな値を越えて買いなおすとするとやはり予算が……」
担当官の声は暗い。
軍艦は当然であるが、それ以外にもアルビオンの派遣軍に物資を運ぶ輸送船の損害はあまりにも痛手だった。
そもそもトリステインは戦争中であり、攻撃される危険性のある軍需物資の輸送に当たる民間輸送船の数はそれほど多くは無い。
しかし、アルビオンへの兵站補給を実現するためには必要とされるだけの輸送船をかき集めなければならない。
その為にトリステイン軍は通常の数倍もの高値をつけたのだが――今回の被害に対する補充にはさらなる高値をつけなければならず、必然的にかかる費用もさらに増大するだろうと予測されていた。
そう苦しげに答える財務担当官を横目に、先程まで一方的に詰られていた財務卿がおもむろに口を開いた。
「――そもそも、この戦を終わらせればこれ以上の出費をすることは避けられますな」
もはや諦めたのだろう。
何処か他人事のように財務卿が放言する。
短期決戦、という前提で組み上げられた臨時予算は既に大幅にオーバーしている。
おまけに先の輸送船舶の大量損失で現在のトリステイン商船隊の輸送能力は現在アルビオンに留まる兵力への補給物資の運搬すら満たせない、というところにまで低下していた。
これでは到底攻勢に出ることは出来ない。
おまけに3000メイルという高空にあるアルビオンではそろそろ降雪が始まる頃でもある。
つまり、現在のトリステイン軍はアルビオンでの冬営に入らねばならない状況に置かれつつあるのである。
しかし、どう見ても今の王国財政に派遣軍を越冬させる程の余裕は無い。
「馬鹿な! この戦争は王女殿下のご命令によって下された、いわば勅命ですぞ! それを貴公の一存で終わらせるなど出来るはずもないだろう!」
当然、戦争を終わらせるという財務卿に対して周囲の諸侯達は反発する。
アルビオン侵攻に対して多額の投資をしている彼らからすれば、撤退による戦争終結はそれまでにつぎ込んだ投資の持ち出しに他ならない。
貴族の中でも貧乏な者の多い軍人層にとって、それは決して受け入れられるものではない。
「――ならば仕方ありませんな」
そう言って財務卿は上座にある玉座の方に体を向ける。
本来なら王位継承者であるアンリエッタが腰掛けているはずの玉座は空っぽだった――彼女は体調不良との理由で臨席を拒否していたのだ。
財務卿の体はその空いた玉座の傍らにいつものように佇むマザリーニに向けられる。
「マザリーニ枢機卿に申し上げます――どうか私めの職を解いて頂きたい」
そう、彼は言葉を発した。
「……申し訳ありません、マザリーニ枢機卿」
評定が終わり、大広間に接した小部屋で二人きりとなった財務卿――いや、前財務卿デムリ侯爵はそうマザリーニに謝罪した。
彼はこのタイミングで職を辞すことを必ずしも良しとしていなかったが、王室財政を預かる財務卿としてこれ以上の歳出を認めるわけにはいかない――激務の狭間で数日間、悩みに悩んだ結果の辞任だった。
「いや、貴公はよく王国を支えて下さいました。今は所領でゆっくりとなされるのが良いでしょう」
そんなデムリ侯爵にマザリーニは恨み言を言うどころか、聖職者らしい温和な表情でその労をいたわった。
しかし、その顔からは赤みが失われ、顔に刻まれた皺の数は明らかに増していた。
「枢機卿――いや、宰相閣下こそお体の方は大丈夫なのでしょうか? 見ればここ数ヶ月でさらにお顔がやつれたように見受けられますが……」
そんなマザリーニの姿にデムリ侯爵は心配した様に声をかける。
元々、痩せていた彼の体は以前と比べても明らかに痩せ細り、白髪の数も増えている。
デムリ侯爵自身もここ数ヶ月の激務と心労で倒れそうになることもあったが、それ以上に目の前の枢機卿の姿はやつれて見えた。
「大丈夫です……」
そんな気遣いの声に、気丈な風を装ってマザリーニは答える。
誰が見ても嘘とわかる答え。
――実際に彼の御付の水メイジは休養を勧めていたが、彼はその忠告を無視して日々の政務に当たっていたのだ。
決して彼の助言を受け入れようとしないという意思を持ったマザリーニの目を前にして、デムリ侯爵は諦めて話題を転じることにした。
「王女殿下のご様子はいかがでしょうか?」
それは今日の廟議に唯一出席していなかったアンリエッタの様子について尋ねたものだった。
「いや、体調が優れぬとの仰せでありましたが、御典医によると至って健康とのことで――」
余計な勘ぐりをさせるわけにもいかず、マザリーニは率直に答える。
「やはり、ヴァリエール公爵殿の三女の件ですかな?」
「かの者はアンリエッタ殿下の幼少の頃よりの遊び相手であられましたから――おそらくはそのことに心を痛めておいでなのでしょう」
デムリ侯爵の質問に、そうマザリーニは誤魔化して答えた。
彼の知る限り、アンリエッタに健康上の問題は存在しない。
むしろ、最近は自室で詩集を読んだり窓の外を眺めたりと自由気ままな生活を送っている。
その一方で、彼女は自室を中心とした王族専用区画に立てこもるようにして公儀の職務を遂行することを拒否していたのだ。
王族専用区画ではいかな聖職者であるとは言え男性である彼が踏み込むことは出来ない。
こういった時に頼りになる筈の銃士隊長は悪化の一途を辿る王都の治安任務に忙殺――文字通りほとんど手が離せないまでに至っている。
しかし、この戦争を終わらせるためにはどうしても王女の詔勅が必要なことは変わりない。
マザリーニが暗い表情で沈黙に移ったことを察したデムリ侯爵は一転して声を沈め、言った。
それは財務卿を辞して単なる一諸侯となった彼が出来る最大のトリステイン王国への奉公のつもりだった。
「既に王都の平民達の心は王国から離れております」
もはや残された猶予は少ない、そう暗にデムリは告げた。
王都の平民達はもはや貴族や王国に対する嫌悪感を隠そうともしない。
あちこちで集まっては不平や不満を互いに言い合い、王国や貴族から命じられた任務を拒み、あるいは王国や貴族の権威を汚して回る――今のところは本格的な蜂起に至っていないのが不幸中の幸いだった。
そんなデムリの言葉を百も承知だったマザリーニは天井を仰いだ。
仰ぎながら聖職者らしく始祖の言葉を引用して彼は答えた。
「――我らが出来ることを速やかに成すしかありますまい」
彼の視線が向けられた豪華な装飾の施された天井、その遥か先には王女の居住区があった。
しかし、比較的現実的にトリステイン王国の危機を受け止めている彼らですら気付いていない問題があった。
その問題とは農業生産物を貨幣へと交換することの出来る市場である都市の荒廃だった。
トリステインでの納税は通常、金銭納付である。
よって農民は収穫した作物のうち、一年間の生活に必要な分を除いた余剰の作物を都市で現金化することによって金銭を得るか、都市の商家や貴族の屋敷で奉公することで現金を得て、納税を行なう。
貴族や王政府はその税収を使って作物を都市から購入し、彼らの生活物資や軍の糧食として消費していた――その結果、収められた納税はある程度ではあるが平民に還流することとなる。
しかし、余りにも高額の課税は都市から農作物を購入する原資としての資本を奪い、都市の荒廃を招いた。
その結果、農民は納税に必要な現金収入の根幹としての市場を失い、納税そのものを不可能とさせていく――さらに、凶作による売り払うべき余剰作物そのものの少なさが状況をさらに悪化させた。
それでも王政府はその活動のために収入を必要とし(何しろ戦時中なのだ!)、腐敗した貴族達の一部はそれに便乗して私腹を肥やそうとする。
彼らの一部は現金が無いのならば、とその代替品としての収穫物そのものの差し押さえを始めていた。
市場というツールを介さないその徴税は決して平民に還流されることはない。
その結果、発生したのは――徴税という名を借りた原始的収奪だった。
そうして、都市に続いて農村部――すなわちトリステイン全域――でも不満が急速に高まっていく。
ついに、革命の鼓動は都市だけでなく農村へさえも広がり始めたのだ。
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今回もトリ革をお読み頂いてありがとうございます。
作者のさとーです。
10/08/07
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