――――――――――――『竜を倒したイーヴァルディは、奥の部屋へと向かいました』
そこまで読み終えた時、アンリエッタの部屋の扉を叩く音が響いた。
その音に気付いた彼女は本から顔を上げ、「どうぞ」と答える。
扉を開ける音が響き――王宮で見慣れた白髪が目に入った瞬間、アンリエッタの顔が一瞬驚きに歪んだ。
侍女のものでも、アニエスのそれとも違うその姿は、彼女が内心で最も嫌っていたマザリーニ枢機卿その人だった。
「王女殿下、お話があって参りました――」
そう声をかけられた時、アンリエッタは珍しく混乱したような顔をしていた。
一般に王宮というものは大きく二つの構造からなっている。
前にあるのが、「表」と呼ばれる政務や儀式を司る場としての王宮。
そして「奥」にあるのは本当の意味での王族の住まいであり、そこに「表」の人間は立ち入ることは出来ない。
彼女が戸惑ったのは、ここがトリステイン王宮でも奥の奥――王族たる彼女の私室だったからだ。
そこに臣下が彼女の許可無く入ってくることなどありえない。
いや、あってはならない筈なのだ。
「……なんでしょう?」
暫くの沈黙の後、そう返したアンリエッタの言葉にはそうした事情に対する不満と叱責の色が明確に込められていた。
しかし、彼女の言葉にひるまない――いやひるんでいられないほどの深刻さがマザリーニの顔には表れていた。
「非礼の程は十分承知いたしたうえで参上させて頂きました」とまずマザリーニは詫びた。
と言っても、男性であるマザリーニが単に思いつきでここまでやってこれる筈は無い。
おそらく、彼女の母であるマリアンヌ王妃の許可があるのだろう。
しかし、そんなことをおくびにも出さず、妙にやつれたマザリーニは本題を持ち出した。
「殿下の勅を頂きたいのです」
そう言ってマザリーニはアルビオン侵攻の中止と撤退について、彼女の許可を求めた。
彼はつらつらとその理由について挙げていく――そうした才能において、彼はやはりトリステイン一の政治家であった。
曰く、冬を前に短期間での勝利が困難であること。
曰く、既に戦費が不足しているということ。
そんなマザリーニの進言を途中で遮るかのようにしてアンリエッタは答えた。
「――わかりました。撤退を認めますわ」
そんな彼女の答えにマザリーニは驚いた。
いつもならば憂鬱そうなため息と共に何らかの反論が来るのが常であったが、今日の彼女は妙にすんなりと彼の求めに応じたのだ。
「では、明日の廟儀で奏上させて頂きたく……」
そんな驚きを内心に隠し、マザリーニは実務的な段取りについて説明を始めた。
――もし彼が健康を崩していなければ、アンリエッタのどこか投げやりな様子に気付いただろう。
「ええ、そうなさりたいのでしたら」
マザリーニの説明に適度に頷きながらアンリエッタは答える。
そう、彼女にとってはどうせ何時ものようにマザリーニの案が通ってしまう(特に今回は母であるマリアンヌまでもが内々に彼を支持しているに違いない)のだから、その理由を聞くことに時間を費やすことが面倒だ、という想いがあった。
だからこそ、彼女は精一杯の抵抗のつもりで政務に携わるのを拒否して、自室に篭っていたのだ。
(……わたくしは籠の中の鳥のようなもの。ただ求められた時に鳴くだけ)
彼女はマザリーニの説明を受けながら、そう自嘲する。
そうした思いは翌日の廟議に出ても変わらなかった。
翌日。
謁見の間では広い室内を二分する激論が交わされていた。
一方は以前と同様に軍務卿を中心とした一派であり、冬営に入る前になんとか攻勢を再開して勝利を掴みたいと言う。
もう一方は前財務卿の主張していた撤退を支持する一派で国家の経済的破断を防ぐために即時撤退を求めていた。
無論、デムリ侯爵の辞任に象徴されるように軍務卿派の勢力の鼻息は荒い――しかし、いつもの様に一方的に詰られる撤退派という予想に反して今日の情勢は違っていた。
「もはやアルビオンになぞ構っている余裕は無い! 貴殿達はご存知ないのか?近頃の平民共の驕りぶりを!――アルビオンで勝利を望むのは良いが、自領の平民ごときを従えられんようでは夢物語にすぎん!」
それまで中立勢力として超然と議論を眺めていた高等法院長、リッシュモンの一派が撤退派に組するようになったのだ――賛成した理由は別にしておいて。
そうした主張は軍務卿の一派に睨まれるが、さておき出兵費用をこれ以上捻出できそうにない中小諸侯の支持を集めていた。
それでも、「一時的」という枕詞がつくものの、撤退派が盛り返したことに変わりは無い。
これによって、今マザリーニの前では戦争継続派と撤退派が拮抗するようににらみ合っていたのだ。
「王女殿下の裁定を頂きたく思います」
もう十分だろう――目の前での激論を眺めながら、マザリーニは思い、謁見の間に集まった諸侯に告げた。
その声に先程まで二つに分かれて対立していた貴族達の間での喧騒がやみ、視線が上座に集中する。
そこには久方ぶりに姿を見せたこの国の最高権威者が座っていた。
「今回の出兵において、わがトリステインはアルビオンを簒奪したレコン・キスタに対して十分な警告を与えたとわたくしは思います。しかし、冬が迫り戦場に派遣された将兵の疲れは高まり、これ以上長期の戦争をわたくしは望みません――もちろん、これまでの諸卿の皆様方の忠勤には感謝しておりますわ」
そう彼女が告げると、一斉にざわつきが広がる――と言ってもざわついている大半は軍務卿を中心とする戦争継続派の貴族達だったが。
先日、撤退派の中心人物であった財務卿を辞任に追い込んだ彼らにとって見れば、今回のリッシュモン派の撤退論支持に始まり、アンリエッタの撤退命令が下されたということはまさに晴天の霹靂であったのだ。
――そして、彼らの一部は思った。
枢機卿だ。
このトリステインにおいて、これほど急に政策が転換される程の政治的根回しが出来るのは蟄居を命ぜられているヴァリエール公爵を含めて数人しかいない。
しかも、王女たるアンリエッタにまで及んでいるとなれば、それは枢機卿でしかありえない。
そして、そう思った大部分の諸侯はこのアルビオン侵攻に莫大な投資をしていた。
中には高利の借財をしてまで派遣費用を捻出した者もいる。
そして、この下された勅命によって彼らの投資した額のほとんどが一瞬にして露と消えたのだ。
アンリエッタは撤退についてマザリーニから言い含められた裁可を下した後、ゆっくりと玉座に腰を下ろした。
目の前で再開された喧騒を他所に彼女は長いため息を吐き、窓から外を眺めようとした。
大きな窓にはいくつもに区切られた窓枠にあわせて十数枚のガラスがはめ込まれている。
ガラスの向こうでは晴れ渡った晩秋の空を鳥が自在に飛んでいる。
何も無い様で、明確に外界と区切られた境界線。
……今の彼女にはそれが彼女を閉じ込める檻のように思えた。
『――そこには一人の少女が囚われていました。
「もう大丈夫だよ」
イーヴァルディは少女に手を差し伸べました。
「竜はやっつけた、きみは自由だ」――』
彼女はふとそんな一節を思い出した。
それは先日マザリーニが彼女の部屋にやってきた時に読んでいた英雄譚の一説。
彼女はまさに求めていた――彼女をこの退屈な牢獄から解き放ってくれる、勇者を。
『白の国』。
この国がそう呼ばれるのは浮遊大陸から落下する大量の水が海洋に達することなく、空中で霧となって大陸の周囲を覆っていることである、と言われていた。
しかし、この名前の謂れにはもう一つ理由がある。
それは文字通り、雪に覆われた国としての側面――高度3000メイルに浮かぶ浮遊大陸、アルビオンの冬は早く、そして長いということがあった。
しかし、冬を迎えたアルビオンはそうした理由とは違った意味で『白の国』と呼ばれてもおかしくない状況が続いていた。
サウスゴーダは奪回したものの、未だ国土の一部を敵に占領され、平民は長期の内乱や戦乱に伴う極度の貧困と重税に喘いでいた。
そんな中、権力を握った筈の革命貴族は直接杖を交えることはなかったもののお互いに相手の隙を伺い、自らの権益拡大に奔走していたのだ。
しかし、そんな期間も長くは無かった。
先の首都防衛戦であったサウスゴーダ会戦で、そんな貴族の調整役としてなんとかレコン・キスタを取りまとめていたクロムウェルを失い、「聖地奪回」というお題目すら失ったレコン・キスタは分裂寸前だった。
そして、強大なガリア両用艦隊を前にして――戦わずしてレコン・キスタは事実上崩壊したのだ。
これによって一昨年の内戦勃発以来、長く戦乱の続いたアルビオンはわずか数ヶ月という短期間で再びその主を失い、混沌の中に叩き落されることとなる。
統治者の存在しない、『空白の国』。
それは大空に浮かんだ浮遊大陸をもじったアルビオン流の皮肉だった。
――そして、再びアルビオンではそんな空白の座を巡っての争いが繰り広げられようとしていた。
「おお、ワルド子爵! 貴殿もこの戦に加勢してくれるというのかね?」
レコン・キスタが事実上崩壊してからというもの、最もアルビオンの王家に近い血筋を持つヨーク公爵は自らの所領で軍備の再編成を進めようと躍起になっていた。
と言うのも、革命以来――いや王権との争いを続けている最中でさえ――このアルビオンでは自らの武力こそが最大の発言力となっていた以上、自らの派閥と領地を維持するためには軍備に手を抜くことは許されなかったのだ。
そして形式上とはいえ、クロムウェルという調整者が居なくなり、レコン・キスタが崩壊した現在では自らの所有する軍備の重要性は以前にも増して高まっていた。
特に、現在のアルビオンで最高の血統を持つ彼の命を狙ってアルビオン最大の諸侯であり最大の政敵でもあったランカスター伯が今まさに彼の領地に攻め込もうとしている状況ではなおさらだった。
慌しく要塞化されつつあった彼の自邸を訪れたワルドは通された客間の中で、そう声をかけたヨーク公に慇懃な声と仕草で応じた。
「ええ、私も微力ながら加勢させて頂きたく参上致しました」
「それは有難い! 風のスクウェアである貴殿が参戦してくれるとなると、もはや我が方の勝利は決まった様なもの! そうそう、貴殿にも所領の配分をせねばならんな――どこか希望する土地はあるかね?」
ワルドの示した紹介状――それはヨーク公に連なるとある諸侯からの紹介状だった――を検めながら、彼は応じた。
どうやらこの元トリステイン貴族は彼の勝つほうに賭けたらしい。
実際の所、所領の広さ――すなわち兵力で劣る彼は味方を喉から手が出るほど欲していたのだ。
おまけに目の前の男は風のスクウェア。
その能力を持ってすれば、ランカスター伯に組する者を暗殺することすら不可能ではないだろう。
――無論、失敗したところで彼には何の損失も無い。
そんな計算を内心で行ないながら彼は手紙から目線だけをワルドに向けた。
「そうですな」
目の前の男はさも思案するかのように天井を仰いだ。
おそらくこの元トリステイン貴族の脳内では新たに有すべき領地についての思案が巡りに巡っているのだろう。
そう思った彼に告げられたのは、驚くべき言葉だった。
「――ああ、貴殿の首などというのは如何でしょう?」
次の瞬間、彼の背後に控えていた護衛の貴族達が倒れる音が聞こえた。
「な、なんだと!? 貴様は――」
しかし、そこで彼の声は途絶える。
背後から切りかかったワルドの遍在、そのまるで閃光のような一撃がヨーク公の首を切り飛ばしたのだ。
「さて……」
頭部を失ったヨーク公爵の死体を一瞥したワルドは呟いた。
「ああ、領地なら頂きましょう!――このハルケギニア全てをね」
「やぁ、ルイズ! 元気にしていたかい?」
ロンディニウムに帰り着いたワルドはそう自らの婚約者に声をかけた。
そんなワルドにルイズは愛想を振舞うこともなく、確認するかのように尋ねた。
「ワルドさま、例の件は終わりました?」
「ああ、終わったさ。これでアルビオンの始祖の系譜も途絶えた」
そう答えるワルドの心境は複雑だった。
彼の目的は『ハルケギニアを動かすような貴族となること』だった。
しかし、彼の婚約者はそんな彼の“助言”にはほとんど目もくれず、まるで貴族全てを憎んだかのように次々と刺客を差し向けてはまるで平民を殺すかのように淡々とそうした古くからの血統を途絶えさせていた。
いくら敵対したとはいえ、相手は由緒正しき貴族である。
平民ならどんな死に方をしたとしても気にしない彼であったが、伝統と格式ある貴族をまるで平民同様に扱う婚約者の方針に少々反発も覚えていた。
(――我ら貴族はそうそうに使い潰して良いものではないのだ!)
そう内心に思う彼は婚約者に一言言ってのけた。
「なぁ、ルイズ。もう少し穏当には出来ないものかな?」
「あら、ワルドさま。彼らは単なる裏切り者でしかありませんわ」
そんな彼の問いに彼の婚約者はそう淡々と答えた。
裏切り者――確かにガリア両用艦隊を前に逃げ出した彼らはそう呼ばれても仕方が無いかもしれない。
事実、彼の婚約者はそう見做しているようだった。
「しかしだね――」
そうワルドは彼女の言葉に反駁した。
確かにルイズの言っていることは事実でもある。
ハルケギニアにおいて、裏切りが事実であると証明された者に対する公式な処罰とは極刑以外の何者でもない。
そんな前例に反して貴族の助命を願うということは、ワルドもまた魔法や血統という古典的な価値観から抜け出せなかった、ということだった。
――それに対してルイズは違っていた。
ガリア両用艦隊をたった一撃で撃滅したルイズならば、一度崩壊したレコン・キスタを再建するのは容易だっただろう――真の虚無の担い手であり、王家に近い血統を持つ彼女ならばそれは出来た筈だった。
しかし彼女がレコン・キスタの盟主とならなかったのは単にそれを望まなかったからだ。
ルイズにとって、アルビオンを支配していたレコン・キスタの盟主となることは、単に既存の秩序の頂点に彼女が座るということでしかない――それはクロムウェルと同じということでもある。
彼女からしてみれば、クロムウェルは単なる貴族のお飾り、せいぜいが神輿に過ぎなかった――彼に与えられていた権限は単に有力諸侯同士の権力争いの調整するものでしかなかったのだ。
彼女が望むのはそんな貴族の代表者ではない。
いや、貴族制こそが彼女が最も憎むものであり――壊すべきものであると考えている以上、彼女に『皇帝』や『護国卿』と言った貴族制における既存の地位に付く気はなかった。
そして同時にそんな血統や魔法の技量に固執する貴族共のいる場所を無くし、階級による差異を無くすことこそが彼女の目的でもあった。
そのためには、自らの権力と地位を守ろうとする貴族との対立は不可避となる。
今の彼女が目指すものは、超越者――国家を一手に支配する国家の頂点というべき存在だった。
超越者でなければ、望むままに全てを変革することは出来ない。
そして、それまでの秩序を超越した唯一の頂点こそがその下部構造を変えることができるのだ。
――人間は欲を持つ動物である。
彼女はそう思っている。
そして、人間の欲望は果てしない。
そして、限られた財を巡って互いに奪い合う闘争が発生する――そう、「万人の万人に対する闘争」とでも言うべきものが。
今のハルケギニアでは各貴族同士が自分達の利害の為に食い争っている。
平民に比べて魔法という“力”のあるメイジはそれらの所領にある平民達を力で押さえつけ、自分達の地位を貴族と位置付けるとともに、自らの欲を満たしている。
そして同時に、自らの所領内での平民による「あらゆる人間によるあらゆる人間に対しての闘争」を抑止しているのだ。
ならば、その貴族間での闘争もまた更なる“力”によって押さえつけられるべきなのだ。
そして、ルイズ・フランソワーズ・ル・ブラン・ド・ラ・ヴァリエールという貴族でも、平民でもないとされた少女の望む社会制度の姿が完成した。
当然、そこには“貴族”も“平民”も無い。
――そこに存在するのは、唯の人間という階級。
階級が無くなるのならば、各地の無数に分割された治外法権を持つ諸侯領は存在してはいけない。
――そこに存在するのは、唯一つの国家。
そして、唯一つの国家を統治するのはレコン・キスタの様な無秩序な議会ではなく唯一人の人間。
――そこに存在するのは、唯一人の統治者。
彼女が目指しているものはクロムウェルのような「調整者」ではない。
当然、全てをうやむやのままにしてしまう中央評議会のような無秩序な「共和制」でもない。
これまでハルケギニアに存在した階級社会の壁。
その打破は彼女の自ら認められようとする意思と“力”を持った者達をから引き上げることを意味する。
そんな意志と“力”ある者達――そう、彼女のような存在――を導く存在となる。
彼女の目指すものは、自らの地位を自らの力で勝ち取る意思を持った者が認められる社会。
そして、『自由』という「特権」を得ようとする者――それら全てを統べる「指導者」であるべきなのだ。
ワルドの言葉にルイズは答えない。
彼女からしてみれば、貴族も平民も関係ない――そう、自らの意思で行動する者こそが価値ある者として遇されるべきだと考えていた。
故にそうした者にのみ、自らの存在に対する権利が認められるべきなのだ。
生まれが貴族だからと言ってそれだけで特別扱いなんてする必要はない。
「……ええ、そうね。考えておきますわ」
そう答えながら、ルイズは思った。
(そろそろ潮時かしら――やはり私自身の方針に従う部下が必要ね)
新しい社会制度を打ち立てようとする彼女にとって、貴族の権威というものに固執するワルドの存在はもはや必要の無いものだったのだ。
そう心の奥で決意したルイズの様子に気付かずにさらに言葉を継ごうとするワルド。
しかし、ワルドが言葉を継ぐ前に横からルイズに向けた言葉が響いた。
「任された仕事は終わったぞ、雇い主さんよ」
「あら、メンヌヴィル?」
そうルイズは彼女の方へ進み来る、筋骨隆々とした男の名を口にした。
その男の顔には酷い火傷のあとがあった――それも顔全体の左半分を覆うほどのものだ。
「ちゃんと終わったのかしら?」
「――勿論、きっちり全員消し炭にしてやったさ」
「折角殺すんだ――当然だろう?」と答える男の目には光が無い。
どうしたものか、その男はそんな状態でありながら、迷うことなくルイズの方に進んでいく。
そんな男の左手にはアルビオンにおける最大諸侯――ランカスター伯のものらしき杖が握られていた。
そして、メンヌヴィルはその手にした杖をルイズの方に放り投げると同時に自身の杖を振り上げた。
「こんな風にな!」
直後、ワルドとルイズの目の前で放り投げられた杖が燃え上がる。
白い炎に包まれた杖は一瞬の間に灰も残さずに消滅した。
「少しは慎め、傭兵風情が!」
ワルドがそんな不遜な態度を示すメンヌヴィルを叱責した。
彼からすれば、貴族たるワルドとルイズが話している途中に口を挟む平民など認められるはずも無い。
ワルドにとって、メイジであることと貴族であることの間には絶対的な壁があるものなのだ。
「良いのよ」
さらに言葉を続けようとしたワルドを制したのはそんな彼を眺めていたルイズ本人だった。
「私は厳しいけど平等よ。決して差別を許さない。貴族、平民、メイジ、傭兵――その全てを見下さないわ」
そんな言葉にワルドは面食らったような表情をして絶句した。
彼の婚約者は彼の誇りたる貴族の血統が――魔法使いたるメイジの血統が、どこの馬の骨とも知れない平民と同じだと言ってのけたのだ。
驚愕と言っても良い衝撃が彼を襲う。
戸惑いのままに彼はルイズの顔を窺った――その言葉の真意を確かめる様に。
そんな彼の前にあったのは、決して揺るがないルイズの瞳。
その瞳を前にしてルイズの顔を覗き込んだ彼は一転して視線を逸らした。
それは彼女が自分の考えを変えることが無いということを本能的に理解したためかもしれない。
高貴なる“貴族”という存在に憧れ、そしてその地位に相応しくないと見做した存在が自分より高位にいることに反発してこの戦いに身を投じたワルドにとって、貴族という地位の否定など認められない。
いや、受け入れられないのだ。
そして、彼はさっと身を翻すと無言のままに立ち去ろうとする。
それは今の彼に出来る最大限の譲歩だった――もしその言葉を発したのがルイズで無ければ間違いなく彼は殺しにかかっただろう。
彼にとって、その言葉はそれほどの衝撃を持っていたのだ。
そんな、立ち去っていくワルドの後姿を眺め続けるルイズに、傍らのメンヌヴィルがまるで楽しむかのようにして声をかけた。
「その理由を聞かせてもらおうか」
メンヌヴィルの問いに彼女はワルドから視線を動かさずに淡々と答える。
「ええ、全て平等に価値が無いからよ」
そう言うと、彼女は「そうでしょ?」と一転して振り返り、メンヌヴィルに同意を求める。
そんな返答に今まで無数の人間――貴族、平民、メイジ、傭兵――その全てを焼き尽くしてきた男は心底楽しそうに答えた。
「そうだな! 肉の焼ける臭いと断末魔の叫びにはメイジも平民も違いが無いからな!」
『白炎』のメンヌヴィル――それが、彼女がこのアルビオンで最初に手に入れた私的な軍事力を率いる男の名前だった。
ルイズの前を離れたワルドは変わりつつあるルイズの様子に思いを馳せていた。
当然、彼の内心は自身の世界観を完璧に否定されたことで煮えくり返ったようになっている。
それでも彼が自身の衝動を抑えたのは、その相手が彼の婚約者だったからだ。
彼の計画では、彼の婚約者たるルイズの“力”を利用してこのハルケギニアを制する――彼はルイズを影から操ることでこの「世界」を手に入れるつもりだった。
そのつもりで彼はかねてから顔を繋いでいた若く、優秀な貴族達を仲間に引き入れようと動いていたのだ。
そんな彼がヨーク公の暗殺に同意したのは、彼以上に求心力を持つ者がいては困るためであり、逆に言えば彼が仲間たるべしと認めた若手貴族をヨーク公やランカスター伯の様な有力諸侯に引き抜かれないためでもあった。
そんな彼の計画は順調に進展していると思われたのだが――
“力”を自覚したルイズは徐々に彼の手を離れ、独自の行動をし始めていたのだ。
あまつさえ、彼女は彼の知らない間に様々な人間を登用して自らの手足として使い始めている。
それは彼にとって大きな誤算――というよりは気に食わない出来事だった。
先程、ルイズと彼の会話に割り込んだ盲目の元傭兵隊長などはその典型といえる。
貴族の位階を持たぬ下賎な身でありながら、その男は子爵たる彼に口答えまでして見せるなど、貴族という地位の信奉者でもある彼の許せるものでは無かったのだ。
(……やはり片付けるべきか)
そこまで思い至り、ワルドは首を振った。
いや、まだ早い。
彼の婚約者は少なくともこのアルビオンを制するつもりでいる――それからでも遅くはあるまい。
そのためには……
ワルドは決意した。
彼にもまた手駒が必要だった。
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今回もトリ革をお読み頂いてありがとうございます。
作者のさとーです。
09/09/06付けでNa◆fbc1ffc4様から「とりあえずWWWC的に普通のタグ打ってくれないかな」というご要望を頂きました
しかしながら、私の無知の致すところではありますが、ご要望の真意がわかりませんでした。
……ググってみると「WWWC」は巡回ソフトのことらしいということまではわかりましたが、「普通のタグ打って」という部分が未だわからないままです(ちなみにこの作品で使用している「タグ」というのはルビタグのみです)
つきましては、Na◆fbc1ffc4様、あるいはこのご要望の意味のわかる方がおられましたらご連絡いただければ幸いです。
10/08/07
二回目の改定を実施